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チョットいいこと 88

定住ベトナム人の子どもたち
幸せの権利
ベトナムの旅で
クックさんからの便り
ベトナム人看護婦奮闘中
大型犬 ベトナム富裕層の証?
貧しく老いる「女の村」
日本人男性のための「恐妻会」をつくった
チョットひとこと



定住ベトナム人の子どもたち
伸び悩む高校進学率
日本語やベトナムの歴史など、 さまざまな学習に取り組む 「ヴァンヴェルーム」の子どもたち =姫路市花田町勅旨、市史花田小学校

 難民として日本に定住したベトナム人子どもたちの高校進学率の低さが、 小学校の日本語指導教諭の大きな問題となっている。 日本がベトナム難民を受け入れて二十年。 今、授業を受けているのは、日本で生まれ育った子どもがほとんどで、日本語を話せる児童は増えた。 しかし、専門的な学習用語を理解できない子が多く、高校受験の大きな障害になっている。 小さい時からどう教えていけばいいのか、小学校の先生が悩んでいるのは、その点である。 姫路の小学校の現状を探った。(西尾和高)

 1979年、ベトナム難民の支援施設・姫路定住促進センター(姫路市仁豊野)の設置に伴い、 多くのベトナム人が姫路に住みはじめた。 同市内の小学校では、日本語を教える教諭が増員された。

 現在、小学校の日本語教員は、14校に配置されている。 神戸市2校、明石市3校、加古川市2校など。 姫路市は最多で、花田、城東、東、御国野、4校に置かれている。

 教諭は個別に、漢字の読み書きなどを指導している。 こうした活動に加え、花田小学校では、毎週金曜日、 ベトナム人の児童たちに日本語やベトナム文化を教える「ヴァンヴェルーム」には14人のベトナム人が在籍している。 ほとんどの子は日本語が堪能だが、算数、社会のテストで30点ほどしか取れないという。 6年生のある男児は、「倍数」「分数」「生産量」などの学習で使われる用語の意味を理解していないことがわかった。

 花田小学校の香山佳惠子教諭は 「日本語が話せても、日常で使わない学習用語は理解できない。 低学年から授業についていけない子もおり、中学に上がっても高校進学どころではなくなる」 と話す。 姫路市内にある小学校におけるベトナム児童の中学卒業後の進路調査でこんな実態がわかった。 92年=就職・2人▽ 93年=定時制高校・3人▽ 94年=全日制高校2人・就職2人▽ 95年=全日制・3人▽ 96年=全日制・2人、就職・1人▽ 97年=全日制・1人、就職・3人、無職1人。

 県内の全日制高校への進学率は96%以上だが、ベトナム人の子どもたちは、ほぼ3人に1人の割合でしか進学していない。 日本語指導の担当教諭たちは悲痛な声で訴える。 「小学校だけの取り組みにせず、ベトナム人児童の学力向上を考えて、 一人ひとりの学力を市教委、同じ校区の中学校にも把握してもらいたい」

 教諭たちの叫びに対して姫路市教委は 「今後、外国人の国籍別による進路の追跡調査や、学習用語集の作製などを前向きに検討したい」 とする。 早期の実施が望まれている。

 定住外国人の教育に取り組む県在日外国人教育研究協議会(神戸市)は 「高校進学率の低さの姫路だけでなく、多くのベトナム人が住む神戸などでも問題化している。 県内の公立高校には新来外国人に対する特別枠がなく、入試制度の改善も急がれる。
(神戸新聞)


幸せの権利
南那須町荒川中学校2年
グエン・ティ・ホン・ハウ

 「みんな僕が嫌いなんです。 きっと僕をみると戦争を思い出すからでしょう。 みんな僕をみにくいと思っているんだ。」

 先日、私は新聞で私の祖国ベトナムの番組が放送されていることを知り、両親と一緒にその番組を見ました。 その番組では、戦争の中にアメリカ兵とベトナムの女性との間にできた子どもたちについてやっていました。 確か、そんな子どもたちを“アメジリアン”と呼んでいたような気がします。

