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チョットいいこと 86

それからの難民たち
 ・さまざまな相談の支えになれば
 ・まじめに働くよ
「信教の自由」扱いに苦慮
ベトナム副首相解任へ
故郷を見つめて
在日ベトナム連絡協議会発足式にて
ファム・ディン・ソン神父様のご挨拶
チョットひとこと


それからの難民たち
さまざまな相談の支えになれば
 神戸市長田区海運町にある神戸定住外国人支援センター。 プレハブ建ての事務所でベトナム人スタッフのハ・ティ・タン・がーさん(37)は 同国人からかかってくる悩みや相談の電話応対に追われていた。 直接の訪問者にも親身になって話を聴く。
カット  失業、子どもの進学、病気、交通事故......。 相談は多岐にわたる。 時には弁護士など専門家に聞いて答える。 多いのは外国人を理由とした入居差別。 相談者と一緒に不動産屋を歩き回り、20軒目でやっと契約できたこともあった。 「少しでも支えになればいい」。 相談者の多くは日本語が不自由だ。 がーさんに頼る難民は後を絶たない。 2年前、NPO(非営利組織)主催のアジア料理を紹介するイベントに初めて参加した。 ベトナム文化に興味を持つ日本人の多さに驚いた。 「料理なら私も日本人に教えることができる」。 4児の母がボランティア活動に踏み込むきっかけだった。
 1981年、ベトナム南部の町から親類ら約20人と脱出。 ボート・ピープルとして日本にたどり着いた。 姫路定住促進センターを出て四国で半年暮らし、神戸に来た。 当時はケミカルシューズの工場で縫製の仕事を始めた。 日本語を学び、日本という国になじもうと生きてきた。 「郷に入っては郷に従えというでしょう」
 昨年10月、支援センターのメンバーらと 北米のベトナム系移住者を対象にした市民活動を視察するツアーに参加。 外国人の自立を促す語学教室や就労支援の職業訓練など、さまざまな事業に目を見張った。 大きな刺激を受けたのは、 ベトナム人としての文化を守りながら、そこで生き生きと生活する同胞の姿だった。
 帰国後、やるべきことが見えてきた。 今年から日本生まれでベトナム語の読み書きができない子どもたちのため語学教室を始めた。 支援センターに隣接する部屋で月2回開いている。 パソコン操作も教えたり、みんなで民族料理を楽しんだりするつもりだ。 2000年1月に、国内のベトナム人約8,000人が支え合う「在日ベトナム人連絡協議会の発足があった。 「定住外国人が日本人と同じように扱われ、自分らしく生きられる社会をつくりたい」。 ガーさんも働きかけていこうと思っている。
 難民たちの「ふるさと」だった姫路定住促進センターは、いまはない。 前身の難民キャンプを開設したセンターの名誉所長だったハリー・クワードブリッドさん(69)は 姫路市内の教会のオランダ人神父。 現在も難民たちの心の支えとなっている。 今度は各地に散らばった難民を訪ね歩くつもりだ。 「日本に来たばかりのころは苦難のなかにも表情は希望に満ちていた。 その後の彼らの顔を見、声をきいてみたい」

まじめに働くよ
カット  3月上旬、奈良少年院を退院したベトナム人少年のリョウ君(19)=仮名=は、 教官に頼み込んで大学ノート1冊を持ち帰った。B5判のノートには、 友人や家族にあてた手紙の下書きや自分の思いがつづってあった。 くせのある字で「外に出たら一からやり直す」「まじめに働こう」。 再出発の日の気持ちを忘れないように、お守り代わりにしている。
 15年ほど前、家族と一緒にベトナムからボート・ピープルとして日本に来た。 姫路郊外にあったインドシナ難民の受け入れ施設「姫路定住促進センター」に入った。 ここでの4カ月間に両親は簡単な日本語など学び、センターの紹介で北播地区の造園業者に雇われた。 住み込みで働いていたがリョウ君が12歳のころ勤め先が倒産し失業。
