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チョットいいこと 93

20カ国の難民頼る家
いつの日か祖国へ
ベトナム人支援について
魅惑の国ベトナム
生平調
サイゴン風
真の友情を
子どもたちの笑顔を励みに
お願い
チョットひとこと
メコン川の支流をボートでクルーズ。りりしい女性の船頭さんもいる



20カ国の難民頼る「家」
モルドーイタリア
チャザレ神父(右)に抱かれるジュニア= イタリア南部レッチェのカーサ・レジーナ・パーチャスで、 飯竹写す

  その男の子はジェニアと命名された。生後6カ月。東欧モルドバの女性(18)が、売春婦として人 身売買される途中で、レイプされて身ごもった。父親の身元がわかるはずもない。
 ジェニアが母親と暮らすのはアドリア海岸沿いのイタリア・レッチェにある難民受け入れ施設 「カーサ・レジーナ・パーチス(ラテン語で平和の女王の家)」。 海を隔ててアルバニアまで約80`。天気が良い日は、水平線にうっすらと陸地が見える。 「私はこんな子どもたちの父親だと思っています」。 所長のチェザレ・ロデセルト神父(40)がジェニアを抱きながら言った。
 「レイプで生まれたと思ってはいけない、あくまで自分自身の子どもだと思 って育てなさい、と母親を励ましています」


 二階連ての建物は、海水浴にくる子供向けにカトリック教区が造った施設だ った。そこへ対岸から、船でアルバニア難民が続々と押し寄せてきた。同国が 住民ほう起で混乱した1997年のことだ。「難民を受け入れてはどうか」。チェザ レ神父が教区に提案して、自ら所長になった。翌98年になるとクルド難民、99 年にはコソボ難民がやって来た。今では20カ国以上からきた300人を超す難民、 移民が同じ屋根の下で暮らす。「ここは欧州連合(EU)の最前線なのです」
 人身売買されかけた女性だけで約60人を保護している。ロシア、ベラノル一シ、 ルーマニア、など出身は様々だ。旧ソ連崩壊後、豊なEU諸国への「脱出」を 夢みて、マフィアにだまされた。「家政婦などの仕事がある」など誘われ、アル バニア経由でイタリアに送り込まれた。

形見の指輪
 「警察に発見され、ここで保護されているのは幸運なのかもしれない」。モル ドバの首都キシニョフから南へ約100`離れたカフール出身のライザ=(仮名) =は言う。オーストリアに出稼ぎに行くつもりで友人と故郷を出た。途中では ぐれた友人は無理やり売春婦にされた、とあとで聞かされた。ライザ自身、ア ルバニアのマフィアの家で奴隷扱いされ、何度もレイプされた。「イタリアに入 国できれば何とかなる、と思って耐えました」
 施設の事務所で電話番をしていたイラク出身のクルド人、アミル(22)は、 10月難民認定を受けた「自由がほしかったんです」。父はサダム・フセイン大統 領が乗る車の修理を担当する修理工だった。97年11月、突然、当局から呼び 出された。「クルド地区に潜伏するスパイになってもらう。さもなければ殺す」 「バグダットを出ろ」。悩んだ末に打ち明けたら、父は言った。トルコ、ブルガ リアを経て、アルバニアから船で着いた。同乗した友人はマフィアに「追加金」 が払えず、目の前で殺されて海に捨てられた。銀の指輪が形見だ。

宗教を超えて
 施設の2階の1室では、整列して祈りをささげるイスラム教徒を、キリスト 教徒、シーク教徒らがベッドの上から見守っていた。イスタンブールから同じ 船で着いたインド、パキスタン出身の20人だ。「1人当たり7千ドルをマフィア に支払った。ここからイギリスでもフランスでも行けると聞かされた」とパキス タンから来たアルシェド・カーン(34)は言う。「国や宗教の違いなんてなんでも ない。同じ船で海を渡った仲間なのだから」
 食堂の壁にはイタリア、トルコ、アルバニア、ロシア、アラビア語でこう書 いてあった。「レジーナ・パーチスでは、みんな兄弟だ」 (敬語略)
レッチェ〈イタリア南部〉=飯竹恒一
(朝日新聞)


