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チョットいいこと 87

被災地を訪ねて
「世界人権宣言」を考える
ささえ合う心
5月の節句
初めでのベトナムへの旅
伝統守るべトナム版画展
神戸テトを終えて


被災地を訪ねて
ベトナムの大洪水
 ベトナム中部、美しい古都フエのあるトウア・ティエン県から南北にかけての一帯、 一般に中部地方と呼ばれる地帯に11月、集中豪雨による大洪水が発生し、 その被害は日本の九州とほぼ同じくらいの範囲に及んだ。 この被災地をNGO(非政府組織)として 現地の人々の生活向上のためホーチミン市を拠点に働く 日本人信徒・田尾さん(仮名)が12月1日から5日まで視察。 「こんなひどい洪水は10年ぶり」と土地の人も語る被害状況の現地リポートを、 東京のカトリック信徒宣教者会(JLMM)事務局あてに寄せてくれた。
カット 村の周辺の集落は一面水に覆われ、
ボートがなければどこにも行けない
 洪水がおきてから1カ月、この地方の小さな村で働くカトリック司祭を訪ねた。 路上を覆っていた水は既に引いていたが、田畑はまだ水につかり、 飛行機から海のように見えていたところはすべて水田だったことに気付いた。 村の周辺には農業を営む小さい集落が点在しているのだが、ボートがなければどこにも行かれない。 そこの住民は村の人々よりさらに貧しく、その住まいの多くが竹を編んだ衝立のような壁に、 わらやトタンの屋根を乗せただけのもので、みんな流されてしまっていた。
 ブロックの家やコンクリートの教会ですら崩れていて、残った建物も中は空っぽだった。 「全部海へ行ってしまったよ」と、 住民の一人がまだ海のような田んぼのかなたを指差し「牛も豚も鳥もいなくなってしまった.....」とつぶやいた。 みんなが財産を失った。避難所はコンクリートの家や教会の屋根、舟の上など。 人々は1週間をそこで過ごしたそうだ。 雨降りの状態で気温が15度から20度、 暑い気候に慣れている彼らにとっては、さぞ「いてつく寒さ」だったことだろう。
 被災後、多くのお年よりや子どもが風邪をひいたり病気になったと聞いた。 薬は? と尋ねると、ほとんどの人が「自然に治るのを待つだけ。あっても買わないよ」との答え。 別のところで「薬なら買った。あるよ、ほら」とポケットから大事そうに取り出したおじいさんがいた。 見ると、使用期限をとうに過ぎていた。 人々が受けた援助は、各家庭に衣服5キロとインスタントラーメン2、3袋。 しかも全壊した家の中から選ばれた数軒で、支給は一回きりだった。 あとは教会や民間からのコメや衣類の配給に頼るだけ。 もちろん足りない。 各都市から届いた物資は町止まりで、その量もたいへん少ない。

 私が訪ねた司祭は、自分でホーチミン市まで行き、親戚、友人、知人のところを回ってはお金を集め、 それを活動資金にしていると話してくれた。 「今年は世界で大きな災害が幾つも起きた。 だからここにはだれも注意を向けないよ」と寂しそうに笑った。 そうかもしれない。 ベトナムは情報の発信量が少ない国だから目立たなかったのだろう。 しかし一つ言えるのは「災害の規模は違っても、被害を受けた人々の苦しみ、悲しみの大きさは同等である」ということ。
 滞在中、再び雨が降り出した。 3日3晩、少しもやまない。 フエ市に戻る途中で既に水が路上に達している場所を通った。 フエより南の地域では洪水となっているため、道路が封鎖され、電車も止まった。 幸い帰りの飛行機は一日遅れて何とか飛んだが、次第に水かさが増えるのを目の当たりにし、 後に残した人々のことが心配ですぐニュースを見た。 案の定、二度目の大洪水報道。 やはり広範囲だ。 「弱り目にたたり目」といった様子なのだ。

 ベトナム水害への支援先は郵便振替口座00170−1−178114カトリック信徒宣教者会「ベトナム洪水」と明記。
(カトリック新聞)

