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チョットいいこと 84

日比野克彦のデザイン考
復興へ共生の街設計中
ベトナムで交流の旅
カリタス大阪来年25周年
ベトナム50年ぶりの大水害
世界ウルルン滞在記
チョットひとこと



日比野克彦のデザイン考
HI美NO+LOW美YES

 「アジア太平洋こども会議」(APCC)というのが毎年夏、福岡で行われている。 アジア各国41の国と地域の11歳の子供たちが、424人ほど福岡の家庭に2週間滞在して交流する。 ホームステイする前に1週間、日本の環境に慣れるため国の施設で共同生活をしてからホストファミリの家に一人ずつ分散する。 私は毎年、その1週間の間に施設を訪ねて絵を描いたり、絵本を作ったりしている。
 この会議も今年で11年目を迎え、最初に福岡に来た子供は22歳になる。 その子たちが今、どうしているのか?11年前に会議に参加したベトナムのビンチャンさんを追いかけてベトナムに行った。 ビンチャンは通訳の仕事をしながら、週末にはボランティア活動で施設を訪ねていた。 私も彼女と一緒に、施設を訪ねることにした。今回は、そこで書いた日記の一部を、紹介しよう。

 7月8日
 ホーチミンより車で2時間ほどメコン川岸の村まで行き、そこから船で1時間かけて川を上り、ベントレという街に着く。 このあたりはベトナム戦争の時森に住む反政府軍に対してアメリカ軍が枯れ葉剤をまいた地域である。 その結果、農作物などにこの薬品の影響が残り、それを摂取した地元民の次の世代である子供たちに多大な影響が現れている。 肢体不自由、眼球異常、精神障害などだ。このような子どもたちを集めた学校がある。
「おなかのすいた小鳥}を黙々と描くストリートチルドレンの子供=ベトナム、ベントレの街で(撮影筆者)
 目の眼球が濁っている。黒目がない。眼球が飛び出している。 そんな子どもたちの姿は正直言ってきつかった。怖かった。近づけず、言葉をなくしてた。 喉の奥がかれ、きれいごとを言っている自分の化けの皮をはがされる感じを覚えた。 早く立ち去りたい気持ちになっていた時、目に障害を持つ一人の少年が、私を救ってくれた。 彼は笛を吹き始めた。日本の歌だ。「さくら、さくら......」の曲である。 彼は日本から来た私に、この曲で歓迎しているのだ。 曲が終わった時、ほんとに不思議だけど、彼に対して怖い、不気味という感情が消えた。 時間にすればたかが3分くらいである。気持ちが伝わるか否かでものの見方がこんなにも違ってくる。
 そんなことは百も承知のつもりだったが、自分の気持ちのあまりにも極端な変貌ぶりに自分でもびっくりしてしまうのと同時に、 何かを表現する力が人に影響する強さに改めて驚いた。彼とすんなりと握手すると、彼はもう1曲演奏してくれた。 今度は別の目の不自由な少年が歌を一緒に歌ってくれた。母に感謝するというベトナムの歌だった。

 7月9日
 "橋"をテーマに、ストリートチルドレンの子どもたちとワークショップをする。 手をつなぎ、輪になって自分の名前を順番に言う。 段々とはやくする。ベトナムの名前はHai(ハイ)とかTam(タム)、Van(バン)などみんな短く、 早く言うにはもってこいの名前のようだ。ただHIBINO(ヒビノ)だけが長ったらしくリズムも悪い。 次にしり取りをしようとする。ベトナム語の発音は中国語などのように、一つの音も複数のアクセントがある。 日本語のように単純にリンゴ、ゴリラ、ラッパなどというわけにはいかない。 しり取りというのはこの国にはないらしく、説明に手間どった。 なんとなく音が似ていればいいということで始めた。私はビンチャンに教えてもらいながら、ベトナム語でしゃべる真似をする。
 みんなのを聞いていると、音がつながっていないと感じる時がある。 前の言葉に関連したもの、もしくは連想したものになっているようだ。"しり取りと連想ゲームどっちもありゲーム"が、 ここに生まれた。最初の予定では、しり取りの言葉を今度は1枚ずつ絵にして、絵でしり取りをするつもりだったが、 なんでもありの様相になってしまったので、大きな紙にみんなでいっせいに描くことにした。
 「隣の絵とつなげていこう」と言って描き始めたが、描き始めるとみんな自分の世界に入り、 回りを気にしている子どもはいない。ただ、「何を描いているの?」と聞くと、 「おなかのすいた小鳥」や「だれもいない学校」、「餌をさがしているカモメ」など、 画面はつながっていないけれどみんなの心情は思わぬところでつながっているように感じられる。 2時間半ほどみんなと遊ぶ。子どもたちは夕方になると、町に働きに行く。路上での新聞や絵葉書などの売り物が多いようだ。
 「車に気をつけて行ってくるのよ」と送り出す気分だが、逆に「バイバイ、ヒビノ」と見送られる。 建物の出口まで送ってくれたが、バイバイと言った後はあっさり部屋に戻っていった。 ビンチャンが私に言った。「みんな別れのあいさつは嫌いなんですよ」。またいつか会いたいと思う。 一瞬一瞬、会った人を大切にすること。1日だけの訪問客は、小さな橋を架けることができたろうか。
ひびの・かつひこ=アーティスト、東京芸術大助教授 (毎日新聞)


