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チョットいいこと 89

最後のキャンプ閉鎖
戦後25年の傷跡
ベトナム司教2人任命
過去を見つめ交流促進
海の向こうは
ベトナム料理
神田 裕神父の報告
ボランティア基地からNGOセンターへ
世界ゴミ事情
カルメル会伊達修道院から
チョットひとこと



最後のキャンプ
ベトナム・ポートピープル
香港 一部は抗議居座り
1日未明、香港の「望后石難民センター」で、同センター が閉鎖された後も、敷地内に残るベトナム難民ら(AP)

 【香港1日=末続哲也】香港当局は1日午前零時(日本時間同午前一時)、 香港最後のベトナム難民キャンプ「望后石難民センター」(新界地区) を閉鎖した。国民高等弁務官事務所(U.N.H.C.R)香港事務所によると、 アジア各地の同様の施設は既に閉鎖されており、これらで1975年の ベトナム戦争以降、同国から百万人規模で流出したボートピープルの 四半世紀にわたる歴史に一応の終止符が打たれた。だが、キャンプから 出される難民たちには新たな試練が待ちうける。
 ピーク時17か所、6万人
 「どこでもよかった。共産圏以外の自由な国へ行きたかった」。88年6月、 木造船で香港に流れ着き、90年から同キャンプに身を寄せるベトナム北部 ハイフォン出身の男性ブイ・バン・ヒンさん(28)は、ベトナム出国当時のことをこう語る。
 英統治時代の香港は、東京都の約半分という狭い領土ながら、「人権尊重」をアピールするため、 ボートピープルを無条件に保護し、「難民}と認定された人には、第三国への定住を 支援してきた。この結果、香港は75年以降、二十万余のベトナム人を保護し、 うち十四万人以上が米国、カナダなどの第三国へ定住、残りの多くは難民認知を 受けられずにベトナムに送還された。
 香港に滞留する難民らはピーク時には六万人を超え、香港の難民キャンプは十七か所に 上がった。詰め込まれたストレスからキャンプ内では暴動や犯罪も相次ぎ、 九十二年にはベトナム人同士の対立が放火事件に発展、二十四人が焼死する騒ぎも起きた。
 中国系香港紙・文匯報によると保護のため七十九年からこれまでに約八十七億香港ドル (約一千二百億円)を支出した。だが、負担の大きさ、中国への香港返還、そしてベトナム 戦争が遠い過去たなったことから香港当局は、九十八年一月以降流れ着いたベトナム人に ついては、すべて不法移民と見なし、本国に送還する政策に変換。収容施設が次々に閉鎖 され、香港に残る難民らは約二千三百人にまで減った。
 香港当局は今年二月、こうした難民ら約千四百人に香港居住を認め、残りは本国へ送還す ることで最終解決を図る方針を示した。しかし、香港残留が認められた難民たちにも 「建設現場で臨時に働くぐらいしか職がない」(ブイさん)との厳しい現実が待ち受けている。 施設から出ることへの不安と不満から一日も、百人以上がキャンプ内に居座っているほか、 一部が香港政府前に座り込み、宿泊施設を提供するよう要求している。
(読売 新聞)


戦後25年 残る傷跡

  旧南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)が陥落しベトナム戦争が終結して、 25年がたった。戦後生まれが全人口の過半数を占めるようになったこの国で、オ− トバイでごったがえす町中を歩いていると戦争があったことさえ忘れそうになる。だ が人々の生活に一歩踏み込むと、深い傷に、がく然とすることが少なくない。
 「僕酒がのめないんですよ。酔うと“あの時”を思い出しそうで……。体が受け付 けない」。ホーチミン市内の食堂でビールを勧めると、A君(28)は首を振った。米軍 の軍属だった父はベトナム沖の艦上でサイゴンの陥落を知り、母とA君ら6人の子ど もたちを残して米国へ亡命して、音信不通になった。
 「将来のある若者は、米国など外国で出世させよう」旧南ベトナムの若者たちを中 心にした国外脱出が相次ぐ中で、母の勧めを受けて、長兄と2人、ボートピープルに なったのは14歳の時だ。多額の手数料を払い、乗せられたのは幅2メートル、長さ 10メートルほどの漁船。船底に80人を超す人々が詰められた。1日一口の水と一かけらの魚の干物、 横になることもままならず、劣悪な衛生状態、船酔い。数人が息絶え、海に投げ込まれるとい う地獄の日々を1週間続けた揚げ句、当時のソ連の貨物船に拾われてベトナムに逆戻り。
 再度、国外脱出を試みた長兄は船上で亡くなり、A君は靴磨きや宝くじ売りなどで 家計をを助け、勉強に励んだ。今は通訳のアルバイトで学費を稼ぎながら、信州大学 に留学、来春卒業を予定しているが、その先は未定だ。頑張り屋のA君が、過去を吹 っ切り、ベトナム産の「333」ビールののど越しを楽しめるようになるまでには、まだ時間がかかりそうだ。                       
(読売 新聞)


