もどる
チョットいいこと 90

不明米兵捜索強化を
手の届く豊かさベトナム「韓国ブーム」
タオダン HIV感染の子供たちの家
ベトナム戦争終結25年
近況報告
国籍法研修会に参加して
14年ぶりの夏
チョットひとこと



不明米兵捜索強化を
米国防衛庁 ベトナム首脳に要請

 【ハノイ13日=渡部恵子】
 1975年のベトナム戦争終結後、米国防長官として初めてベトナムを訪れたコーエ ン長官は13日、ハノイで、ファン・バン・チャー国防相、ファン・バン・カイ首相 らと相次いで個別に会談した。4月にサイゴン「解放」25周年を控えるベトナムを、 かつての敵国の国防長官が訪れたことは、国交正常化から5年を経て、ようやく両国 が「段階的かつ透明な協力関係」(コーエン長官)の構築に動き出したことを意味す るものだ。
 この日の協議では、米側は、地雷除去作業、水害対策、医療研究分野などへの協力 提案。また、約1500人にのぼる行方不明兵(MIA)捜索活動の強化を求めた。コ ーエン長官は、一連の会談後、ハノイに隣接するハタイ省のMIA遺体捜索現場を視 察し、ベトナム側の捜索協力に、感謝の意を表明した。
 ハタイ省でコーエン長官は記者団に対して、ベトナムが求めているとされる米軍の 散布した枯れ葉剤被害者に関する合同調査については「話し合った」と述べた。その 上で、「ダイオキシンの影響調査について協力する準備があることを伝えた」と語り、 米軍の戦争責任とは切り離した「科学的かつ技術的」調査を行う意向を示した。
 ベトナム側は、枯れ薬剤被害者を百万人と堆計。ベトナム政府はこれまで、 米政府へ公式な補償要求はしていない。ただ、2月には、枯れ薬剤被害者に ベトナム政府が補償を行うとの方針を初めて発表している。 将来、ベトナム側が何らかの“償い”を米側に求めたにせよ、米国はその可能性 はないことを明確にしている。ハノイ訪問に先立ち、コーエン国防長官は、「謝罪は しない」「戦争は双方が傷を食った。過去の見直しはしない」との見解を表明してい るからだ。長官は14日、グエン・ジー・ニエン外相、チャン・ドク・ルオン大統領 と会談、15日には、南ベトナム首都だったホーチミン市(旧サイゴン)を訪問する。
(読売 新聞)


手の届く豊かさ ベトナム
「韓国ブーム」
ハノイ市内の韓国衣料品店で
ショピングを楽しむ若い女性たち

 「その服すてきね」「韓国製よ」−。ベトナムの若い女性の間で、 こんな会話が最近よく交わされている。韓国ファッションがブームなのだ。 韓国製の特徴は?韓国人の経営するハノイの衣料品店の店員は、 ダボっとしたセーターを指して、「例えばこんな感じ」という。カジュアルが特に人気だ。
 繊維製品はベトナムの輸出産業の主力。だが、ベトナムの若者にとって、 自国製は国際的流行を意識したデザインで品質も良い。 ベトナム製より価格は張るが、手が出せない値段ではない。 輸入品を身につけるぜいたく感も味わえる。
 ブームに火をつけたのは、国営テレビが昨年放映し、大好評だった韓国のドラマ2 本。一つは3〜10月放映の「兄弟」で、同じ女性に恋をした物語。もう一つは、 4〜5月放映の「医者の家の兄弟」。裕福な医師の家の長男とその弟(実は養子)の葛 藤を描いたものだ。どちらも日本のトレンディードラマ風。登揚人物はしゃれた服に 身を包み、豪華な家に住む。
 市場経済導入に伴い、生活に余裕の出てきたベトナム国民の間に、豊な生活へのあ こがれが膨らんでいる。それが、ドラマのヒットした土壌だろう。ドラマはまた、ベ トナム国民の韓国観を良い方に変える効果をもたらした。従来ベトナム戦争に派遣さ れた韓国軍の激しい戦いぶりから、韓国に対し否定的イメージが強かった。
 それが変化し始めたのは、1998年12月に東南アジア諸国連合(ASEAN)と日中韓三 ケ国の首脳会議に出席した金大中大統領が、韓国の派遣を「遺憾」と表明したことに さかのぽる。ベトナム側も「過去を閉じて未来を開こう」と応じ、両国関係の新時代 到来を印象づけた。
 そんな外交の流れとも相まって、市井では最近とみにハングル文字の看板が増えて きたように見える。今、手の届く豊かさは「韓国」にある。戦争の記憶は確実に薄れ つつある。
(ハノイ 渡部 惠子、写真も)