 ベトナムの戦争時代、人々の生活はとても貧しく、生きるためにはお金が必要でした。 そして、そのお金を持っていたのはアメリカ兵でした。 ベトナムの女性たちはそれを知っていて、生きていくために、お金のために、働いていました。 売春とう形で......。 その頃のベトナムにはそれを規制する法律がなくアメジリアンと呼ばれる子どもたちは増えていきました。 しかし、アメリカ兵は国に帰り、母親は子どもたちを養えず、路上で暮らしたり、子どもを捨ててしまったりしました。
私が初めて書いた言葉は、そんな子どもたちの一人の口から出たものです。 アメジリアンの子どもたちは嫌われていました。 政府にまで......。 自分たちを苦しめたアメリカ兵の子どもだから、戦争を思い出してしまうのです。 孤児院にも入れてもらえず、路上で暮らし、まだ子どもなのに働いていました。 特に、黒人との間に生まれた子は、ひどい差別を受けていたそうです。 父親の顔も知らず、周りの人はみんな敵......。 いったいどんな思いで毎日を過ごしていたのでしょうか。 私はこの番組を見るまでアメジリアンという言葉も、そんな子どもたちがベトナムにたくさんいることすらも知りませんでした。
ハウちゃんとお姉さん

 今、私は日本で暮らしています。 私は日本の人から見れば“外国人”です。 しかし、私は、周りのみんなと自分が同じだと思うし、私の周りの人たちもそういう事をあまり意識せずに私と接してくれています。今の私は、毎日学校に行き、色々な事を先生から学び、友達と笑い合い、おいしい給食を食べて、家に帰れば父や母がいます。 いろいろな事を話し、相談でき、めんどうくさがり屋の私を叱ってくれる姉もいます。 休日には、家族みんなで出かけたり、友人と遊んだり、おしゃれを楽しんだり、自分の趣味にうちこんだり、 部活では、自分の大好きなクラリネットの練習をし、先輩たちもとても優しくしてくれます。 私は毎日をとても楽しく過ごしています。

 時には悲しいことやつらいこともありますが、支えてくれる人たちがいます。 私はとても幸せです。 しかし、アメジリアンの子どもたちのほとんどの人が、 周りの人々から差別を受け教育も受けられず、親もなく、大人になってもベトナムで職業につくのは難しいそうです。

 なぜ私たちとこんなにも違うのでしょう。 私や友人、先生も私の家族も部活の先輩たちや、もちろんベトナムの子どもたちも、たくさんの権利を持っています。 たとえ、外国人でも親がいなくても、そんなことは関係ありません。 人として生まれた以上、すべての人には人権があるはずです。 それにもかかわらず、私たちの人権は守られてその子どもたちの権利が守られていないのはなぜでしょう。 私はわかりません。 きっと私にはわからない難しいことがたくさんあるのだと思います。 それでもこのままではいけないような気がします。 こんなとき自分の無力さを思い知らされます。 何かをしたいと思っても私はこの人たちを理解することさえできないのです。

 人は 「みんな平等だ」 とよくいいます。 私もそう思いますし、そうだったらいいなと思います。 しかし、現実はうまくいきません。 人権といっていながら、学校でのいじめや、違う国の人、自分の考え方の違う人に対しての差別があるのです。 世界中の誰もが“幸せになる権利”を持っているのだ、と私は思います。 それを奪うことは誰にもできません。 しかし、アメジリアンの子どもたちはそれを奪われてしまったのです。 戦争によって......。 今まで数え切れないほどのたくさんの人々が戦争の犠牲になっています。 そしてたくさんの人が 「戦争はいけない」 と言っています。 それなのになぜ人は争うことをやめないのでしょうか。 いつか世界中の人々のこころの中が幸せでいっぱいになる日が来ると思います。
全国中学生人権作文コンテスト県大会
(宇都宮地方法務局県人権擁護委員会連合)


ベトナムの旅で

 A君は、1982年難民として日本に来た人である。 日本へ来て間もなく 「あかつきの村」で日本語や日本の風俗習慣の勉強しながら赤堀の電気機器会社に勤め一生懸命働いていた。 日本語の覚えも早く、仕事も真面目であり、先輩を尊敬するとともに誠実であり、人間的に素晴らしいものを持っているので、 会社では誰からも好かれ可愛がられ、信頼されていた。

 そのA君と私は 「あかつきの村」 を通して知り合いになり、この地域に住む人間として、お互いに心を通わせ励ましあう関係を今日まで続けている。 1998年暮れから1999年正月にかけて、A君親子と一緒にベトナムへ旅にでかけた。 A君のお父さんお母さんの住んでいる集落は、ホーチミン(旧サイゴン)市から 国道1号線を北方へ約300kmほど行ったところにあるニン・ソンという集落である。