ベトナム司教2人任命
9回の交渉で

 【バチカン5月29日UCAN】教皇ヨハネ・パウロ二世は5月27日ベトナムのグエ ン・ビン・ティン神父とグエン・バン・タン神父をそれぞれダナン教区とビンロン教 区の協働司教に任命した。
 ティン被選司教(70)は、聖スルピス会会員で、1994年から同国中部フエ大神学院 の院長を務めていた。タン被選司教(57)は、南部のカイラン大神学院の院長だった。 今回の司教任命は、5月2日から7日まで、使徒座使節団とベトナム政府による9回 目の交渉の結果だった、と複数の教会筋が明らかにした。
 同国中部のダナン教区は、63年創立で、信者数は約53,000人。南部のビンロン教区は、38年創立で、 約168,000人の信者を擁する。今回の司教任命が発表される数時間前、ベトナムのグエン・デイ・ニエン外 相が、教皇庁国務省外務局長のジャン・ルイ・トーラン大司教を、「表敬訪問」していた。ニエン外相は、 イタリアを訪問していたレ・カ・フュー共産党書記長が率いるベトナム訪欧団の一員だった。
カトリック 新聞


過去を見つめて交流促進
NGOの招きで2青年全国行脚

 1975年4月30日の「サイゴン陥落」でベトナム戦争が終結してから25年。 ベトナムとの友好は過去を知ることから」と、アジアの学生との交流を進めるNGO 「日本アジア学生交流センター」(千代田区)が同国から2人の青年を招き、今月19日 まで全国の大学生との交流を続けている。
 87年発足の同センターは、フィリピンから来日する学生を受け入れ、ノホンからも学生 をフィリピンに派遣しながら交流活動を続けてきた。学生ら15人をベトナムに初めて送り出したのは昨年12月。 その後、「日本にベトナムの若者も招きたい」という申し出に、同国外務省が賛同した。 現在、来日しているのはホーチミン市外交事務所に勤務するグエン・バン・ニエムさん(34)と 外国語学校教員で同市青年昔年連合のメンバーのレ・アイン・テユオンさん(27)。 ニエムさんは2度目、テユオンさんは初めての来日という。
 センター側がアジアとの交流に興味を持つ全国の学生に呼びかけたところ、 10か所の大学や学生団体で交流会が開かれることになった。来日した9日から2人は東京外語大(北区)、 立正大(品川区)などで交流会に参加。10日は、三鷹の国際基督教大を訪れ、学生 たちと意見を交換した。
 ニエムさんは、フランスによる植民地支配にさかのぼってベトナムの歴史を説明。 戦争ではベトナム、米国双方に大勢の犠牲者が出たこと、その後のベトナムが「ドイ モイ(刷新)」という解放政策の下で、経済の成長途上にあることを語り、「コンピュ ーターで世界中の情報を得られる時代になったが、それだけでは交流にならない。 途上国と先進国の若者が直接会うことはお互いにとっていい経験になるはずだ」とした。
 「戦争で障害を負った子どもたちの対策は?」。学生からの質問に、ニエムさんは 「政府や慈善団体が努力しているが、予算に限界があり、受け入れる福祉施設も十分 でない」、「(米軍がまいた)枯れ葉剤を浴びた女性から生まれた女の子が20歳代 になる、今、不妊症の影響が出ている」と深刻な戦争の“後遺症”を語った。
 別の学生からは「べトナムでは、戦争を子どもたちにどう教えているのか」という 質問も。ニエムさんは「ベトナムは多くの国から侵略された歴史を持つ。学校では独 立の大切さ、戦争の悲惨さを教えているが、それは、外国への憎しみを植え付けるた めの教育ではない」とした。  同センターの永野浩二事務局長は「ベトナム戦争では、爆撃機が沖縄の基地からも 飛び立った。友好のために、戦争と日本のかかわりも知っておかねばならない」と話 している。2人はこれから、愛知(12日)、京都、大阪(13〜14)、岡山(15日)、福岡、 長崎(16〜19日)を回り、各地の学生と交流する。
読売 新聞


