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チョットいいこと 98

民族の夢崩壊
遅れる政治改革
停電の闇に救われた孤絶
日本での経験生かし祖国で後輩を教育したい
ストリートチルドレンに未来を      
ハリー神父様の呼びかけにかたえて
チャンバ王国の魅力  
山の神と海の神
チョットひとこと



民族の夢崩壊
 ベトナム戦争の終結を象徴する1975年4月30日のサイゴン陥落。あれから25年がたった。 
(解説部 鈴木 雅明)
    ベトナムの隣国ラオスで、地上の目撃者として聞いた話がある。 20年前のことである。ラオス駐留のベトナム軍兵士がジャングルの中でトラを見つけた。 十数人が生け捕ろうとしたが、トラの逆襲で兵士8人が殺された。
 それでもひるまず、ついに生け捕りに成功した。
 ラオス人たちは、ベトナム人を象徴するエピソードだという。 死を恐れずに米軍兵士と戦った勇気ではない。 トラか高く売れるとは言え、命までかけようとする貧しさを指すのだ。 ラオス人も貧しいが、それでも生きている方がましだという。
 南北ベトナム統一後、多くのベトナム人がボート・ピープルとして祖国を捨 てサメや海族のえじきになる可能性を覚悟して南シナ海に乗り出した。 社会主義体制とともに、貧困からの脱出だった。 かつて、世界の若者たちを魅了した民族開放のロマンは内部から崩壊した。 新ベトナム国民を満足させることはできなかったばかりか、 誇り高いアイデンティティーをもずたずたにしてしまった。 すさまじい犠牲を払って実現した統一とは何だったのか。
 1990年、東欧社会主義体制が政治的自由化をきっかけに崩壊の道をたどっていた頃、 当時のグエン・バン・リン共産党書記長は、「指導部が最もおそれているのは何北再分断だ」とこっそり語った。 この3月、ベトナム共産党は、多党制導入などの民主化を主張していたチャン・スアン・バク政治局員兼書記を解任し、 一党独裁の堅持を明確にした。顧問が明かしたのは、民主主義を導入すれば、 旧南ベトナム住民の選択が北からの分離独立になる恐れがあるということだった。 指導者たち自身ですら、統一に自信を持っていなかったのだ。 結局、統一とは北による政治支配の確立であって、解放ではなかった。
 86年から始まったドイモイ(刷新)政策は、 経済発展によって、アイデンティーティーを再確立しようとするものであった。 そして、90年代に打ち出した国家戦略は、皮肉にも、 冷戦後期にベトナム包囲の反共ブロックを形成した東南アジア諸国連合(ASEAN)開発独裁のモデル採用となった。 強権で政府批判勢力を抑えて政治的安定を維持し、外資導入で経済発展を目指す統治は、 ASEANでは今や終わりを告げ、民主主義が新しい風になっている。
 時代遅れの統治スタイルは、それでも効果を上げた。一人当たり国民総生産は330ドルで、 依然として最貧国の水準だが、91〜97年まで経済成長率は8〜9%を維持、 貧困人口は58〜37%に激減した。だが皆が貧しかった時代の次にきたのは、 貧富の差の拡大とカネが信奉される社会だった。「民族解放のベトナム」という顔は消えた。 そして、国家への新たな求心力は、まだ生まれていない。
(読売新聞)