復興へ共生の街設計中

 極彩色の衣をまとった等身大のキリスト像が、業火に焼け残ったあの日と同じ優しいまなざしで、五月の風の中に立っていた。 神戸市長田区のカトリック鷹取教会の神父神田裕(41)らは、阪神大震災で壊滅した長田を、 アジアの人たちと共生できる街として再建しようとしている。 だが、震災から4年半を経た今も、その活動は厳しい試練の中にある。 神田はあの日からずっと、首にぶら下げた白いタオルを外さない。 「震災からすべてが始まり、震災はまだ、終わっていない」。そう自分に言い聞かせるために。


 95年1月15日
 1995年1月17日。激震と、直後の大火は街を廃墟にした。 礼拝堂の焼け跡にポツンと残ったキリスト像に、教会に避難した人たちは生きる希望を見た。 もともと教会にあった像ではない。ここに集うベトナム人信者たちが92年、 ベトナム難民が鷹取教会に来るようになって十周年になるのを記念し、同胞からカンパを集め母国で制作、教会に贈ったのだ。
 震災前、長田区には在日韓国・朝鮮人を中心に、中国人、ベトナム人、 フィリピン人ら約三十カ国一万人の外国人が住んでいたといわれる。 震災では多くの外国人が言葉が通じなくて救援情報を得られず、つらい思いをした。 そんな中、鷹取教会を救援基地にしていたボランティアらが外国人救援に立ち上がり、 一月末、「被災ベトナム人救援連絡会」をつくった。

 同じころ、韓国・朝鮮語で救援情報を流すFMのミニ放送局が長田区内に誕生。 連絡会も四月中旬、鷹取教会でベトナム語のFM放送を始めた。 七月、この二局が統合し多言語のミニFM「FMわいわい」を設立。 九十六年一月には、郵政省の許可を受けて株式会社組織のコミュニティーFM局となり、 八カ国語による放送をスタートさせた。「フィリピンの明るいニュースを流すの」。 FMわいわいで二年前から週一回、タガログ語の情報番組のDJをするバージニア(42)は、被災地の同胞を励まし続ける。
 鷹取教会内で今も活動を続ける「救援基地」には、FMわいわいがあり、 共生の街づくりに取り組む市民組織・神戸アジアタウン推進協議会がある。 FMわいわいの番組を作成したり、多言語表示の案内板を駅や公園に立てる地道な活動をしている。 協議会は、災害時に救援情報をパソコンで多言語に同時翻訳して発信するシステムを開発。 近くFMわいわいで実験放送を始める予定だ。協議会とFMわいわいの代表を兼ねる神田は 「行政にシステムを採用してもらい、日本中に広げたい」と考えている。 

