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チョットいいこと 96

美味!アジア・デザート
新たな祖国を愛せるように
行動する現実主義者    
HINH ANH NGOI EM KHONGDOI
マイン書記長就任           
頑張ってね     
さようなら「やちよ先生」
チョットひとこと



美味!アジア・デザート
ベトナム筆頭
 ココナツミルクやマンゴーなどを使った「アジアンデザート」のファンが急増している。 かつての「ナタデココ」が再来しているような勢い。 中でも、食材の宝庫で、こってりからさっぱりまで種類のそろったベトナム発デザートの人気が群をぬいている。
 東京下北沢のベトナムレストラン「サイゴン デップ ラム」は連日女性客でにぎわう。 「スプーンでよくかき混ぜてから食べてください」と店員さんが薦めるのは 「タピオカとココナツミルクチェー」(600円)。 チェーとはぜんざいに似たベトナムの代表的おやつ。 白玉、小豆、赤と緑のタピオカ入り、 あんにはコクのある甘味があり、タピオカのプルンとした食感が面白い。 深いりで少し苦めのベトナムコーヒーにも合う。  客の目当ては食事だけではなく、豊富なデザート。 涼味満点の「マンゴーシャーベット」(500円)コンデンスミルクたっぷりで濃厚な味の「ベトナム風プリン」 (400円)など15種類あり、都内でも有数だ。 「ベトナムはフランス統治の影響で、カフェ文化が根づいている。 本場の料理の中から日本人に合うメニューを選んでいます」と代表の岸幸子さん。
 菓子製造の「タケモトフーズ」(大阪市堺市)は近く、 ベトナムを中心とアジアのデザート専門店を東京のデパ−トに出す予定。 食品メーカーもベトナムコーヒーゼリーなどを相次いで開発、 手作りする人のための料理本も増えでいる。 ベトナムに限らず、東南アジアを旅行で訪れる女性が年々増え、 各国のデザートの情報も浸透している。 アジア料理研究家のユンリー・カクダさんは 「アジアのデザートは卵やバターではなく、果物や豆を使ったものが多く、健康的。そんな点も女性に受けているのでしょう」と話す。
 ナタデココが大ヒットしたのは1993年だが、 今でも店頭に並び、ロングセラ−となっている。新顔も、後に続く可能性は十分ありそうだ。
(読売新聞)


新たな祖国を愛せるように
帰化した難民医師

 出発にはまだ、20分もあるのに、羽田空港に到着するとアナウスが響いていた。 「全日空沖縄行きの方、お急ぎください。」 わけもわからず、小走りに駆けた。カバンに黄色いリボンが付けられ、 荷物検査なども優先してもらい、機内に急く。 沖縄便には乗客が使用したタラップとは別にもう一つのタラップがあり、その前に赤じゅうたんが敷かれている。 「ねえ、台湾のえらい人じゃない。テレビで言ってたよ」 「違うよ。沖縄には行かないでしょう」「小泉さんが乗るのかな」 座席に着いた乗客がささやきあう。 「あ、皇太子さま」4月半は雅子さまのご懐妊の可能性の報道があってすぐ後のことだ。

