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チョットいいこと 97

教育の壁に苦闘
ベトナムの町並み保存に貢献
難民たちは今  
越僑
知りたい読みたい       
アフガン難民支援
学ぶ喜び共有  
さい帯血移植を学ぶ
チョットひとこと



教育の壁に苦闘
「母国語に誇りをもてる社会を」

 日本で暮らすインドシナ難民が「教育」をテーマに語るスピーチフォーラム が26日、神戸市中央区の兵庫県民会館で開かれた。難民の定住が始まって今年 で21年。差別や帰化、母国文化の継承など難民を取り巻く問題が次の世代に引 き継がれようとする一方、日本で生まれた子どもたちの教育という新たな課題 も生まれている。フォーラムでは十代二十代の若者発言。「国に帰れといわれた」 「帰化したくなかった」。彼らの言葉が本当の「国際化」とは何なのかと、日本 社会に問いかける。  (岸本 達也)

 フォーラムは、定住事業を行う「アジア福祉教育財団難民事業本部」が難民 の日本語学習の成果発表のために開始し、今年で6回目。5年ぶりに関西で開 かれた。学生部門5人と社会人8人が「教育」をテーマにスピーチ発表。続い て意見交換を行った。
 母国文化を深く知ることができないのは、若者たちに共通の問題。ベトナム からの定住者で茨木市の大学一年生、ハー・トゥ・アンさん(18)は「自分の国 には誇りに思えるものが何もないと感じ、悲しかった」と涙ながらに語った。 高校生の時にクラス全員でベトナム語の歌に取り組んだ経験に、「みんなが私の 母国語を一生懸命覚えようとしてくれる姿を見て、初めてベトナム人の誇りを 持てた」。
 姫路市の高校2年、グエン・スアンI・ジュウさん(18)は「家庭での教育も大 切」と指摘。日本で生まれた子どもを持つ親からは「母国語を教えたい」との 声が相次いだ一方、「日本の学校を体験しておらず、子供たちに相談を受けても こたえられない」。
 また、日本に帰化した学生は「本当は日本名が嫌いだけど、 自分が何者であるかを主張しにくい社会があるのも事実」 と主張。大学2年生のオン・ホアン・ティ・ミンツさん(20) 「国籍は関係ない・『私』という100%受け入れ、自分らし く生きられる社会づくりを」と訴えた。
 1975年のインドシナ戦争終結後、ベトナム、ラオス、カ ンボジア3区から政変や戦火から逃れて、日本に定住した難民 は約10,000人(累計)。関西には約3,000人が暮らしているという。
(神戸新聞)


ベトナムの町並み保存に貢献
昭和女子大にユネスコの賞

  ベトナム中部の貿易港で、かつて日本人町が栄えたホイアンの町並み保存に取り組んでいる 昭和女子大学(車京・世田谷区、福場博保学長)が、 このほどユネスコ(国連教育科学文化機関)のアジア太平洋文化保存優秀賞を受けた。 経済発展に伴い、歴史的建物が壊されたことも憂慮される中、 1992年から同大の建築専門家らが文化庁やベトナム側と提携してすすめた事業で 国際協力の好例として高く評価された。
 ホイアンは、海のシルクロードの中継点とされ、17世紀の江戸時代には朱印船が出入りし、 日本人町がにぎわった。今も日本人の墓や日本橋が残り、観光名所となっている。 幕府の鎖国令により日本人は衰退、中国人が栄えた。 昭和女子大は、現地の家屋の測量や古文書解説、聞き取り調査により当時の町並みを研究し、 19世紀半ばから今世紀初めに建てられた商家6棟を修復した。 今回の受賞では、日本の文化保存技術がベトナムの技術者に伝えられたことが評価された。
 ベトナムはドイモイ(刷新)政策と呼ばれる市場経済化が進み、 ホイアンにも外国人観光客が訪れるようになり、確実に豊かになっている。 伝統的家屋は、現在も使用されており、取り壊しや改築が一挙に進むおそれがある。
 友田博道教授(建築学)は「今後は、町並み保存条例制定などべトナム側の自立に手助けしたい」という。 国際協力事業団(JAICA)と協力し、伝統家屋の保存活動を順次、ホイアン以外のベトナム各地のも広げている。
(朝日新聞)


