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チョットいいこと 94

戦争での心の傷癒えぬ人々追い20年
夏の陽
日本に定住して
ベトナム社会主義めざす道
ベトナム戦争は過去のこと
祖国潤す「在米越僑」
いのちのしるし
侮辱と称賛
チョットひとこと



戦争での心の傷
癒えぬ人々追い20年 写真集・写真展に反響
ベトナム取材を集大成した写真集 を出版した写真家の大石芳野さん

 集大成、と言っていいだろう。 ベトナム戦争後の1981年から毎年のように現地に通い続けてきた写真家・ 大石芳野さんの写真集『ベトナム 凛と』(講談社)が出席され、 反響を呼んでいる。 向き合うこと20年の〈内なるベトナム〉と、 今もっとも力を注ぎ写真展が話題の〈コソボ〉への思いを聞いた。

 体がつながった1歳のべトちやん、ドクちやんの写真は82年の撮影。 枯れ葉剤を浴びた元兵士を父に持ち、3歳で成長が止まった10歳の少女は87年。 そして人目をはばからず湖畔で抱き合う男女は今年。
 始まりは、戦時下の66年だった。学生交流に参加して訪れたサイゴン(現ホーチミン市)で心が痛み、 「何か手伝えないか」と問うた。「この国のことは我々に任せて、日本人な日本のことを考えて欲しい」 と言われ衝撃を受ける。
 戦後、各国のカメラマンが退去してからが、この人の出番となった。 「銃声が止んでも人間の心の傷は消えない」という実感、 「私が祖国のために出来る事は『伝える』ことだ」との確信。 「真実はやがて必ずその芽を現す」とは、80年のカンボジア取材で体験した信念である。 20年間流した涙と汗の結晶した写真を見て、 人間らしくあろうとすることの崇高さが〈背筋の芯から深く懐かしく参み出てくる〉と、 作家の日野啓造が跋文に記している。
 昨年春以来、春夏秋冬ごとにバルカン半島へ出掛けているのも、 同じ思いいから。「民族浄化」という名の下に、 コソボ自治州でだれがどんな目に遭ったか。 セルビア勢力の急襲に靴もはかずに逃げ、親を亡くした子供。 たくさんの我が子を数える間もなく避難し、連れ戻しに帰った親。 恐怖は去っても、心の傷は癒えない。 写真家を駆り立てるのは「おぞましい戦いに巻き込まれた人々の言葉と表情だ」。 その勁さだ。
 写真展「コソボ破壊の果てに」は、明日15日まで札幌、来月は大阪、 一月には福岡(いずれも富士フォトサロン)で開催。 好評を博した東京、名古屋の会場は、 撮影者の願い通り「写っている人と“対話”する」人が多かった。 「ああ神様」一取材相手のそんな独り言までは伝えてくれない通訳が多くて残念、 という言葉に、現象やイデオロギーではなく「心」を撮る写真家の声を聞いた。
(顕 読売新聞)