 転入した中学校の入学式の日、リョウ君は上級生から呼び出され集団で暴行を受けた。 歯が折れ、口の中を縫った。「なんで殴られるんだ」。この日以来、なにかが変わった。 学校には次第に行かなくなり盗みを繰り返した。 15歳で同世代のベトナム子弟らと暴走族を結成。時には酒を飲んで暴れた。 同じように社会からはじき出された若いベトナム人が集まっては寂しさを紛らわせていた。 昨年3月、徳島県内でのジュース自販機荒らしで捕まり少年院に送られた。 覚せい剤にはまり、金欲しさの犯行だった。
 1年ほどいた少年院で初めて人生を振り返る時間を持った。 「同じことを繰り返していては、またベトナムの子どもたちがいじめられる」 仕事がない父に代わって鉄工場で働く母のことも気がかりだった。 2年ぶりに、家族ぐるみで親しかった元難民相談員に電話し、打ち明けた。 「ぼく働こうとおもうんや」。 定職はまだない。 アルバトで家計を支えている。
 定住難民のアフターケアを担う難民事業本部関西支部(神戸市)には昨年度1,635件の相談があった。 子どもたちの非行や窃盗などの犯罪に絡んだ事例が増えているという。 姫路市内の市営住宅で今年2月、覚せい剤密売事件にからむ家宅捜索があり、 ベトナムの大人に加え顔見知りの少年も逮捕された。
 以前つき合いのあった友達から誘いがくる。 最近、髪を茶色に戻した。 不況で短期の仕事もなく、気持ちが揺らぐが何とか踏みとどまっている。 夢はベトナムと日本をつなぐ貿易商になることだ。 持ち帰った大学ノートとセカンドバックに忍ばせている日本・ベトナム語辞典が心の支えとなっている。

 姫路市仁豊野に1979年、日本で最初の難民受け入れ施設「姫路定住促進センター」ができた。 96年3月の閉所まで、ベトナムなどから海を越えてたどり着いた2,640人が社会へと巣立った。 現在、県内各地に多くの難民定住者が暮らす。 が、不慣れな日本語による言葉の壁や周囲の偏見、さらに長引く不況が追い討ちをかけ、 彼らをとりまく状況は厳しい。 難民たちのその後を追った。
朝日 新聞 (石木 歩)

「信教の自由」扱いに苦慮 ドイモイ政策のベトナム
 ドイモイ(刷新)政策で解放路線を進めるベトナムが、「宗教」の扱いで苦慮している。 共産党一党独裁を揺るがす他の求心力の出現は望ましくないが、外 資を導入して開発を“離陸”させるには、 国際社会の求める「信教の自由」を保障せざるを得ないからだ。
(ハノイ 渡部 恵子)
カット  同国で信教の自由は、1986年にドイモイ政策が導入される以前も、 憲法で保障されていたにもかかわらず、厳しい制限を受けてきた。 ベトナム戦争中の仏教徒に見られるように、 同国の宗教は政治的な大衆運動になる例が過去に多く見られたからだ。 ドイモイ政策の開始前後、市場経済化が進んだとはいえ、 政治的には依然として共産党の一党独裁。 宗教勢力の伸長は、国家体制を揺るがす可能性もあるため、 当局は今でも警戒を解く事ができない。
 このため、寺院の新設、宗教団体の学校開設などには高いハードルが設けられ、 たとえ公認宗教団体であっても、集会には厳しい監視の目が光っている。 西側外交筋によれば、今年に入ってからも、中部高原で非公認のキリスト教布教活動が、 ハノイでも非公認のキリスト教徒の集会が摘発され、指導者が一時拘束された。
 こうした中、今年6月、南部の仏教系有力新興宗教「ホアハオ教」が申請していた 開基60周年の記念行事の開催が認められた。 同教にとっては、20年ぶりの宗教行事開催。 さらに、教団の本拠地アンザン省で行われた式典の席上、出席した政府関係者から、 教団執行部の公認が教団側に知らされた。 背景には、大詰めの段階を迎えた米越通商交渉で、好材料としたい思惑がありと見られている。 米議会を納得させ、対越最悪国待遇(MFN)付与などを含む通商合意の批准を実現するためには、 信教の自由を含めたベトナム側の人権問題の改善が不可欠だからだ。 アジア経済危機で域内から投資が落ち込む中、ベトナムが通商合意に寄せる期待は強い。
 また、ホアハオ教の場合、キリスト教に比べて国外とのつながりが弱く、 政治的にも以前より弱体化して「無害となっていた」(消息筋)という事情もあった。 このため、 当局がホアハオ教に示した寛容さは「人権状況改善を示すジェスチャー」(同筋)との見方が依然根強く、 体制維持と開発推進のはざまで、信教の自由をめぐる一進一退は当分続くと見られている。