海の向こうは
教師が副業で課外授業

 ベトナムでは今、小学校の詰め込み教育が問題になっている。有力紙「ラオドン」 (労働総同盟機関紙)は最近、「小学校の詰め込み教育」を非難する記事を大きく掲載した。 「宿題が多すぎる」「暗記ばかりで独創性が育たない」などと問題点を指摘、 「学校が子どもから幼児期を奪っている」と警告鐘を鳴らしている。
 名門とされているハノイ市内のチュー・バン・アン公立小学校では英語を一年生から学習する。 三年生のフン・アイン君(8)の英語力は学年一。簡単な自己紹介を英語でしてくれた。 父は国営企業社長、母は図書館司書。学校の授業のほかに自宅で四時間勉強。 「遊ぶ時間はありません」とフン・ファイン君は言う。
   ベトナムの初等教育の現状は、有名校をめざす受験地獄とは無縁だ。 では、なぜ、初等教育の段階で「詰め込み」が間題になっているのか。 まず、教師が副業として家庭教師を積極的に行っている点があげられる。 ハノイ市内で食堂を営むハーさん(42)は、小学生と中学生の二女の母。 夫と共働きで、子どもの宿題は見きれない。「だから二人とも学校の先生に“課外授業”をたのんでいます」。 ベトナムでいう課外授業とは、有料で教師が行う訪問授業のことだ。
 二女の小学校の授業料は年間四十万ドン(約三千四円)、一か月あたりわずか二百八十円程度だ。 ところが教師への謝礼は一か月二十五万ドンもかかる。ハーさんは「宿題をたくさん出すのも、 課外授業につなげるための先生たちの陰謀かもね」と苦笑する。
 グエン・ハオ・教育・訓練省初等教育局長によると、小学校の教師の給与は月額五十万ドン。これに都市部で40%、 へき地で70%の手当てがつく。「他の職業と比べ悪い給与ではない」と言う。 しかし、教師が課外授業の収入に大きく依存している現状は動かせない。 ハオ局長も「課外授業は生徒に強制してはいけないことになっているのだが……」と苦々しい表情で語った。
 ベトナム戦争の後遺症が背景にあるとの指摘もある。今の子どもの親たちは、 ベトナム戦争のために教育を受けられなかった世代だ。平均年収が約三万円の同国では、 課外授業は大きな負担だが、「子どもには自分ができなかった勉強を思う存分やらせたい」との思いがある。 日本でも、昭和三、四十年代によく聞かれた親の願いだ。
 また、ベトナムは、かつて、中国の影響を受け官吏登用試験である科挙制度があった。子どもの出世を望む親たちの教育熱心さには、 こうした歴史的な文化風土もありそうだ。詰め込み教育への批判に対し、ハオ局長はこう反論する。
 我が国の教育は、80年代に戦争教育から改革に着手したばかり。詰め込み教育は、 大都会だけの問題で、農村では逆に、貧困のため生徒が勉強する時間を確保できないのが実情。 都会部と農村部の格差こそ、より深刻な問題だ」
(読売 新聞 ハノイ 渡部 惠子、写真も)