夏の陽
 

 故郷では、今の時期は肌が炊きつくばかりに陽射しが強いのです。 4月の下旬から5月の上旬にかけて蝉が夏を呼び出しています。 北部地方は、 真夏の陽が稲田、トウモロコシ畑を黄色く炊きつくしています。陽は池の 水を温め、魚や海老、蟹は急いで巣穴に避難します。 中部地方では夏の陽が泉や川を乾かし、広々とした砂浜を残しています。 この地方の夏シーズ、生徒たちはズボンを巻き上げ、ノートを頭に載せ、 サンダルを片手に群れをなして川を渡る楽しみがあります。 4,5ヶ月前までは水がとうとうと流れていたのに。 この地方と違って今年の夏の南部の夏の雨が早い。毎日夕方になると、 雨雲が空を覆いそして風がどこからか雲を運び空一面 を占領してしまいます。
 夏の思い出はいつも、陽、風、雲、雨でいっぱいです。 少年時代の数々の思い出を風にのせ、高く飛んでいる凧が運んでくれます。 お昼休みに「キー、キー」とハンモクのゆれる音、椋鳥や雉はやかましく鳴き騒いでいる。 これらの音が故郷の魂の響き声、こだまのようです。 凧は「ヴィーヴィー」と母の子守唄と交わり、 一時期ベトナムの心に深く浸透していた素朴で田舎のものですが親しみがあり、 甘くやわらかいものだったことを思い出されます。
 学生時代の夏休みの思い出は誰もが忘れられないことでしょう。 交換日記を書いたこと、校内での蝉の鳴き声...... 青春時代の夏休みには色がありいつも輝かしい。 陽の色、花の色、草の色、稲の色、そして深みのある色や、 香り、味、稲やお茶そしてジャスミン、甘く酸っぱく熟した果物や、 まだまだ青い果物など......。
 母の故郷で、学校に通っていた時代の夏休みは一番すてきな平和なシーズンでした。 「オマイ」(梅を塩と砂糖で漬け、乾かしたもので、若い男女 がかじりながら味を楽しむ)の好きな年頃、 夏はたいがいこれらの年頃の少年、少女たちの「初恋」の想い出をしるします。 もしかしてこの恋のはなしは雲や風のようなもので、夏休みより短かかったかもしれませんが、 人生の中ではいつまでも素敵な思い出として残ります。
 学校を卒業し社会人になり、 落ち着き安定した君にとっても夏の休みの思い出が薄らぐことはないでしょう。 故郷を離れた今では、毎年夏がくると何か寂しく思いますが......。
 昨日の寂しさ、喜びが今日の人生への補いとなり、...人生に味をつけてより濃く、 豊かになることを願っています。    
(故郷の響き声より)


日本に定住して

 私が日本に定住して来たのは、とても寒い夜だった気がします。 私の国とは違い、きれいに整えられた町は、私にとって何もかもが不思議でした。 言葉一つわからず、ただひたすら生きまうとした私たち。 一生懸命に働く父と母、私はそんな親を見て育ってきました。 日本の冬は、私たちには信じられないくらい寒いものでした。 わたしの国は一年中暖かいので初めて冬をすごしたときは泣きわめくくらい震えていました。
 初めての寒さを体験したせいなのか、やすまず働てきた父が病気になりました。 まだ生まれて間もない妹がいたので母は働きに行けませんでした。 妹を抱き私の手をひっぱって、妹をあずかってくれる保育所を探しに出かけました。 しかし、まだ1歳になっていない妹をあずかってくれるわけがありません。 母は必死に頼みました。 家から少しはなれたところにある保育所も最初は断っていましたが 母が必死に頼む姿を見て最後は優しく笑って「わかりました。あなた達も大変なのですね」 それから少ししてから再び働きにでた父、父と母のおかげで、 私はみんなと同じ様に学校では、いい先生や友達に恵まれ自分が自覚するほど幸せに育ちました。
 私は皆と変わらないのだと、そう信じてきたのです。 だから私はベトナム語を話そうとはしませんでした。 私と友達の違いと言えば、言葉と名前だけなのです。 昔、私はみんなと“違う”というのがいやだったのです。 だから祖国語なのに話さなかった。話せるのに話さなかった。 みんなと“同じ”になりたかったのです。
 でも、高校の時でした。私は初めて日本に住む難民としての社会の厳し さを痛感しました。長年私たちのために働き続けてくれた父が病に倒れ、 母ひとりだけがで働き続けなければなりませんでした。 私は少し手伝いたく、アルバイトをしようと思い、 ある店に電話をしました。 はじめ、私の名前を聞いて少し驚いた感じで、 またрオますと言って何日も電話がきませんでした。 私にはその意味がわかりませんでした。 もう一度電話をかけると、相手は戸惑いながら、
― 外国人の方ですよね...。
― そう、私は外国人、でもあなたと同じように笑ったり、おこったり、時には泣いたりしますよ。
― 日本の国籍なんか持ってませんよね。
― 私とあなたは同じ人間、でも、この時ほど自分が外国人だと思い知らされた事はありませんでした。
 私はたとえ自分の祖国を離れてもべトナム人なのです。 どんなにベトナム語より日本語の方が上手に話せてもベトナム人なのです。 どんなに、学校の先生や友達が好きでも、それが事実だから。 私が名前さえ言わなければだれも私が外国人だとわかりません。違うのでしょうか。 そんなにベトナム人と日本人は違うのでしょうか。私は今も悔しい思いを噛み締めたままです。
 しかし、その反対に私は自分の国に対する誇りを持つようになりました。 5歳までしかベトナムに住んでいなかったので記憶は全然ありませんが、 なぜかベトナム人であることにすごく語りをもったのです。 それからみんなの前ででもベトナム語を話すようになりました。 みんなと“同じ”になりたいんじやない、最初からみんなと“同じ”なのです。
 日本に定住してわかった事は、 日本で難民として生きていく社会の厳しさ、 そして国境を越えた人の優しさでした。 私の父が病気になった時、ようやくつかんだ小さな幸せが崩れたとき、 学校の先生や友達、いつも平和を願っている教会の神父様やシスターたち、 日本人でない難民である私たちをいつも救ってくれます。
― お友達でしょう?
 笑っていつも手を差し伸べてくれます。私は何か解ったような気がします。 たとえ難民であろうが、外国人であろうが、みんな人間なのです。 みんなと“同じ”になりたいんじやない、最初から皆は“同じ”なのです。 肌の色が違っても、習慣が違っても同じ地球に生きる人間なのです。 それが一番大切な真実なのではないでしょうか。 世界中の人が笑顔で手をつなげぎあうことが出来ればいいと思う。 いつかきっと。
 