『世界人権宣言』を考える
カット  私は、公民で「世界人権宣言」について勉強しました。 そこには「すべての人間は自由、平等である。身分や地位による差別を受けない」などと記されています。 以前の社会には自由を奪われ、差別の中で一生を過ごした人が大勢いました。 では、今日、人権がしっかりと守られているでしょうか。 また、自由、平等で差別のない社会が作られているでしょうか。 私は、この夏(1999年)「あかつきの村」へ行く機会をもちました。 そして、これ等の疑問について考えるきっかけを与えてもらいました。
 「あかつきの村」には30人のベトナム難民の人たちが住み、 町の工場に通ったり、村で働いたりしていました。 村長さんは自ら資金を集め、仲間と松の木を伐採し、この村を作ってきました。 「どんな援助をなさっているのですか」。 私のこんな質問に、村長さんは、「援助という特別なことはしていない.....」と前置きして、 つぎのような話を聞かせてくださいました。
 難民の人が、習慣の違い、言葉の壁を乗り越えて日本社会で暮らしていくのは、並々ならないこと。 まして、働き口を見つけるのは本当に困難であること。 彼らの手助けとして、職業の斡旋、アパート探し、病院への付き添いなどをしていること、等。 難民の人の生活が一日も早く安定するように、との願いがこもっている話し振りでした。 また、難民定住促進センターで働く方の話も聞けました。 難民の中には、慣れない日本の生活でストレスが続き、一人では生きていけない人も出てしまいます。 この村ではその人たちと生活を共にし日常全般の手助けをやっているとのこと。 説明してくださる姿からは深い情熱が伝わってきました。
カット 畑や作業場を見、話を聞いているうちに、私にも手伝えることがあると気付きました。 センターは、多くの支援者、ボランティアの協力を得て運営されていたのです。 大学生による日本語教育、あるいは、一般の人によるバザー、食事作り等、お手伝いする人は多くいます。 でも、まだまだ人手を必要としているということでした。 私は「お手伝いさせて下さい。必ずまた来ます」と約束させてもらいました。 私たちがお邪魔している間、周りをずっと歩き回る一人の男の人がいました。 その人は、本人の希望でいったんベトナムに帰ったのですが、 貧しい故郷に受け入れてもらえず、失望感を抱いてやむなく日本に戻って来ました。 そのような人のために「第二のあかつきの村」をベトナムに建設し、 その上、働き場所も提供しようと、果樹園を設ける準備中とのお話も最後に聞けました。
 これまでに難民の人の手助けをしている人の陰では、 「難民のくせに」と働いている彼らに向かって浴びせる日本人がいるのも、また事実なのだそうです。 私もかって、近所の工場で働く外国人たちを避けたことがありました。 英語とは違う聞き慣れない会話、見慣れない顔つきと肌の色。 なんだかそれらが恐かったのです。 しかし、彼らからの明るいあいさつや私の父と彼らの会話から、 私の偏見も薄れ、自然に接することができるようになってきました。 彼らは家族のいない遠い国で、条件が悪くても一所懸命に働いています。 そして、帰国する日を待ち望んでいるのです。 一部では確かに良くない行いをし、印象を悪くしている外国人もいます。 でも、その行いの理由をきちんと見極めず、 先入観だけで彼らを差別している点は、反省しなくてはいけないのではないでしょうか。
 人は皆、人間らしさを失わずに生きていく権利をもち、それは、どの国でも行使されなければなりません。 ところが、地球上に住む人間同士、理解し合えずに争い、傷つけ合ってしまう場面が多すぎます。 ベトナムでもそうでしたが、つい最近では、コソボでも、人間同士の争いが多くの悲劇を生んでしまいました。 家や家族を失った彼らは、人権を無視した環境におかれ、 それがまた、差別問題の要因にもなっていくのではないでしょうか。
 私は「あかつきの村」へ行き、国境を越えた同胞の精神で難民の人を支援する場面に触れてきました。 そして、思いました。 宣言にある「固有の解放」とか「固有の尊厳」とか 「譲ることのできない権利」などという文が輝く平和な世の中であって欲しいな、と。 その為に私はまず自分の周り、家族、学校、地域で、お互いの人権について考えていきたいと思いました。 また、自分自身の成長の為にも、私にできる手助けを一つずつやっていきたいとも思いました。
(群大付属中3年  林 早恵)