いつの日か祖国へ
ベトナムの新枢機卿
 

 【バチカン1月24日UCAN】13年間を過ごしたベトナムの新枢機卿が、 「もしみ旨なら」祖国に帰りたいと願っている。
 「私は神のみ旨に従わねばなりませんが、いつかベトナムへ帰るという希望 は決して捨てません」と1月23日、新枢機卿となる教皇庁正義と平和評議会議 長のグェン・バン・トゥアン大司教=写真・CNS=が語った。
 ベトナム出身では初めて教皇庁の要職に就いた新枢機卿は、 任命の知らせを聞いた時、自らの人生の「不思議さ」について神に感謝したと言う。 「神は、苦難に満ちた日々も、私を導いてくださいました。 人生の中で多くの試練と困難に遭遇しましたが、 主はいつも共にいてくださったのです。 私は、主の慈しみと、教皇のご好意、そして特に祖国ベトナムの人々と教会に感謝しています」 と新枢機卿は語り、今回の任命については、「私にとって、全世界での正義と平和の推進に、 心を新たにして取り組む機会だと思っています」と意欲を示した。     、
 新枢機卿は1928年、ベトナム中部の古都フエに生まれ、53年に司祭叙階、 ホーチミン市(旧サイゴン)の北320`のニャートラン教区司教に叙階された。 南ベトナムが共産党主導の北ベトナムに降伏する7日前の75年4月30日、 サイゴン教区の協働大司教に任命される。 任命は共産党当局に拒絶され、同年、トウァン大司教は投獄される。
 13年間の獄中生活後、88年釈放されたが、94年のローマ訪問中に、ベトナ ム政府が、同大司教を「好ましからぬ人物」と宣言し、再入国を禁止してしま った。以後ローマに住む同大司教は、98年、正義と平和評議議長に任命され た。                               
カトリック新聞


ベトナム人支援について

 この2月11日でKFCは4才。私はこの4年間主にベトナム人の商談担当だ つた。 KFCが発足したのがきっかけで、ある人からベトナム人支援のスタッフ になりませんかと誘いがあった。自分が役に立つかどうか不安があった。正直 に言うと、この世界に入る前に仲間(ベトナム人)に対して冷たかった。日 本で生活することは自分はあまり困らなかったので皆もそうだろうとの考 えだった。しかし、ここで分ったことは日本語が出来ないため困る人が大勢い る。しかも、日本語が出来る人と出来ない人の問題が随分違うと気が付いた。 日本語がぺらぺらでも人権差別問題などにあうと、どうすればいいのか分ちな い。日本語が分らない人は子どもに色鉛筆と塗り絵を買ってあげることも出来 ない(何処でどれが)しゃべれないし、読めないし聞けないし、まさに言葉の 問題で視覚と聴覚に障害を持つ人と変わらないと思う。
 KFCに入ってすぐ7人(ベトナム人は5人)の400万円ぐらいの未払い貸金 事件があった。この事件をきれいに解決できたのでこの仕事にはまってしまっ た。その後、今でも印象が残っている出来事もあった。仮設に住んでいる若い ベトナム人夫婦は日本語があまり出来なかった。その時は公務員のような人が しょっちゅう訪問にくるが、この夫婦にとって早く仮設を出て行きなさいと言 われているとしか思っていないようで、来られても殆んど話すことができなか つた。しかし、めっちゃいい話しがあることは彼らは予想もしなかった。高級 住宅になかなか当選しない時代なのになんと彼らが入るのを待っている市営住宅があった (住んでいた跡地は市営住宅になって、彼らが入る権利があった。) 市営住宅関係者はそのことを伝えに来たがいつも話を聴いてくれないので困っ てKFCに通訳の依頼が来た。その夫婦にベトナム語で説明すると、宝くじに当 たったかのように大喜びしていたことを今でも忘れない。日本語が出来ないと 損だろうなと思った。  
 今までの支援の中、相談内容等で(気が)落ち込むこと が山ほどあった中、解決出来たことは数えられるぐらいし かないが、解決した時の快感は本当にたまらない。落ち込 みの山は登れる力が付く。とてもやりがいのある仕事であ る。
 この4年間、私自身は大分成長した。仲間を支援出来る し、日本語もパソコンも上達したし、なにもかもいいことばかりで感謝してい る。新年度は違う出発になると思いますが引き続き応援お願いいたします。
(ハ・ティ・タン・ガ)


魅惑のベトナム

不思議な奥深さ
 けたたましいクラクションの音と道蕗を失走する無数のオートパイの列−。空港から市 街地に着くと、たちまち異次元の世界に舞い降りたような感覚に陥る。ところが、ベトナ ム料理を食べ、街の雑貨屋を散策してみれば、いつの間にか街の喧騒も心地よい響き に変わる。何とも不思議な魅力にあふれる国べトナム。その最大の都市であるホーチ ミン市がこの秋さらに身近になる。日本航空は11月2日、成田空港からの「ホーチミン シティ直行便」を就航した。ベトナム戦争終結から25年、対外開放を柱とするやドイモイ (刷新)政策の進展で日本との経済的なかかわりも深まり、新しい観光地としても脚光 を浴びるベトナムの今を探った。