(ダン・ハ)


ベトナム社会主義をめざす道

 3月に予定されているベトナム共産党9回大会への政治報告案の 特徴について同党理論政治誌『タプチー・コンサン(共産雑誌)』 のハー・ダン編集長(71)に聞きました。(ハノイで鈴木勝比古記者)
共産党理論政治誌『タプチー・コンザン』
ハー・ダン編集長に聞く
―ベトナムにおける社会主義への道について
ダン編集長 社会主義建設には長い期間が必要で、 社会主義への過渡期も長くかかると考えています。 ベトナムの社会主義を表す簡潔なスローガンは、 以前は「豊かな民、強力な国、公平で文明的な社会」でした。 今回の政治報告案は、「公平」と「文明的」の間に「民主的」を挿入しました。 社会主義は本来、民主的だから、あえて「民主的」という必要はないと考えていましたが、 私たちの制度の実態と目標をより明確に表現するためにつけました。
 社会主義への過渡期は、社会主義の物質的、技術的基礎を築く時期です。 ベトナムのように経済の遅れた国で、資本主義を経ないで社会主義に進むには、 その基礎から上部構造の建設までに極めて長い時間がかかります。
―社会主義指向の市場経済について
ダン編集長 以前、私たちは、市場経済と資本主義経済を同一視していました。 旧ソ連などは、市場経済は無政府的、抗争的であり、 一方、自分たちは計画経済に基づいて社会主義の方向で生産を発展させるといい、 労働に基づく分配以外の形態を認めませんでした。 現実には、官僚的集中のメカニズムを使っていました。 それで生産を刺激できず、能動性を発揮できず、経済発展が停滞しました。
 南ベトナムは、南北統一後もこのメカニズムを続けました。 農業協同組合は本来自ら計画を策定するべきでしたが、 このため、集団経済の力が発揮できず、農業協同組合は解体されてしまいました。
 それで、社会主義経済への認識、理解を再検討し、 資本主義経済についても見直しました。 そしてこの古いメカニズムを続けることはできないという認識に到達しました。 現在の我が国の経済は商品経済であり、国家経済、集団経済だけでなく、 個人経済、私人資本主義経済も含む多セクター経済です。 市場経済は、価値法則、需給法則に従います。 以前は「大きな魚が小さな魚を飲み込む」として競争に反対しましたが、 現在では競争原理も重視します。
 レーニンは、経済発展に市場経済の要素を活用しました。 戦時共産主義では、経済は発展できませんでした。 市場経済の要素を認めたのは、社会の現実が必要としたからです。 我が国でも、社会の現実が市場経済を求めました。 南北統一後、社会主義をめざす上で、 レーニンの新経済政策(ネップ)に関心を持ちましたが、 本格的になったのは、86年にドイモイ(刷新)を開始してからです。
―ドイモイについて
ダン編集長 ドイモイは、86年の第8回大会で打ち出されましたが、そ の要素は87〜80年にも現れていました。
 農業では、協同組合に請負制が導入されました。 農家に生産を請け負わせ、収穫の一部を上納した残りの自由販売せ認めました。 べトナムでは三期作が可能ですが、協同組合では第三期作まで手が回りませんでした。 農民に任せたら、夜も農作に励むようになりました。 同じように企業管理でも企業の一定の裁量を認めました。
 こうした経験を経て、ドイモイの路線が打ち出されました。 ドイモイは、社会主義への過渡期における国土建設の路線です。
―2001までの10ヵ年戦略について
ダン編集長 2001までの10年間に工業化・現代化の基礎をつくります。 2020年までに工業化・現代化の達成を目指します。 工業化は、先進国に追いつくことではありません。 工業の比率を50%以上にすることです。
―職、腐敗、官僚主義の克服について
  ダン編集長 政治報告案はこの問題を重視し、 「極めて重大な事態」とのべています。 これは人民の国家という原則に反する事態です。
 多くの原因があります。少なくない幹部が堕落して個人主義に陥っていること、 下級がお顧いして上級が許可する古い国家管理制度が残っていること、 現在の給与が生活できないほど低水準であることなどが、 その原因です。
 草案は「幹部の資産公開」なども提案しています。 汚職、腐敗との戦争がなければ、 事態はもっと悪くなっていたでしょう。 
(しんぶん 赤旗)