難民たちは今
独への密航、ルート定着

   ポーランドとの国境地帯、ドイツ・ブランデンブルグ州アイゼンヒュッテンシュタット市にある 「州外国人亡命申請者中央局」(難民収容所)を訪ねた。 旧東独時代の警察宿舎を改築した建物に、現在約250人が収容され、難民審査を待つ。 その結果によって国外退去か長期潜在が認められるか一運命が分かれる。 「案内人に7,000jを払い、ハノイからモスクワまで空路、その後は陸路でドイツまでやってきた。 入国審査?いわれた通りに車で国境を越えただけ。 だれもチェックしなかったわ」ハノイで歌手だったと言うベトナム人女性チュンさん(31)は収容所で悪びれた様子もなく答えた。
 収容所職員のウェンドルフさんは「1992年のピーク時には2,000人の難民申請者が収容され、 住民とのトラブルも多かったが、今は落ちち着きました。 ただし、現在の収容者のほとんどすべてが、不法入国者です」と説明する。
 90年代初め、ユ−ゴスラビア紛争など欧州が激動する中、ドイツへの難民申請者が急増し、 92年には史上最高の438,000人が押し寄せた。これに対し、旧 東独債権にあえぐドイツは、93年に基本法(憲法)を改正。難民申請を受ける 条件を大幅に制限し、政治的迫害を受ける可能性のない「安全な国」から来た 申請者は、追い返すことにした。
 この結果、難民申請者数は急減し、昨年は95,000人だった。 このうち難民認定されたのは3.04%。85年には約3割が認定されていたことを思うと、時代の 変化を感じさせられる。申請者数は減っているが、 不法入国問題は深刻化している。特に問題なのが不法入国の組織化だ。 クェンドルフさんは「収容所にやって来るベトナム人、中国人は、全員がモスクワ経由。 密航組織によるルートがあるのです」と指摘する。
 収容所では10日ごとに400マルク(1マルクは47円)の食料券を配給するほか、 時給2マルクで施設の仕事をすることもでぎる。 外出には許可が必要だが、市内であれば事実上自由。 月に10から20人が外出したまま帰ってこないという。 難民申請者のうち国外退去になるのは約半数。 政治的迫害の事実がなく、難民と認定できなくても、母国が政情不安の場合など、 国外退去にはしづらいケースが多い。 こうした事実から、ドイツに長期に滞在している人の数は約35万人に及んでいる。中には非合法で就労している例も多い。
 こうした問題は西欧に共通する。難民申請者数は欧州連合(EU)全体だと98年で29万人、 昨年は約35万人となり、増加傾向にある。これと別に、推定で300〜500万人が不法滞在しているとみられる。 今年6月には、犯罪組織の手引きで、ドーバー海峡を越え、 英国に密入国を試みた中国人密航者68人が保冷トラックで死亡する事件も起きた。
 高齢化が急速に進むドイツは労働人口不足にも直面している。 ドイツは今年7月、超党派の「移民委員会」を発足させ、外国人政策の見直しに着手した。 来夏をめどに、「難民」を名乗る不法入国者に対する規制を強化する一方、 永年を前提とした「移民」を認める可能性をさぐるなど、 多角的に議論する予定だ。
 EUは昨年10月の首脳会議で、各国個別の対応を改め、難民認定手続きの共通化を目指すことで合意した。 西欧はようやく、総合的難民対策に向けて動き出した。(ベルリン 三次 範英 写真も)
(読売新聞)


越僑
帰還促進政府本腰

  ベトナムのノン・ドク・マイン政権が、停滞している市場経済化の推進のため、 60−70年代の戦乱期に海外に渡ったベトナム移民(越僑)の帰還促進に本腰を入れ始めた。 欧米で情報技術(IT)分野などで成功を収めた越僑の頭脳と経験が、 ドイモイ(刷新)路線加速の起爆剤になると期待しているからだ。 政府は優遇対策を打ち出し、越僑たちの帰還は着実に増加しているが、 欧米スタイルに染まった彼らが、社会主義国の祖国に溶け込めるかという懸念も出ている。 (ホーチミンで、長谷川 聖治、写真も)