 那覇市の隣町にある琉球大学病院の敷地はハイビスカスが咲き乱れていた。 南国ムードに心が浮き立つ。だが、そんな気分も救急部に入ったとたん、飛んだ。 緊迫した雰囲気の中日指す取材相手の武永賢さんが表情を和らげた。ベトナム名 ヴー・ダン・コイさん。ベトナム難民出身。産経新聞の読者の支援などで杏林大学医学部を卒業し、医師になった。 現在は琉球大学病院で救急医をしている。
 取材を始める。なんと呼びかけたらいいのでしょうか。 「どちらでも。武永もコイも僕の名前ですから」杏林大学医学部に入学後、帰化した。 支援してくれた人々の反応はさまざまだった。「ベトナム人だから支援していたのに」という人もいれば、 「よかったね」と喜んでくれた人もいた。「どちらも僕のことを思っての言葉」覚悟の上の帰化。 「武永さん」と呼ぶことにしよう。
 武永さんには祖国がない。来日して3年目に世界50カ国の青年が交流するイベントが東京で開かれた。 参加者全員の国旗が揚げられ、その中には赤地に黄色の星のベトナム社会主義共和国の旗もあった。 だが、武永さんの祖国ベトナム共和国(南ベトナム)の黄色地に赤い三本線の国旗はない。 旗だけでなく、国そのものが消滅してしまったのだ。自然と涙があふれた。
 「現在の国旗を認めてしまうと、難民となった事実を否定してしまうことになる」 昨年、元旦を南極の海で迎えた。地質検査に船医として乗り込んでいた。 朝、全員がネクタイ姿で食堂に集まった。食卓は赤飯やだて巻き、伊勢エビのおせち料理が並び、正面に日の丸の旗。 無国籍の氷の世界で、自分が日本人であることを確認した。
   那覇市周辺は各地で交通渋滞が続いた。皇太子さま訪問の準備のためだという。 「渋帯なんていいじゃない。雅子さまが来られないのは残念だけど皇太子さまが見られるなんて、うれしい」 農産物直売のおばさんは言った。楽しそうな顔だった。
 その話を武永さんにした。取材後待ち合わせをして、沖縄料理を食べに出かけたときだ。 「いいですよね。そういう感覚。日本人ですからね」泡盛の杯が重なる。 街全体の雰囲気に、どの街か、どの国か、ぼんやりしてきた。酔ってきたようだった。 だが、まぎれもなく日本人同士の会話をしていた。もう「難民医師」という特別な呼び方は必要ない。 「いま求められているのはバックグランドではなく、医師としての腕なんです」帰りの飛行機で、なぜか行きの飛行機の様子を 思い出した。
 天侯不順で全日空機は揺れに揺れ、出されたコーヒーも飲めなかった。 それでも定刻通りに那覇空港に到着し、後ろの座席の中年夫婦が荷物を下ろしながら言った。 「皇太子さまも気持ちわるかったでしょうね。大丈夫かしら」 「旅慣れてるからね。でも雅子さまが懐妊したばかりだから心配だったんじゃない」 親類の話をしているかのようだ。
 どうしてそんなことを思いだしたのか。武永さんに会って話しを聞いたからかもしれない。 「日本人になってよかったね」武永さんに、いつまでもそういえるよ うな国にするのは、きっと、私たちだ。
(産経新聞 将口 泰浩)


行動する現実主義者
 1994年、ファムさんは17年ぶりにサイゴン(ホーチミン市)に帰り、かつて 住んでいた家を訪ねた。接収時に入居していた北ベトナム軍の将軍は退役後も妻 と暮らしていた。老夫婦はファムさんを貸家を探している米国人と勘違いして、 室内に招いてくれた。家は昔とほとんど同じで、兵士乱入で壊れたガラス窓もそ のままだったという。ところが、庭に出て息をのんだ。自分が植えた10個ほどの ココナツの実が、家を越すほどの大木に育っていた。
 99年正月、米国人の友人と再び旧宅の近くまで行った。今度は水道工事人と間 違った老将軍が、一行にお茶とお菓子をふるまってくれた。心臓発作の後遺症で 老人は病んでいた。さりげなくその家に住んでいたことを語るが将軍は耳が聞こ えない。紙に書いて渡したところ、老人はしばらく絶句したあと、激怒しファム さんたちを追い出そうとした。
  ファムさんの父親や友人たちは家を買い取ってはどうかと提案する。だが、フ ァムさんはその気はない。「あのまま住んでいたら、米国で暮らしてはいなかった。 家と引き換えに自由や平和や成功、将来を手にしたんだよ。もうこだわるのはよ そう」と父親に言っている。そんな経験談を語るファムさんの米国での人生は、 行動する現実主義者を体現するものだった。
 1年間で英語を習得し、奨学金をもらってコロラド大学に進学したのが手始め。 「優秀な学生ではなかった」というが、在学中に学生会の会長選挙に無名候補と して出馬し、巧みな選挙演説で当選する。大統領候補となったハート元上院義員 (民主党)の捕佐官も努めた。 
   名門スタンフォード大学大学院ではビジネスマンのパスポートである経営学修 士(MBA)だけでなく、国際経済開発の博士号も収得し、「ちょっと無理したかも」 と明るく笑う。国防省では国家安全保障に関する機密事項を任された。湾岸 戦争のあめに総額600jの資金調達チームを率いて日本との交渉にも当たった。 スタンフォード大学時代の恩師、トンプソン教授はファムさんを「経営大学院の お手本」とたたえる。
 ベトナム戦争(62〜75年)ではベトナム兵士130万人と民間 人200万人が志望した=ベトナム政府などの発表。戦後は 南部社会主義者に反発した住民の国外脱出が相次ぎ、小さ な船舶で海上をさまよう「ボートピープル」の悲劇をも たらした。米国に移住したベトナム200万人の多くは、英 語を話せないままベトナム人社会で暮らしている。しかし ファムさんのように高等教育を受け、勤勉さと才覚でビジネスやハイテク産業、 医薬界、教育などの分野で活動する人も増えてきた。
 南カリフォルニア・オレンジ郡にある米国最大のベトナム人居住地区、リトル サイゴンでは90年、ベトナム系米国人で初の市議会議員も誕生。 ファムさんは、そうしたベトナム系米国人社会のけん引役を担っている。
(毎日新聞)