 熱帯モンスーン気候のところであるから植物はよく茂り、 ハイビスカスをはじめ多くの草木が赤・白・黄色など美しい花を咲かせ自然に彩りを添えている。 ここの地域の農業主生産物は米と砂糖黍だそうである。 トラクター・耕運機も動いているが、 牛に鍬を引かせたり荷車を引かせるという風景は、時間がゆったりしていることを感じさせる。

 この地も1973年以前は、野原であったとのことである。 ここに住む10、000人を超える人たちは、もともとベトナムの中部の街で生活していたが、 南北で争ったベトナム戦争で、街が戦火で焼かれ、破壊されてしまったので やむをえず生きる場所を求めてこの地に集団で移住して野原を耕し、今の生活を築き上げたそうである。

 A君のお父さんは、当時この集団のリーダーであったので 飲料水をどうするか、雨を凌ぐ場所をどのように作るか、食べ物をどのようにして得るか、 みんなが行き交う道をどのように作るかを、皆で考え力を合わせ開拓に取り組み生き抜いてきたそうである。

 現在73歳であるが、もう十分に働くこともできないし、 自分の生活も豊かではないけれど障害をもってしまって貧しい生活をしている人々などに いつも目を向け励まし援助の手をさしのべている。 苦しい生活をしてきた人には苦しい生活をしている人たちの心がわかるのか、 人間として共に生きる 「共生」 の美しい姿を見た。

 ベトナムへ行き4日日に、ニン・ソンから約1500km北に行ったところにあるニャチャンという港街を訪れた。 ニャチャンは、ベトナムの代表的なリゾート地である。 ほぼ5kmにわたって延びる白砂のビーチ。 その白浜に沿って緑の美しい椰子の木が並木のように生え木蔭をつくりだしている。 その下には椅子が並べてあり、快い海風を受けて休養をとる人が見られる。

 外気温は、30度を越す暑さである。 A君と私も、この木蔭の椅子に身を横たえ心地よい海風に吹かれてながらまどろんでいた。 (この地もベトナム戦争時には激戦地であったと聞く。 この街の70%の家は、難民として脱出した人々と関係があるという。)

 10数分経った時であろうか、A君が突然語り出した。

 「1982年の1月、私は伯母の家族15人と一緒に、9m程の小さな漁船で、 左手に見える岬から警備の船が帰ってくる日中、外国船が通る航路を目指して脱出したんです。」 「小さい船で外国船が通る航路まで行き、発見され救助される確率は30%くらいであると言われていたから、 海が荒れないように祈り必死でした。」 「ニャチャンを脱出して2日間が経過。 どこを見渡しても海原だけ、日中には太陽が見えるだけ、夜は星が見えるだけ、外国船は見えない。 皆で海原の果てを目を凝らしてじいっと見つめる。 船は見えない、不安はつのるばかりでした。」

 「でも、私たちは幸運でした。 シンガポール行きの船と大阪行きの船の間に漂流していたので両船に発見され、大阪行きの日本の船に救助されました。」 「そして日本へやって来ました。 働きながら日本語の勉強をしました。」 「当時の日本は外国人を受け入れる準備が十分にできているとはいえず、 日本に来た難民のほとんどが定住先はアメリカやヨーロツパを希望していました」

 「私も、定住先をどこにするか決めなくてはならない時がやってきました。 伯母の家族はオーストラリアを定住先と決め、移住することになりました。」 「私も、伯母の家族にオーストラリア行きを強く求められました。 ベトナムを脱出するときから、生死を共にしてきた人たちですし、 今までも大変お世話になった伯母の家族の人たちの意向にしたがわなければ.... という思いはあったのですが.... 」 「いろいろ考えたけれど、遂にオーストラリア行きを断りました。」 「伯母、および伯母の家族には申しわけないのですけれども.... そうするより私は、いたし方なかったのです。」 「それは子どもの頃のことです。」