*狙い「IT]
 ホーチミン市郊外に、今年3月、ハイテク・パーク「クアン・アン・チュンソフトウェア・シティ」 (QTSC)がオープンした。 42fの広大な敷地、廉価な土地リース代、税制面などの優遇措置が魅力となり、IT関連32社が進出して、 アットいう間に満杯となった。
 「IT産業を経済のけん引役に引き上げる」と、 昨年10月、越共産党が打ち出したIT堆進計画の中枢を狙う“基地”の一つ。 32社のうち越僑の投資は8社だが、越僑と資金、人的パイプを持つ企業が少なくない。 年末には約千人のエンジニアが集結する。同パ←クで、ソフトウエア開発、 エンジニア・スクール事業に乗り出す「サイゴン・テック」のグエン・バン・サウ(62)(カナダ国籍)も、 ベトナム戦争初期に故郷を離れ、今年は初め、米ボストンのIT会社役員ポストをなげうって、帰還した越僑人の一人。
 海外での生活は魅力だが、越僑を取り巻く環境は、今、大きく変わった。 政府は我々の声に耳を傾けるようになった。「有能な人材を育て、祖国に貫献したい」と語る。 大学教授などスカウトし、社員30人の月給は公務員の10倍の700jと破格だ。
*優遇策次々と
 ベトナム戦争前後の60年から70年代にかけて海外に渡った越僑は、250万人。 米国、フランス、カナダなどに暮らす。 97年のアジア経済危機の後遺症で海外からの投資がピーク時(96年)の2割程度落ち込む中で、 越僑が祖国に送金する金額が毎年30%近く伸びている。 昨年1年間、公式に補そくされただけで17億j、実際は30億jを超えるとされ、これは国内総生産(GDP)十数%に相当する。
 越共産党は越僑の持つ力に着目して、4月に開かれた党大会2010年のGDPの伸びを2000年の2倍にする目標を設定し、 それを実現する「国家10か年戦略」の外資導入、特に越僑の帰還、投資を促進する方針を盛り込んだ。 政府はすでに昨年から、越僑の送金にかかる課税廃止、民間企業設立手続きの簡素化、 今年に入って越備に対する建物の所有認可など投資環境整備を矢継ぎ早に実施した。
*「欧米流」懸念も
 越僑の帰還は昨年、一時帰国を含め、前年比30%増の36万人にのぼった。 一方で、欧米流の考え方に慣れた若い越僑の帰還に摩擦を懸念する声もある。 現地のある外国人ビジネスマンは、「越僑の友人の中には、いつ優遇策のはしごがはずされるかと不信感を抱く者もいる。 彼らが、外国旅券を手放してまで定住を希望するとは思えない」と冷めた見方をする。
(読売新聞)


知りたい 読みたい
ベトナム 高まる関心

 女性誌を中心にベトナムの観光や雑貨、料理の特集が相次いでいる。 先月には、成田空港からホーチミンしへの直行便も開設された。 ベトナム戦争が終わってから25年。日本人の間には相変わらず「戦争と貧困、難民」 のイメージも強い。「旅行したいけれど地雷は大丈夫?」といった質問も。 今のベトナムを知り、相互理解を深めるためにはー。(桜井 泉)
野菜を船に乗せて売る
メコンデルタの水上市場

