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チョットいいこと 95

トレンド最前線
ドイモイに喝
近代化「収容」のかたち
トゥイちゃんがきた
アジアの料理づくり6年生が実習楽しむ
異国での新生活スタート
キエン・ファムさん
私の見たヴェトナム
チョットひとこと



トレンド最前線
ベトナム版テレクラ 都会人の心理つき人気

 ベトナム・ホーチミン市中心部(三区)の手狭な部屋。二人掛けのテーブル が八つ。各卓には電話一台。二十代、三十代の男、女が一人、また一人とやっ てきては、電話で話す。相手は見知らぬ人。私的な出来事や悩みを打ち明けあ う。
 「チャット・ホン・カフェ」が店名。先月下旬に誕生した。言わばベトナム 版テレクラ。これが大人気だ。経営者は元新聞記者のダン・ホン・ツェンさん。 夫も経営を手伝う。十五年間の記者時代、家庭の問題を主に担当した。退職後、 失恋したばかりの十七歳の女性から相談を受けた時、「悲しみを分かち合ってく れる人と話がしたい」という訴えが心に残った。そこで「カフェ」を立ち上げ ることにしたという。ベトナム初の試みだった。
 仕組みはこうだ。主に電話を受ける側の登録者にカフェ来店者からの電話を 取り次ぐ。登録料は五万ドン(約四百円)。あらかじめ、年齢、性別は勿論、電 話で話し合いたいテーマも聞いておく。登録者の電話番号は店が管理。来店者 の求めに応じ、話し相手となりそうな登録者に電話をつなぐ。一分当たり六百 五十ドン(約五円)の通話料金は来店者が払う。毎日午前八時から午後十時ご ろまで営業している。
 カフェの存在は口コミで広まり、利用者は引きも切らない。「友人のほとんど は家庭を持ち、話が合わなくなった。仕事のストレ スから解放されたいので、職場以外の話し相手が欲 しい」初めて利用した繊維会社の事務員ド・ミン・フンさん(31)はこう話す。
 ツェンさんは「親は世代ギャップで相談相手にな らない。農村出身者の多くは都市で友人を作れない。 だれもが、自分を理解してくれる相手を求めている」と人気の理由を分析する。 登録者は既に千人。ツェンさんは成功の手ごたえに、同市二十二区の各区の「カ フェ」を開く準備に入っている。ほかにもこの新分野に参入する動きも出てきた。
(ホーチミン市で 奥村 健一 読売新聞)


ドイモイ遅れに喝!
 

 ベトナムの市場経済化を進めるドイモイ(刷新)政策の“生みの親”の一人 である「南ベトナム」出身の経済学者グエン・スアン・オアインさん(79)が、19 日に開幕する5年に一度の共産党大会に合わせ、現指導部の硬直した意思決定 などを批判した単行本を刊行し、改革路線を加速させた「ドイモイ増強版」に 着手するよう提唱している。(ホーチミン市で 奥村健一 写真も)   
 
 1982年オアインさんが提唱し対外開放・市場経済化を目指す路線は、 当時のボー・バン・キエト首相らの経済顧問として、 厳格な統制経済からドイモイ路線への転換という「一つの『革命』」(オアインさん)を 理論面で支えた。
 そのドイモイの形態ーベトナムの新しい経済政策の中で、 オアインさんは「ドイモイは多大の成果を上げ、ベトナムを再生させたが、 さらなる経済改革に取り組まねば成長は続かない」と警告。特に、銀行制度の改革による 民間の力の育成と情報社会に適応した教育改革に力点を置き、社会主義と 効率的な社会の実現に向けた「ドイモイ増強版」の着手が急務と論じた。
 さらに、「ほとんどの党幹部は自身の利益のために意思決定権を独占しようと しており、自立した思考と独創的なアイデアで党全体の利益を図る幹部はごく 少数派」と現体制を手厳しく批判、党への忠誠度を重視した現在の人材登用策 を改革するように訴えている。
 オアインさんがこの本を執筆するきっかけとなったのは、 キエト氏が一線を退いた98年、同氏からドイモイの歴史、成果をまとめるよう勧められたこと。 最初は気乗りしなかったが、年々強まる現状への危機感から、 「国内外がベトナム政治に注目する」くオアインさん) 5年に一度の党大会にあわせて発表しようと決意、2月下旬に完成させた。
 オアインさんは京大経済学部を49年に卒業後、 米ハーバード大で経済学博士号を取得。国際通貨基金の上級エコノミストを経て63年に 南ベトナム(当時)に戻り、中央銀行総裁や首相代理などを歴任。 ベトナム戦争後しばらくは軟禁状態に置かれたが、その後国会議員に当選して政治復活。 現在ホーチミン市内で経営コンサルタント業を営んでいる。 単行本の英語版は今月末に出版される予定。
 