 1999年度全国中学生人権作文コンテスト県大会(前橋地方法務局、県人権擁護委員会連合会主催)で 最優秀賞に輝いた作文で今回は県内64校から12、486点の作品が寄せられました。
(上毛 新聞)

ささえ合う心 阪神大震災5年目
むすぶ つなぐ
●〜外国人との“共同活動”  阪神から世界へ
 「親切です」「元気です」。 「神戸市長田区の『神戸定住外国人支援センター』の日本語教室でベトナム人のトラン・テイ・ダオさん(42)が スタッフの坂野亜子さん(27)とともに練習を繰返していた。 日本人男性と結婚後、来日したのは昨年10月。 買い物での値段の聞き方も分からなかったが、「きっとこの国に慣れる」と言い聞かせた。 長田区内の靴の作業所につとめながら週1回の勉強を続け1年。 今では道も尋ねられるようになったダオさんは「言葉が通じれば、気持ちも通わされます」と笑った。
 教室に学ぶ6カ国30人が協力金として払うのは、最高で月額3、000円。 夜には仕事疲れで目を赤くした男性が来る。 今年1月に韓国から来た14歳の少女には、集中レッスンを行い、中学校入学に間に合わせた。 1年半前までは幼稚園教諭だった坂野さんは 「ここに来てから、街で外国の人に目が行く。『最近、来たのかな』『仕事はあるのかな』と気になるんです」
坂野さん(左)とともに日本語を勉強するトラン・テイ・ダオさん
神戸市長田区の神戸定住外国人支援センターの日本語教室で、
大西達也写す
カット
 阪神大震災は外国人を取り巻く問題をあらわにした。 28カ国の外国人が住む長田区では、震災で多くの外国人が公園や学校に避難。 言葉の壁から情報の入手に苦しんだ。 同センターは1997年2月、震災を機に生まれた二つの外国人支援団体が統合し、開設。 ベトナム人が避難したテント村で開かれた日本語教室を引き継いで運営する一方、 就職や住宅、暮らし全般の相談活動を続けている。 副代表の金宣吉さん(36)は「行政への書類申請から企業との交渉まで一つ一つの問題と取り組んだ」と振り返る。
 昨年度の相談は527件と前年度の1.3倍増。 相談からは、依然として根強い外国人への偏見や差別意識が浮かび上がる。 今年3月と8月、マンションを借りようとした外国人に日本人の保証人を要求したり、 外国人を理由に断る事例が続き、兵庫県建築指導課と協力して解決にあたった。 就職依頼は今年4月以降、50件を超えるが決まった例はなく、企業から能力も問わず断られるケースが続いた。

 今年6月からベトナム人の小学生向けにパソコン教室を始めた。 「子どもたちにはハンディを超えられる技能を」という思いからだ。 集まる約10人の子供たちを指導する坂田岳彦(36)は 「成長した子供たちが今度はスタッフになり、次の子供たちを教えてくれるのが夢」と語る。
 互いの文化を認めながら、個人同士が真っ当な人間関係を結ぶ。 そんな「当たり前」の社会を目指す取り組みが、被災地で今後も息長く続く。
【宮田 哲】
(毎日新聞)