・味
日本でもおなじみのベトナム料理は、日本人の味覚に合う。コメが主食なのも日本と 同じだ。定番の揚げ春巻き、生春巻きのほか、魚介類、鶏料理からめん類までメニュ は豊富で、料金も高級店で数十j程度と安い。ホーチミン市内のベトナム料理店「マ ンダリン」は一般家屋を改造した高級レストラン。シックなインテリアの中で、洗練された 料理の数々を味わうことができる。シーフードレストランの「ソングー」はエビ、カニ料理 が絶品。民族楽器を使った生演奏のサービスもある。このほか、フランス料理、中華料理の名店も多い。
ベトナム料理づくりにチャレンジしたいという人には観光客用の料理教室もある。 オムニ・サイゴンホテルの「オムニ・クッキングスクール」であるシェフが実演を交えてベトナム料理の作り方を伝授 してくれる。自分で作った生春巻きやサラダを味わえば、ベトナム文化への理解も深まるはずだ。

・買い物
 ホーチミン市内の目抜き通りには、多くの雑貨雷き万軒並ぶ。漆器、刺しゅう製品、シルク製品、 バッグからジュエリーまで、しゃれた小物が日本では考えられない格安価格で手に入る。 かつてのフランス統治時代の名残もあってセンスもいい。洋服のオーダーメードも可能で、 民族衣装の「アオザイ」を作る日本人観光客も多いという。自分好みの雑貨を品定めするのもよし、 土産物を探すのもよし、一日中退屈することはない。
 ベトナムの庶民生活を肌で感じたいなら、市場も必見だ。生鮮品、果物、菓子類から 衣類、日用品まであらゆるものが所狭しとならべられて、その活気に圧倒される。

・自然
   べトナムは自然の恵みにも豊かだ。ホーチミンからバスで約1時間半、 メコンデルタの一角にあるミ・トー地区では川の中に四つの島が浄かぶ。 島までの「メコン川クルーズ」で雄大な流れに身を任せた後、 タイソン島内の果樹園ではパパイヤなどのトロピカルフルーツが味わえる。 ベトナム人の船頭が操る小型船での島内散策も爽快だ。 ジャングルのような茂みの中を進めば、まさに自然との一体感が満喫できる。

・歴史
 ホーチミン市北西にある「クチ・トンネル」は ベトナム戦争中にアメリカ軍の空襲と枯れ葉剤の散布から逃れるために堀り進められたという。 病院や食堂も備えた要塞だ。全長は約200キロメートルにもおよぶ。 観光客が実際にトンネルを体験できる100bほどのコースもある。 食堂の調理場は、料理の際に出る煙でアメリカ兵に居住を知られないよう、 食堂から離れた場所に煙を排出する仕組みまで設けられており、 苦しい戦争を耐え抜いたベトナム人の知恵を垣間見ることができる。
 このほか市内には、南ベトナム政権時代に大統領官邸として利用された統一会堂、 べけム戦争で使用された戦車や大砲を展示した戦争証跡博物館など、 戦争の歴史を刻む施設が多い。凄惨な戦争の傷跡を知れば、 戦後四半世紀を経て日々進化するベトナムの姿が、いっそうわれわれの胸を打つ。
アオザイ姿もさっそうとー。街を行き交う

・経済
 「オートバイの保有台数世界一」といわれるベトナム都市部はまさに「オートバイ天国」だ。 ホンダ、スズキなど日本製のバイクは高級品として人気も高い。 日本の二輪メーカーは軒並み現地生産に乗り出しており、 多くの日本ブランドのオートバイを街で見ることができる。 ベトナムを部品の生産拠点として活用する日本企業も多い。 ホーチミン市近くの工業団地では、富士通の現地法人がノートパソコン用部品などを生産し、 近隣アジア諸国や日本などに輸出している。輸出額は毎年、前年他の2割以上の伸びを示し、 今やベトナムで一番の輸出企業だという。
 進出企業が口をそろえて言っているのはベトナムの労働力の質の高さだ。 富士通コンビューター・プロダクツ・オブ・ベトナムの川島修三社長も 「製造工程を工夫したり製造機器を改良したり、アイデアも豊富で、手順をきっちり守る」と話す。 最近では安価な労働力を求める中小企業の進出も多いという。
 ただベトナム経済も順風満帆ではない。86年に導入されたドイモイ政策で90年代前半、 海外からの投資ブームが起きた。この時期、国内生産(GDP)の伸びは年平均9%に達したが、 この数年はアジア経済危機の影響もあって海外からの投資は伸び悩み、経済成長もやや減速気味だ。
 こうした中、7月にアメリカと通商協定を調印した。再び海外進出が期待されており、 潜在的な市場規模や優秀な労働力などから、日本経済との結びつきもさらに強まると予測されている。