(読売新聞)


近代的な「収容」のかたち
大村入国管理センター 小熊英二さんと行く 
  長崎空港(長崎県大村市)から車で5分。「大村入国管理センター」に着く。 ピカピカの、オフィスビルのような形ばかりで門も開放されている。 センターの名前も小さく目立たない。悪名高かった、あの「大村収容所」がこうなったのか。 「病院のようで言われなければ『収容所』だとは気付かないかもしれないですね」と小熊さん。
  大村収容所」の歴史は古い。大村湾に近い海軍航空廠跡に、 強制退去処分を受けた外国人の収容施設が作られたのが1950年。 そのほとんどが朝鮮・韓国人だった。 戦前から日本に住む在日朝鮮・韓国人が刑罰違反で強制送還されたことや、 所内の待遇などへの批判は多くの在日文学者らが記すところだ。
 日韓両国で地位協定が見直され、90年ごろまでに朝鮮・韓国人はほとんどいなくなった。 入れ替わるように、ベトナムからの難民が漂着し始め、受け入れ施設が併設された。 ついで中国人の密航が激増。閉鎖も検討された「大村」は満杯になり、 96年、定員を3倍の800人に増やした「入国管理センター」が今の場所にできた。
 玄関を入ると吹き抜けのロビーが広がる。外壁にはミラーガラスが多用され開放的な印象だ。 実際には外から見える「箱」の中にもうひとつの「箱」がある構造で外からは何も見えない。 2階正面の扉奥に被収容者がいるが「保安上の理由でこの先は見せられない」。 収容されているのは集団密入国の中国人が大半だ。 茨城県牛久市と大阪茨木市の入国管理センターが40ヵ国以上の不法滞在者を収容するのと対照をなす。 不景気で漸減とはいえ一昨年で延べ1,400人が大村に収容された。 年に数回、中国政府の送還機を待つ。「この建物の中に、中国があるようなものです」。 佐藤雅和・統活入国警備官はそう表現した。「警備官は国家公務員で、数年で大村から転勤していく。 彼らのなかで、大村という地域、日本国家、中国という外国の間で、自分たちはどういう位置にあるんだろう」と小熊さん。
 収容所は午前7時起床、10時消灯。10人前後が畳敷きの大部屋にいる。 洗面台とトイレ、テーブルや私物を置く棚がある。日課はない。 各部屋にテレビがあるが、見られるのは全員同じ日本の番組。月に一度、中国の番組を流す。 建物のほぼ真ん中に「屋外」運動場がある。面会室も設けられているが、 面会は年に数件。家族や支援者が日に40〜50人は訪れるという牛久、 大阪とはこの点でも異なる。
 
 「食事は?行事なんかやるんですか」。小熊さんが異文化の折り合いを聞く。 食事も祭日も基本は日本流で、接し方は「淡々と」だそう。 「生野菜を食べられない人が多いので過熱して出すような配慮はしています」と佐藤さん。 入国警備官の多くは向かいの公務員宿舎に住んでいるが。 何かあれば宿舎のベルが鳴るが、昔の老朽化した建物とは違い、このビルでは脱走はないという。
 かつては原野に、収容所がぽつんとあった。今は隣が郵便局だ。 空港から至便だけに県消防学校やコンビニもできた。 こういう施設に地元の反発は起きるもの。 でもここでは受け入れられていると思います」。 佐藤さんの言葉を聞いた小熊さんが、「収容所が見えない形でですか」と複雑な表情をした。