遅れる政治改革
ASEAN成長の足かせに

 東南アジア諸国連合(ASEAN)新参組のベトナム、ラオス、ミャンマーが、 政治・経済改革の遅れから、地域の「足かせ」になりかねない状況に陥っている。 19日、5年ぶりに開かれるベトナムの共産党大会で改革が一気に加速する可能性は低く、 ラオスやミャンマーも従来路線から大きな変化はみられない。 経済回復と民主化に取り組み、ASEAN古参組みとの格差はますます開きそうだ。
(ハノイ 奥村健一)
官僚主義・汚職壁に
 ハノイで開かれるベトナム共産党大会の最大の焦点は、指導部の交代によって経済改革が促進されるかどうかだ。 党指導部は、党大会開幕を当初予定の3月下旬から一カ月近く遅らせ、保守派と改革派がせめぎ合いを続けた。 その結果、10日閉幕した中央委員会総会で、 急速な経済開放に慎重な保守派のレ・カ・フュー(69)は支持票が過半数に達せず、退任が確実になった。
 前回党大会(96年)では、人事の調整が最後までもつれ、 79歳と高齢のド・ムオイ書記長(当時)らの名前が挙がっているが、フュー書記長の巻き返しが最終段階まで続きそうだ。
 ベトナムは書記長、大統領、首相の集団指導制を敷く。軍、官僚などの均衡を取るためだ。 「市場経済化を進めるドイモイ(刷新)推進は既定路線」(ベトナムの経済学者)だが、 指導部内で互いにけん制し合うため、買い買うの急激な加速は望めない。 経済改革の具体的目標は、党大会に先立ち初めて公表された政治報告草案で示された。 今後10年以内での国内総生産(GDP)倍増を目標に掲げ、 経済・労働構造の重心を農業部門から工業部門に移すなどを打ち出した。 しかし、経済の中心はあくまで国有企業部門という姿勢は崩していない。
 海外からの対越直接投資認可額は、69年をピークに落ち込んでいる。 その理由の一つは「非効率的な官僚に対する幻滅」(邦人企業関係者)。 また、地方党幹部の汚職に抗議する農民運動も各地で起きており、国民の不満は蓄積している。 草案は、官僚主義や汚職が「非常に深刻な問題」と認め、99年から始まった綱紀粛清運動を続けるとしている。 しかし、「対症療法にとどまり実効性は疑問」との声もある。
読売新聞


停電の闇に救われた孤絶
夜なき東京では光に侵される
辺見 庸

 自慢できる知識などなにもないけれども、色彩、特に黒色、 なかんずく闇の黒については余人より少しばかり詳しいのではないかと自負している。 黒ほどじつはカラフルで、瞑想的な色はない。ベルベットのように艶めいた黒、濡れた革みたいな、 たけだけしい黒、幾世紀も閉じ込められたままの、暗梁のように奥深い黒…。教えてくれたのは、ハノイの夜であった。
 冷戦構造がくずれつつあった1980年代末から90年までの数ヶ月、 通信社の特派員として、ハノイのホテルに暮らした。いまはだいぶ改善されたであろうが、 その頃のハノイはのべつ停電ばかりしていた。ベトナム戦争という戦いの連続で、 ベトナムは完全に貧窮化し、最低限のインフラ整備すらままならなかったからだ。  
 電灯がまともに一日中ともったためしがない。予告なしに電気が消え、 ひどいときには何日も停電が続き、いかなる前触れもなく、あるとき突然電気がつく。 これでは仕事にならない。停電と同時に、扇風機が停止し、 トイレの水も流れなくなるので、生活そのものに重大な支障をきたす。
 最初は嘆き、かつ怒ったのだ。電気というのは、だが、いくら怒ったとてついてくれるものでもない。次第にあきらめる。 全身汗みずくになって、ベッドに終日じっと両生類のように横たわる。 来る日も来る日も、暗がりのなかで、高邁な哲学でも思想でもない、 もっぱら食い物のことや女性のことを妄想する。うち消してもうち消しても、 劣情が闇の中でむくむくと膨らんでいく。
 それまで高めだった自己評価が、これで一気に下がった。記者だの報道だの、いうもおこがましい。 俺はただの原生物並ではないか。そう結論したら、心持ちがなんだか楽になった。 で、停電の夜には、闇にあっさりと降伏し、いわばこの世の“俗念の囚人”として、 無明長夜を煩悩のままにさまようことにきめた。 闇夜をめらめら紅色に燃やすようにして咲く火炎樹の花を見た。 水中花の花弁が、石油ランプの光に揺らめくのも目にした。
 停電の夜でも、街頭でそのような小物をひさぐ切ない身すぎ世すぎがあったのだ。 ときには闇をかきわけて小さな食堂にはいる。あれは何という名前だったか、バナナの薄切りに酒をかけたやつを注文する。 主人がそれを捧げもってきて、気取った動作でマッチをつける。 バナナが闇の中で透明な青の炎を上げて燃える。暗がりにとろけるほど甘い香りが広がる。
 こうして天象としての闇にわたしの内面の闇がなじんでつながり、 いつしか境目さえなくなっていった。私はつまり、ハノイの夜にぐずぐず煮くずれて、 闇と一体化する術を体得したのだった。そうすれば、ぬばたまの夜にも漆黒の闇にも詳しくならないわけがない。 私は「黒の専門家」になったのである。
 黒ほど多彩な色はない。セロハンのように軽い黒から、銅のように重い黒まで、前皇万状の黒がある。 それらのなかで、最も心的で、セクシーな黒はどれであろうか。やはり闇の黒なのだ。 できればその黒に、熟れに熟れたパパイヤやハラミツのにおいがたっぷりと染みているといい。 闇夜に、熟した黒の空気を胸一杯吸い込む。言いかえれば、黒を食う。 するとわたしも熟した闇の一部となり、ハノイの路地から路地へ思うがままに散策できたのである。 孤絶はこうして救われ、想像は闇のなかでこそ果てしなく飛翔したのである。
 東京にはいま、その闇がない。つながれる闇がない。夜がほぼ完璧に抹殺されたからだ。 まばゆい光線が遠慮も会釈もなくすべてをさらしつくし、 人がそれぞれ体内に密に溜めていた自前の闇さえ、光に侵されつつある。 人々は、だから狂うのではないか。
(読売新聞)