首都圏からぐっと便利に
   日本からベトナム(ホーチミン)への直行便は94年に開設された。 97年に増便、現在はベトナム航空との共同運航便も含め週7便(1便のみ片道)が運行されている。 所要時間は約5時間。ただいずれも関西空港からの便で、首都圏在住者は羽田空港からの乗り縦ぎが必要だった。 「成田=ホーチミン直行便開設で首都圏からの所要時間は大きく短縮される。 運行は木曜日と日曜日の週2便。日本航空は日本人ビジネスマンのほか最近急増している女性観光客の需要などを見込んでいる。
(読売新聞)


正平調

 姫路カトリック教会のハリー・クワードブリット神父に合った。1979年9 月、インドシナから日本に着いたボート・ピープルをいち早く受け入 れ、日本最初の定住促進センターを姫路仁豊野に開所するきっか けを作った人である。十数年ぶりの再会。あのころと同じように、優しい笑顔で迎えてくれた。 4年前のセンター閉鎖後、しばらく姫路を離れていたが、5月に戻ってきた。 やはり、難民たちの「その後」が気になるのだという ◆当時は、姫路に戦争が持ちこまれたようだった、と20年前を語った。 同国人であっても他人を信用せず、いるはずのないスパイに常におびえていた。 殺伐とした空気。考え方の違いからか、病苦の難民の受け入れを拒んだ病院もある。 日本社会にも戦争の構図を見る思いがした。 ◆ボランティアにしても、当時は、SPの未熟さに驚いた。 毎朝台所の掃除をするべトナム人の習慣を知らず、 きれいに整理された台所をボランティアがまた掃除していた。 善意のつもりだろうが、相手には失礼な行為に映る。 何事も、相手のことをきちんと理解した上でそう言い続けた ◆べトナム戦争終結の戦争は何だったのか。当事 国をはじめ、自問と反省が内外で広がっている。本国の変ぼうぶりと同様、確かに日本 の難民社会も変わってきた。だが、暮らしや心の問題がまだ根深く残り、ハリー神父の 元に相談に来る難民は後を絶たない◆オランダから来日して44年。難民と日本社会 の橋渡しをして21年。70歳を迎えても老いるわけにはいかない。
(神戸新聞)


サイゴン風
自由な発想どこまで実現?