5月の節句................
「4月になると豆をはかってぜんざいをつくる           5月に節句を祝うために家にかえる」
カット  昨年(巳卯年)の5月5日の節句は1999年6月18日に祝われた。 この節句はもともと中国人によって祝われていたもので、いつの頃からかベトナムに入ってきたのだが、 今ではすっかりベトナムに定着している。 中国人はこれを端午の節句と呼ぶ。 「端午」の「端」は「初め」の意、そして「午」は「午の日(=五日)の意である。 すなはち「5月初めの5日」の意である。 民謡の中には端午の二文字が見られる。 しかし庶民の間では5月5日の節句と呼ぶのが一般的で、端午の節句と言う人はほとんどいない。 中国、楚の時代の大詩人である屈原へのお供えのご馳走を用意し、それを葉でくるんで供え物として川へ流す。 こうして詩「離騒」の作者である、この詩人の死を悼む。 その昔、楚国の君主への抗議として彼が泪羅川へ身を投げて自らの命を絶ったのがちょうどこの日なのである。 としても私たちベトナム人で屈原を知る者はまずいない。
カット  しかし5月5日の節句はとてもベトナム的な習慣と儀礼で祝われてきた。 この日は早稲の収穫時期にあたり、どの家庭でも新米のご飯を炊く。 どこもかしこも夏のまばゆい日差しが照りつけている。 虫を退治するための粽(ちまき)やぜんざいをふるまう声で村は賑やかだ。 虫は木の枝や葉っぱの先にといった自然界にいるだけではない。 人間の体の中にも寄生しているのだ。 虫たちが姿を現すのは一年のうちでこの日だけというわけで 一年間に災厄除けのために人はその虫たちに気をつけなくてはならない。 虫たちの退治をするのには何も特殊な薬を飲まなくてはいけないわけではない。 虫退治には甘酒、バイン・チョー(粽の一種)、ぜんざい、果物などの食品を食べる。 5月5日の早朝、うがいと洗顔がすむこり、体内の虫たちが巣から這い出してくる。 虫たちを酔わせて悪さをしないようにするのはそのときが一番だ。 人々は一杯の甘酒を“しかけて”虫を酔いに誘い込む。 さらにぜんざいを一杯と果物少々を“しかける”。 腸に入った酒の麹によってフラフラになった虫たちに追い討ちをかけるためである。 子供たちは“おまじない”の顔料を少々おなかに塗って、死にかけた虫たちが暴れるのを防ぐ。 昔の人たちが理由なくこのように信じ、行ったわけではない。 5月は夏に向かう季節の変わり目で気侯も暑い時期だ。 この季節は各種の伝染病、特に消化器系の病気が発生しやすくなる。 科学的に病気を診断したり予防したりする正確な知識と近代的な方法を、 祖先たちが現代のわたしたちのようには持っていなかっただけのことだ。 しかし今日でもお腹がキリキリ痛むと人はゴ・ディンの酒を飲んだり(ゴ・ディンは酒の名産地)、 もっと高級になるとウイスキーをストレートで飲んだりする。 そうすると痛みが消えたような気がするものだ。
 “もち米”酒はもち米を蒸してできたおこわで作られるのでそう呼ばれる。 おこわは、新しいバナナの葉を敷き詰めたザルの中に入れて冷ます。 そしてその上に麹をふりかけて覆いをする。 2日もするとおこわはふやけてくる。 おこわを入れたザルの下に置いた鉢に溜まったお酒と一緒に食べる。 口にあうようにもっと甘くしたければ砂糖水を少々加えて口当たりをよくする。 食べ続けても飽きることがないが、お腹の中にいる虫たちは発酵したガスでフラフラになる。
 虫の駆除の正しいしきたりにのっとるならば、二つ目の食べ物はバィン・チョーである。 バィン・チョーはもち米粉と細かく挽いた緑豆の餡が具の粽で、竹の葉で包まれている。 粉も餡も全て上品な甘さである。 匂いが少々きついのは、もち米粉を硬くするための石灰水のせいだ。 粽の大きさはレモンくらいのもので、ほんの2口3口噛めば食べきってしまう。 もっと大きくするとそれはバィン・ウーやバィン・ゾーの形になり(どちらも粽の一種)、 5月5日の節句ならではのバィン・チョーではなくなってしまう。 もとは種々の果物を売るのに使っていた三輪車でバィン・チョーを売っているのを、 今ではサイゴンの街のあちこちで目にするようになった。 バィン・チョーの固まりをハンドルに結び付けた自転車を街角に停めて商売している人を客が取り囲んでいることもある。 5月5日の節句が過ぎると、この手の粽は街頭から突如姿を消す。 次は翌年の節句まで待たなくてはならない。 粽や餅と言えば無数にあるが、一年を通じて特定の時期にしか味わえないものこそ趣旨に富んでいる。 他の時期に食べても何てことはない。 今ではバィン・チュン(正月に食べる粽)は一年中買うことができる。 あらゆる大きさのものがあちこちの街角や店にあふれている。 しかし正月に食べてこそ正月のバィン・チュンの詩趣を味わうことができるのだ。 特に朝から晩まで手間ひまかけて作った自家製のバィン・チュンこそがその意味を十分に持つのである。 普段の日でも手のひらサイズのバィン・チュンを朝食にすることがある。 もち米や脂身が一杯つまっているし、クズウコンやバナナの葉で包まれているが、 それはやはり平日のバィン・チュンに過ぎない。 仕事に行く前、ただお腹を満たすためだけに食べる。 それでおしまいだ。
カット  粽や餅の多くは暑い時期に出始める。 私たちベトナム人は、甘酒、高級レイシ、早稲の新米で作ったおこわやぜんざいなどを近所付合いの気持ちとして贈り合う。 5月5日の節句にまず贈り物をしなくてはならない相手は妻方の父母、先生、年長者たちである。 この日に食べる黒豆のぜんざいや緑豆のおこわはどうしてまたあんなに美味しいのだろう。
 食べ終わると人々は誘い合って山に登り、森に入って薬草を摘む。 この時期にしか採取できない種類の草や球根植物があり、それらは病気治療に効能がある。 そして球根を掘ってきて小さく薄切りにして乾燥させる。 これは熱いおかゆに振りかけるのに欠かせないもので、一年中使えるように大事にとっておく。
 今日、華麗なサイゴンで暮らしていても、60歳の“若者連中”や70、80歳以上の老人たちの脳裏には、 まだそれほど遠ざかっていない時代の5月5日の節句にイメージが鮮明に焼き付いている。
ビエット・ハイン
(故郷の響き声)