べトナム料理
若い女性にブーム・ほんのりエスニク

 米の粉で作ったライスペーパーで野菜や肉を包む、「生春巻き」に代表されるベトナム料理が若い女性 の間でブームになっている。中国文化の影響を受けているベトナム料理は、辛みや酸味の強いタイ料理な どとは違って、親しみやすい味の料理が多い。ライスペーパーや魚醤「ヌクマム」(タイのナンプラーと同 じ物)も手に入りやすくなっており、家庭で楽しめる。
 東京・蒲田の「福山商店」にはベトナム直輸入の香辛料や食材が数十種類もならぶ。「最近ライスペー パーやヌクマムを買いに来る人が増えました」。と同店。著書でアジアの料理紹介をしているフードジャーナ リストの平松洋子さんは「観光に行く人が増え、『現地で食べた料理を作りたい』という人が増えている」 という。平松さんに代表的な料理の作り方を聞いた。
 まずは、家庭料理「豚バラ肉と卵のヌクマム風煮込み」(4人分)。
<熱したなべに角切りにした豚バラ肉700グラムを入れ、焦げ目をつけ、余分な脂を捨てる。水1/2カップ を注ぎ火にかけ15分煮ながら、あくを丁寧に取る。酒2/3カップ、砂糖大さじ2杯、殻をむいたゆで卵6個、 ネギの青い部分1本分、みじん切りにしたニンニク3かけ分、しょうが1かけを加え、さらに中火で煮る。煮汁 が半分ぐらいになったらしょうゆ1/4カップ、ヌクマム(ナンプラー)大さじ2杯をを加え、煮汁がほとん どなくなるまで煮込む>
 ヌクマムのコクと塩気でほんのりとエスニツクな風味がする。「取り皿は使わず、大皿から取った肉や 卵をご飯にのせるのがベトナム流です」と平松さん。
エビ入り生春巻き
えびの赤と青ジソの緑が鮮やか。
ちょっと酸っぱいタレをつけるとおいしい

 現地でゴイ・クオンと呼ばれる「エビ入り生春巻き」(8本分)は屋台の味。
<大正エビ8本はゆでて頭と殻を除き、身半分の厚さに切る。ビーフンは水で戻して7aの長さに切 ったもの200c、さっとゆでたモヤシ1/2袋、青ジソの葉8枚、5ミリ幅ぐらいの細切りにした焼き豚 150cを準備する。水に5秒ほど漬けてふやかしたライスペーパをふきんの上に広げて、中心より少し 手前に青ジソを敷き、その上にビーフン、モヤシ、豚肉を適量にのせ、中心より少し奥にエビ2切れをのせる。 手前から一回り巻き、両側を内側に折って、さらに手前から巻いていく。途中で7aほどに切った ニラを挟む>
 最後にたれを作る。
<小なべに1/2カップ、砂糖大さじ1/2杯、ヌクマム大さじ1杯を入れて弱火にかけ、2〜3分煮立てます。 1/2個の絞り汁、ニンニク1かけらと水でふやかしたタカノツメ1本を細かくつぶして加える>
 素材の味を楽しむ、さっぱりしてヘルシーな一品。「ベトナムの家庭では、焼き魚をほぐして、 ライスペーパーに巻いて食べたりと、使い方は様々。破れにくいベトナム製を選ぶのがコツ」と平松さんは話している。
(読売 新聞)


神田 裕神父様の報告

 6月のはじめにバチカン大聖年の「移住者と移動者の祝祭」のイベント及びミサがありました。。 今回の祝祭の貫任者は教皇庁移住・移動者司牧評議会議長の濱尾大司教です。日本からは大司教に 招かれて国際協力委員会から4名の代表が参加しました。
 世界から集まった移住者や難民の人たち、船員や遊牧民、留学生、旅行者、そして巡業中の サーカス団員の人たちなどがそれぞれ集会を持ち、最後に教皇ミサに参加しました。 多くの人々が喜びのうちにこの数日間を過ごすことができました。
 濱尾大司教とはミサの次の日、皆で一緒に食事をすることもできました。大役を終えられた後 のホッとしたひと時を、ともに過ごさせてもらいました。職場の事務所も見学させてもらいました。 職場の雰囲気はとてもよく大司教の人柄が周りに生かされていることを肌で感じることができました。 大司教は疲れておられましたが、今の仕事に満足しておられました。
 以前日本で難民定住委員会の委員長であった濱尾大司教が、今バチカンで世界の移 住・移動者のために働いておられる。大司教によって日本にいる私たちもこれまで以 上に世界につながってゆける期待とチャンスに恵まれています。世界をもっと身近に 感じ、関わってゆくことができるよう願います。