 日本人とベトナムの関係は16世紀後半にさかのぼる。 ベトナム中部、ホイアンには日本人町があった。 「日本・ベトナム関係を学ぶ人のために」(木村汎ほか編、世界思想社)は、 国際日本文化研究センターの共同研究をまとめた。 近世以来の交流史、日本におけるベトナム研究や、緒についたばかりのベトナムでの日本 研究を紹介する。
 『ベトナム工業化・近代化と人々の暮らし』(中野亜里者、三修社)は、 外交研究者による現地調査で、経済発展がもたらす価値観の変化や環境破壊、 小数民族への影響を取り上げる。外には貧しさを強調し、 カネさえあれば豊かな生活ができるというベトナムの風潮に苦言を呈する一方で、 「ベトナム人は、貧しくてかわいそう」という日本人の認識不足を指摘。 「同じ高さの視線で等身大の相手を理解せよ」と訴える。
 企業や援助関係者など、ベトナムに駐在する日本人は増えているが、 地方で暮らす人はまだ少ない。『メコンデルタ単身赴任期』(金忠男ほか著 鳥影社)は、 農業研究のため滞在した3人の農水省職員の記録。知人の結婚式や葬式に出席したり、 「日本の女性は、(ベトナムでも放映され人気を集めた)おしんのようによく働くか」と言われたり。 庶民とのつきあいを描く。
 ベトナム文化は、北の隣国、中国や旧宗主国フランスの影響もうけた。 日本でも知られるようになった生春巻きやフォー(コメのうどん)などその料理はバラエティーに富む。 野菜をふんだんに使い、辛くないので日本人好みだ。『食を追ってベトナムへ』 (植月縁者・渡部文彦撮影、文化出板局)は実しいカラー 写真で食欲を刺激する。
 社会主義ベトナムでは「ドイモイ(刷新)」と呼ばれる開放政策が進むとはいえ、 政府機関は秘密主義に覆われている。政府から資料を得たり高官にインタビューするのは容易ではない。 『ベトナムの国家機溝』(白石昌也著、明石書店)は、 ベトナム共産党や国家の政策決定を知る前提として、制度的枠組みを扱う。 研究者のほか弁護士や大使館員など実務経験者も交えた論文集で、国会や、司 法、公務員制度、外務省、地方行政組織などを対象とした最新研究だ。


アフガン難民支援
緒方貞子・前国連難民高等弁務官に聞く

   ここ数年、アフガニスタンは「見捨てられた国だった」。 昨年末まで難民高等弁務官を務め、いまニューヨークの民間機関で研究する緒方貞子さんはそう憤る。 同時多発テロで、そのアフガンに国際社会の目が向いた。 軍事行動で「テロの根源」を排除し、周辺国も含めた安全策をとり、 そこで日本は自衛隊の派遣を含めて積極的な役割を果たすー。 緒方さんの主張は、難民救済の現場で鍛えられた国際人ならではの説得力を持つ。(ニューヨーク支局長 五十嵐浩司)

 ー米国は4日、アフガン難民に3億2千万ドルの緊急援助を決めました。 今回の事件まで米国はアフガン間題に熱心ではありませんでした。
 「なかったと思いますよ。でも、どこの国も私どもの出したアピールにほとんど答えてくれなかった。 アフガンというのは、極端にいって見殺しにされた人々だという印象を持っています」
 ー見殺し?
 「まず難民を受け入れていたパキスタン、イランへの資金要請に反応がない。 だったら、アフガンの安全な所に帰ってもらうしかないが、アフガン国内の活動は国連制裁で制限している。 ロシアもアメリカも『制裁、制裁』では一致する。 アフガン内には反国連、反国際社会の気分が高まる。結局帰すこともできない。 国際社会は見捨ててしまったのだな、と怒りを感じたこともあります」
 ーなぜそんなに冷淡だったのでしょう。
「一つはタリバーンが非常に弾圧的で人権をじゅうりんして、 極端な暴力るう望ましくない政権だったということが大きかった」
 ーそれでも5年間も実行支配している。
 「望ましくはないのだけれど、多くの人には『戦争がなくなった』ということで、我慢する風潮があった」 「アフガンは国として成立することがなかった大きな部族社会。 国連が提案した緩やかな連邦をつくる案は実現しなかった。独立性の強い、難しい人たちです」
 ータリバーンはバーミヤンの石仏も破壊してみせました。
 「非常に残念なことと思います。ただ、3年も続くすごい干ばつなんですね。 昨年9月に現地を訪れたときも、干ばつから逃れてテントもなくて座り込んでいる人がたくさんいた。 石仏を壊したとき、あんなに急に国際社会が何とかしようと言い出すなら、 生きている人間が悲惨な状況にあるときに、もう少し何かしてくれてもいいのにと思った。 その点では私、タリバ←ンに賛同することもありますよ」
  ー今回のテロ犯と名指しされるオサマ・ビンラデイン氏もアフガン戦争が生んだ人物です。  「サウジアラビアから、(米国が支援する反ソ連の)ムジャビディン(イスラム戦士)に。そして次の段階に行ってしまうのですね」
 