タオダン HIV感染の子供たちの家

 ホーチミン市内に何万人というストリートチルドレンがいる。親が怖いから家には もどりたくない、空腹を満たしたい、安心して眠れる場所が欲しい、病気のときに 誰かに助けて欲しい、読み書きができない・・・・彼らは抱えきれないほどの 問題を抱えています。
 しかし最近では薬、売春というような更に大きな問題が彼らにのしかかってき ました。そしてこの問題は大きな落とし穴まで作り出しているのです。−HIV感染 ー薬の恐ろしさも売春の危険性も知らずに、その世界へ足を踏み入れていく子供たち。 ある子は現実を逃避したくて、またある子は自分の恵ま れない環境を満たしたくて薬や体を売買します。人に誘われ るがままに引きずりこまれる子供もいま。しかし中でも最 も悲惨な原因‥それは実の親によって売春のために売られ てしまうこともあるのです。不条理な現実に翻弄され、抵抗 する術も知識もなく、ただそれに甘んじてしまう子供たち。 そんな彼らを待ち受けているのがHIV感染という現実なのです。
 ホーチミン市内でストリートチルドレンの保護活動を行っている団体「タオダ ン」も今、この大きな問題に何とか対応策を見出そうとしています。というのも、 施設で生活している子供たちの中に、HIV感染者が出始めたのです。彼らは薬物使用 あるいは売春の経験がある10代の子供たちです。まだ幼い彼らにHIV感染の現 実を受け止めさせることは容易なことではありません。それに現実的に、彼らに先進 諸国の感染者のように長期にわたって薬を投与することもできません。それだけのこ とができるプロジェクトがベトナム国内にはまだ存在しないのです。 
 しかし、感染した子供たちをこのまま見捨てることはできません。何とかこの現実 に対応しなければなりません。ただ、私たちが彼らのためにできることは非常に限 られています。それは、感染の現実を一人ひとりに本人がきちんと受け止められるよ うに告知すること、そして、最後の瞬間まで希望を捨てずに生きる喜び、人生の目的 をもって安心して生活できるように精神的サポートをしてあげることなのです。
 お心のある神父様より、タオダンに1軒の家が提供されました。市内にあるこの家は、 2階建てのスペースもかなりある家です。タオダンはこの家を改築し、経験の あるスタッフを常駐させ、HIV感染者の子供たちの生活場として使う計画をしてい ます。この家の運営が始まれば、行き場のない子供たちが互いに助け合いながら残され た時間を過ごすことができるようになるでしょう。
 社会の底辺で生きるストリートの小さな子供たちのために、このタオダンの「HIV 感染の子供たちの家」にご理解を項ければ幸いです。どうか、彼らが残された時間を 安らかにすごせるよう、ご協力をお願いいたします。

 所在地:32/4 Duong Binh Long,To 4,Phuong 16,Quan Tan Binh Than pho Ho Chi Minh.
 運営目的:HIVに感染したストリートチルドレンのための共同生活支援およびメンタルケアー
 活動内容:カウセリング、職業訓練、学校教育
 年間運営予算:52.600.000 VN $ (40万円相当)
 スタッフ:常駐1名。  ボランティア 3名
 収容人数:8名 定員
 責任者:Nguyen Van Hung 施設長
     Nguyen Doc Khuan 管理係
     指導員(未定)
 顧問 :Nguyen Thi Ngan Hoai, Cao Thi Hoa, Nguyen Van Tam,
     高山 親、(イエズス会司祭) 加藤 隆子  


