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チョットいいこと 99

米社会に潜むベトナムの傷跡
南蛮もの陶器のルーツ
不況、ベトナム難民直撃
中越首脳会談
扉を開けて       
ハノイの建築美
同国人の精神的支え  
関係改善 交易拡大に期待
日本の皆様と共に
チョットひとこと



米社会に潜む“ベトナム”の傷跡
対テロ戦争を支持、それでも…
 アフガニスタンでの軍事作戦を指揮するブッシュ米大統領は、 作戦開始から ニヶ月余を経た現時点でも80%台の高支持率を維持し、 国際社会の米国支援姿 勢にも大きな動揺は見られない。それでも米報道には時折、 「国際テロへの正当 な反撃」と認識される今回の戦争を、 「汚い戦争」「泥招」と酷評されたベトナ ム戦争(1964−73年)になぞらえる顔をのぞかせた。なぜかー。
(国際部 加藤 賢治)
    「米国政府当局者の会話に、『泥沼』という不吉な言葉 が出るようになった」
 軍事作戦の開始(10月7日)以来、 連日開かれている国防総省の記者会見で目新しい戦果報告が途絶えがちに なっていた10月31日、ニューヨーク・タイムズ紙は長期 化への懸念を示した。 米軍が支持する反タリバン勢力「北部同盟」を、かつての南ベトナム政府に重ね合わせ、 戦況 改善のために米地上軍を大規模に投入せざるを得なくなる危険性を指摘する記事だった。
 ワシントン・ポスト紙(11月6日付)でも、 コラムニストのリチャード・コーェン氏が「国防総省の会見はベトナム戦争のそれに似てきた」と酷評。 当時サイゴンで行われた米軍の定例会見が、内容に乏しい一方的な戦況報告に終始し、 その会見から「午後5時の愚行」と記者に揶揄されたことを置く指摘だった。
 「アフガンのベトナム化」を懸念するかのような米報道は、 北部同盟によるアフガン北部マザリシャリフの制圧(11月9日)でタリバン崩壊への展望が明白になったのを機に影を潜めた。 だが、これらの報道は、いまなお米社会心理に潜む“ベトナム症候群”の根深さを印象づけずにはおかない。
 ベトナム戦争は、ベトナムやラオスで共産政権成立を許せば、 東南アジアを含む広大な地域で共産化が進むという「ドミノ理論」を論拠として始まった。 リンドン・ジョンソン大統領は、弱腰と非難されるのを恐れる余り、 泥沼にはまりこんでいった。北爆からわずか3カ月後の1965年6月、 同大統領はロバート・マクナマラ国防長官にこう明かしている。 「北ベトナムは我々のこめかみに短銃を突きつけている。同じことをやり返すしかない」
南ベトナム・フエで救援ヘリの到着を待つ米軍兵
(1968年4月撮影)=AP
 駐サイゴン大使のマックスウェル・ティラー元総合参謀本部義長のほか、 ディーン・ラスク国務長官ら閣僚も「反共」を掲げて軍事介入の拡大を支持し、 ベトナム政策を批判する高官やメディアはジョンソン大統領から「愛国心がない」と糾弾された。
 ジョンソン政権は戦況の行き詰まりを進んで明らかにしようとはしなかったが、 68年1月に南ベトナム解放民族戦線が決行したテト(旧正月)攻勢のテレビ報道は、 展望のない戦争の実態を暴き出し、米国民に強い衝撃を与えた。 厭戦・反戦気運が急速に米社会に広がり、同3月に支持率を36%まで下げたジョンソン大統領が、 「次期大統領不出馬」とともに北爆縮小を発表すると、支持率は一気に14ポイントも跳ね上がるという有様だった。 政治不信が深まる一方、73年の米軍撤退は挫折を知らない国民心理に初めての敗北感を刻みつけた。
 これに3,000人以上の死者・行方不明者を出した未曾有の同時テロは、 国民に愛国心を呼び起こし、対テロ戦争支持で結束させた。 米ギャラップ社の世論調査(12月6〜9日)によると、 「アフガンでの戦闘はあとどれくらい続くと思うのか」の問いに、 「今後数ヶ月間」が47%で最も多かったが、「1年以上」の 長期戦を覚悟する国民も41%に達した。
 では、ほとんど全国民的な支持を得る対テロ戦争の背後で、 何故、かすかにせよ“ベトナム症侯群”が疼き続けるのか。 ニューヨーク在住の米ジャーナリストは、 「無論、対テロ戦争が正当防衛行動で、ベトナム戦争とは全く違うことは、 大多数の米国人が理解している」とした上でいう。
 「しかし、ベトナムの記憶は余りに暗く苦痛に満ちている。 特に、テト攻勢まで多くの米知識人が政府を信じ戦争を支持した、という経験は深い傷を残した。 だから、今でも『戦争』と聞くと潜在意識の中で傷みと不信がよみがえる」