軍事行動を
 −テロ撲滅にどんな対応が必要でしょう?
 「短期的にはタリバーンに圧力をかける。周辺国から情報をとって、 ビンラディンの居場所などをきっちりつかむ。目標に対し効果的な行動をとるのが軍事行動で一番大切。 米国も最初は激しい怒りで対応しでいましたが、いま情報取りを一生懸命やっている。 犠牲を最小限にして、効果のある攻撃ができるか。ビンラディンの引き渡しがあれば最高です」 「長期的にはアフガンでも、中東でも、多くの人が安全も安定もなく、日常生活に困っている。これを直さないと。 アフガン周辺の国も全部、国内に抵抗分子を抱えています。そこまで視野に入れた安定政策を作っていくことが大事。 国造りではなく『地城造り』。そのためにはおカネも技術もいる。それが私たちの安全につながるという意識が必要です」
 ー「平和と人道の象徴」の緒方さんが効果的な軍事行動を説くと日本の人々が驚くでしょう。
 「私が難民の保護と救済のため話し合ってきた人は相当のしたたか者ばかり。 難民に制限を加えるとか。追放するぞと脅かすとか。どっちがより悪くないのかの選択を迫られてきたんです。きれいごとじゃありません」 「日本の方々はあまりに現実を知らない。平和の国にいたから。政治家の方に『もうちょろと現場を見に行ってほしい』と言ったことがある」

妥協も必要
 ー米の軍事行動にどれだけ協力するか、日本で議論になっています。
 「支援するときには、どんな形の軍事力の行使かをまず考えないと。 そういうことこそ政府間で話し合われていると信じています。何か、ひとごとみたいですよね。 米軍のいろいろなシナリオに『こういうことなら私はできる』『こういうふうにしたらどうか』と、 同盟国なら話し合っているもだと思う」
 一自衛隊の武器使用を緩知する新法は?
 「自衛隊が何をするか。空輸だけなら武器を持たなくもいいが、陸上輸送して難民がいっぱいいる地域に行くなら、 それは武器を持っていた方がいい。難民も聖人ばかりじやないですから。 生きた人間が集団で動く時には、隊長の判断の権限をあたえるのが大切なんじゃないですか」
 一今の事態を「文明の衝突」と見る向きもあります。
 「単純過ぎますね、あの論は。もっと複雑な利害が絡んでいます」
 ータバリーン後の「受け皿」に提言を。
 「部族を無視して政権はできません。(民族、部族の)協調というより妥協。 アメとムチがないとだめです。アメには大きな経済復興計画がないとだめでしょう」
 一アフガン以外にも、難民はまだまだたくさんいます。
 「いちばんの問題は、中東だと思いますね。テロとも関係している。大きな不公正とか、 大きな暴力があるところは、なかなかテロは抑えられません。軍事力と同時に政治の解決も必要でしょう。 それと安全と安定。このままいけば明日は今日より少しはよくなるのでは、という感情を、 たくさんの人が持つことが平和には必要でしょう」
(読売新聞)


学ぶ喜び共有
ボランティア“先生”を募集
姫路市城東町総合センター
 
 難民として日本に定住したベトナム人の子どもたちの学習を手伝おうと、 姫路工業大学や小学校教論などが姫路市城東町総合センターで開く補習教室が開設されてから、 1年あまりが過ぎた。学ぶ場のほかに、安心して集まることができるコミュニティーの場としても利用が高まる一方で、 ボランティアスタッフの手がたりなくなっており募集を呼びかけている。(小山 優)