※ホアハオ教   現アンザン省ホアハオ村に生まれた教祖フィン・フ・ソが、フランス植民地下の1939年に創設。 予言とまじないによる病気治療でメコンデルタの農民を中心に急速に信者を獲得した。 政党を設立し、私兵も備えて過激な大衆運動となったため、南北統一後も当局の警戒対象となった。 信者はベトナム戦争中の最盛期で約200万人。 現在は同省だけで80万人いるとされている。
(読売 新聞)

ベトナム副首相解任へ / 腐敗に怒る国民党「刷新」迫る
 ベトナム共産党中央委総会が、現職副首相の解任という異例の提案を国会にだした。 果たして、新たな政治、経済改革開始の予兆になるだろうか。
(ハノイ支局 渡部 恵子)
 中央委総会が閉幕した11月11日、 国営テレビは採択されたばかりの総会コミュニケを異例の早さで発表。 中央委員のゴー・スアン・ロク副首相と カオ・シー・キエム前国家銀行総裁(党経済委副委員長)を 「最近の大規模な事件への関与がからんだ」として戒告処分、 ロク氏の副首相解任を国会に提案することを明らかにした。
 この直前に放送された総会閉会演説で、 レ・カ・フユー党書記長は「ロク副首相が数年前のセメント価格高騰と、 最近のハノイ市内の土地開発疑惑に関与した」と言及した。 中央委総会の決定通り解任が承認されることはほぼ確実で、開会中の今の国会で結論がでる。 党は5月から、まん延する汚職に対する国民の怒りに対応すべく 「批判・自己批判運動」を展開中で、今回の処分は最初の大きな成果としている。
カット  注目されるのは、副首相という主要閣僚解任が決まれば、1986年以来の出来事になる点だ。 この年は、配給停止の後に全国を襲った三ケタの超インフレの責任をとり、 1月にチャン・フォン経済担当副首相が解任、 5月の中央委総会で8人の閣僚と国家銀行総裁も解任された。 そして、年末の第6回党大会で改革派のグエン・バン・リン書記長が誕生、 市場メカニズムを導入した歴史的なドイモイ(刷新)が始まった。
 現在の社会的不満と副首相解任という政局は、伝統的社会主義路線の行き詰まり、 うっせきした国民の不満が改革へ押し出した86年を思い起こさせる。 汚職のまん延は、ドイモイ政策自体に起因しているともいえる。 市場経済の導入以来、拝金主義が横行し、 90年代初めの外国投資の爆発的伸びとともに汚職の規模が拡大した。
 97年には、地方党幹部の不正に怒った農民の抗議行動が暴動化した。 党指導部は、 フランスや米国との戦争中からの古参党員・軍人も参加していたことに衝撃を受けた。 彼らの間に広がる党への幻滅は、 「独立戦争を指導した共産党」の一党独裁の正当性に疑問を突きつけるものだからだ。 内部からの不満がくすぶる中、2000年2月に創立75周年を迎える党は、 支配体制の立て直しを迫られている。 来年は第7、8回党大会で策定された社会・経済の10カ年安定・発展計画、 および96年からの5カ年計画の最終年に当たり、具体的な成果も示さなければならない。 だが、市場経済時代にあって支配政党としての共産党の将来像は極めてあいまいだ。 また、今年の経済成長率が90年代で最低(4.75%)という停滞ぶりだ。 日本をはじめ支援国はベトナムの官僚主義や汚職体質への批判を繰り返すのに疲れ、 外国投資家の関心は低下する一方だ。 新たな改革「ドイモイ2」を待望する声が上がって久しく、 今回の処分がそれを意識しているのは間違いない。 だが、真の改革につながるかについては悲観論も根強い。 これも、ベトナムの現状の反映である。
(読売 新聞)

故郷を見つめて
 遠くへ嫁ついだ娘が、夜な夜な裏道にたたずむ姿が民謡に歌われている。 しかし故郷を見つめるには必ずしもそのような郷愁の念にかられることはない。 今や世界の距離はひとつの小さな村のようだ。 具体的に言えば日本からベトナムへ帰るのはもはや大変なことではない。 もし今年の夏休みの予定がまだ決まっていなかったらベトナムへ帰ることをためらわないで欲しい。 確かに故郷ベトナムはまだ、混乱、極貧、貧困のなかにある。 しかしきっと多くの場所があなたを満足させ、様々な人、 いろんなことがあなたを心から喜ばせてくれるだろう。