ベトナム戦争終結25年
小倉 貞夫

  ベトナムのサイゴンは、公式にはホーチミン市と言われているが、 現実の生活ではサイゴンと呼んでいる。ベトナムの人たちは、 かつての救国の指導者の名をつかっている市を「ホチミン」と呼び捨てにすることもかなわない。 「タイフォ・ホチミン(ホチミン市)」というのも面倒くさい。
 1975年4月30日、南ベトナムの首都サイゴンが北ベトナム正規軍の大攻勢で陥落 してから四分の一世紀がたとうとしている。「サイゴン陥落」がアジアの現代で大き な出来事として記録される理由は、30年にわたるベトナム戦争の決着をつけたこと、 べトナムの勝利、世界最強の米国の敗北という図式を象徴する事件だからである。
 軍事作戦からみた「サイゴン陥落」は、北軍の勝利、南軍の敗北である。三百万人 を超す大都会を包囲展開した軍事作戦で市民の犠牲者がほとんどなかったこと、特殊 工作員たちの活動によって、電力、水道、通信のライフラインが何ら支障も受けずに 保守されたことも珍しい。だが、「サイゴン陥落」を歴史の連続した過程の一つとし て考えると、まったく別な見方が生まれる。
 大勢の難民の発生、経済危機などは南部解放のなかで被害者となったものたちの証 言で語られているが、サイゴンを支配した立場の指導者の怒りと悔恨は、やはり記録 されなければならない。チャン・ヴァン・チャは、べトナム労働党(共産党)中央委 員で、南ベトナムに展開していた北人民軍の総指揮官だった。サイゴン・ジャディン 地区軍事管理委員会委員長としてサイゴンを支配する軍事機構の最高責任者となっ た。
サイゴン陥落。サイゴン前大統領官邸に入った
 ベトナム解放軍の戦車と兵士たち=1975年4月30日
 チャン・ヴァン・チャは、「サイゴン陥落のあとにとんでもないことが 起こった」と批判する。「ベトナムの大失敗は、サイゴン陥落のあと 、南北統一を急いだことだった。南にはサイゴン政府とは別に、共産党が主軸となって つくられた南ベトナム臨時革命政府が存在し、世界のほとんどの国から同時に承認されていた。 臨時政府を消滅させずに、南臨時革命政府が交渉を続け、数年たってから南北統一の事実をじっく りと考えるべきだった」
 彼は語り続ける。「北の指導部(レ・ズアン書記長)は南部に社会主義が合 うはずがない。南臨時革命政府、南ベトナム解放民族戦線を消滅させ、強引 な社会主義を強行したため、国際社会は『ベトナムは力ずくで南を合併して しまった』と判断した。指導部が勝った、勝ったと浮かれている間にそっぽ を向かれた」サイゴン陥落によってベトナムの国家運営は一変して 「全土社会主義化路線」となった。広範な抵抗勢力に参加した南ベトナム軍は解体され、 南部の共産党は、抵抗勢力に参加した多くの有為の人材は遠ざけられ、 弾圧された。チャン・ヴァン・チャはこの路線転換を痛烈に批判した。
 ベトナム戦争の本質は、ホ・チ・ミン主席の訴えのように、民族民主革命であり、 救国戦争だった。「われわれの村を守ろう」。この目的のために多くのベトナム人は アメリカの戦いに参加した。アメリカはベトナムの抵抗に敗北した。ベトナムはどう なったか。指導部の経済政策の失敗は国民をどん底の生活に追いやった。戦争に負け た米国がソ連を圧倒し、経済の繁栄を謳歌し、ベトナムの国民は敗北感に打ちひしがれた。
 レ・ズアン指導部が交代して、ドイモイ(刷新)政策と呼ばれる経済改革がはじまり、 軌道に乗ってきたのは1990年時代からである。1995年に米国との国交は正常化したが、 ベトナム側が要望している最恵国待遇などの経済関係は発展せず、この3月にベトナム を訪問したコーエン米国防長官はベトナム戦争中の行方不明兵の捜索を主張しただけで、 通商協定すら締結されなかった。ベトナム側では約30万人にのぼる行方不明者がおり、 いまだに遺体は発見されていない。
 チャン・ヴァン・チャは自著が発禁処分を受けたが、1990年米国の大学に呼ばれ、 サイゴン攻撃作戦について詳細に報告し、かつての敵側と胸襟を開いて熱心に討論し た。その後間もなくして世を去った。「われわれは大きな誤りを犯した」と彼は述懐 する。「サイゴン陥落のあと、官僚主義は国民の不信を増大させた。政治の責任は国 民に答えたであろうか。政治の責任は国民生活の向上を目指すことにある。政治は現 実だ。指導者が幻想をもったとき、国民の生活はどうなるか。悲惨なものになる」。 彼らが悔いながら、遺した言葉である。