ベトナム戦争は過去のこと
マイケル米上院議員ハノイ入り
25日、ハノイの空港で行われ
たベトナム戦争行方不明米兵
の遺骨送還式典に立ち会うマ
イケン上院議員(中央)=AP

 【ハノイ25日=渡部惠子】
 ベトナム戦争中の1967年にハノイ上空で搭乗機を撃墜され、 5年半の捕虜生活を送ったジョン・マイケン米上院議員が4月25日、 ハノイ入りした。米テレビの終戦記念蕃組に出演するためだが、 29日帰国の途に就き、30日の「サイゴン陥落」の記念式典には出席しない予定。
 米大統領予備選で旋風を巻き起こしたマイケン氏は、 米越国交正常化(95年)を積極的に働きかけてきたことでも知られ、 戦後の訪越は7度目。ハノイ到着後、 捕虜時代の苛酷な扱いについて記者から聞かれると 「ふさわしい待遇を全員が受けたとは思わない」とだけ述べ、 「ベトナム戦争のことは、とうの昔に過去のものとした」と語った。 マイケン氏は到着後、グエン・ジー・ニエン越外相らと懇談。 また、捕虜生活をおくった旧ホアロ刑務所(通称ハノイヒルトン)などを訪れた。
(読売新聞)


祖国潤す「在米越僑」
「昔の敵」今あこがれの国

 「米国は唯一の大国。米国勤務は出世コース。 幹部は子供を米国に留学させたがる」 とベトナム外務省(28)が打ち明ける。 「上昇志向の学生に人気の就職先は米系企業」 ハノイの大学生(26)が話す。 ハノイの大学で日本語を学ぶレ・トゥ・フォンさん(23)は、 軍人だった父(56)が戦争で枯れ葉剤を浴びた。 父は精神不安定になり、フォンさんや弟の体には 枯れ葉剤被害と見られるあざが残る。 だがフォンさんは「米国はひどいことをしたけれど、 今は戦争の被害者を支援する人も来てくれる。 私は英語も勉強しているの。米国ビジネスマンにもっと来てもらいたい」 と話す。 
24日、米国から買ってきた息子をホーチミン市タン ソンニュット空港で出迎える母親=奥西義和撮影
 昔の敵・米国をベトナムは憧れにも似た目で見る。 両国は1996年国交を樹立した。ベトナムは今年3月、 初めて米国防長官の訪問を受け入れた。 ベトナム政府は、旧南ベトナム政府系反共団体とのつながりを疑ってきた 在米越僑に対する態度を改めつつある。 経済発展のために、越僑の持つ情報・資金・米国とのつながりを重視するようになったからだ。 戦中戦後、国外に脱出したベトナム人は約250万人。 このうち約150万人が米国に住む。旧南ベトナム出身者が大半だ。
 越僑が昨年、ベトナムの親族らに送金した額は公式に補足された分だけで12億j。 ある企業人は「米国には越僑のための送金業者が200社ある。 ベトナムへの送金額は実際には年間 20億jとも言われる」と話す。 アジア通貨危機の影響で対ベトナム外国投資が減少した中、 越僑は貴重な外貨供給源でもある。 ベトナム政府は送金にかかる課税の廃止など、 越僑の持ちこむ外貨を目当てに環境整備に努めている。