日本での経験生かし祖国で後輩を教育したい
グエン・ティ・ニャー・チャンさん
 ナースの制服がよく似合い、大きな目がクルクルよく動く。 「日本人の名前は覚えにくいけれど、患者さんから、ありがとうと言ってもらえると、とてもうれしい」
 民間団体によるベトナム人看護婦養成支援事業で来日した。 3年間のコースを卒業し、4月から千葉市の病院で正看護婦として働いている。 ハノイの医科大学受験に失敗し、海外留学を模索した。ベトナムではエリート家庭だが、 先進国への私費留学は難しい。そんな時、「奨学金、滞在費付き」という日本側プログラムを見つけた。
 言葉の壁や生活習慣の違いに悩んだ。「来日して最初の1年間は泣いてばかりいた。 でも看護婦の国家試験に落ちたら、何のために来たか分らなくなる」。 3年間、一度も帰国しなかった。意志の強さは研修している病院長の折り紙付き。 苦手だった正座も、今では苦にならない。
 このプログラム(JFBネットワーク協同組合主催)で昨年の第一期卒業生と合せ、 5人のベトナム人看護婦が誕生した。留学費用は11カ所の受け入れ病院などが拠出しているが、 一人あたり700万円近くかかり、資金難でピンチだという。 「日本に行けば適齢期を過ぎると反対した父も、今はとても喜んでいます」4年後には研修を終え、帰国する。 「ベトナムでは現在の10倍以上の看護婦が必要である。 日本での経験を生かし、将来は日本かカナダの大学院に進学して、看護教育に携わりたい」
ハノイ出身。千葉県立衛生短大に入学し、首席で卒業。3月、看護婦国家試験に合格。23歳。
文・渋川 智明 写真・森 謙次(毎日新聞)


ストリートチルドレンに未来を
ベトナムの夫妻
 ベトナムの都市でストリートチルドレン(路上生活をする子供)が増加している。 その数は20万人とも言われるが、政府の支援は手薄だ。 そんな中、ハノイ教育・職業訓練所を通じて600人以上の子供の“社会復帰”に貢献した夫婦による組織 「ザ・メー」(遠くはなれたお母さんの意)が民間団体(NGO)のモデルとして注目されている。 (ハノイで 長谷川 聖治、写真も)