☆近況報告

○ 僕の名前はブゥーヴィエーファンです。ガーさんの代わりに KFCで3週間ぐらい手伝いをしました。この仕事は初めてなので仕 事の内容はよく分りませんでした。
 始めの1週間は電話を聞いたりしました。ある日一人のベトナム 人のおばあちゃんが来られて「私は体が悪いみたいなので病院へいっしょに行っても らえませんか」と言われまた。僕の知っているおばあちゃんなので、いっしょに行き ました。通訳をしました。さすがに僕もつかれました。おばあちやんは何か、うれし そうで、僕に向かってありがとうと笑いながら言いました。僕は考えました。KFCの 仕事は人を助けるためにあるんだと思いました。
 あっという間に3週間終わったけど、KFCでいろんな事が勉強できてほんとうによ かったと思っています。これからもKFCで学んだことを生かし、人助けに頑張りたい と思っています。               
(プゥ ヴィエ ファン)

○ ただい〜ま。皆の助けがあったからこそ、親孝行ができたのでありがとう!  両親は1945年ベトナムの南北分列がきっかけで南部に渡った。あれから一度も 故郷へ帰れなかった。46年ぶりに両親を連れて生まれ育った所へ行った。行くまで、 気持ちが落ち着かず非常に心配だった。南部の共和国で大きくなった私はなんとなく 北部の社会主義に違和感をもっている。しかし、出会った現実は(衛生面以外)全て よかった。貧富の差はあまり感じない社会だった。政府の制度によって、世帯の人数 分に土地や畑を永遠に(?)貸してくれる。収穫によって農作物や税金額が決まる。 (南部では、この制度はまだ実行出来ていない)食料は自給自足なので、怠け者以外 は生活に困らないようである。生活に必要なお金は、農業の合間に大工をしたり、畳 を作ったりしてお金を得る。
 涼しいうちに働いて、暑〜い太陽が出たら外の仕事は中止。けっして慌てずのんび りとした生活。食事は全員でする。晩ご飯は、わずかなネオンの光を利用して、庭で 家族(時々近所の人もまじって)おしゃべりする。月がある夜は、これだけでも絶景。 (月の)光は全ての物を包み、この景色は、何よりも素晴らしい。そこで見た月は日 本の10倍以上も明るく感じた。最高に贅沢な時間だった。
 自然の恵みを現代人は忘れている気がする。
(ハ ティ タン ガ)