 1975年4月、旧北ベトナム軍により解放され旧南ベトナムのサイゴン (現ホーチミン市)は市場経済を導入した86年のドイモイ(刷新)政策に乗ってベトナム経済の中心地に成長した。 国内総生産(GDP)に占める割合は17・5%で、首都ハノイの約3倍。 一人あたりの月収は約59万ドン(4,500円)ハノイの約2倍だ。
 「南」は経済力を蓄えつつあるが、それに見合った政治力はない。 国営紙記者(38)は「旧ベトナム政府軍、およぴその家族は一千万人いると言われるが、共産党や国家 機関のポストには就けない。国の将来にとって深刻な問題だ」と話す。 国営ホテルに勤める女性(47)は「国営企業だけでなく、合弁企業でも非共産党員はトップにはなれない。 でも、南の資本主義の経験が必要だから、北の人間はサイゴン人を補佐役として置く」と証言する。 「南」で警戒の目を光らせる公安幹部は、「北」出身者で固められていると言われる。 ホーチミン市民の多くは、サイゴン解放を「北の支配の始まり」と振り返る。
 ドイモイ政策制定で中心的役割を果たしたのは、 旧南ベトナムの中銀総裁や首相代行を務めたグエン・スアン・オアイさん(78)だ。 南の発想がドイモイに生かされ、それが90年代ベトナムの経済成長を導いた。 オアインさんは今、ドイモイ政策策定の経緯を本にまとめている。 「(ベトナム統一後の)南の貢献を北が明確に認めれば、南の人間は喜んで、 いっそう手を貸すでしょう」と執筆理由を話す。ただし、オアインさんは共産党入党 を勧められたが断った経験があるという。 「自由に思考することが、自分にとって大事だから。それがサイゴン風です」と打ち明けた。
 ホーチミン市では、人権活動家や非合法の仏教団体指導者らが自宅軟禁状態に置かれている。 北部でも「再教育キャンプ」の経験を基に書かれた小説が今年3月、発禁処分になった。 「自由に思考すること」は、共産党の一党独裁体制下では、容易ではない。 ある先進国のガイ交換は「自由化が進んだようでも、自由な思想や独立した精神は抑圧される。 ベトナム人には可能性があるが、体制が許容する枠との落差が大きすぎる。 才能のある人は逃げてしまう」とベトナムの将来を憂慮する。
 ソ連式社会主義体制が敗北した冷戦終結後、ベトナム外交も変化を迫られた。 95年には米国と国交を樹立し、かつての反共連合・東南アジア諸国(ASEAN)にも加盟した。 その一方で、中国とも昨年末、陸上の国境画定条約を結び、年内にトンキン湾海上国境画定を目指すなど、 関係改善に努めている。
 ホーチミン市を最大の窓口にして、国際社会に門戸を開きつつあるベトナムは、 情報化の波にさらされている。ベトナム戦争を指導したポー・グエン・ザップ将軍の娘婿は、 今、ベトナム最大のインターネット・プロバイダー会社(国営)の社長を務める。 党は今、21世紀の国造りの基本となる「2010年までの社会・経済戦略」の策定にかかっている。 戦略は、「歴史的に重大な大会」(党中央委)と位置づけている来年3月の第9回党大会で採択される。 工業生産額で50%を割った国営部門に、どの程度まで「指導的役割」を維持させるかなど、 党部内で激しい議論が続いている。
 「サイゴン風」の自由な発想がどこまで採用されるのか。 財界人は「大きな変化が起こるとすれば、それはサイゴンから」と語る。 「サイゴン風」が抑圧されるようだと、国家統一に結びついたベトナム戦争の意義がくすんでしまうことになりかねない。
(読売新聞 ハノイ 渡部惠子)


「真の友情を」
元スパイの祈り
元北ベトナム政府スパイのファン・スアン・
アンさん(奥西義和撮影)

 ベトナム戦争後、米大統領として初めてベトナムを訪問したクリントン米大統領は19日、 四日間の滞在日程を終えてホーチミン(旧サイゴン)から専用機で帰途についたが、 この歴史的な訪問を複雑な思いで見つめていた元北ベトナム軍情報部員が いる。
 ホーチミン市に住むファン・スアン・アンさん(73)。 アンさんは1960年からベトナム戦争が終わった75年まで英通信社ロイターや、 米ニュース週刊誌「タイム」のサイゴン支局長として働いた。 「サイゴンで最もいい情報源を持つ男」として知られ、 「米中央情報局(CIA)のスパイ」と疑われたこともあった。
 だが実は、大佐の肩書きを持つ北ベトナム軍情報部員で、 公文書などをもとに米軍や旧南ベトナム側の中・長期的戦略を分析し、 北側に定期的に報告していた。
 第二次大戦直後、18歳で革命に身を投じた。ソ連(当時)でゲリラ戦の手法を学び、帰国後52年、 北ベトナム軍の戦略情報部門に配置された。57年までフランスに対抗するため米国との協定を推進、 米カリフォルニア州に2年間留学し、60年に帰国した。 留学期間を「人生で一番楽しかった」と振り返るアンさんは、 米国にも多くの友人がおり、「友に忠実でありたい」という信条との葛藤にしばしばさいなまれたという。
 アンさんは今回のクリントン大統領の訪問で 「戦争が新しい時代を切り開こうとする若い世代の重荷になってはいけない」と改めて感じた。 ますます相互依存を強める時代だからこそ、 「私が米越双方に多くの友人を得たように、孫たちの世代が両国のきずなを深めてほしい」と。
(読売新聞)