「異物」排除の機能は変わらず

 空港が近い。送還に便利という理由だけど、 空港にしろ収容所にしろ普通の共同体に受け入れがたいものが固まって置かれる場所だといえる。 自衛隊の基地も近くにあった。街のひとは「自衛隊機が落ちるのと収容所の脱走が心配」と話していた。
 そういう受け入れがたい施設で、同時に国家の出入り口にあたるものが国有地として大村一角に集中している。 江戸時代から外への出入り口だった長崎だが、大村という地域の中に収容所のかたちで国家があり、その中に中国がある。 ところが最初は共同体から離れたところに作ったはずが、 大村が長崎のベッドタウンになって、人里のほうがどんどん接近してきている。 となると、徹底的に収容者を見せない今のかたちになるしかない。 病院のような「清潔」な外観や「収容所」を「管理センター」と言い換えることに象徴されるような、 近代的な「隔離」のかたちです。
 かつて朝鮮系の人々の人権問題で注目された時のような大村への関心は今は少ない。 国家の「異物」を俳除するという機能は何も変わっていないのに、 排除のかたちが「清潔」で「近代的」になったら、 こうも外部の関心の度合いが低くなるのかとも思いました。(文・佐久野文子 写真・近藤悦朗)
(読売新聞)
おぐま・えいじ
1962年東京生まれ。慶応大学総合政策学部専任講師(社会学・歴史学)。
岩波書店勤務を経て現職。『単一民族の起源』(新潮社)でサントリー学芸賞。
著者に『<日本人>の境界』(同)


トゥイちゃんが来た
東小学校4年 大西 央夏

 9月の半ば。私のクラスである4年1組にホ・ホアン・カム・トゥイこと、 トゥイちゃんがやってきました。前日、先生が、急に「明日から、ベトナムのお友達が来ますよ。」 と言ってから黒板に、ベトナム語の歌の歌詞を書きました。 「キアコンブンバン、キアコンブンバン。」教室に、その歌がひびきわたりまし た。前日の宿題は、ベトナム語を覚えるということでした。
 私は何回も部屋で言いました。『チョイユイチュンニャ』と、 いうのは日本語で「いっしょに遊ぼう」という意味です。私は何回も何回も言って覚えました。 「チョイユイチュンニャー」私は、早くトゥイちゃんにこれを言いたくて、 しょうがありませんでした。トゥイちゃんが席につくと、私は休み時間をまちました。
 「キーンコーンカーンコーン」私は席を立って、トゥイちゃんに、「チョイユイ チュンニャー。」と言いました。するとトゥイちゃんは、うなずいてくれました。 私はすごく嬉しかったです。
 ある日、トゥイちゃんが、4階の国際理解室から帰ったとき、 先生が「おかえり」と「ただいま」の練習をしました。 何回か練習すると、トゥイちゃんは、ごちゃごちゃになったらしく、 ドアから入ってきたとき、「おかえり」と言って入ってきました。 みんなは大笑いで、トゥイちゃんもいっしょに笑っていました。
 
 ある日、体育で大なわをしました。2組と何回とべるか競争です。 次はトゥイちゃんの番です。私は「飛べるかなぁ、 ベトナムって大なわないらしいし…」と思いました。 1日日は最初、一人でとぶように練習しました。 何回しても、とべないので、あいちゃんが後ろでおしてあげました。 すると、な、なんととべたのです。みんな大喜びで、「おめでとう、おめでとう。」と言うと、 トゥイちゃんは「ありがとう」と言っていました。
 トゥイちゃんの、大なわの練習がきっかけで、ふだん遊ばない子とも遊ぶようになりました。 こうなったのは全部トゥイちゃんのおかげです。 私はトゥイちゃんに感謝しています。 こんなふうに、毎日がはじまっていって、トゥイちゃんもすこしずつ日本語を覚えていっています。
 私たちはトゥイちゃんのおかげで「言葉は通じなくても、心があれば通じる」ということがわかりました。 みんなとトゥイちゃんは、これからも友達です。 トゥイちゃん、早く、私たちといっぱいしゃべれるようになってね!!
 