「国籍問題」勉強会に参加して

  去る7月20日(木)、日本カトリック会館にて、水上洋一郎氏(法務省入国管理 局東京入国管理局長)を講師にお迎えしての“国籍法”についての勉強会が催されま した。ちなみに、今年の5〜8月にかけて定住者の方々を対象に私が実施したアンケ ート調査によれば、「将来の希望:あなたは将来どこに住みたいと考えていますか?」 という質問項目に対し、定住者の13.9%、永住者の34.6%、平均すると定・永住者 のおよそ4人に1人が日本への“帰化”を希望していました。一方で、実際に帰化を 果たしているのは、定住許可取得者の4.1%に過ぎないというデータ(平成11年3 月現在、定住許可者10,417名中、帰化者428名:アジア福祉教育財団難民事業本部編 『難民事業本部案内』1999.4.1.pp.12−13)が存在しています。こうした理想と現 実の間の大きな隔たりの裏には、どのような事情が存在しているのでしょうか?その 答えと問題の改善に向けた取り組みの一端を、今回の勉強会の中に垣間見ることがで きます。
 以下、要約を施しつつ勉強会の様子をご紹介していきたいと思います。出席者は 水上氏を始め、ベトナム人定住者、帰化経験者、サポート業務に携わっていらっしゃ る教会関係者の方々等、総勢19名。インドシナ難民による日本国籍取得の現状と申 請手続きの際の問題点についての報告がなされた後、水上氏の講話、そして質疑応答 へと続きました。終始和やかな雰囲気の中にも、各々の立場を反映しての切実な声、 現状についての疑問が寄せられ、その一つ一つについて丁寧な解説と回答が加えられ ます。
 まず、“国籍”とは特定の国家と個人を結ぶ法律的な絆であり、そこから権利と 義務の関係が発生します(水上氏)。国籍の有無は、国内においては生活基盤の設定 と安定[例:進学や就職等]に直結する問題であると同時に、国際社会における個人的 信用[例:海外渡航等]に関わる問題でもあります(トルン・ジュン師、他)。何より も、自己のアイデンティティの所在を規定するという意味合いにおいて国籍の有する 意義は大きく、こうした事情を背景に、定住者の方々はいわば真の物質的・精神的「自 由」を獲得すべく(竹内麟太郎師)帰化申請を試るわけですが、その際、障害となる のが申請手続きの際に発生する次のような諸問題です。

(1) 日本政府へ提出する申請書類の中に、 本来難民として母国を出国した者には、 ODPの場合を除き、入手困難な証明書類 (母国における出生証明書、結婚証明書、 国籍離脱証明書等)が含まれている。 定住者は自己の法的な存在根拠を母国 に問うことが難しい状況下に置かれているのであって、 これらの書類の準備 には多大な困難が伴う。この問題は、無国籍の子供たち(二世以降)の発生と も無関係ではない。
(2) 膨大な量の日本語の申請書類は、 申請作業を担う一世にとって過重な負担となっている。 定住後、生計を支えるために時間 と労力を費やしてきた一世の中には、 日本語能力が十分でないケースもあり、 そのことが申請手続きを困難なものとしている。
(3) 申請受付を行う行政窓口において、 担当者の態度から申請受理への消極的姿勢 が感じられ、帰化申請者の精神的負担となっている。 かつては、帰化後の氏名 のカタカナ表記が認められず、漢字表記を強要されるなど、 窓口レベルにおい ては法的正当性よりも業務遂行上の慣習が優先されるなどの不条理が発生したこともあった。

 これらに対する水上氏の回答は以下の通り。

(1) 国籍は出身国とその国民との契約であり、 契約の有り方はその国の国籍法に 依拠している。難民認定の取得とベトナム国籍の得喪とは 異なる次元の問題である。 つまり、ベトナム国籍の得喪(運用法)についてはベトナム国内 の内政レベルの話である。 ベトナム政府と在日ベトナム人定住者との間にもはや日常的な 接触がないからといって、 国籍離脱に関するベトナム政府の見解を待たずして、 法的レベルにおける両者間の 関係性が消滅したと日本政府が判断する立場にはない。 現在の日本政府の見解としては、 在日ベトナム人定住者はベトナム国籍を有していると認識している。 在日ベトナム人定住者の法的な存在根拠(国籍の所在)をめぐる不透明さと、 それに起因する申請手続き上の問題を解決する手段としては、国籍離脱に関する ベトナム政府の見解を日本政府が引き出すことが必要となってくるが、 そうした方向に日本政府を動かすためにも、帰化申請の時点で、申請者が日本における 国籍法の運用をめぐる原則ついての認識を深め、日本政府にアピールする方法が有効である。 日本においては、「国籍唯一の原則」により、国籍の消極的抵触、 つまり無国籍者の発生を防止 すべきという指針が設けられており、 これについては国際的な了解が得られている。 この原則遵守の義務を、まず日本政府に訴えることが重要。
(2) 日本の国籍法においては、 国籍の取得の際にまず血統主義(血縁関係)が重視され、 生地(出生地)主義が それを補う指標として位置付けられている。一方、 日本において“戸籍”という制度 が存在しており、帰化するということは そのシステムの中に入り込むということも意味している。 膨大な申請書類は、 本来戸籍が提供すべき情報の補填を目的としている。
(3) 申請受付窓口における担当者の態度について、 もしそれが事実であるならば、 帰化申請を終了した人が事実関係を取りまとめ、 行政相談窓口(総務庁)等に報告すべき。 まずは発言をすることが重要。