こどもたちの笑顔を励みに
ベトナム・フエ市から日本人初の名誉市民賞を受けた 小山道夫さん

 観光先のベトナムで見た光景が、人生を変えた。あかまみれの子どもたちが、 外国人を見ると、はだしで物ごいに走る。路上で、肩を寄せ合って眠っている。 「この子たちをなんとか助けたい」。
 東京で小学校の教員をしていたが、職も捨て家族も残してベトナムにきたのが1993年。 かつての教員仲間などから資金を募り、古都フエに「子どもの家」を建て、住む場所も、 頼る人もいない子どもたち150人の面倒を見てきた。  
「ベトナムの『子どもの家』を支える会」ベトナム事務局長。54歳。
 活動を始めたころ、当局から「日本のスパイ」と排斥され、国外追放されそうになったこともある。 そんなどん底で力になってくれたのが、自分を「タイ(先生)」と慕う子どもたちだった。 昨年子どもの家にいた少女が大学に合格した。 「先生になって、後輩に勉強を教えてあげたい」。 ほかの子どもたちも、将来の夢に目を輝かせるようになってくれた。 そのことが何よりうれしい。
 自身、十代で父と弟を亡くし、「命のはかなさ」を思い知った。 だから、生きるということは金でも名誉でもない。 「自分がいることによって、少しでも社会が良くなることだと思うのです」。
 数年後には活動から手を引くつもりだ。 「大切なベトナムの人々が自立すること。 次は日本の不登校の子どもたちを連れて行き、生きることを学ぶ機会をつくりたい」。
(読売新聞)


お願い

 皆様ご存知のように、私たちは新しい出発点にたたされました。 姫路のベトナム人共同体、甲子園教会を始め皆様からの励ましのお言葉が、 メール、ファックス、手紙で殺到し事務局を驚かせております。
トラピスチンのシスターたちも静かに祈ってくださることは力強いかぎりです。  国籍のない難民の子供たち、学校でのいじめ、 就職、職場での差別など排他的な日本社会が変わっていく希望をもってこのパンフレットを作っています。 これからは皆様のご協力が今まで以上に必要になってまいりました。少しでも ご援助頂けましたら幸いです。送金先は下記の通りです。よろしくお願い申しあげます。

 銀行:横浜銀行鹿島申支店
   名義:在日ベトナム人連絡協議会
 代表:ファム・ディン・ソン
 口座:828−1230670

 郵便振替:
 口座番号:00230−6−69934
 口座名称:在日ベトナム人連絡協議会
 加入払込局、加入払出局:川崎鹿島田(備考欄に難民、または「チョットいいこと」とご記入ください。)

新書紹介
 ベトナムの老人はなぜ元気なのか (東洋式老いの技法)
 ドーホン・ゴック 著  皆川一夫 訳


チョットひとこと

 緑が鮮やかに感じられる季節を迎えました。
 地球上の生き物はそれぞれのおかれた環境で、自然のめぐみを受けながら毎 日力いっぱい生きています。おのおの異なった衣を付け、適切な食物を摂り、 外的や気侯から身を守るためにさまざまな形の住居を持って生活しています。 私たち人間も自然に囲まれて生活の場に相応しいものを選びながら毎日を過ご しています。
 寒い日が続いている間、植物も動物も、そして私たちもやや固くなって日々を送っていました。 しかし、暖かくなると草木の芽が萌えいで花が開き、 雪や氷も溶け出して大地が目をさまして生活を始めるように見えます。 人間の体も少しずつ柔らかさを取り戻してきます。 科学的理由はさておき、人の心も周囲の人たちの暖かさによって和やかになり、 柔軟性を増して開くことができるようになります。 また、現在のように世界的に経済分野に冷え込み状態が訪れると、 そのようなところでも連鎖反応的に活発さは失われてしまいます。
 文明的に進歩をとげる一方、人類は危機的な現象に直面しています。 優れた機械を用いて人間の頭脳が生み出す最高の研究結果をもたらす事は素晴らしいことで、 異議を唱える人はいないと思います。しかしいっぽうでは、 便利な生活を求めれば求めるほど自然界を汚し、 新しい病気を発生させたり電力不足に悩まされることになります。 能率的に仕事をするはずだったのが返ってアレルギーに悩まされ、 薬の効果が強すぎてショックを受けたり、さまざまなことが起こっています。 さて、四月から新しい年度になるわけですが、 これからも現在住んでいる環境を大切にしながら、 それぞれの民族のアイデンティティーを失わずに生活できればと願っております。 環境を生かし協力しながらさらに前進していきましょう。
 皆様へのお知らせですが、今までベトナムの方々の窓口、 交流や相互の助け合いなどに協力してきました難民定住委員会は解消し、 「在日ベトナム人連絡協議会」が活動始めた関係で、四月から連絡窓口は、 川崎のカトリック鹿島田教会に移ります。今後ともよろしくお願い申し上げます。

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