 【ベトナム戦争】
 米国のベトナム介入は、1966年に撤退したフランスに取って代わる形で強まり、 軍事顧問団派遣などの形で徐々に拡大。 64年8月には北ベトナム沖で米駆逐艦が攻撃されたとして議会が「トンキン湾決議」を採択、 米軍の武力行使が正式に認められた。戦争は泥沼化し、68年1月テト攻勢で米軍の敗北は決定的になった。 「名誉ある撤退」を模索したニクソン政権は73年1月にパリ協定に署名、 同年3月に米軍は完全に撤退した。米国の派兵は69年4月に約54万人に達し、 64年8月から73年1月までに計約5万7千人が死亡した。
(読売新聞)


「南蛮もの」陶器のルーツ
ベトナム産と一部確認
フエ近郊の窯跡で出土した鉢

 茶道の中に「南蛮もの」とよばれて珍重されている陶器がある。 一般に、16世紀から17世紀にかけて輸入された東南アジア産の焼き物を指していう。 キメ粗い素朴な味わい「わぴ・さび」を重んじる茶人に好まれ、伝世されてきたが、 一定の作風や窯印があるわけではなく、具体的な産地を特定するまでにはいたっていなかった。
 それが昭和女子大国際文化研究所と国立ベトナム考古学研究所による共同調査でこのほど、 その一部がベトナム中部にあるかつての国際貿易港ホイアンやフエの周辺で焼かれたものであることが確認された。
 「南蛮もの」と同一と判断されたのは、フエ近郊の窯址群で発見された長胴 塀や鉢など。形状と胎土の分析から、長胴塀は「南蛮〆切糸目健水」に、 鉢は「南蛮切溜花入」にそれぞれ対応した。これらのベトナム陶器は、 両研究所にょるホイアン市街地(ディンカムフォー遺跡)で発掘調査でも大量に出土しており、 その層位から16世紀末から17世紀前半にかけて生産されたものであることがわかった。 このため昭和女子大の菊地誠一客員研究員は「ホイアンの周辺の窯で焼かれた陶器がホイアンに集められ、 それから朱印船やオランダ船によって、日本にもたらされたのだろう」と推測している。
 長胴塀や鉢はベトナムでは塩や砂糖、穀物を貯蔵する日用雑貨品として生産された。 ヨーロツパ商人らが便壷として使用した中国製の花入れ「ルソン壷」が、 わが国で茶器としてもてはやされた例と同様、文化の違いによる価値観の 差を如実に物語っており興味深い。
 「南蛮もの」は近年、大阪地下の道修町遺跡などでも出土が相次いでおり、 ホイアンの年代とぴったり一致している。こうしたデーターを総合するとことによって、 一部ながら「蛮もの」のルーツと渡来時期が明確になったことは、 単に茶器の歴史にとどまったのみならず、日本とベトナムの文化経済交流史に かかわる成果と言えるだろう。
(読売新聞)