 ハノイの住宅街の一角にある三階建てビル。「ザ・メー」の寄宿舎を兼ねたレストランは昼時を迎えると、 市民でいっぱいになる。一食三十円程度の安さに加え、 味が良いと評判だからだ。ここで働くコックやウェイターは、かつて靴磨きや新聞売りで生活していた ストリートチルドレンだった。レストランは職業訓練の場となっている。
 ザ・メーは1990年、ブ・ティエンさん(60)とオアンさん(57)夫妻が設立した。 オアンさんが経営していたハノイ駅前の小さな食堂に食べ物をもらいにくる子供たちが増え続け、 世話をしたのが始まりだ。当時は、86年に始まったドイモイ(刷新)政策で都市と地方の格差が広がり、 貧しい家庭の子供たちが、豊かに見える都会に相次いで流入してきたのだ。
 ベトナム戦争時代、従軍歌手として戦地に赴いた経験のあるブ・ティエンさん自身、 子供の頃は路上生活者だった。夫妻は「教育は自立を促す」と、 自宅を開放して読み書きを教えた。活動費を工面するため、レストランの経営にも乗り出した。
 90年代半ばにはイタリアと日本のNGOが資金援助、寄宿舎では外国語も教えるようになった。 職業訓練も縫製、大工仕事、ガラス細工、バイク修理などに広げていった。
 寄宿舎には現在、3歳から19歳までの60人が暮らす。 これまで手の職をつけて巣立ったのは約600人。このうち200人は故郷の戻って働き始めた。 夫妻は2年前、ハノイを流れるホン川の水上に2店目のレストランを開店した。 コックとして働くトアン君(18)は、近郊の省から5年前、 両親の離婚を機にハノイにに出てきた。「靴磨きで、確かに食べ物は手に入った。でも、その先の未来は真っ暗だった。 ここに来て人間らしさを取り戻せた」
 社会整備の遅れたベトナムでは、NGOの果たす役割は大きい。 ベトナム人自身がつくる地元のNGOも育ってきた。だが、ブ・ティエンさんによると、 政府はザ・メーの活動に冷ややかだったという。
 「NGOは金もうけしてはいけない、などど圧力をかけてきた。 ストリートチルドレンの存在を容認していると思われたり、 ここに来る子供の数が増えたりするのを恐れていたんだ」最近は活動の成果が社会的に評価され、 政府もザ・メーの子供たちが様々な公式行事に参加するのを認めるようになった。 それでも、政府からの直接支援は依然として少ない。都市に流入してくる子供たちの数も一向に減らない。
 ザ・メーは、海外から支援が減少する厳しい財政事情の中、 昨年、ハノイのロンビアン駅周辺のスラム街で“学校”を始めた。教室は蒸し暑い倉庫。 近くの小学校の校長コイさん(58)が週3日2時間ずつ、読み書きと算数を無料で教える。 生徒は路線周辺で寝泊りする7歳から13歳まで28人。 子供たちは授業後の食事を楽しみに通ってくる。
 ストリートチルドレンに両親と慕われるブ・ティエンさん夫妻。その挑戦はこれからも続く。
(読売新聞)


ハリー神父の呼びかけにこたえて
真田嘉子
 姫路定住センターの卒業生の多くは、姫路教会に来られます。 「日本語を教えてくれませんか」というハリー神父様の広報を見て、 数人の方がお電話をくださいました。結婚のためにベトナムから来た女性たちは、 まだまだ日本語がわかりません。
 仕事を持つ人、赤ちゃんのいる人、それぞれの都合をきいて、マンツーマンの先生ができたのが3月です。 寝ている赤ちゃんの横で勉強する人、ご主人が赤ちゃんをあやしている間に勉強する人、 皆仕事も家事も育児も大変なのに一生懸命です。この人たちに、心を込めて、 暖かな行為をしてくださっている竹林さん、有馬さん、永井さん、木塚さん、久保さん、岡本さん(教会外の方) の協力があってスタートできました。人の行為には、温かさがあると思いませんか。 あなたの暖かさを誰かにあげてください。


   『3月から、ベトナム出身のサンさん、ドンさん、ニュンさんと一緒に日本語の勉強をしています。 身近にいて、遠くに感じていた人たちとの出会いのきっかけを作って下さった本多さん、 そして、ベトナムの方々のお世話をして下さっている真田さんに出会った事を神様に感謝しています。 ベトナムの事を知り理解しようと思っています。 有馬さんと分かち合って、サンさんたちの望むように勉強していけるよう祈っております。  (木塚 和子)』
(姫路教会ニュース)