HINHAHN NGOI EM KHONGDOI
待ちこがれて君姿


東小学校6年 堀川 綾花

 5年生の時に転校してきたベトナム人の女の子。その人がいつも明るいトロンちゃんです。 私がトロンちやんと初めて会ったのは、私が友達田中さんと、 運動場で鉄棒の練習をしていた時のことです。
 「ナニシトン?」高いきれいな声。でも慣れない言葉だし、 開いたことのない声でふり返ってみると、トロンちゃんがいました。 私は「さか上がりと、プロペラの練習しとんや」 と言ったら、「サカアガリ、ワタシモデキヒンノヤ。オシエテ…」 トロンちゃんh、一生懸命に話してくれました。 初めて聞いた声で最初は、意味がわかりにくい所もありましたが、 よく聞くとわかりました。もうこんなに日本語がはなせるなんて、すごいなあと思いました。 私がもし外国へ行っても、トロンちゃんみたいに話せないと思います。 それに誰にでも積極的に話しかけることのできるトロンちゃんはすごくえらいなあと思いました。 トロンちゃんは、さか上がりをしてみました。
 「ドン!!」
 足が地面についた音です。トロンちやんは失敗してしまいました。 でも、初めてのわりに、腰がとても上へ上がっていたのです。
 「デキンカッタ。」トロンちゃんは悔しそう顔をしている反面、 もう一度「やろう!」と、はっきりいったのを覚えています。 鉄棒の練習をあまりしない冬になりました。廊下で、時々トロンちゃんと会いました。 その時は、「こんにちは」とか「また会ったな」とか、ちょっと話すていどでしたが、 6年生になったら同じ組になれたらいいな、と思うようになりました。 でも6年生の4月、クラス割りの紙には、私は「2組」、トロンちゃんは「3組」と書いてありました。
 1学期の中ごろ、私と田中さんは、また鉄棒の練習をしました。 私はさか上がりができるようになったので、もう1回、練習と思ってやっていた所に、 トロンちゃんがやってきて「ワタシ、スコシデキルヨウニナツタデ」と声をかけてくれました。 初めて会った時より日本語がとても上手になっていま した。1年前に初めて日本に来たのに、日本語、しかも関西弁に、だいぶ慣れて いるのにはおどろきました。『クルンツ』トロンちやんは一発で、さか上がりができました。
 「トロンちやんすごいなぁ。めっちや上手やで。いつのまに練習したん」 トロンちゃんは「アリガトウ」といいながら、てれくさそうな、うれしそうな顔 をしていました。私もうれしかったし、一番うれしかったのは、トロンちゃんだと 思います。ちがう組でも休み時間など、いい交流が深められるんだと改めて思いました。
 