(姫路教育委員会『人権に生きる』2000年度版)


アジアの料理づくり6年生が実習楽しむ
相生の那波小

 相生市那波小学校(岸本雅彦校長)で30日、アジア料理づくり実習があった。 6年生25人が参加、各国の人たちに調理法を教えてもらいながら、 盛りつけや配ぜんまでして味わい、異国の文化を体験した。 同校は2000年度から3年間、文部科学省の「食に関する教育実践事業」のモデル地区に指定されている市の中心校。 「豊かな心と健康な体をつくる食生活」を研究テーマにしている。
 児童らは、学年ごとに学習目標を決め、6年生は世界の食事づくりを勉強してきた。 これまでは、日本に滞在する外国人に話を聞いたり料理店に出かけたりして資料づくりをし、 今回はその仕上げとして実習に挑戦した。
 この日のメニューは、韓国のチヂミやベトナムのフォー・ボー、 インドのドライカレーとチャパティなど5ヵ国の料理。 それぞれ、ベトナムのウィン・バン・トワンさん夫妻(姫路市)や中国の徐秀香さん(相生市)らの指導を受け、 前日にスーパーで買いそろえた材料で調理した。 子供たちは、約2時間がかりでつくったあと、バイキング式で試食したが、 “本場の味”に、「おいしい」を連発して大喜び。 調理中、大きな牛骨を煮てだしを取る方法などには「新しい発見をした」などと、感動していた。
 同市教委は近く、この日のメニューのいくつかを、市内7小学校の給食として出すという。
(神戸新聞)


異国での新生活スタート

 インドシナ難民の定住を日本政府が1978年に認めて以来、 昨年までに定住許可された難民は一万六百六十六人に達する。
 現在、その唯一の受け入れ先になっているのが、品川に区八潮にある「国際救援センター」だ。 毎年百数十人が入居を希望し、日本語と生活習慣を学ぶ。 半年間の入所機関終了時には就職のあっせんも行っている。
 今月3日、同センターに新に71人の難民が入所した。カンボジア人女性のミンさん(37)もその一人。 ベトナム難民キャンプから四人の子供と一緒に来日した。 日本にいる妹が肉親呼び寄せる制度を利用したため、キャンプで結婚したベトナム人の夫はホーチミン市に残ったままだ。 「(日本は)親切な人ばかり」と笑うミンさんだが、 「子供を一人で育てるのは大変。夫と早く一緒に暮らしたい」と訴える。
   ベトナムの元軍人のディンさん(63)は、「ボート・ピープル」として故郷を脱出 していた息子の招きで妻と四人の子供を連れて来日した。高齢にもかかわらず 異国での生活を決意したのは、子供の学校と仕事のためという。日本の感想を尋ねると、 「何でもいいね」と笑う一方、寂しげな表情も見せた。
 難民たちの一番の悩みは言葉の壁だ。90年にセンターに入所していたベトナム人男性のトウさん(34)は、 「三食が出るセンターでの生活は難民キャンプに比べて天国のようだったが、 日本語の勉強が難しかった。」と振り返る。 インドシナ難民は就労ヴィザが不要なのに、 職を探しても、事業所などで他の外国人労働者と同じ扱いを受けることもあったという。
 地域の閉鎖性や生活習慣の違いで孤立する難民は少なくない。 それでも、今月センターに入所した青年は「故国はいきているけど、希望がない」と打ち明ける。 日本での新生活をスタートさせた彼らをどう支えていくのか。 それは、受け入れる側の日本人の意識にもかかっている。(写真と文 林 陽一) 
(読売新聞)


キエン・ファムさん
ベトナム系米国移民のけん引役
   米テキサス州ヒューストンでソフト会社を経営するキエン・ファムさん (42)は19歳のとき、ボートピープルとして米国に渡ったベトナム系移民の一人だ。 英語も話せなかった青年は苦学の未、大学院卒業後、米国エリートの 登竜門であるホワイトハウス・フェロー(特別研究員)に選ばれ、ビジネス界でも大成功を収めた。 現在、非営利団体「ベトナム・フォーラム・ファウンデーション」を創立し、 祖国・ベトナムに義足を贈る支援活動を続けている。難民生活のどん底からはい上がった人生、そして夢を語ってもらった。
 【ヒューストン・佐藤 由紀】