 市内の小・中学杖には100人ほどのベトナム人が通学。多くの子どもたちは、 日常会話の日本藷は使いこなせるが、やや専門的になると分らなくなる。 また、家庭の経済的基盤が不安定で学習塾に通わせるなどが困難で、 高校進学率に大きな開きが生じている、という。
 補習教室は10月、城東小の金川香雪教論や姫工大環境人間学部の植木孝也さん、 藤田康平さんらが呼び掛け、毎週土曜日の午後1時半から3時に無料で開いた。 現在、利用する子供たちは約20人。子ども対象の教室は数少なく、 市内の広い範囲から集まり、宿題やテストに備えた勉強に取り組んでいる。
 一方、ボランティアには学生や社会人など26名が登録しているが、 授業や仕事との兼ね合いで慢性的に不足している。日本語の習熟度合いや学力など、 子どもたちの間に差があり、継続してマンツーマン指導に当たるのが理想である。 金川教諭は「日本の子どもなら、程度はあっても親に教えてもらうことができる。 しかし、ベトナム人家庭では日本語が分らない親も多く、困難なのが現状」と指摘し、 「少しでも関心があれば、教室を見学に来てほしい」と協力を呼びかけている。
 問い合せは植木さん。電話:090・9217・8438
 メールアドレス:takay.t@d7.dion.ne.jp
  
(神戸新聞)


さい帯血を学ぶ
東大医科研でベトナム医師「母国の患者救いたい」

   ベトナムで今秋予定される初の「臍帯血」移植に向け、ホーチミン市から来日した医師ら4人が、 東京大学医科学研究所「東京都港区」で研修に励んでいる。 4人は、同国唯一の血液病専門施設であるホ市の輸血血液センターのビン・グエンさん(39)ら医師2人と看護婦、 技術者で4月に来日した。(2001年)
 同センターには骨髄や臍帯血の移植対象となる白血病や先天性貧血の患者が年間500人以上訪れる。 しかし、骨髄移植は、提供者の身体にかかる負担が比較的大きいことから1995年に3例が行われただけ。 新生児のへその緒などに含まれる臍帯血の移植が高まっており、バンク設立準備も進んでいる。
 4人の研修は2カ月間で、臍帯血の採取や保存、移植、医療技術をさらにバンクの運営方法など習得にあたっている。 グエンさんは「日本の先端医療技術を持ち帰り、母国で待っている患者を救いたい。 日本で学ぶことは山ほどあります」。指導する同研究所の高橋恒夫客員教授も、 「先端医療を通じた国際貢献につながる」と応援している。
  
(読売新聞)


チョットひとこと
ー2002年の出発点にたってー

 期待に満ちて2001年が、余りにも慌しく過ぎてしまったと感じたのは私だけだったのでしょうか。 1930年前後の世界大恐慌とは別の形で、世界は経済的危機に陥り、 再び地上のどこかでたえず戦火の狼煙が上がっているような危険な時代が歴史の一こまに加えられました。
 「生きる」ということ、「幸せを求めている」ということ、それはどんな形で表されたのか、 また情報の溢れる世界の人々が、ほんもの価値を知ることによって生きがいを見出すことができたでしようか。 顔と顔を合わせて話さなくても、「メール」を通して十分話し合いができると思っている人も大勢います。 とくに、顔を合わせて話をしたくない人とは通信機器を通して連絡するということも実際に行われています。 そして、自分の目の前にある機械は、操作を誤らなければ自分の思う通りに動いてくれます。 しかし、本来の対話は、たとえ画面から返事が読み取れても、それだけでは成り立たないと思います。 機械を否定するつもりはなく、顔の見える状況で意見交換や白熱した議論によって相手の考えを理解しようと努め、 自分の考えを披露することに目を向ける必要性を認識したいのです。
 私たちは、肉眼で見ることができない部分、例えば脳の働きや心の動きを示したい場合に言葉やジエスチャーを用います。 芸術的表現も、もともと見たことや聴いたことが基本にあると言え、 芸術家の知能や心の働きによって創造的な作品が生みだされます。 人間関係も機会を駆使しながら、機械では処理することができない部分を尊重して築いていこうとすれば、 難しいけれども本当に人間らしく「生きる」ことに繋がると思います。 私たちは自動扉のように人の心を開くことはできませんし、 いくらコインを渡されても何を買ってほしいのか言われなければ、相手の望みを達成することはできません。 やはりその場に相応しい対話が必要です。
 一人一人が、武器を持たず勇気をもって、素手で、素顔で安心して対話のできる社会を組み立てていこうとすれば、 平和な世界が実現するでしょう。このようなことは一笑に付されるかも知れませんが、 これも一つの「夢」なのです。

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