 偏見の厚い壁
 アジアタウン構想は震災前からあった。 「当初は、在日これだけ集まっているんやからコリアタウンを作ろうと思っていたが、 震災を経験して、全面的な共生が必要と感じた」。父親の代から40年余り、 長田で靴作り一筋に生きる南信吉=ナム・シンキル=(56)が提唱者だ。 「震災前、長田にあった靴メーカー450社の経営者のうち、6割は在日やった。 長田がケミカルシューズ産地になった1950年代当時、ゴムを扱うのはきつい仕事やった。だから集またんやね....」。 南は震災直後から、アジアタウン構想を柱にした街の復興を唱え、計画づくりに走り回った。
 南らは96年1月、アジアタウン推進協議会を正式に設立。長田の一角で市から土地を借り、 アジアの文化や産品を紹介するイベントを半年間開く構想を打ち出す。 だが、市の協力も得て実現する寸前、「アジア人」が集まることを警戒した周辺住民の反対に遭って挫折してしまう。 6月、孤立した南は協議会の代表を神田にバトンタッチする。 イベント「アジア自由市場」はこの年の7月末、2日間開いただけで終わった。 「アジア、という名前を出したとたん、犯罪がらみで見られてしまうんや」と神田は悔しがる。

 おんなじ住民
 市は昨年1月、南らの構想を下敷きにして大掛かりな「神戸アジア文化交流タウン構想」を発表したが、 これも地元の理解を得られない。市はとりあえず先導的な事業を民間から募集。市から土地を借りた業者が、 3階建て述べ約660平方メートルの「アジアギャラリー」を建設し、11月オープンを目標に、 アジアの物販・飲食店17店を集めることになった。南はこのパイロット事業が突破口になって、 大きなアジアタウンへ広がることを期待する。
 「日本人のアジアに対するイメージはあまりにも悪い。アジアの人も戦争後遺症を抱えている。 心の戦後処理が終わってないんや。中国でも韓国でもなく日本にアジアタウンができることの意味は大きい。 日本人が本当にアジアの人を理解していることを示すことになるから」
 神田は少し立つ位置が違う。「市は中華街のような観光スポットとしかとらえていない。 そうじゃない。そこに住んでいる人がアジア人だからアジアタウンなんや。 市の計画に反対やないけど、巻き込まれたくない。コツコツ街づくりをやりたい」と言う。
 「自分の隣に友達として外国人がいる。おんなじ住民なのに日本人と扱いが違って不便や、ほっとかれへん。 その不自然さを自然に戻したい。普通のことを普通にできるようにして、一緒に暮らしていこう。 そんな気持ちがあるだけ」 (文中敬称略)
(東京新聞)


ベトナムで交流の旅
市民団体が来月、広告界

ケーアン省で出迎えてくれた子供たち。笑顔がまぶしい
 ベトナム市民の自立を支援する市民団体「ジャパ・ベトナム」は、今年7月26日から8月12日まで、 7人のメンバーが北はカオバン省から南はソックチャン省まで、ベトナムの8つの省を訪問しました。 会は1990年に結成され、現地の道路やストリートチルドレンの自立更生などの援助を続けており、 91年から毎夏、支援先と交流するツアーを行っています。 ゲ―アン省では村ぐるみで養豚を始めた女性たちの話を聞きました。 ビンフック省では、親元を離れ寄宿舎から小学校に40人あまりの山岳民族の子どもたちから歌と踊りで迎えられました。 ホーチミン市では路上生活の子どもたちや彼らを世話する若者たちとサイゴン川でボート遊びをしました。 ほかにもたくさんの出会いがありました。
 そんな旅の様子をスライドを交えて報告する会を開きます。 10月23日午後2時から、JR四ツ谷駅前の「幼きイエス会」(千代田区六番町)で。会費は500円。 自立を模索するベトナム市民の息吹にぜひ触れてみてください。 問い合わせはジャパ・ベトナム柴田まで(電話3359-7655)。三鷹市 主婦小野 浩美
(読売新聞)


カリタス大阪は来年25周年
忘れもしない1975年7月25日

 カリタス大阪の25年を振り返って一番の印象は《ベトナム難民と共に始まった》ということです。 1975年7月2日に38名のボート・ピープルが初めて上陸するという救援依頼が国連とカリタス・ジャパンから入りました。 担当のチネカ神父様とヴィラ神父様(共にフランシスコ会)がすぐさま大阪港に彼らを迎えに行き、 箕面にある聖母被昇天会とフランシスコ会に受け入れ、小教区の方々の協力を得てお世話をしました。 1977年には難民の上陸も増え、教会としてどのように対応できるかを小教区の神父様方と相談するため、 月1度木曜会を始めましたが、これが後の地区の福祉担当司祭の集まりとなっていきました。