チャンパ王国の魅力
知られざる遺跡群…
学術・文化交流盛んに

 最近、ベトナムはドイモイ政策による経済開放に伴って、海外から企業進出が相次いでいる。 日本の新聞各紙を賑わしているのは経済的面が中心だが、外国人に対する門戸開放、 国内での移動許可が比較的緩やかになったことで、学術・文化面での交流が盛んになりつつあることは知られていない。
 日本では「アジアの時代」という漠然とした表現が目に付くが、 実際にはまだアジアの文化に対する関心は極めて低い。 例えば、ベトナムの国土に、かつてチャンパという王国が栄えていたということを、知っている人は少ないだろう。 その王国の全体像を初めて紹介する「チヤンパ王国の遺跡と文化展」が開かれているのを機に、 知られざる遺跡群の魅力を述べてみたい。
 筆者の過去5年間の限られた経験の範囲ではあるが、 最近の研究成果を踏まえてチヤンパ研究の重要性を整理すると、次の三つに要約できる。
   一つは海のシルクロードの中でのチヤンパ、さらに北部ベトナムを含めた地域の果たした役割の再評価という視点である。 チヤンパ王国は2世紀末に建国され17世紀に滅亡するまで、 東南アジアにおける海上交易の拠点として重要な役割を果たした。 陸のシルクロードに比べると、海上の道はこれまで余り注目されていなかった。 中国との朝貢、インド、アラブ諸国など香木、香辛料など主体とした国際貿易は、 インドシナ経済・文化の基盤こ大きな意味をもった。ベトナムでは中国産やペルシア産に混ざって、 遠く日本の陶器も各地で発見され、よりグローバルな視点から東南アジア史が書き換えられようとしている。
 二つ目は、チャンパの領土の立場である。チャンパ王国はベトナムの中部から南部地域を領土としたが、 この位置は東南アジアの技術交流を考えるうえで極めて複雑な意味を持っている。 インドシナ地域は四世紀末頃にインドシナから大きな文化的な刺激を受ける。 このインドシナの影響を受けた国々と、 南下を図る中国影響下の勢力との二大文化圏の衝突と融合課程を解明することである。
 三つ目はベトナム国内における、チャンパ及び少数門族文化に対する意識の変化という視点である。 これまでベトナムでは少数民族問題は積極的に取り上げられなかった。海外でのチャンパの再評価は、 ベトナム国内に波紋を投げかけ、チャンパの聖地ミソン遺跡を世界遺産条件のリストに加えることも検討されている。 特に各地の新聞、雑誌のチャンパ文化という文字が頻繁にみられるようになり、 幻のチャンパ財宝をめぐる話題がタブー視されていた頃に比べて大きな意識変化がおきている。 経済発展と文化の保護を両立させるという困難な課題も残っているが、 「ベトナム領内で生まれた歴史遺産」としてチャンパを含めた少数民族の文化を再認識するような潮流が起きていることは、 東南アジア文化史を考えるうえで大きな進展である。
背後の聖山マハーパルヴァタを意識して伽藍が
配置されたミソン遺跡群のB、C、Dグループ
 
建築技術史的にも重要
 チャンパの遺跡は、建築技術史的にもきわめて重要な位置を占めている。 チャンパの主要建築は祠堂と呼ばれ、内部にヒンドゥー教・仏教の神像が安置されている。 特にシヴァ信仰の盛んであったチャンパでは、リンガという男性性器を象徴化した砂岩の彫刻が祭られている。 その祠堂を含めチャンパでは焼成されたレンガを建築材料として多用している。
 このレンガを少しずつずらせて屋根を支える迫り出し構造を用い、 さらにそれぞれのレンガを積み上げた後で壁面の彫刻作業を行うことなど、 ユニークな祖績造技術が展開されている。しかし、この地域の建築文化については、 判明されていない部分がまだ多く残されている。例えば、レンガの施工法の詳細・技術・工法などの 変遷課程など技術史的な面である。 今後、日本が協力して東南アジアの遺跡の解明にメスを入れられることになれば、 日本との新たな技術交流関係が生まれる事になる。
 近頃、旅行雑誌にチヤンパ遺跡が紹介され、ベトナム各地の遺跡を歩く若い旅行者の姿が飛躍的に増加した。 国内でも東南アジアの文化遺産を対象とした展覧会や講演会が開催され始めた。 東南アジア、そしてベトナム文化への興味の深まりを実感させられる。
 しかし文化的な協力活動にはより多くの人々の精神的な支援が必要とされる。 相手の国をよく知るためには、その国の文化に直接触れることが一番である。 このことが日本人の足元を見直す契機となるだろう。私にとっての東南アジアの文化遺産研究は、 アジアをもっとよく知りアジア連帯の再認識を深めることである。