「ベトナム戦争中アメリカの兵隊さんが、私たち子どもの遊んでいるところへもよくやって来ました。 そして、トラックの上からチョコレートを投げてくれました。 そこまではよかったのですが、そのうちに子どもたちがチョコレートを追い拾う姿がおもしろいのか、 子どもたちがいない方向へチョコレートを恵むということから... 私たちを犬か他の動物のように、 餌を追い求める動物と考えたのでしょうか... ? 人間に恵むのだったら、人間に恵むようにして欲しい、強く心に思いました。 そして、そのチョコレートを投げた白人が嫌いになりました。」 「定住先を決めるという大事なときに、ふと子どもの頃のことを思い出しました。 これから先永い間生活することを考えると、 チョコレートを子どものいない方へ投げた白人のことが気になり... 東洋人の日本人ならば、 そんなことはしないと思い... 伯母の強い誘いも断り日本に定住することになったわけです。」

 私は、このA君の話しに強いショックを受けた。

 ベトナムの人たちとの付き合いも十数年になるが、この間に 「チョコレート」 を投げるようなことはなかったか? 「与えてやる」 「恵んでやる」 という傲慢な態度はなかったか? 人間として隣人として、互いに尊重しあって共に生きてきたか?

 障害をもってしまった人や弱者に対しても、差別をしたり心を傷つけるようなことをしなかったか? 考えさせられることばかりである。 何気ない言葉・何気ない行動が人の尊厳を侵し、人の心に傷をつけることを。
千吉良進作


クックさんからの便り

 こんにちは。 いろいろお世話になっています。 私は3年生になりました。 皆様のお陰でここまでやってくることができました。 本当に感謝しております。 これからも頑張っていきたいと思っております。

 ボランティア委員報告。

 時って早いです。 もう3年生になりました。 2年のクラスメンバーがあまり変わっていません。 これでよかったのかもしれません。 高3になるといろいろ忙しくなると思います。 これからの進路のことなどを決めなければならないし、大変だと思います。 でもがんばりたいと思います。
暁星国際高等学校3年グエン・ティ・キム・クック


ベトナム人看護婦奮闘中
先輩の指導を受けながら点滴をチェックするトゥ・フォンさん

 日本の看護技術を母国に伝えようと来日した4人のベトナム人女性が今春、 日本の看護婦国家試験に合格し、それぞれ首都圏の病院で4年間の実務研修をスタートした。 筆記も面接もすべて日本語で行われる国家試験にベトナム人が合格したのは初めて。 高いハードルを乗り越えた4人は 「一つでも多くの技術を吸収し、母国に帰って生かしたい」 と意欲満々だ。

 看護資格を取得したのは、ホアン・ティ・トゥ・フォンさん(23)ら二十歳代の4人。 企業などの健康増進に携わる 「ジェー・エフ・ビイネットワーク共同組合」 (東京都港区) が推進する 「ベトナム人看護婦(士)養成支援事業」 の第一期生として1997年に日本の看護学校に合格、今回、難関を突破した。

 同支援事業は ベトナムの医療省、労働・傷兵・社会省などの肝いりで派遣されたベトナム人学生らの学費や生活費を補助したり、 ハノイでの日本語教育、実務を身に着けるための病院紹介などを行っている。 八王子市内の病院で勤務を始めたトゥ・フォンさんは、ハノイの南約百二十キロの農村タイビン村出身。 都立青梅看護学校を卒業し、一日6時間の猛勉強で国家試験を乗り越えた。
(読売新聞)


大型犬 べトナム富裕層の証明?
オートバイでリース用の番犬を届けるスタッフとハーさん(右)

 ベトナムに出現しつつある富裕層の間で、グレートデンなど純血種の欧州の大型犬がひそかなブームだ。 愛がん用というよりも、番犬を兼ねたステータスシンボルといった方が当たっている。 一匹の相場は千ドルから三千ドル(月収三千ドルの平均的国民にとっては、目の飛び出るような額だ。 ベトナム流経済開放策、ドイモイ(刷新)で財を成した企業家が主な顧客だ。

 ブームを見越し、大型犬ビジネスで成功したグエン・マイン・ハーさん(43)に会った。 ハノイ郊外、ノイパイ空港近くの 「職業犬訓練センター」 の事実上の経営者だ。 番犬のリースもする。 日越合弁の建設会社が最近、建築資材置き場の番犬として月八十ドルでリース契約した。 ビジネスに乗り出すきっかけは五年前。 病気の雌の高級犬を飼い主から二十ドルで譲り受け、看病した。 犬は回復し、雄とかけ合わせたら子犬が生まれ、子犬は三千ドルで売れた。 この時ハーさんは考えた。 「経済発展が続けば、人々はモノを欲しがるようになり、手にしたモノを守る必要を感じるようになる。 良質の高級番犬は絶対売れる」 と。