ボランティア基地からNGOセンターへ
「たかとりコミュニティセンター」(TCC)を設立

 4月23日「たかとり救援基地」は「たかとりコミュニティセンター」(略TCC)となって新たな スタートをきった。震災から5年。同センターは被災地救援の枠を越えた「ひとづくり」の 拠点となることをめざしている。
 「センタ」として再出発
 最後の一人が町に戻って来るまで震災は終わりません。ここは忘れ去られようとしている人々 とともに歩む救援基地です」。阪神淡路大震災から5年。焼け野原となっていた鷹取教会の周辺地 域も、今ではすっかり日常を取り戻したかに見える。しかし、「たかとり救援基地」の思いは、け っして変わることがなかった。
 「それでも『救援』という枠のなかでの活動は、いつかおわりがきます。今年はじめに仮設住宅 が解消されたのはひとつの節目でした。これを機に、地域のなかでさらに大きなはたらき、 広いネットワークづくりをめざそうと、『たかとりコミュニティセンター』と名称もあらたに 再出発することになったのです」と、神田 裕神父(同センター代表) はのべる。「今では『非日常』から『日常』へと、活動の比重もうつっています。 しかし、『5年3ケ月前の地震』がここの原点であることに変わりはありません。
 やさしさが生んだ諸活動
 これまで「救援基地」には多くの人々が訪れ、ボランティア活動の拠点となっていた。 ここを訪れたボランティアの数はゆうに一万人を超えるという。この人々の集ま りから、やがておおくのボランティア団体が生まれ、基地内で同居するようになった。 「FMわいわい」「神戸定住外国人支援センター」「在日ベトナム人達絡協議会」 「神戸アジアタウン推進協議会」「多言語センター・FACL」「ワールド キッズ コミュニテイ」、「アジア女性自立プロジェクト」「ツール・ド・コミュニケーショ ン」(コンピューター教室やリサイクル)「MISDON(外国人支援ネットワーク) なぞ。この春には「まちの保健室」の仕事を引き継いで拡大される老人介護部門「リ ーフグリーン」が立ち上げられた。
 「このセンターは、それぞれに活動したい分野を持った人々の、ひとつの集まりで す。国籍や年齢、障害などによって疎外されることのない『ひとづくりまちづくり』 をめざす活動をサボートし、コミュニティを育てる場となることをめざしています」。 なお、同センターは7月ころにNPO(非営利組織)法人格を取得する予定である。
(大阪 カトリック時報)


世界ゴミ事情
ドイモイ初、肥料化処理場
ベトナム北部ハーザンで行われた
ゴミ処理場の起工式(ハノイ支局撮影)