 ファン・バン・カイ首相は最近、越僑への住宅売却を試験的に許可する方針を打ち出した。 ホーチミン市人民委員会と台湾企業の合弁事業として同市南郊で進められている 同国最大の都市開発「ナム・サイゴン(南サイゴン)」事業は、 顧客として越備にも期待している。3,300fの敷地に住宅・学校・物流基地などを建設する。 台湾側の「CT&Dグループ」によると、 既に住宅購入の問い合わせが30件、越僑からあったという。
 アメリカ式ビジネスを導入し、脚光を浴びる越僑もいる。 旧サイゴン出身のアレン・タンさん(47)。 71年に渡米、カリフォルニア州でレストランを経営していたが、 「祖国を見たくなり」89年に帰還。 ホーチミン市でフランス料理店や高級ベトナム料理店を計4店経営して成功した。 今は、ベトナムのうどん「フォー」専門店を ベトナムにはなかったファミリーレストラン形式でフランチャイズ展開している。 「半年で3店開いた。ハノイ、アジアの周辺諸国、米国にも進出したい」と意気込んでいる。
 昨年設立された越僑商工会のグエン・トリ・ユン会長(51)は 「経済グローバル化の時代、我々越僑はベトナムと世界の懸け橋になれる」と自信に満ちた口調だ。 しかし、ベトナム政府は対米関係に慎重だ。 米越両国は、ベトナムが米国の最恵国待遇を受ける代わりに、 一層門戸開放を実行する内容で通商交渉を進めているが、 ベトナム側は米国の要求を性急すぎるとみなし、 交渉は暗礁に乗り上げている。
 政府は国民が抱く米国への憧れを憂慮しているのかもしれない。 昨秋業務を正式に開始したホーチミン市領事館には月平均2,400件の渡米ビザ申請があるが、 このうち1,400件は移民ビザの申請だ。 戦後四半世紀を経て、なお多くの人が国外を目指す現実がある。
(読売新聞 ハノイ 渡部惠子)


いのちのしるし
 40日間の四旬節が終わると復活祭がやってきます。 私たちにとってこの大祝日が非常に適当な時にあると言えます。 大自然が冬の眠りから生き返り復活します。 いのちのしるしとして様々な植物が芽生えて美しい花を咲かせるのです。 こうして私たちは自分の身体で復活を信じることができるのです。               
 20年前に熱帯の国かち来たベトナムの方々が私たちよりもこの、 いのちのしるしにびっくりしました。 たとえば、枯れ木のように見えた柿の木さえ、 一般の木より遅くめばえることが、彼らにとってはては本当の奇跡でした。 彼らの国には四季がありません。 しかし四季がないだけでなく、お互いに対する不信・内戦・伝染病という、冷たい冬の状態から、 なかなか生き返れない国に住んでいる人々がたくさんいるのです。
 このことを考えますと、私たちは復活の祝日に気持ちのよい喜びを感じると共に、 大勢の人にとって、イエスの復活はいのちのしるしであるはずです。 希望がない人に復活の喜びを感じさせることが私たちの役目です。 希望のない人たちに春を告げることが私たちキリスト者としての使命です。 復活の神学的な意味に捕らわれてはいけません。 抽象的なしるしだけでは足りません。いのちのしるしでなければなりません。  自分の生活をとおして私たちは復活なさったイエスの姿を、 希望、いのちの姿を現代に社会につげねばなりません。 希望がない兄弟・姉妹に希望と喜びをつげることが 私たちにのこされたイエスの使命です。
ハリー神父