   運動会の季節、トロンちゃんと私は、いっしょに走ることのなりました。 こんどは敵どうし。「パーン」私はスタートでおくれ、その反対に、 トロンちゃんはかっこよく、マラソン選手のような走りでトトンちゃんは2番、 わたしは5番で。しかし、そんなトロンちゃんがとても悲しそうな顔をしている時期がありました。 一人でいることが多くなりました。まわりの友だちとうまくいっていないようです。 私は、「トロンちゃん、友だちができないのかなぁ?」と思ったり 「トロンちゃん、日本にきてちょっとで、あんなに元気よくしていて、 だれよりも、元気・明るい・がんばるの三拍子がそろってるほどのえらい人やのに…」と すっごく思いました。
 トロンちゃんに「ビットロン」という人がでてきたそうです。 「何がビットロンよ!」と私は心のなかで怒りがばくはつしていました。 でも私はトロンちゃんに何もしてあげることができなくて悔しかったのです。 トロンちゃんのクラスでも話し合ったそうです。トロンちゃんの顔に笑顔がもどってきた時には 「ほっ。」としました。
 東小学校には、外国から来たお友たちが大ぜいいます。 そして、みんな元気に明るくがんばっています。私たちの2組にもチャンさんがいます。 その人は、とてもきれいな顔だちです。ベトナムの歌 「HINH ANH NGOI EM KHONGDOI」 (待ちこがれて君姿)をトロンちゃんとチャイさんが踊っていました。 「アオザイ」という服を着ておけしょうもしていました。 みんなとてもきれいでした。 曲は日本の曲に少し似ている気がしました。 「やっぱり、日本とベトナムは、アジアの仲間なんだなぁ」と思いました。 外国から来たお友だちの中にはまだ、 言葉や動作がぎこちない人もいます。
 しかし、そういう人たちも、つらい事をがまんしたりのりこえたりして、 だれよりもすばらしい心をもっていると思います。 わたしも、トロンちゃんやチャイさんに負けずに、いっぱい勉強して、 たくましく成長していきたいと思います。 そしてこれからもトロンちゃんやチャイさんと、 大ぜいの外国の人たちと、友情を深めていきたいと思います。
(姫路教育委員会『人権作品集 生きる』2000年度版)


マイン書記長就任
「経済改革積極的に」
ベトナム共和党書記長に就任
ノン・ドク・マイン氏(60)

【ハノイ22日=奥村健一】
  ハノイで開かれていた第9回ベトナム共産党大会は22日、 ノン・ドク・マイン国会義長(60)の新書記長選出を報告し、 今後5年間の党の活動方針を示す政治報告を採択して閉会した。 政治報告は「2020年までに工業国の仲間入りをする」ことを目指し、 今後5年間、平均7,5%の経済成長率を達成することなどなどを目標として打ち出した。 レ・カ・フュー前書記長(69)時代より、経済改革に重点を置いている。
 マイン新書記長は就任演説で、「多くの困難が待ちうけているが、 改革の成果を生み出すため、積極的に取り組む」と強調した。 ただ、党内保守派は急速な改革に抵抗しており、新書記長手腕が試される。
 一方、党は幹部の汚職など国民の信頼を失いつつあるが、 新書記長は「腐絶と官僚主義への対応は、適正になされてこなかった」と指摘し、腐敗撲滅を誓った。
 党大会はまた、政治局員を19人から15人に縮小するなどの機構改革を行った。 書記長を退任したフュー氏のほか、唯一の女性局員だったグエン・ティ・スアン・ミー党中央監査委員長ら7人が外れた。 ただし、前回のように40歳代の若手抜きなど新鮮な人事はなかった。 チャン・ドク・ルオン大統領とファン・バン・カイ首相はともに政治局員として留任した。
 また、ド・ムオイ元書記長ら党の長老3入が占めていた中央委顧問を廃止、 日常の政務を担当する書記局を復活させ、前回大会(96年)前の体制に戻した。

一緒にできる男
 「ホー・チ・ミン・元大統領の隠し子、とのうわさは本当か」。党大会直後の記者会見。 米人記者の質問に会場がざわめく。「先月両親の墓を訪ねた」と答えることで、やんわり否定し、 「すべてのベトナム人にとってホー・チ・ミンは父親だ」と加えた。
 母親が元大統領の知遇を得ていたとの情報がうわさの出所らしいが、 異例の早さの党内出世がうわさをもっともらしくした。1940年9月、北部バッカン省生まれ。 小数民族タイ族出身。63年に共産党に入党。旧ソ連に留学。党少数民族委員長などを経て、 91年に当時最年少で政治局入り。92年には国会議長に就任した。 98年に中央銀行総裁人事の政府案を国会が拒否するなど、国会の地位向上に貫献した。
 外国訪問も多い。米政府関係者は「一緒に仕事ができる男」と語った。
(読売新聞)