不況、ベトナム難民直撃
共同生活のあかつきの村「リサイクル店に協力を」

   ベトナム難民が共同生活をしている前橋市西大室町の「あかつきの村」 (施設長・石川能也神父)が毎週開くリサイクルショップの売り上げが、 長引く不況の影響で減り続けている。売り上げは村で暮らす人たちの生活費に当てられているため、 関係者はリサイクルショップへの多くの人たちの協力を呼び掛けている。
 あかつきの村は1968年、石川神父がたった一人でちり紙交換やリサイクル品のバザーなどして運営費を賄いスタートした。 その後、ボランティアメンバーが加わり、身寄りがなく生活に困った人たちに住む場所を提供した。
 82年からベトナム難民を受け入れ、8年ほど前には最も多い80人が暮らした。 多くの難民が仕事に就いて村を離れ、現在は自立が難しい9人が残って生活している。 石川神父をはじめ日本人15人がボランティアで住み込み、毎週木、土、日曜の三回、 リサイクルショップを開くなどして村の運営を支えている。 品物は市民や企業から寄付された家具や家電、衣類、日用品など。 売り上げは一番多かったバブル期に比べると、今では不況の影響で五分の一以下までに減ってしまった。
ボランティアメンバーとともにリサイクルショップの製品を並べる
石川神父=前橋市西大室町のあかつきの村
 村の人たちは「自分で働いて食べること」を大切にし、 「なるべく寄付に頼らずに済むように」と病状の軽い人も一緒になって廃品回収などの仕事に頑張り、 生活費を補ってきた。だが、近年のリサイクルショップの売り上げの減少は村の生活にとって大きな痛手となっている。
 石川神父は「あかつの村に住むベトナム人たちの高齢化が進み、 早く設備の整った家をつくる必要がある。 フィリピンの子供たちのためにもリサイクルショップの売り上げが増えてくれれば」と心を痛め、 協力を訴えている。問い合せは、あかつきの村(参027−285−4449)へ。
(上毛新聞)


中越首脳会談
領有権「平和的に解決」
 【ハノイ成沢健一】中国の江沢民国家主席(共産党総書記)は27日、 ベトナムのノン・ドクマイン共産党書記長とチャン・ドク・ルオン大統領の招きでベトナムを公式訪問し、 ハノイで両首脳と会談した江主席の訪越は94年11月以来2回目。 ベトナムの報道によると、南シナ海の南沙、西沙諸島の領有権問題について平和的解決を目指すことで意見が一致した。
 同テレビによると、会談では両諸島の領有権問題について「海の問題」との 表現を使い、「現在の協議のメカニズムを維持し、平和的な交渉を通じて双方が受け入れ可能な、 長期的、根本的な解決を目指す」ことで一致した。さらに解決までの間、 双方が問題をこじらせるような行動を取らず、武力に訴えないことでも合意した。
 中越両国は00年までに陸上とトンキン湾の国境画定協定に調印し、 79年の中越戦争以来の国境紛争に一応の決着をつけた。 だが、台湾や東南アジア諸国が絡んだ南沙諸島と、中越が争う西沙諸島の領有権問題が懸念になっている。 会談ではまた、中国と東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国との関係が地域の平和と安定に望ましいとの見解でも一致。 現在交渉中の中越の漁業権問題については早期合意を図る必要性が強調された。 新華社電によると、江主席は会談で@首脳往来A経済協力B青少年交流C国境の安定化D党と政府の交流の5点の推進を提案した。
 会談後、江主席やマイン書記長が立ち会い、中国から5000万元(約8億円) の無償援助を盛り込んだ経済技術協力協定など2文書の調印式が行われた。  今回の訪問はマイン書記長が11月から12月にかけて訪中したことへの返礼で、 江主席の海外訪問は初めて。銭其深副首相、曾慶紅・党組織部長らが同行した。 米国がロシア軍の撤退が決まったカムラン湾の利用に強い関心を示しており、 中越間の新たな懸案とも見られているが、首脳会義で義諭されたかは不明だ。
 紅主席は滞在中、ホーチミン廟への献花、ハノイ大学訪問、中部の古都フエを見学し、 3月1日午後に中部の都市ダナンから中国に戻る予定。
(毎日新聞)