● 生残る意志

−サイゴン陥落25周年にあたる4月30日は、ベトナムにいたのですね。
◆私が主宰する「ベトナム・フォーラム・ファンデーション」は毎年100人のベトナム人に大学進学の奨学金を贈っている。4月29日、 ベトナム北部のラオス国境に近いビンの教員大学で奨学生への証書授与式に出席した。 ビンは(北ベトナム軍の捕給路だった)ホーチミンルートの起点にあり、 30日にはその道を友人と一緒に歩いた。かつての戦時補給線は両わきに家が建つ幹線道路として栄えていた。 高い丘に上がると深い森で、村や人間の姿は見えず、米軍機が空爆目標を見つけられなかった理由がわかった。
 政府25周年式典には出なかったが、お祝いと裏腹に、新聞やテレビが経済や汚職に焦点を当てていたのが印象的だった。
足をもらう予定の少年とファムさん
99年7月、メコンデルタの孤児院前
 
−1977年にサイゴン(現ホーチミン市)を脱出した時のことを教えてください。
◆父は元軍人のビジネスマンで、サイゴンでは室内にプールのある3階建ての家に住んでいた。 私は長男で、姉1人、妹4人、弟1人と両親の9人家族。 祖父母や叔父叔母たちも近くに住んでいた。戦場は主にベトナム北部で、 サイゴンでは学校にも通えたし、比較的平穏な暮らしだった。
 75年3月末、北ベトナムとの国境に近いダナンが陥落した際、父だ けが南ベトナムが危ないと警告していたが、親族は「米国がベトナムを 見捨てるはずがない」と楽観的だった。北ベトナム軍がサイゴンを占領した3週間後、 突然、父がスパイ容疑で逮捕され、家を追い出された。自宅は地区を管轄する将軍の住まいとして接収された。
 半年後に父が釈放され、国外へ脱出計画を立てた。 一族の大半は農民・漁民を装って、メコンデルタの漁村で暮らし、 父はサイゴンで漁船を調達した。カーテンレールに隠しでいた金の延べ棒を資金にした。 一族36人を乗せた船がシンガポールに向かったのは準備から約1年後。
 船は強風のためマレーシア沖で沈没した。半数は子ども、 86歳の老人から船中で生まれた赤ん坊もいたが、全員がマレーシアまで泳ぎ着いた。 船は「海上の地獄」だったが、生き延びられるという教訓を学んだ。
 だが、マレーシアで入国を拒否された。難民救助船に移され、約3ヶ月間、 南シナ海を漂流して、米コロラド州の民間団体が私たち36人を受け入れてくれることが決まって クアラルンプールからシアトル行きの飛行機に乗り、やっと生きていける確信が持てた。
  
 
● まずビジネス

ー米国では英語の勉強から始まったのですね。
◆家族9人がアパートで暮らし、私は乳母車工場で働いた。夜間は外国人向けの英語講座に通って勉強した。 ベトナム語の辞書もなく、わからないことばかりだった。 父は40歳と若かったのだが、言葉に不自由し、新しい環境に挑戦する気持ちを失っていた。
 ボランティアの米国人女性が毎日、車で送り迎えしてくれた。 べトナムでも人助けはするが、知っているひとにしか手を貸さない。 ところが米国人は見ず知らずのベトナム36人を歓迎してくれた。 私が今チャリティー活動をしているのは、この時の経験があるからだと思う。 米国に裏切られたと思っていたが。 だがある日、コロラドで目覚めた朝、秋空に鳥がさえずり、 まどの外に広がるのどかな畑や花壇を見ていて、ふと思った。 ここで育った青年たちがベトナムまで行って、なぜ命を落とさないといけないのか。 それを疑問に思う米国人の気持ちが初めてわかった。