 重枝 豊  日本大理工学部研究員・東南アジア建築史 1954年山口県生まれ。著書に「アンコール・ワットの魅力」など
(読売新聞)


山の神と海の神

   昔、4千年ぐらい前、ベトナムのフン王に一人の娘がいました。 その娘は大変きれいだったそうです。18歳の時、王様は娘にお婿さんを選びました。 一人は海からで名前はトゥイ・ティン。もう一人は山からで、名前はソン・ティンです。 両方とも才能や力が同じだったので、どちらを選んでよいかわかりません。 それで王様は二人に明日、一番早く起きた者に全財産を与えると言いました。
 さてソン・ティンが先に来ました。娘と結婚したあと、一緒に山に住みました。 つぎにトゥイ・ティンが来ましたが、もう娘がいないとわかって大変怒り、 山に行きました。トゥイ・ティンはソン・ティンをやっつけようときめ、 力を使って海の水をだんだん高くしました。山を海で沈めようとしましたが、 ソン・ティンも力を出して山をだんだん高くしたので、山はいつも海より高いのです。 だがトゥイ・ティンが怒ると海の波は大変高く、風が強く吹きます。これを台風といいます。 毎年、ベトナムに台風がありますが、その時人々はソン・ティンとトゥイ・ティンが戦っていると思っています。
  


チョットひとこと

 昔から日本でもよく使われていた「旬」という言葉を、現代に生きる私達も受け継いでいます。 もともと時を表す字として用いられたと聞いていますが、 今では食物に関係する表現として馴染みがあるようです。 しかし、これも人間の知恵によって、あるいは好みによって、 人工的に季節に作るために「旬」の意味を失ったものもあります。 また、各地方の名産とされているものも易しくどこでも手にいれることができるために、 昔のような「場」の感覚も薄れてきました。 大自然に囲まれている清々しい気分を味わうために、 そして広く文化を知るために、人々はある程度易しく世界中を旅行することが可能になりました。 事の善し悪しは別として、私達は待つことに耐えられなくなり、 秒刻みの生活環境にはまってしまって、せわしい生き方が普通になってきています。 時間を守る事は大切ですが、いくらか心の「ゆとり」をもつためにといって自由時間を与えられても、 多分現在の社会構造の中で実現させることは非常に難しいと思います。
 第二次世界大戦の頃は月月火水木金金という極端な表現が用いられ、 現代では週休二日制、学校五日制などが常識とされるようになりました。 その理念と具体的な理想像がはっきりしているかどうか、 さらに言うならば哲学があるかどうかと疑問を抱いているのは筆者だけでしょうか? 妥協、曖昧な論理、矛盾を指摘することに対する消極的な態度、 このようなことの積み重ねがモラルの分野にまで影響を及ぼしていることは残念に思われることの一つです。
 さて、様々な人間社会の営みの中で生きている私達ですが、 キリスト教でも「旬」という文字を当てはめて説明していることに目を向けてみましょう。 その一つがキリストの受難と復活を思いながら心を整える四十日、 つまり四旬節です。自分自身を振り返って、人間本来の姿を失わず歩むために一時立ち止まって、 神の望みに心の耳を傾ける時をもつことは、真のゆとりに繋がる大事な休止符でしょう。 それは基本的に調和のとれた一つのシンフォニーの中の、 程よいフェルマータであると考えてもよいかも知れません。 明るいイースターに向けての四旬節を信徒であるなしにかかわらず、 その意味に相応しく過ごしたものです。

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