扉を開けて
元気さん

 「私、真っ白な温かいごはんが大好きなんです。 ところがベトナムから帰国して、ごはんを炊いていたら涙があふれてしまって。 なぜこんなおいしいものを食べているのだろうと思ったのです」。 そう言いながらまた一筋の涙がほほを流れた。
 ことし3月、高山親神父(イエズス会)らと共にベトナム中部から南部にかけて視察旅行をした。 貧しい地域の現状に触れるためだ。川辺のボートの中で生活する6人家族、 両親が感染症で寝込んでいる隣家に、わずかな食事を分ける家族……。 「想像を絶する貧しさでした。何より、少しの薬で治る病気も病院に行けないことで悪化していく ことにショックを受けました」。
 ホーチミン市では、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染した17歳の少女と3日間過ごした。 親からの虐待の末に家出し、生きるために売春行為をしているうちに感染したという。 「とても純粋な少女でした。貧しさ故に家を出た子どもは街にあふれていました。」
 ベトナムと関わり始めたのは今から10年前、「私にも何かできるかもしれない」と、 財団法人・アジア福祉教育財団「大和定住促進センター」(1998年3月閉鎖)を訪ね、 ボランティアとして働いた。「在日ベトナム人の友人たちが、 私は顔も考え方もベトナム人になっていると言うんです」と笑う。97年に独立した。 NGOの運営委員は12人。「運営委員の方がいなければ、何もできない」と首を すくめた。
 視察旅行の後、「なぜ私はベトナムで生活していないのだろう」と自問自答する日々が続いたが、 ようやくベトナムに心を置き、日本で少しずつできることをしていこうと思うようになった。 「“求めなさい、そうすれば与えられる”必要な力を神様は必ず与えてくださる。 この信仰と守護の天使の元で歩んでいます。」
(カトリック新聞)


ハノイの建築美

   ベトナムの首都ハノイに残るフランス植民地時代の建築などを紹介した 「建築のハノイ」展が今日から中央区銀座3の5の6の松島眼鏡店三階「ニコン・サロン」で開かれる。 入場は無料で一週間。
 撮影したのは、大成建設本社広報部に勤める増田彰久さん(57)(町田市)。 仕事柄、建築物に興味を持ち、30年以上も国内の明治建築など撮影し続け、 西洋建築物に関する写真集や著書も数多く出版している。 「ベトナム戦争で相当の建築物が崩壊した」と聞いた増田さんは3年前、初めてハノイを訪れた。 しかし、実際には「トロピカル・パリ」と呼ばれる美しい建築群は殆どが残っており、 「そのあまりの素晴らしさに驚いた」という。
 ハノイ歴史博物舘、ハノイ総合大学、最高人民裁判所などは、 フランスの古典主義とベトナムの伝統建築とが融合した「越洋折衷様式」の貴重な建物だが、 地元では十分に理解されていないと感じた建築史の観点からみても、 「フランス植民地の建物はこれまで世界的にも研究が乏しく、 ほとんど紹介されてこなかった」と(藤森輝信・東大助教授)いう。今回は55点を公開。 問い合わせは同サロンへ
(読売新聞)