 私たちは今後、定期的に故郷の話をお聞かせしていこうと思う。 今回はあえて皆さんに祖国の北部と南部の二つの出発点、 0kmの距離表示がある場所をちょっと覗いてもらうことにしよう。 国の最北には国境の町が三つある。 ハノイから北上すると、 それぞれの町へ通じる道は開いた扇子のように西から東へ広がってのびている。
カット その町とはラオ・カイ、ラン・ソン、モン・カイである。 ベトナムと中国の国境ラン・ソンには0kmの距離表示があり、 滑らかなアスファルトの道が二つの国を結んでいる。 ラオ・カイのキエウ橋やモン・カイのバック・ルアン橋のような橋が小川に架けてあるのでもなく、 モン・カイのコ・ロン川のように渡し舟が客を運んでいるのでもない。 ラン・ソンの出入国管理所は現在ではヒュウ・ギ・クアン(友誼関)という以前は アイ・ナム・クアン(隘南関)と呼ばれていた。 まばらに行き来している旅客たちは小ざっぱりとしていて礼儀正しく、 国境警備の警察官は穏やかで気さくな人たちであった。 しかしこの立派なアスファルトの道を数百メートルもしくは1キロメートルばかり離れた 森の中には幾つもの「小道」はある。 そこでは種類豊富で目を引く安価な商品を持った大勢の人々が騒がしく行き来している。 ドン・キン市場に入ってみるといい、 そこは南方(ベトナムのこと)の「客」のための 中国の商品だけの市場のようだ! どの商品の山を見ても種類が豊富で値段はハノイの1/3ほどの安さだ。 あれだけの荷物を一体どんな方法を使ってメコンデルタまで南下されるのか、 驚くばかりの筆者には知る由もない。 私たちがこのくだりを書いている間にも中国産の鶏卵がベトナム国中に流れている。 値段は内地の卵の半分ほど。 こんなに安いとは一体ニワトリたちは餌を与えられているのであろうか、不思議だ! 新聞や雑誌で警告されているように、 中国産の卵が日本脳炎のような病気の病原菌を持ち込んでいるかどうかは全く分からない。
 私たちは昼間チャン・フン・タオ通りの食堂に立寄った。 店の女主人は愛想良く対応してくれた。 「これは中国産の野菜よ」と彼女は言ったが、見たところそれはチンゲン采であった。 ベトナムのそれと比べると芯も葉ももっと青かった。 芯は平たいのではなく丸みを帯びて外皮になっている。 私の叔父はドン・コ茸や鶏肉と炒めるのによく使っていた。 ......少しとろみのある汁気の多いものだった。 そして油で揚げたスズキも中国の珍しい魚料理だ。 形はちょっと長めでベトナムのスズキのように丸々してはいない。 女店主は更に、肉を挟んだ里芋に衣をつけて揚げた料理を持ってきた。 そして、これはルン・グ宰相が日頃食べていた料理であると上手に説明してくれた。 その宰相とは中国映画の主人公で、ベトナム各地のレテビに先ごろ登場したばかりである。
 「ランの地で、また会いましょう」去っていく旅人にラン・ソンはこんな温かい言葉をかける。 「いつの日にか...」と味気ない文句に おまけに安っぽい英語で“see you again“(また会いましょう)と続けた看板を揚げている多くの省とは違う。 そして文句が続く。
 遥か平原を離れてアイ・バック(北部)へと向かう国境警備兵のいた時代からこんな歌があった。
 “ぼくとランの地に来るなら、
  親はあなたを育てた甲斐があった“
 (実際のところ甲斐があったのだろうか、それとも無駄だったのだろうか? もし甲斐があったのならランの地は本当に価値があって、 無駄だったのならランの地は何をも生み出せないということなのだろうか。)
 ラン・ソンを離れたがタム・タイン寺を訪ねる機会にはまだ恵まれなかった。 南部からト・テイゆかりの地を訪ねたとき聞いた話は筆者の心を痛めた。 出征兵士の妻であるト・テイが夫をずっと待っていたという言伝えのある山を 石灰焼きの職人が切り崩してしまったというのである。 「主人を待ち続けた彼女、まさか、彼女が、石焼きの手に入る日が来ようとは......」
(詩―ド・ヴァン・チより)