 小教区の皆さんの尽力
 当時、大阪教区の8ケ所の修道会に難民が暮らしていましたが、 更に上陸は増え続け、カリタス関係のキャンプは仁豊野・泉南・和歌山・御所(奈良)・平野へと拡張しました。 市街地に難民....という見出しで報道された平野教会はとカリタス大阪は、天井に届くほどの救援物資の山となりました。 どれほど教会の皆さんが力になってくださった事でしょう! 和歌山では小教区に一家族ずつ直接定住者を受け入れ、日本語の習得・仕事・住居などのすべてに小教区の皆さんが奔走されました。

 一握り運動
 当時キャンプでの難民が国連から支給されるのは(光熱・水道費を含み)1日940円でした。 そこで難民担当のヴィラ神父様は、教会に行く時に米を一握り持ち寄ろうと提案。 これが大阪教区に広まりました。 救援金やお米をキャンプに配送して回ると「オー!み摂理み摂理」と涙をこぼさんばかりに喜ばれました。 明日のお米をどうしようと思っていた所だったとか....。

 政府がやっと難民定住を認可
 1983年日本政府は重い腰をあげ、定住センターを開設。難民はセンターで3ケ月の日本語の勉強の後、 109,000円の支度金をもらい、社会で独立するのです。 就職先の寮や文化住宅に住み、不慣れな土地で不自由な日本語で生活を始めるのですから、大きな困難がありました。 子どもの病気・学校・仕事など生活全般の苦労は数え切れません。

 カリタス大阪ニュース誌で呼びかけ
 シャワーのついた住居は無理でしたので、風呂に入る習慣のないベトナムの方々が銭湯にいく時には、 普段お世話くださる方にお願いして一緒に行ってもらいました。 夜には地域の公民館や集会所で大人の日本語学習や子どもの勉強をみるボランテイアもカリタスのニュース誌で募りました。 これは現在も続いています。

 定住が進んで....今日まで
 定住が進んで来ると、それぞれの家庭を訪問して様々な相談を聞いたり、 不安な生活の中では顔を見せるだけでも喜ばれ、この訪問はとても大事なこと痛感しました。 例えば内職の接着剤で神経が麻痺して入院していた人は、日本語が充分に話せないこともあり不安で一杯でした。 見舞いに行った私の手をしっかりと握ったまま言葉もなくポロポロと大粒の涙をこぼすばかり。 じっと傍にいるだけでよかったのです。
 子ども達の成長につれ、高校や専門学校へと進学するには様々な問題がありました。 担任の先生や校長先生と一緒に相談したり、親とも話し合いが必要でした。教育費は勿論のことです。 カリタスのニュース誌で呼びかけ、毎月定期的に個人やグル−プへ援助くださる方々に恵まれました。 修道会の経営する学校に毎年1〜2人受け入れられ、学力の補習を続けながら大学に進学した子ども達もいます。 今では弟や妹の学費を出して親を助けられる青年も何人か育ってきました。
 カリタス大坂の開所とほぼ同時に、こうしてベトナム難民の方々と関ってきました。 私にとって、初めての経験でしたが、この「かかわる」という出会いから、 今日に至るまで福祉という言葉をを越えた多くのことを学ばせて頂きました。 25年の歩みは小教区の皆様に支えられて今日まで来たのです。 
岡田 明子=談話より (Caritas News 186号)


ベトナム 50年ぶりの大水害
北東部に甚大な被害

洪水で水没したビンドゥアン省タンラップ村
 7月25日から5日間降り続いた豪雨のため、ベトナムでは59年ぶりの記録的な激しい洪水による大規模な被害が発生している。 ホーチミン市北東部ビントゥアン省では何十人もの死者が出たほか、数万人といわれる人々が住む家を失っている。 7月26日から現地を訪れて被害状況を実際に目撃した安藤勇神父(イエズス会)を代表とする市民グループ「ジャパ・ベトナム」が, このほど本紙を通して緊急に救援を求めてきた。
 2,000軒の家が流失し、17,800ヘクタールの農作物が破壊的な打撃を受け、22の橋が崩壊。 63隻以上の漁船が沈没、2,500頭の水牛、牛、豚などの家畜が死亡し、 多くの村落の学校や診療所、発電所が甚大な損害をこうむったという。 農村地域では、収穫した農作物すべてを失い、種もみすら残っていない状況で、 今後3カ月以内に大きな飢きんの発生が懸念される。
 同省ファンテイエト教区のヒュン・バン・ギー司教(ベトナム司教協議会副会長)は8月7日、 家を失った多くの家族が家を建直し、農民たちが水田やトウモロコシ畑、あるいは果樹園を取り戻し、 種などを購入するために、国際カリタスに対して98米ドルの援助要請を行った。
 ベトナムにおける草の根の自立支援を目的に、1990年設立された「ジャパ・ベトナム」は日本で募金を集め、 現地の橋や井戸、学校、診療所などの建設、ストリート・チルドレンの保護と自立などへの支援活動を行ってきており、 毎年この時期に現地のニーズを実際につかむため、スタッフを派遣している。
 送金先は郵便振替00100−8−11−61「JAPA VIETNAM」まで。 (通信欄に『洪水支援』と明記のこと。)問い合わせはイエズス会社会司牧センター、 安藤神父(.03−3359−7655 Fax.03−3358−6233)
(カトリック新聞)