−ベトナム人で初めて名門スタンフォード大学経営学大学院に入学し、 その後も輝かしい経歴を重ねていますが、何を目標にしていたのですか。
◆ まず、ビジネスでお金をもうけようと思った。お金は悪いこともするが、いいこともする。 私は自分のことを「掛け算機械」と考えている。両親や米国が私に投資してくれた分を、 何倍かに増やして返すのが現世での使命だと。ビジネスで貸金を蓄え、親類、一般市民の寄付をもらって、 ここ3年はベトナムに学校を建て、奨学金を出すといった活動に専念している。
 ベトナム南部のメコンデルタに義足工場を造って、 一足50ドルで受注生産することも始めた。 地雷で足を失った人が、目の前で義足をつけ歩き始めるのを見るのは感動的だ。 盲人のための録音テープ図書館もはじめた。朗読するのは洪水の災害で 両足をなくし、私たちの団体から義足を贈られた女性アナウンサーだ。
(毎日新聞)


私の観たヴェトナム
 昭和40年頃、ダナン上空を通過する度に日没。とともに地上より立ちのぼる煙を、 前日の戦果とおもったのは私だけではないと思います。
 今回、南北のないヴェトナムを地上より見ることは、私にとって特別な意がありました。
 戦争後新しいヴェトナムが、ドイモイ政策のもと、どのようになっているのか。 各家庭にはテレビのアンテナがあるではありませんか。日本では30年後半ですよね。 南越といわれた優秀なヴェトナム人。
 戦争を過去のものとし、東南アジア特有の生活、ヴァイタリティで前進しているヴェトナム。
 オカユにみられる共同社会の意識、日本社会に失われたものあり。……残念。
 最後に一句。
 我 香河ニテ越・珠曲ヲ楽シム
 唐 詩聖 西湖ニ遊ブト聞ク、カクノゴトシカ、
フエにて
(奥村 三郎)


チョットひとこと

  ある日、私は高齢者の集まるデイサービスセンターに行ってみました。 何かボランティア活動ができないかと考えた結果、足を運んでみたわけです。 半日見学が許されて皆さんと一諸に過ごしました。世話人の方々は区の職員で、 元気に一生懸命高齢者の相手をしておられました。集まってくる人たちは、 入院する程ではないにせよ、皆どこか具合が悪く視力、聴力の落ちている方や車椅子を使用されている方など、 何らかの介護を必要とする方ばかりです。ほとんどの男性は黙っていて誰とも話そうとせず、 女性たちの声ばかり響いていました。
 一方、この集まりの展開をみているうちに、私は幼稚園に来ているような錯覚を起こしていました。 老人は子供返りをするのかも知れませんが、扱い方まで幼児のようにしてよいのだろうかとしばし考えてしまったのです。
 障害者に対するバリアフリーの考え方と同じです。優しく親切にすることはよいと思いますが、 すべてを介護する側の意志で相手を動かすべきではないと言われています。 むしろ、なるべく自分の意志で動けるように周囲の環境を整えるべきなのでしょう。 私は、周りのひとたちの自由をどの程度尊敬の念をもって大事にしているか このような機会を通して見直すことが必要だと痛感しました。
 今、日本の社会では外国の方々が大勢生活をしておられます。言葉の問題はともかく、 日本人は共生という観点からみてどのように相手の由由を尊重し、 人権を損なわれることのない、居心地のよい場所を提供しているかを、 一般的に振り返ってみたいと思います。どこの国へいっても必ず生活習慣や考え方の違いに直面します。 道を探す場合は、だれでも始めは地図に目を通して確かめていきます。 しかし、考え方とか習慣については、その土地の人たちと話したり教えてもらったりしないとつかめない点が多いと思います。 難しいことですが相互の努力と思いやりがあればよい結果をもたらす道が開けてきます。 より正しく理解しながら思いを分かち合っていくうちに根本的な問題に触れるようになると思います。 人間誰しも自由でありたいと思っているのですから、自発的に、自由に「譲る」ことも大切ですし、 信頼関係を深めるために自分自身を解放するのも大事なことでしょう。

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