頑張ってね
   ベトナム青少年キャンプ中は皆の間で東洋大学付属姫路高校のグェン・トラン・フック・アン君の話題がよく出ました。 その時、私はアン君のことを知りませんでした。 なぜというなら、ベトナムでは野球がメジャーでないので野球がどんなスポーツなのか、あまり知りませんでした。 だから、アン君がどんな立派なのかわからなかったのです。 そして知り合いの日本人の友達から話を聞いて夏の高校野球で甲子園 に出られることはどんなに大変なことなのか分りました。
 私たちは第2試合にしか甲子園に応援に行けませんでしたが、 一緒に行った子は間違って相手の応援団の席に座りましたのでアン君を応援できませんでした。 そういうことは彼女にとってくやしかったのですが、その日の試合はアンが出場して、 3人しか投げなかったけれどアン君がマウンドで立った姿はとっても印象に残っています。 残念ながら次の試合で負けたけど、ベトナム人の私たちに勇気と希望を与えてくれました。 来年は一回り大きく成長した姿を甲子園で見せてほしいです。
 トラン・テ・ヴィン

 Ngoヴェットニュースに今回はグェン・トラン・フック・アン投手のことで夏 のキャンプの一番大切な時に東洋大付属姫路高校の甲子園出場の決定があって、 アン君についてのマスコミの取材がたくさんありましたが、 彼らはアン君のことに対して、在日ベトナム人の無反応さに驚いたようです。 私たちにとってこのことはビッグニュースではありません。 皆が口を揃えてすごいなで終わってしまいました。理由は非常に簡単です。 ベトナムには野球がないのでファンがいないし、 野球のことも甲子園の意味も分かりません。 若い在日ベトナム人の中には野球が好きな方もいますが、ほとんどの人は興味がありません。 しかし、NGOベトナム in KOBEの組織は個人と違って 回りの大騒ぎにたいしてちゃんと対応しなければと思うようになりました。 それで8月16日、2回戦を見に行きました。 甲子園の偉大さや雰囲気などにびっくりした。 ここに出られることがどんなに大変で光栄なことなのかを実感しました。 他のベトナム人にこの実感、高校野球の意味を伝える義務があるような気がします。
これはNGOベトナムin KOBEのテイ・タン・ガさんの言葉です。
 これを見て私たちの意見は日本人側のマスコミの対応です。 NHKを初めすべてのマスコミが「日本生まれベトナム国籍のアン君」とすらりとながしていました。 日本では血統制での国籍獲得になっています。 両親はベトナムを捨てて脱出してきたのにベトナム国籍があると考えられません。 当事務局は日本高野連にアン君に国籍はないのではと質問をしました。 これに対して高野連の事務局長、田名部和裕様の名前で丁寧な返事をいただきました。 概要として「我が国の高等学校、または外国人学校に在籍する生徒であれば誰でも大会に参加することができます。 なお、アン君の国籍ですが、無国籍ではなく、日本生まれのベトナム国籍と承知しております」。
 高野連のみならず日本国民は何の疑いもなく在日ベトナム人の子供はベトナム国籍であると考えていることに 私たちは「これはおかしい」と疑問を持ってほしいのです。 国籍のない在日ベトナム人大学生がボランティアとして発展途上国に出かけたいと思った場合、 日本政府は再入国ヴィザを発行しますが、受け入れる国ではパスポート以外ではヴィザが 出ないということなどは在日ベトナム人の子どもたちの持つ問題のほんの一部にすぎません。 在日ベトナム人たちが野球について、また甲子園についての意味を伝えたいと努力しているなら、 私たちもこの現実を問題意識としてもち続けることを希望しています。
(編集部)