 以上、勉強会の内容を簡単にご紹介しました。今回の勉強会においては、定住者 の方々が個々の事例を挙げて提示した国籍をめぐる問題点に対し、水上氏が国家ある いは政府間関係というよりマクロな視点からの解説を加え、結果、問題発生に絡むメ カニズムの一端が明らかとなりました。総じて今回の研修会の最大の収穫は、双方が 自ら担ったアカウンタビリテイ(説明責任)を誠実に果たし、実態の把握といった点 において一致(合意)を見るに至ったという点にあると思われます。自らの立場や事 情のみならず、話し合うべき相手のそれをも理解し、共に構築可能な共通の足場に対 する客観的認識や洞察を深めていくこと、そうした機会の蓄積こそが、事態の進展に 向けた糸口となるのではと感じました。定住者と国籍をめぐる問題が、総括的に、か つ具体性をもって語られた今回の勉強会は、その端緒を切り開く重要な機会となった ように思います。
 1970年代に発生したインドシナ半島での政変以降、日本政府が受け入れたイン ドシナ難民の総数は、平成12年7月31日現在、10,592名。その86.8%にあたるh、9,194 名が定住しています(アシア福祉教育財団難民事業本部編『ていじゅう』2000.9.1. p.15)。新たに受け入れられるインドシナ出身者もODPがその大半を占めるなど、日 本におけるインドシナ難民に対する援助活動は、難民の救援保護と定住指導から、政 府・公的機関・民間団体等による、“家族”を単位とした定住 促進、アフターケアへと様変わりしました。定住促進に向けた 定住者本人、関係者諸氏の目指すものが日本社会における物心 両面での“自立”であるとするならば、国籍の取得はその帰結 の一形態であると言えるでしょう。
 かつて神奈川県大和市にありました定住促進センターに て、入所間もない方々と接したことがありました。ODPによる 入所者が多くを占める今日においてもなお、共にいる家族を、 あるいは離散した家族を思う気持ちの切実さが自然と伝わってきて、胸が熱くなった 記憶があります。そうした家族を慈しみいたわる気持ち、そして何よりも自らの存在 を専重する気持ちの発露が、国籍取得への動機付けとなっていることは明らかです。 国籍の取得に絡む問題とそれへの取り組みは、定住者の自立のみならず、それをサポ ートする人々、ひいては受入国となった日本政府の難民政策における新たな段階へ向 けた指針の提示、及びその実現可能性を示すものとして、今後注目に値する課題であ ると確信しています。
 最後に、今回貴重な勉強の機会を与えてくださったカトリック難民定住委員会の 皆様のご厚意に、心より御礼申しあげます。
(九州大学院 文学研究科 社会学研究室 原口 律子)