同国人の精神的支え
ベトナム料理店の切り盛り レ・ティ・ランさん
 前橋市西大室町の社会福祉法人「フランシスコの町あかつきの村」で、 菓子やハムを作るレ・ティ・ランさん(38)の手元から、 さわやかな香草の香りが漂う。その周りに村で生活しているベトナム人男性が陣取り、 さかんに母国語で話しかける。村では、戦争や脱出の時に受けた心の傷で自立できないベトナム 人男性9人が共同生活を送っている。ランさんは2000年7月、 ボランティアとして加わった。主にベトナムの食品を扱うショップを担当。 収入が運営費になる。
 東京都内で紅茶専門店で販売員をしていた。月給は20万円を超えていたが、 現在はお小遣いの月2万円だけ。群馬とは縁もゆかりもなかった。 きっかけは1999年11月、かつて村で生活していた友人のベトナム女性に誘われて訪問したことにさかのぼる。 村の施設長石川能也神父(64)に「男性しかいないので、ベトナム語を話せる女性が、 彼らの精神的支えとして必要だ」と要請された。電話も何度もかかってきた。 結論を出すのに5ヶ月もかかったが「石川神父は日本人なのに、ベトナム人に一生懸命」と決意した。
   もともと社会福祉に興味があった。 「私自身経験があるから、差別を受ける人に何かしてあげたい」と言う。 ランさんは父と兄2人は南ベトナム政府の軍人だった。 戦後、土地や家を没収され、わずかに残った土地を耕したが「何も食べられない日もあった」。 87年大学を卒業したが仕事もなかった。
 「回数は思い出せない」ほど国外脱出を試みて、 89年やっと成功する。小型の漁船に着のみ着のままの110人が甲板に座った。 初めての海と船酔い。南シナ海をさまよった4日目、夕方からあらしが襲った暗やみの中、 入ってくる海水をたらいやスコップですくい続けた。 朝日がまぶしくて背を向けたところ、前方に見えた白い点が、ぐんぐん大きくなった。日本の貨物船だった。
 時代が変わり、今は里帰りもできるようになった。一時帰国した昨年2月、 ホーチミ市でエイズに感染した17歳の少女に会った。 備見が根強いため、少女は家族に捨てられ路上生活をしていた。 「いつかは祖国で、あのような少年、少女たちのために働きたい」と話す。
 村の仕事以外にも東京都内でバザーを手伝い、 収益をベトナムのボランティアグループに送金する。 休みは週一回だが、「仕事が趣味なの」と微笑む。 第二の故郷日本でも「前橋は特別」。小高い丘の上にたつ村から、 高原地帯の故郷・ダラットとそっくりな風景が見える。
(中村守孝)
(東京新聞)


関係改善 交易拡大に期待
貿易額、20億ドルに
中国国境の川にかかる橋。
毎日、数千人の観光客が
この橋をわたって国境を往来する。

    中国がベトナムとの経済交流を拡大し、対国境地帯の基盤整備を進めている。 年内に中越間の問題に決着がつけられる予定のトンキン湾周辺では、埋蔵され ている天然ガスや石油開発に弾みがつくと期待が高まっている。 かつて、中越対立の最前線だった国境地域に中越関係改善の現実を見た。 (中国広西チワン族自治区で  高山 伸康、 写真も)

 中国の対ベトナム前線地域である広西チワン族自治区は、 1991年の中越国交正常化を経た1990年代後半、開発が動き出した。 自治区・南寧とベトナム国境の街・東興市を結ぶ約二百キロの高速自動車道も完成した。
 藩灼換・同市副市長は「東興市を経由するベ ナム出入国者は、中国人観光客を中心に毎年、前年比で約20%増加し続け、 今では年間二百八十万人になった」と話す。 中越双方の観光地・北海とハロン(下竜)湾を結ぶ観光船も90年代後半に運航が開始された。 トンキン湾を国際観光地として売り出す試みも動き出している。  
  
 一方、中越間の貿易も急増し、今年の貿易総額は昨年を約70%上回る20億ドルに達する見通しだ。 東興市でベトナム産農産物の輸入を手がける何さん(45)は 「国境を通過する際、一人三千元(一元は約十三円)相当以内の物品なら無税で持ち込める。 人数を集めて一緒に行動すれば無税の範囲も増え、商売にはありがたい」と笑顔を見せる。
 ベトナムへの投資も活発化している。中国最大規模の私営企業「新希望集団」 (四川省)は約九百ドルを投じ、ベトナムで飼料工揚の運営に乗り出した。 ただ、中国に対するベトナムの警戒心は根強い。中越国交正常化以来、中国の極端な輸出超過が続いている。 東興税関などによると、ベトナムは時刻製品防衛のため、 中国製ビールや自転車などに高率な関税をかけるケースが目だってきたという。
 中国の朱耀基首相は昨年の訪越時、中国系企業家などとの会合で、 「両国の経済関係が緊密化すれば、領海問題などの懸案も自然に解決に向かう」と強調。 実際、ベトナムのファン・バン・カイ首相が今年9月に北京を訪門し、朱首相と会談して、 トルキン湾領海の画定と中越漁業協定締結を年内に行うことを確認した。
  