 ハーさんは三千ドルを資本金として、別の場所でビジネスを始めた。 ある日、国立ハノイ農業大学獣医学部の教授が見学にきた。 それが縁で、学生が実習として犬の病気の治療にあたるようになった。 その後、ハーさんは犬とスタッフを同大学の所有地に移すことにし、同センターを設立した。

 ハーさんは実は警察官である。 大型犬ビジネスは副業。 そして、同センターは同大学の付属機関だ。 ハーさんは職員ではない。 センター運営の実態は不明りょうだ。 ハーさんは大学の土地と看板を借り、大学はビジネスの恩恵にあずかっている。 マスコミは、ドイモイの成功者としてのハーさんに注目し始めた。 警察の職業も、このビジネスを奨励しているという。 世界銀行などはベトナム経済の不透明さを批判し、それが外国投資をしり込みさせている、と指摘するのだが....。
(ハノイ 波部惠子、写真も   読売新聞)


貧しく老いる「女の村」
ベトナム戦争終結25年祝賀ムードの中

 ベトナム建国の父ホーチミン元国家主席の故郷、同国中部グアン省に 「女の村」 として知られる集落がある。 ベトナム戦争や終結25年を祝う式典が同国各地で華々しく開催される中、 戦争で夫や恋人を失ったり、結婚の機会を逃した女性らが、 貧困の中でひっそりと老いを迎えていた。
(グアン省ペンタイン村で渡部惠子、写真も)
息子のティン君のことを「母親思いのいい子です」と誇らし気に話すグエン

 ハノイから南に300キロ、扇状の紅河デルタのかなめの部分に位置するグアン省は290万人。 夏暑く冬寒く厳しい気候と山がちな地形のため農業生産力が低く、昔から貧しい。 同省はベトナム戦争などに50万人の兵士を送り込み、少なくとも33、000人が戦死している。 また、省そのものも米軍による北爆の対象になり、省都ビンは壊滅的打撃を受けた。

 そのビンから北へ約70キロ。 イェンタイン郡ペンタイン村の集落ロイの116戸のうち、女性世帯は約30。 グエン・ティ・ニャンさん(50)の夫は、1967年から南べトナムでゲリラ戦に加わり、戦後帰郷したが 「南での任務が残っている」 と出て行った。 戦争中、米軍の爆撃から集落内の食料庫を守った気丈なニャンさんは黙って見送ったが、 後で夫がホーチミン市(旧サイゴン)で別な家族と住んでいるのを知った。

 夫との間に一女がいたニャンさんは12年前、一人で子どもを産んだ。 「年をとる前にどうしても息子が欲しかった。 息子は父親がだれか一生知ることはないでしょう」。 こう言って、かたわらの少年の手を握りしめた。 集落には未婚女性も20人ほどいるが 「私のように一人で子どもを持った人も多い」 とニャンさんは言う。 同省婦人連盟では、 『ベトナムではシングル・マザーは通常、軽べつの対象』 と社会規範の厳しさを指摘したうえで、 「でも戦争の犠牲になった女性にはみな同情的だ」 としている。

 ほとんどが農業に従事する同集落では、平均の現金収入は月35、000ドン(約2、165円)と、 全国平均のわずか十分の一。 ドイモイ(刷新)政策による外資ブームや経済成長から取り残された農村部の典型だ。 ニャンさんは 「息子にはかわいそうだけど、高校にやる余裕はない」 と言う。 25歳の息子を100キロ離れた別の村に働きに出した。 「戦争さえなければ夫を失わなかった。 家族ばらばらにもならなかった」 と嘆く。

 同じ集落のグエン・ティ・ボンさん(65)は抗仏の第一次インドシナ戦争の時から志願して道路整備や食料運搬を行い、 1960年代はラオス国境地帯でのホーチミン・ルート建設にも従事した。 だが、68年、米軍の爆撃がロイ集落を襲った時に目をやられ、ほぼ失明状態に。 その後は子守りでわずかな収入を得ていたがこご最近は体力が衰え働けなくなった。 ボンさんは 「平和になって空襲で逃げまどわなくてもいいのが何より」 と喜ぶが、 「平和な世の中をこの目で見られないのがつらい」 と言う。