侮辱と称賛
「ベトナムのボブ・ジュラン」チン・コン・ソン氏死去
   かつて日本でもヒットした反戦歌「坊や大きくならないで」 を作曲したベトナム人音楽家チン・コン・ソン氏=写真、 UPIサン=が4月1 日、ホーチミン市内で死去した。62歳だった。

 彼の名前を口にすると、侮辱の声が返ってくる。 「共産主義者だ」「人々を裏切った」「同胞とは呼べない」。 同時に称賛の声も聞こえる。「すばらしい人」「ベトナムが生んだ最高級の音楽家」 「魂を最も奥深くから揺さぶる人」―シンガー・ソングライターのチン・コン・ソン氏について、 中途半端な意見を言う人はいないようだ。
 祖国を離れることができたにもかかわらずそうしなかったため、 ソン氏は共産主義政権を支持していたと考える人もいる。 ベトナムのボブ・ジュランと呼ばれるソン氏が作った歌は600曲以上。 多くの人にとって、思い出と憧れを最もしっくりした言葉で表現した音楽家だった。 国を引き裂いた戦争に反対し、 1960年代には歌に平和を込められた平和主義的なメッセージが南北双方の政治家の激しい怒りを買った。
 しばらくの間、ソン氏の歌詞は禁止された。 戦争終結後、親族の大半は国外に脱出したが、 彼は国にととまる道を選んだ。短い期間だったが(旧南ベトナム)ケサン近くの新経済区に入り、 稲を植えたり、旧アメリカ軍の地雷源だった所での厳しい労働に就いたりもした。 そして、変わらない人気と独創性で、80年代後半に表舞台に復帰した。 昨年の本紙とのインタビューの中で、ソン氏は「土から離れた木は成長できない。 祖国を出た芙術家も同じだ」と語った。ベトナム女性歌手カン・リーさんは言う。 「だれに批判されようと、私やソン氏は人を憎んだりしない。それがソン氏から学んだ教訓です」 (米オレンジ・カウンテイーレジスター紙4月17日付=特約)
(読売新聞)


チョットひとこと

 何かにつけ大自然の変化を意識しながらものごとを考えたり、 生活を整えたりしている人間の姿は、 それぞれが一つのドラマを展開しているように見えます。
 ベトナムから日本に来られた方々の驚きの中に、 日本の冬の寒さが挙げられていました。 多分こわいと思える程の体験だったと思います。 日本人でも雪国に住んだことのない人が、 転勤などで雪の多い地方に行くようになったとき、 骨まで染み透るようなつめたさに恐怖に近いものを経験します。 また、一方において暖かい地方で暮らしているときよりも光と暖かさの恵みをもっと切実に意識します。 私たちの心も、体と同じように何かにつけ自然の力と現象に反応しています。 これから夏に向かって、自然界は新たな豊かさを増していきます。 同時に私たちの柔軟性も高められ、それぞれの思考を駆り立てるような刺激が与えられることでしょう。
 都会では畑や小川が見られなくなり、 駐車場やマンションが造成されることによって土の香りも遠のいてしまた日本の現代社会において、 ある程度人間には自然を制する権利はあるとしても、 「いのち」を育むものを粗末に扱ってきました。 そして、この傾向は都市周辺にも及んでいます。 目に見えないもの、知識の及ばないところにあるものを余り大切にしなかったことから、 自然も文化も両方とも滅んでしまう危険な状態に近づいているようです。 つまり、便利さや単なる競争、自分の利益などを軸とする進歩発展の背景にある矛盾が、 人間にどんな結果をもたらすかを熟考せずに歩んできた道程でした。 この問題は日本人の考え方に大きな影響を及ぼすことになったのです。 バブル崩壊後の日本はますます価値基準が曖昧になり、 正義感も薄れてしまったような社会になってしまいました。 人に見つからなければよいといって不正な事を行っている現実、 廃棄物の不法投棄が実際に行われていること、 残念ながら枚挙にいとまがないほどこの種のものが私たちを取り囲んでいます。 ここで、日本人も日本に滞在中の外国の方々も「人間と自然」という基盤にたって助け合いながら一緒 に時代のなみを乗り切っていきましょう。 人間の限界も考えつつ、神様の力に信頼して協力できればきっとより良い社会が築かれると思います。

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