 ベトナムでこのほど、企画的なゴミ処理プラントが着工した。 生ゴミを肥料としてリサイクルするという同国初の試みで、 しかも、事業を主導するのは民間企業。社会主義体制を維持しながら市場経済へ の移行を目指すドイモイ(刷新)政策の今後を占う一つの材料となりそうだ。着工し たのは、北部の地方都市ハ−ザンのゴミ処理施設で、完成は来年末を予定。提案・設計 したのは、環境関連ビジネスを手がける「グリーンテクノ社」。
 施設の中核は、斜面の上の約2fに建設される、うなぎの寝床状に細長く仕切った 何本もの廃棄槽。単純な構造だが、ここにゴミを順に置いて、たい肥したゴミを薄く かぶせると、たい肥中の微生物の力でゴミが水分とたい肥に分解される。水分は斜面 の下に流出するから、たい肥だけを取り出せる。いわゆるコンポスト(たい肥)化の 技術で、日本では家庭用にも機器が販売されている。
 べトナムでは、ドイモイ路線がスタートした86年以降の急速な経済成長により、 都市部を中心にゴミ問題が深刻化。政府統計によれば、全国で1日に出るゴミの量は 約1万1千7百トン(1999年現在)で、2010年までに約3倍に激増する見通しだ。 ゴミは一部が分別・リサイクルされるが、生ゴミは焼却せず土中に埋められ、雨など で土中かち露出した悪臭や、染み出した汚水が深刻な環境問題になっている。
 急速な都市化の一方で、人口の7割以上は依然として農業で生計を立てている。同 社代表のフイン・ムイさん(56)は「ベトナムのゴミの大半は、生ゴミ。コンポスト化 でゴミが大幅に減量され、肥料も手に入り農業に利用できる。一挙両得です」と話す。 ムイさんは、60年代初めから日本の大学で数学を学び、べトナム戦争後の77年に帰 国。その後、同国ではまだ少ない私立大学をハノイで設立、学長に就任した。
 私大学長と二足のわらじで経営する会社は、もともと環境問題などの研究機関だった。 90年代初めの会社導入で、何らかの利益をあげている団体は法人登録する必要 が出たため、民間企業として登録した。主な業務はクリーニングで、「環境コンサルタント では利益を追求しない。社会貢献のクラブ活動のような感じ」という。同社の 計画が認められたのは、他の事業での実績があってのこと。とはいえ、役所中心 だったゴミ処理事業への民間の参入は、この国の市民社会の発展にとって好材料とな りそうだ。       
ハノイで 渡部 惠子 (読売 新聞)


+ カトリック難民定住委員会スタッフの皆様

 先日は暖かいお見舞いのおことばをいただき深く感動いたしました。 本当にありがとうございました。こうして皆様の暖かいお祈りに 守られていたからでしょうか。修道院には物的な被害は何もなく 避難命令も寸前で解除され、ご復活際も修道院で祝うことができ 心から主に感謝をささげました。しかし、生活の場や生計の仕事を 奪われた方々の痛みを近くにいるだけに一層深く感じ、避難されている 方々と苦しみと不安を連帯しておりましたためでしょうか知らないうちに やはりストレスを負ったようでございます。
 でも、この人間の力ではどうすることもできない自然の偉大な力の前に 人々が主である神様の存在を感じとることができて、大聖年の大きな一つ の恵みになりますよう心から祈っております。  心から感謝をこめて  伊達カルメル会修道院一同
2000年6月12日  (有珠山噴火のおりのことです)

チョットひとこと

 「今」を生きている私たちを取り囲んでいるものは沢山ありますが、目に見える世 界は狭く、しかも必要なものは本当に限られているといると思います。その代わり頭の中で 描いている夢や思想の旅行は広く、そして目に見えないだけに無限に近い広がりをも っているような気がします。
 現在どこに住んでいても、たとえ故郷の状況が変化しようと、誰にでも「ふるさと」 と呼べるところはあると思います。そして、特に自分の生まれ育った土地を離れて みると、もっと広い視野から発見も含めて「ふるさと」を見直すことができます。
 静かに振り返ってみると自然現象のなかにも大きな意味が潜んでいることに気付 きます。話は飛躍しますが、日頃夕焼けに感動したり、友達と一緒に星空を見上げた 時など、その広い空間のなかで理屈なしに感動したことはありませんか?
 多くの苦難を経て祖国を離れ、同じ空でも日本という国にいて、その角度から夕焼 けを眺めた時にベトナムの皆さんは、どんな感じをもたれるでしょうか。また、どん どん土が消えていってコンクリートが多くなっていく町を見て、きっとある種の息苦 しさも感じられたことと思います。美しい自然環境を守る運動も盛んになってきまし た。しかし、それも物理的なことだけではなく心の中に一瞬立ち止まって夢の世界と 現実をつなげる小さな橋がないと、せっかくの美しい自然も縁のないものになってし まいます。心と自然との掛け橋を大切にしましょう。

 日本の童謡には夕暮れの情景をうたったものが数多くありますが、今回は一人の詩 人が心の動きを素直に描いた作品を紹介してみましょう。
「夕焼け」
ゆう焼けをあび
手をふり 手をふり
胸には ちさい夢をとぼし
手をにぎりあわせてふりながら
このゆうやけを あびていたよ
(八木 重吉)

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