(読売新聞)


日本の皆様と共に
感謝

   春、桜花爛漫の候、田中シスターや皆様いかがお過ごしでございますかすか。 僕と家族は変わりなく元気に過ごしております。 この度、平成14年3月25日めでたく神奈川大学を無事卒業いたしましたことをご報告申し上げます。
 思い起こせば4年前、僕は不安と戸惑いを感じながら大学に入学いたしました。 慣れない大学生活に幾度も戸惑いを隠せませんでした。 それが貴重な体験となり、その体験が積み重ねられ、無事卒業にいたりましたことを大変喜ばしく思います。
 今思うと、大学生活は、自分を成長させてくれた期間でした。 高校までの僕は受験に追われて、大変視野の狭く、人間的にも未熟だったと思います。 それが大学に入って大勢の人と出会い色々な体験を通じて高校当時とはくらべものにならないほど人間的に成長できたと思います。 さまざまな学友に囲まれて勉強するうちに、大学で「学ぶ」というのは何も学問だけではないことに気がついたのです。 僕は今年で大学を卒業しますが「学ぶこと」に卒業はないと思っています。
 無事大学を卒業できましたのは田中シスターや皆様の力強い支えや 暖かく見守ってくださったおかげで今日までに至ったと大変ありがたく思っております。 皆様に何かと指導をいただき、心より厚く御礼申し上げます。 田中シスターや皆様に出会えて大変よかったと誇りに思っております。
 最後になりましたが、田中シスターやみなさまのご健康とご多幸をお祈りいたします。
  
ルオン・チョン・フイ(暁星国際高等学校卒業)


チョットひとこと

 春の訪れが早かった2002年は、足早に砂煙をあげて過ぎ去っていくかのように見えました。 多くの情報に取り巻かれるようにして、人間の社会も同じように急流のように激しい動きを見せています。 正しくてよいことが数多くある一方、なぜ闇の部分がこんなに広い場を占めてしまっているのでしょうか?
 この狭い地球上で、民族国家の利害関係や権力争いのためにどれ程尊い命が失われることか、 紀元前の世界までさかのぼって歴史の一部を垣間見ても人間のやっていることは、 本質的に今と変わっていないようです。権力、富、支配等は、それ自身悪ではないにしても、 それを得るために闇の中でどれだけ残酷なことが行われ、 不正と知りつつ経済力に頼って不道徳な行為を許す結果を生み出したか、 人間は光の部分と同時にこのような面をもっていることを再認識させられます。
 政治の世界でも、個人の名誉や政党の利益のために国民の信頼を裏切り、 結局は経済力にものを言わせて裏では弱肉強食的な振る舞いをしていることが、 最近より一層表面に出てきました。しかし、これが国家単位で富と力に視点が向けられたときには、 不平等や裏切りの行為が広範囲に及ぶようになっていきます。 前述の紀元前というのは、人間性を問う一つの例に過ぎませんが、 ローマ帝国の時代においても政権を持つ人々と市民の間に絶えず問題が起こっていました。 「こうした属州での総督以下の支配者たちの行動を念頭において、キケロは次のように言う。 『ローマ市民たちよ。これまで外国人たちを統治するため我われが派遣した者たちの食欲の故に、 また彼らが加えた加害の故に、我われが外国人の間で如何に憎まれているか。言葉では言い表せない』と。」 (「ローマはなぜ滅んだか」弓削 達著P.79) 私たちの世界で二度と同一条件でものごとは起こらないにしても、類似性の高い、 あるいは関係のある現実を見逃すわけにはいかないと思います。
 人道的支援のために国境を越えた働きに全精力を傾けている人たちと、 「何か」を獲得するために戦いを挑む人々とでは根本的に違うのは分かりますが、 このような現実を「人ごと」ではなく自分の事としてさらに考え、 安易に国際化という表現を用いず多様性を肯定しながら皆さんとの交わりを大切にしたいと思っています。

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