 ラン・ソンへ行くにはバック・ニンを通らなくてはならない。 バック・ニンの町に入ってすぐ、国道からわずか900メートルのところにコー神殿がある。 神殿に通じる道の両側には店が並んでいる。 そこでは各種の供え物を売ったり祈祷書を代筆したりしている。 「祈祷書を漢字で代筆いたします」と大書きしている男がいたが、 漢字はベトナムの国語より神聖なものとされているのだろうか? 供え物には金銀からお菓子、蟹のパン、ぜんざい、ライスペーパー、蒸し鳥のおこわ、 ビールなどあらゆる種類の物が揃っていた。 各地から訪れた人々がお供えの盆を置くための棚が正面に設置されていたが、 それは庭の外にまで及んでいた。 訪れた人は神のお金を借りてお供えのご馳走のお盆を用意する。 その中身の豪華さは借りたお金次第だ。 棚のうえにお供えをしてから線香をつけて祈願する。 どう祈願していいかわからず代わりの祈願師を頼む人がいる。 「四方の神様、十万の仏様、どうか私に......」流れるような耳障りのよい祈祷は 神にとって聞きやすく、旅人たちの心をも満足させるものだ。 高々と積み重なったお金の山にはフランクリンの肖像が印刷された100ドル紙幣があったり、 国籍不明や時代不明のお金、汚い印刷のお金があったりした。 ベトナムの文字や中国の文字がゴチャ混ぜになっている。 コーの神様に好きなだけお金を借り、商売がうまくいったら翌年ここへ戻ってきて、 より豪華な供え物とさらに多くの賽銭でお礼をするのだ。
 コー神様というのは神格化された歴史上の人物かもしれないし、 伝説上の人に過ぎないかもしれない。 案内板にはこの神についてこう記してある。 「コー神殿(主庫祀)はバック・ニン省バック・ニン市ブー・ニン町コー・メ村にある。 古い文献によると、この寺院はリ(李)朝時代(11-13)世紀からあり、 当時はティエン・コン(仙庫)廟と呼ばれ補修・拡張されて寺院となった。 し(黎)朝期(15-18世紀)に寺院は再修復された。 建物は全体として大きく、貴重な文化遺産はこの時期に作られ保存された。 グエン(院)朝(19-20世紀)末期に寺院は破壊されたが、 地元の住民たちが再建築して現在は完全修復がされている。 ここに祭られているのはリ・ト・クオック・ト(霊祀国庫)で、コーの神様として親しまれている。 この女性は朝廷政治を補佐する才があり、人の心をまとめ農産物を増産させ農業を発展させた。 当地に来ると彼女はすぐに人民を募って荒地を開墾し食料を備蓄した。 1077年の春になると宋の大軍がベトナムへ強奪に押し寄せてきた。 ニュー・クエット川での戦闘ではリ・トウオン・キエット(李常傑)が総指揮を取って敵の進軍を阻んだ。 この際地域は、武器や食料を供給する、後方で最重要の備蓄庫となった。 戦場に戦場に供給される食糧によってリ朝軍の宋軍撃退は可能となったのである。 後方で直接に指揮をとったことで彼女はリ帝から大変賞賛された。 彼女の死後、帝の勅令によって昇格がなされた。 人々はその恩を思い、方々に祭殿を作り四季を通じて花や香を供えた。 国はこの遺跡の価値をみとめ、1989年1月21日付けの決議とした。 コー神殿を歴史的文化遺産と決定した」
カット  コーの神様を詣でた後はザ・ラム県(ハノイ)のズオン・サに行くことを筆者は願っていた。 皇后イ・ラン(綺蘭)の祭壇に線香を供えるためである。 将軍リ・トウオン・キエットの指揮による、 かの1077年の宋軍への抗戦は皇后イ・ランの摂政下のことである。 リ・タイ・トン皇帝が亡くなったとき皇太子のカン・ドウックはまだ6歳になったばかりであった。 そのため権力は皇太后イ・ランの手に握られることになった。 その昔、すでに40歳になっていたが世継ぎに恵まれていなかったリ・タイ・トン皇帝は、 ある日気晴らしにバック・ニンにあるザウ寺へ景色を楽しみに行った。 すると祭日だというのに畑に出て一人で歌を歌いながら熱心に桑の葉を摘んでいる娘に会った。 近づいて話しかけてみると、レ・テイ・イエンという名のその娘は受け答えに淀みなく、美しい容姿をしていた。 皇帝は感激し、朝廷にきて妃になるよう娘に言った。 皇帝が蘭の花のもとで貧しい娘と会って歓談したそのときを忘れずにいるため、 イ・ラン宮殿で皇后は皇太子のカン・ドウックを産んだ。 この皇太子は後のリ・ニャン・トンである。