初めてのベトナムへの旅
後藤正史
 一月の末だったか、難民定住委員会のシスター田中から洪水被害を中心目的とした視察の旅があると耳にして、 すぐさま「わたしもメンバーに加えてほしい」と頼み込み、二月末ベトナム視察団8名の一人となった。 ベトナムはずっと前から行ってみたい国だった。
 洪水被災地の中部ベトナム、フエ近郊の村を視察したときのことが特に脳裏に刻み込まれている。 まず、教会裏にある司祭館を訪ねた。 床上どころか机も本棚も通常の生活場所がすっぽり赤茶色の水に浸かり、 梁に板を渡して物置としていた二階部分のわずかなスペースに身を横たえて三日三晩過ごしたという。 村人たちも同様に、屋根の上で過ごしたと語っていた。 室内に船の喫水線のように残された一筋の茶色の線、 家の周囲に植わっている樹木の見上げるような位置に洪水のツメ跡が残っている。 被災後まだ数ヶ月なのに、村人の表情は大人も子供も想像していた以上に明るく、 わたしたちへの応対も率直でとても好感が持てた。
カット  わたしたちを案内してくれた神父は 憲法に保障されているはずの信教の自由について率直に文章を書いて三回も投獄されたという猛者(もさ)だが、 洪水後の復旧作業を被災地の村人と共に進める中で、村人の信頼をかち得ていることが傍から見てもわかった。 ふと、脳裏をかすめたのは「共に喜び、共に苦しみ」という一句だった。 また、この神父の話を聞いて何も恐れるもののない強みがあると思った。 いい意味での自信に裏打ちされた行いは輝いて見えるのではなかろうか。
 ベトナム南部及び海外のベトナム人(越僑)が教会や仏教界を通じて、 また外国の教会などが、洪水被災復興支援を行なっているが、 復興はそもそも行政(人民委員会)が担当すべきことであり、 支援の見極めが大切ということだった。 行政にも相当の予算が下りてきているはずだから、 それが使われないうちに、教会などの支援グループがやってしまうと、 自分たちがやったと報告、そしてその予算が着服されてしまう可能性もあるという。 しかし、実際に復興を待っている村人のことを思うと一刻でも早く作業に取り掛かりたいし、とも。 復興作業は原材料(道路であれば石、セメントなど)は支援グループ(教会など)が提供し、 村人が労働力を提供して共同作業を行なう形が基本である。 わたしたちが訪ねた村での計画として、生活地帯への冠水を防ぐと共に、 水が引いた後に洪水が運んだ養分が残るようにするために堤防を築き上げることを 当面の目標としていると神父は語っていた。
 ベトナムの食事はとても口に合い、うまかった。 野菜、それに香菜が豊富なことがわたしの気に入った。 魚もよく食べることも。 ニョクマム(魚醤)は日本にいるときはさほど好きではなかったが、 二、三日すると食事時になるとニョクマムさがしをしている自分に気がついた。 こんなことを思い出しているうちにフォー・ヴォー(ベトナム風うどん)がむしょうに食べたくなってきた。
 ベトナムへ行く前にベトナム関係の本を読んでいると、 その中にベトナム(人)は最も日本(人)に近いのではないかという記述があり、そうかな?とその時は思った。 しかし、実際に行ってみると人々の雰囲気には違和感を持つことはなかった。
カット どこがと具体的には表現できないが。 わたしがこれまで何度も訪ねた韓国よりもある意味で親近感を持てたのは不思議である。 今回、ボートでベトナムを脱出し、日本で叙階された四人のベトナム人司祭たちと旅を共にできたのは良かった。 ホーチミン・タンソンニャット空港に着陸しようとしている時、あるベトナム人司祭の言葉を今も鮮やかに覚えている。 「この時はいつも心臓がどきどきするんだ」。 後で、また別のベトナム人司祭も空港では同じように心臓が高鳴ると言っていた。 命をかけて脱出した祖国の土を踏む心境はいかばかりだろうか。 ベトナム人司祭は親や家族と離れて住むという点では一般の宣教師と似てはいるが、 自らの生まれ育った祖国への思いについては、一見安穏に生きてきたわたしなどは想像もつかない複雑なものがあるだろう。
 ベトナム戦争時、大激戦が展開され 一般住民の死体累々だったという国道をたどって有名な17度線近くのマリア巡礼地にも行った。 ベトナムへ行く前に、あるベトナム人からその国道を車で走っていると肌寒くなるとの話を聞いていたので、 今は緑濃い、のどかな景色を眺めながら、車中で思わず手を合わせ、戦争の犠牲者を追悼した。
 空港の係官の対応は前よりも柔かくなった、 以前は教会敷地内で黙想会を開くときも当局に申告しなければならなかったが、 今は教会敷地内の会合は自由に開けるようになったという。 全体としては少しずつ締めつけがゆるくなってきているのか。
 一週間足らzyの旅では感想は単なる印象でしかないと思うが、ベトナムについてますます興味と関心が湧いてきた。 修道院で若いシスターたちと捧げたミサの時、 耳にした「チュンコン、チュンコン」(わたしたち)がリフレインのごとく思い返される今日この頃である。