 同行の同省職員によると、 省政府は外国の民間団体(NGO)の融資制度を女性らに利用させるため、集落の女性リーダーに研修を受けさせているという。 貧困対策も外国頼みだ。 しかし、解放路線導入後の87年ごろから複数の外国援助団体が集落を視察したものの、具体的援助にはつながっていない。
(読売新聞)


ベトナムで日本人男性のための「恐妻会」をつくった
江田 要 さん

 日本人男性とベトナム人女性との結婚が増えているが、 同時に文化・生活習慣の違いによる悩みがたえない。 「先輩として何とかアドバイスできないか、そういう集いの場があれば良いと思って」。 ベトナム人を妻に持つ日本人男性のための生活互助組織 『恐妻会』 の旗揚げを呼び掛けたのは昨年の秋だった。

 ベトナム人には恐妻家が多いと言われ、会の名前もそれにちなんだ。 インターネットのホーム・ページを開設し、ベトナム在住会員20人は電子メールでも情報交換。 毎月一回定例会を開くが、妻の同伴は厳禁だ。 「妻は5歳の時に母を亡くし苦労してきただけに、自分の景観や人生観を基準に動く。 頑固者です」。 恐妻家ではないと強調しつつも、目じりは下がりっぱなし。
江田 要 さん

 横浜市に生まれ、山口県光市で育った。 米軍岩国基地で働きながら、英語を勉強し 「30歳代のうちに何かやろう」。 旅行で訪れたベトナムが目に焼き付き、1994年2月、蓄えた20、000ドルを手に単身、ホーチミンへ。 「当時のベトナムは、日本の戦後の混乱期と同じ状況だった。 街灯も不十分で、自転車が市民の足代わり。 商売に食い込む余地がある。」

 ところが、目を付けたビデオのレンタル業はとん挫し、 大金を投じた土産物販売店も約3ヶ月後に立ち退き命令がでて、たちまち資金が底をついた。 妻のホアさん(25)と出会って結婚したのは、そのころだ。 「妻は一生懸命働いて、父や兄弟の面倒を見てきた。 自分は音を上げられない」。 96年には長男・大和君が生まれた。 日本人ビジネスマンを対象に住宅のあっせん業を手掛け、明朗会計に徹したことが評判を呼び、商売も軌道に。 「妻がいたからこそ自分も頑張れた。 ベトナムに来て10キロ以上も太ったのは自分だけでは」。 40歳。 ホーチミン在住。
(神戸新聞)


チョットひとこと

 世界中の人たちは、みんな兄弟姉妹なのだ、と言葉では安易に表現してしまう私たちです。 事実そうなのですが、毎日の生活や社会の営みの中では必ずしもその言葉の通りにないってはいません。 人間は、互いに共感できる素晴らしい存在なのに敵対関係になってしまうことも免れない複雑な内面性と動きをもっています。 友達についても同じようなことが言えると思います。

 今の情報社会にあって、世界中の人々が手をつなぐことは易しくなったように思いがちですが、現実はなかなか厳しいようです。 知っていることと本当に正しく理解することは違うからでしょうか。 多くの情報から自分に必要なものを選びとる事の難しさと同時に、顔の見えない人と人との交流が難しいと感じる場合もあります。 人の権利を大切にという言葉の上で理解している人は、大勢います。 差別してはならないことも、理屈では分っています。 しかし、具体的なことになると、知識や理想とまったく違う反応を示す湯合があるのです。 海外から日本を訪れる人たち、やむなく自分の国から出て日本にたどり着いた人たち、 生活のために働く場を求めて入国した人たち、 研修その他を含めれば数多くの条件をもって私たちの隣人になった 「友」 あるいは 「兄弟姉妹」 がいます。 しかし、残念なことに外国から訪れた人々は、一部の人を除いて皆が満足してくれているとは思えません。 国とか政府の組織的なありかたについても多くの問題はありますが、 まずは私たち個人のモラルが高められて、 人権や自由平等について深く考えるようになることが重要で、小さな日常のことからでも実行できると確信しています。

 雰囲気は少し変わりますが、皆さんはこの詩をご存知ですか?
「友達の喜び」
友達と話しして、話しがはずんで来て、
二人の心が、ぴったり、ぴったり、あって、
自ずと涙ぐむ時、人は何者かにふれるのだ、
何者かに。
(武者小路 実篤)

 理屈ではなく、マニュアルでもなく、自然な暖かい触れ合いによって人を大切にしたいものです。

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