在日ベトナム連絡協議会 発足式にて
カット  2000年1月11日(成人式)に、鹿島田教会において、在日ベトナム連絡協議会(連絡会)関係者、 日越双方の方々合わせて80人ほどに見守られながら、発足式が行われました。
 発足式前日までまったく降らなかった雨が式当日になって、突然降り出し、「これは大変だ!」と 誰もが心配しましたが、しかし早朝降り注いだ雨が式の1時間位前になると、うそのようにすっかり止み、 かわりに、目映いばかりの太陽が顔をのぞかせ、最後まで見守ってくれました。 まさしく「雨が降って地が固まる」、 ベトナム語は "Sau Con Mua Troi Lai Sang"(雨が止んで、空は再び明るくなる)というように、 私たちの未来を象徴するようなものでした。
 実は当初、発足日を2000年1月1日に予定しましたが、元日であるため参加出来る人は限られてしまい、 それにコンピュータの2000年問題も加え、その日にするのはあまり都合がよくないのではと判断し、 やむを得ず開催日をずらしました。 もう一つは、1月11日がちょうど日本では成人式に当たるため、 発足式にするのは非常に意味があると考えたためです。
 ご承知の通り連絡会は、各方面の団体・個人の支援を得て、1年近くの歳月をかけて、 さまざまな議論を交わした結果、やっとスタートラインにたどり着くことができました。 おかげさまで、発足式も無事に終え、「これから本格的な活動に入る」と声を大にして宣言したいのですが、 実状を告白いたしますと、連絡会にはまだ直接活動できる人材が足りません。 現状の限られたメンバーだけでは、とても会の活動を支えきることは出来ません。 (しかもそれぞれ自分の会社の仕事もあるため、休みの日しか時間がありません)
 今後具体的に何をするか、いかに計画を実行に移すかというようなことをアドバイスしてくださる方、 実際に活動できる方、様々な方面から支援してくださる方、 老若男女、ベトナム人・日本人問わず協力していただければ幸いです。
 連絡会は、今スタートラインに立ったばかりです、まだ一歩も前に踏み出していません。 これから、皆さんの力を借りなければならないのです。
 目標は大きすぎて、とても実現不可能だ、もっと議論してから始めるべきだ、 というご意見をお持ちの方もいらっしゃいます。 確かにその通りです。慎重に計画を練ってから進むべきですが、 何しろ私たちにはまだしっかりした連絡網がありません。 人手も足りないため、一人一人の意見をしっかり集めて、しっかり実行に移す組織体系を作れません。 十分な手続きと議論(実際年に数回しか会議を行えません)を経てからでは、 この先2年、3年経っても何も始められないでしょう。
「お互い少しづつ出来ることからやっていこうじゃありませんか。」
大きな一歩よりほんの小さな一歩でもいいから、勇気をもって踏み出し、 軌道修正しながらまた次の一歩を、というふうに前に進めていけば、一番効率よく、 早く目的地に到達するのではないかと考えます。
 今後の皆さんのご協力、アドバイス等を是非お願いいたします。
在日ベトナム連絡協議会 発足式しました

以下は在日ベトナム人連絡協議会代表:
ファム・ディン・ソン神父様のご挨拶です。
 皆さんの中には、長い間故郷を離れた方もいれば、つい最近日本に来られた方もいます。 しかしどちらにしても、私たちの願いは一日も早く日本の社会に受けられ、 一日も早く日本の社会に故郷のように、家のように順応出来る事ではないでしょうか。
 実際にそれは容易なことではなく、多くのベトナム人は日本の社会に順応することができなく困っています。 それはまず言葉の問題や仕事の問題などが上げられます。 たとえば日本語がうまく理解できないことによって希望した仕事をなかなか就職できない現状がよく見られます。 また、うまく自分の権利を主張することが出来なかったり、一人の社会人としての義務を果たせなかったりします。 また特に言葉の壁によってうまく周りの日本人とのコミュニケーションできなかったりして 自分の考えを伝えることが出来なかったりすることによって 何年を経っても日本の社会に参加することが出来なくいつも社会の外側にいるようなものです。