伝統守るべトナム版画展
吉祥や風刺40点  姫路の美術館
カット  姫路市保城、主婦岩田美樹さん(44)と夫で版画家の健三郎さん(52)が べトナム北部のドンホー村を訪れ、地元に約四百年前から伝わっている伝統的な製作方法で刷られた版画を収集。 経営する同市西中島の「水上村・川のほとり美術館」で展示している。
 同美術館は、二人が旅先で見つけた素朴で庶民の生活に密着した 「フォークアート」と呼ばれる作品を紹介しようと五月に開館。 これまで、中国の農村画や韓国の伝統的なパッチワーク作品を紹介してきた。
 ドンホー村は、首都ハノイから約40キロ北の小さな農村。 先祖代々、貝殻と米をすりつぶしたものを塗りつけた紙に、 赤や黄などの塗料を丹念に刷り込んだ版画を、祝い事などの際に家庭を飾り、「版画の村」と呼ばれてきた。 昔は200人以上の村人が農業作業の合間に製作してきたが、印刷機の普及で次第に作り手が減少した。 展示品は約40点で、いずれも同村で唯一、伝統を守っているグエン・タン・チェさんの作品。 旧正月を祝うために、日常の生活や子供の集りなどを表現した「吉祥画」や、 裕福な繁栄の象徴とされてきた豚や鶏などの動物を表した作品のほか、権力社会を皮肉った風刺画もある。
 入館料200円。 月曜日休み。 問い合わせは同美術館(.0792-85-3770)
(神戸新聞)