さようなら『やちよ先生』
 
 何時でも元気にだれでも、特にベトナム人の子供たちに大きな明るい声をかけていた 「ばあー」はもう見えない。何という突然の穴であろう。 千吉良先生ご夫婦の「あかつきの村」に対する献身は「仕える心、仕える行動」であった。
 彼女は「あかつきの村」の数々の事件にいち早く駆けつけて必要なことに対して適応した協力をおしまなかった。 病人あり、火事あり、死亡者、車の事故、家の破壊などの破壊など枚挙にいとまがないことは皆様の知るところである。 特にここ数年前石川師が病気になられた時、入院、看病、は言うに及ばず  「あかつきに」帯在した他の司祭たち世話を我が子以上に心をかけて行動なさっておられた。
 また、数年前までは週に何回となく遠方に(東京、横浜方面) 出かける人たちのお弁当を朝早くから作ってあげることを喜びとしておられたことを知る人は少ないであろう。
 「あかつきの村」に関してはこの20年間、よろこびあり、楽しみあり、いろいろの思い出があるが、 何といっても忘れられないとは、一番必要な時に、なすべきことをすぺて静かに処理なさったことであろう。
 中でも第一にあげられることは「くづの会」のボランティアの方々の奉仕である。 これなしに現在の「あかつきの村」があったであろうか。 「くづの会」の名前も人知れず美しく咲く「カタクリ」の花がお好きで「くづ」にかけて付けられたものであると聞いた。 「くづの会」のボランティアの方たちは地元の方は勿論のこと、 横浜、東京、埼玉と遠方から泊りがけで来られ、宗教、人種の区別なく喜んで奉仕なさった方々である。 このようなことは知る人ぞ知ることで、現在、その精神が残念ながら失われつつある。(これも時代の波かも知れない)
 しかし、死の床にあっても「石川神父様をお観いしますよ」と心ある人たちに願っていたそうである。 こんな早い死を誰が想像できたであろうか。
 私の大好きな『あこがれ』(さだまさし)の歌をもってご冥福をお祈りし、 これからも天国で私たちを見守って下さることを願ってやまない。
  
あこがれていたの ずっと前から
けれど今日まで 少しも気づかなかった
貴方がさりゆき 頬に涙して 気がつくなんて おばかさんね 私
もう時は戻らず もう二度と 会えない
だから せめて せめて 真心をこめて
さよなら さよなら いつまでも 涙のままで

あこがれて行くの ずっとこれからも 心の鐘を一人 打ちならしながら
今二人の時は すべて 思い出にかわる
だから せめでせめて 真心をこめて
さよなら さよなら いつまでも 涙のままで
田中 悦子f.m.m.


チョットひとこと

 日本では毎年のことながら、穏やか秋を迎える前に猛暑、台風あり、 豪雨ありで自然界は激しく揺れ動きながら、 少しずつ色彩を変えていきます。 私たちの目の届く範囲での変化以外にも、中空の彼方、 地中の奥深く絶えず動きを繰り返ししている存在が科学的に確かめられています。 木の葉が揺れているのを見て風の正体を感知したり、 地震を感じること地殻のしくみにも光りをあてて研究しても、 昔からの季節に関す知識として伝えられている節分とか二百十日などには、 なるほどと思われる意味が含まれていることを改めて意識する機会が私たちの回りに沢山あります。 生活の知恵というものは、大したものだと感心しています。
 さて、9月の初め私はマザー・テレサを主題とした写真展にいってきました。 気侯も環境も違い、そして社会の習慣も独特のインドでの「仕える生活」の一端を見ることができました。 「他者のために生きぬかれた」献身の尊さが写真から浮かび上がってきました。 人間本来の愛情が失われていくのではないかと心配される現代に救いの光が差し込んできたような感がありました。 とくに利害関係で動きがちなこの社会では、マザー・テレサのことははるか遠くの「お話」のように 受け止められる傾向もあるようですが、「真実」はいつか理解されると思います。
 日本でもニュースの表面に出てこない多くの良いことが言われ、行われていますが、 とかく困ったった問題の方が数多く伝えられています。 とくに教育に関する事は大人として仕事を果たしている私たちにどんな責任があるのか、 もう一度じっくり考え直すべきではないかと思っています。 いい加減な考え方や法律の規制からとのようにして逃れるかひたすら抜け道を探すとか、 自分の「利」だけを求めていくような生き方が無言のうちに次世代に伝わっていく現実を見ると 何とかしなければという気持ちになります。回りの人たちを少しでも喜ばせたい、 幸せになって欲しいと思って行動を起こす自由な心の動きを大事にしたいものです。 「いのちの名に値する」生き方ができれば、 きっと教育のみならず多くの問題が正しい方向に解決の一歩を踏み出すことができるでしょう。

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