 日本の社会の中での問題はまだまだたくさんありますが、 だからと言って自分たちから壁を作って日本の社会との交流を断つわけにはいきません。 それはこの日本の社会に生きる私たちにとって考えなければならない大きな課題です。
 そういう認識の上で我々は、在日ベトナム人連絡協議会を発足し、 日本の社会の中に生きる皆さんとともにいろいろな問題を考えながら歩んで行こうと思っています。
 我々は宗教、民族、出身地、政見などを問わず、純粋に少しでも皆さんの力になれば幸いと思っています。 最初の一歩として、在日ベトナム人の各団体、コミュニティの掛け橋として、役に立てたらと思います。 そして皆さんからの参加、寄せられた意見、希望を生かし、困難の中にともに助け合っていくことを願っています。
 カトリック難民定住委員会をはじめ、日本や在日のベトナム人の各団体の協賛を得て、 我々が在日ベトナム人連絡協議会を立ち上げることにしました。 そしてインタネットを利用して協議会のホームページも開設します。
 21世紀を前にして、我々は在日ベトナム人のいろいろな問題を皆様と一緒に取り組み、 少しでもよい方向に向かっていくことを切に願っています。
在日ベトナム人連絡協議会 代表 ファム・ディン・ソン
在日ベトナム人連絡協議会
〒212-0053 川崎市幸区下平間143
TEL: 044-522-0066
FAX: 044-522-6834
URL: http://www.bekkoame.ne.jp/ha/vietnhat
E-mail: vietnhat@bekkoame.ne.jp

チョットひとこと
― 2000年の出発点にたって ―
 人間の視力ではとらえられない世界があり、 聴覚には感じられない音があることはいうまでもありません。 考えてみれば、人間は本当に限られたことしか知らないし、 未来に対しては目隠しされた状態で生きているのが現実です。 ある意味でいつも不安定な危険的状況におかれている存在です。 しかし、この人間共通の現実から何かが生まれるのではないでしょうか?
 二十数年前、日本には新しい風が吹き込まれました。 それは、明るく、たくましく、 強い信念をもつベトナムの方々が 難民(この日本語を使うことに筆者は抵抗を感じていますが、とりあえずこの表現で..)として 日本の地を踏まれたことでした。 「住めば都」とよく言いますが、言葉、環境、生活習慣の違いに慣れるまでには相当の時間を要します。 もちろん年齢が低ければ低いほど順応し易いということもありますが、 それらすべての状況を考えた上で、国、民族、 個人としてのアイデンティティーを確立することが何よりも大切な課題とされています。 自分の経験を振り返ってみても異文化の中にはいることは、易しいことではありませんでした。 一方において、相互に受け入れられるようになれば世界がもっと広がって、 それぞれが豊かになることも否めないと思います。
 さて、今年に入って1月10日、成人の日に「在日ベトナム連絡協議会」が発足しました。 日本の社会で生活しているといても皆が知り合っているわけではないく、 同胞相互の助け合い、協力、情報交換などがこれからもっと必要になるでしょう。 人間の触れ合いはどんな世界でも大切ですし、 とくに母国語ではなせることは一時的なストレスから解放される大事な機会でもあるでしょう。 この連絡協議会は各団体との連絡においてパイプ役をつとめられる由、 その趣旨に則って単に形式的な集まりではなく、共同体を生かす貴重な役割を演じられるよう願っています。
 言葉の壁はお互いにあります。残念ながら日本人には他の国々、民族に対する偏見が未だにあるようです。 これからもお互いに認め、赦し合っていく中でベトナムの皆さんが、 自立され、皆で幸せな日々を送れればこれほど嬉しいことはありません。


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