神戸テトを終えて
カット  今年も神戸テト(テトは正月の意味)をすることに決まってから、私はあまり眠れませんでした。 去年のこともあったので心配して仕方がなかったのです。 まあ自分ができるところから少しずつしていくことにしました。
 神戸テトは、2月26日にマリスト国際学校で行われました。 この日は雨で会場も分りにくかったにもかかわらずに250人位の参加者がありました。 11店舗でいろんなコーナーを準備しました。 珍しく、面白い物を発見して、真剣な顔で説明を聞く姿もありました。 神戸テトはベトナム人の手で作るのはこれで2回目(以前の3回は日本人の手で)なので 少し慣れたと思ったけれど、やっぱりトラブルもありました。
カット 一番大きいのは、ある事情で開幕時期がな〜んと1時間も遅れました。 その後の流れは順調でよかったです。 母国の華やかな正月が味わうことができなかったら、 せめてここだけでも新年の挨拶や久しぶりに知り合いと会って話し合う場になればと思いました。 あいかわらず皆はカラオケ大好きで最後まで歌い続けました。 反省点もありましたが、毎年の行事だから来年はもっとちゃんとしたいと思うし、 周りの人々とこの交流の場を大切にしたいと思います。
(ハ・ティ・タン・ガ)

お知らせ
「チョットいいこと」はカトリック甲子園教会のホームページで見ることができます。
http://www.koshien.net/  ( Ring Ring の中にあります。)

チョットひとこと
 一年365日の間に、本当に快いと感じる日は何日ぐらいあるでしょうか。 そして、私たちの日常生活の中で、 過不足のないバランスのとれた日があるとすれば、それは何パーセントぐらいに当たるでしょうか。
 地球上に生きている私たちは、自然現象の影響を強く受けています。 水不足の地域がある一方、洪水に見舞われている地方もあります。 人間は、水なしには生きることはできませんが、水の勢いによって生命を奪われる場合もあります。 このように、それ自体よいものであってもバランスがとれなくなると、 つまり過度に多くても少なくても思わしくない結果になっています。 私たちの社会生活でも同じようなことが起こっています。 誰でも働くことはよいと思っていますが、過労になれば体調をくずす可能性もでてきます。 親が子供たちに愛情を注ぐのは当然だと考えられていますが、過保護もあり虐待もあります。 また、人間の心の状態にも当てはめて考えることもできます。 冷静か、すぐカッとなるのかその表現はさまざまです。 何事においてもバランスを保つためには、結構大変な力を必要としているのだということを、 自分自身の反省にもつなげています。
 私たちが歩んでいる道は、いつも陽の当たる面と陰になっている場面がありますが、 その両者を認識したり経験することによって、よりよい体験を重ねていくのだと思います。 失敗さえも成功のもとと言われるのですから、 いつも私たちはこうした二つの相反するものの緊張の中で生きているのでしょう。
 有名な詩人であるホイットマンは、「寒さにふるえた者ほど太陽の暖かさを知る」 「人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る」という言葉を遺しています。 これは、物理学的に事象をうけとめることによって マイナス面もプラス面に転じでいく可能性があるということについての一つのとらえ方だと思います。
 今もベトナムにおいて、またその他の国々で、 天災だけではなく人間が起こした戦争や災害によって苦しむ兄弟姉妹たちがいます。 物質的にも精神的にも自分ができることを彼らのために実現させたいものです。

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