14年ぶりの夏
金原 薫

 今年8月12日(土)〜14(月)まで、ベトナム人カトリック信徒大会が、仁豊野 で開かれました。このことを初めて聞いた時、深い感慨を覚えたのは、私ひとりでな なかったと思います。というのも1986年、今から14年前、日本で初めて同じ大会(DAI HOI CONG VIET NAM)がここで開かれたからです。14年!決して短い歳月ではありま せん。当時のリーダーの一人Dさんは昨年帰天され教会墓地に眠っておられますし、 Hさんは神奈川県に移られました。R師はフランスに戻られ、通訳のLさん一家はオ ーストラリアに移住されました。仁豊野教会の主任司祭ハンス・ヴェルテル師、着任 間もなくでした(彼もその後オランダに帰国され今もお元気とか)
 さらに当時はベトナム戦争終結からまだ10年。日本社会が初めて経験した難民受 け入れで、いろんなトラブルが各地でありました。こうした中でベトナム人たちは、 グランドに祭壇となる大きな舞台をつくり、会場を設営し、パンフレットを準備しま した。みんな手作りでした。カラーコピーが今ほど普及していませんから、参加者の ワッペンは、手描きのものをカラー写真に撮り、それをはさみで丸く切り抜いたもの でした。
 私もそれを胸に、取材に来たカトリック新聞の記者とその感動を語りあったことを 今も覚えています。大会の期間中、お揃いのTシャツ(そこにはWe love Himejiと ありました)を着て、彼らは祈り、歌い、語り合いました。ベトナムの人たちの日本 語は、今よりはるかにぎごちなく、私たちもベトナム語が全くわかりません(今もそ うですが)。でもそばに「佇んで、寄り添いながら続ける」ことで彼らの自由への強 い希望、深い信仰、愛に溢れた行動を実感することができました。
 今年は2000年、大聖年。これを記念してこの大会が再びこの仁豊野の地で開かれ ました。当時ごくわずかだったベトナム人の司祭も、その後10人近く日本で叙階さ れ、この大会にやって来られました。私たちの一番近くにおられる「寄留の人々」と さらに深く交わり、分かちあい、ひとつになる絶好の機会が与えられました。これこ そまさに大聖年の「恵み」そのものではないでしょうか。折りしも、平和旬間にあた ります。一人でも多くの方が、特別な協力や支援はできなくても、ベトナム人たちの そばに佇み、寄り添いながら歩みたいものです。愛のうちに、外国人とともに! 


チョットひとこと

 世界の目が集中したオリンピックも終わって、日本では秋風を感じる日々が訪れ、 快い季節になりました。しかし、いくら暖冬と予測されていても、すぐに「寒い」季 節がやって来ることは確かです。自然の移り変わりは、必ずしも静かで平穏な変化だ けとは限りませんから、嵐、地震、そして火山の噴火にいたるまで、あらゆる危険な 状態もどこかに潜んでいることを私たちは意識しています。
 自然界の動きや変化と同様、人間の社会にも強風が吹き荒れたり、怒りが爆発した り、醜い事件がおこったりして平和な生活が乱されることもあります。自分自身が混 乱していることもよくあります。しかし、一方において雄大な山や美しい緑が私たち によい気分をもたらしてくれるように、社会においても暖かい心に触れたり、ホット する雰囲気を感じたりするときに満足感を味わうことができます。こんなことを考え ながら「平和」というやや抽象的なことに目を向けてみました。
 私たちは時たまヘブライ語のシャロームという言葉に出合います。もともと平安を 意味するこの言葉には、「人間の最高の幸福をつくりだすすべてのものを」相手のた めに願い、最上のものが得られるように祈りにも似た心がこめられています。自分が 接している人によいことがあるようにという望みは、人間らしい豊な心の表れであり 平和につながるものだと思います。残念ながら、反対の現象も起こり得ますし、紛争 が絶えない世界の実情も見てはいますが。
 聖書では、「平和は積極的につくりだすもの」という意味でこの言葉が使われてい ます。何もしないで夢だけを追っている状態では人のためにも自分のためにも平和の 実を結ぶことはできないでしょう。もっと具体的に言うならば、多くの問題に直面し てそれに積極的に取り組み、解決することによって平和は生まれるということです。 そのような時に、苦しみの意味も分ってくるかもしれません。問題にぶつかったとき、 自分に対しても人にたいしても穏やかに解決の糸口を探そうとすることは、難しいこ とです。しかし、このような苦しみを乗り越えるときに自分一人の力ではなく、周囲 の人たちの力、そして目に見えない大きな力によって平和と安心への道が開けていく のだという実感が湧いてくるのです。

もどる