世界ウルルン滞在記

 女優の原砂知絵が、最高級の香木・伽羅を求めて、中部ベトナム・フォン河のほとりの水の都フエを訪ねる。
 フエは、16世紀から今世紀まで王朝時代の首都だった古都。そこから奥に入った山岳地帯は伽羅の産地で、 昔から重要な輸出品として珍重されてきた。
 伽羅は、香木の中でも沈香と呼ばれる種類。木そのものには香りはなく、樹木についた傷などに樹脂が沈殿し、 これが沈香となる。人工的に作り出すことは難しく、自然のものを探すしかないが、 乱獲による森林破壊が進み、現在は伽羅を採ることもたくことも禁じられている。
 原は唯一、伽羅の使用が認められ、現在は香木を粉にして練り上げる線香を作っている尼寺に居候。 香木のことを学びたいと、81歳の総住職に願い出るが、修行が進んでいないと許してもらえない。
 そこで原は、寺で暮らす45人の女性たちと共に、2時間に及ぶ読経や、うだるような暑さの中での草むしりなど、 仏門の厳しい修行に取りこむことに。
(読売新聞)


チョットひとこと

 やがて2000年を迎えようとしている私たちにとって、 今年はどんな年だったのかを振り返って見ると天災や事故の重みがのしかかってきて、 折角のよいことが消されてしまうような一年だったという印象が残っています。 地震やハリケーン、そして大洪水などの自然災害、戦争や難民問題は世界中に大きな衝撃を与えました。 次には私たちも何かの災害に巻き込まれているのではないかという不安を感じます。
 8月末に新聞を読んでいたとき、目に止まった記事がありました。 「トルコでは何万人もの人ががれきの下に埋もれているかも知れない。 その位置測定さえ満足にできない。発見、救出の技術開発は遅々としている。 テクノロジーの偏在である。破壊する技術には膨大なお金をかける。 救出には、たとえばイヌの助けを借りる。そんな世界にいる。」 (8月23日、朝日新聞夕刊)同感です。犬にはちょっと失礼かも知れませんが。 私は犬の嗅覚の鋭さに信頼していますから、機械よりずっと....と思ったりしますが。 それはさておき、ミサイルや原爆などを開発するエネルギーを、 破壊ではなく人間や自然を積極的に守るという目的のために使えばよいとのにと単純に考えてしまいます。 軍需品の生産と経済との関係だけを考えてみても世の中はそう簡単に動くものではないとも思われます。
 まだまだトルコや台湾での地震災害のことが気になっている時期に、 今度は核燃料加工会社の事故の情報が伝えられました。 便利さ、快さ、自分自身の省エネを求めることに汲々として基本的なモラルを見失ってしまったように思われる現象が、 私たちの社会で次々と起こっています。能率よく物事を処理すること、機械を使ってより速く正確に、 求めているものを現実化させることには大賛成です。 しかし、新幹線や航空機は便利になっても、事故や災害の通報、人の命にかかわる危険的な瞬間を救うための心の準備、 そして必要な技術が備わっていると言えるでしょうか。多くの機械に囲まれて生活している私たちは、 マニュアルに従わざるをえないことを体験しています。 一方「手抜き」をすれば、人間ロボット以下になってしまうこともわかります。 あくまでも人間主体であって機械に動かされない、 より高度な自由を持って生活できる社会が展開されることを願っています。

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