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チョットいいこと 83

近況報告
この国に暮らして、仕事
激動アジア
消えぬベトナムの影
駐ベトナム大使
カルチャーマップ
一人で歩きたい
在日ベトナム人連絡協議会まもなく発足
かんちゃん日記
税関アップ影響深刻
チョットひとこと



近況報告

 もうイヤな梅雨の季節も過ぎました! しかし、私はこの時期をも喜んで受けなければならないと思います(大切な水だから)。
 最近の相談は主に仕事の相談です。現在、日本人の失業率は0.5%にも上がって、 一つの募集に30人の希望者も当たり前のような時代になりました。特に神戸では靴製造会社が多く、 たくさんの外国人を雇ってもらっていますが、急に「もう仕事がないから、 あるまで休んでちょうだい」と言われて仕方なく、 休まなければならないようになっています(つまり辞めさせられたこと)。 彼らはほとんどが月給か日給だけの形で働いているのです。もちろん失業保険もなんの保障もないので生活は大変不安です。
 次は言葉の問題で、特に医療関係です。 本人からの病状、結果、入院の説明などの付き添い、また病院側からの通訳、翻訳の依頼です。 今まですべて無料でしたが、これからは本人からの依頼だけを無料で支援するつもりです。 病院などからは通訳、翻訳料を頂くことになりました。 震災後5年目ということで寄付金、助成金に頼れなくなり、今までより厳しい状況になるそうです。 財源も考えなければならない時期になりました。 それと、この翻訳事業は外国籍住民の仕事作りにもつながるので、いいのではないかと思います。
 その他は地域振興券の問い合わせ(定住者にはもらえないので)、 テレビ・新聞の取材、訪問、日本語を習いたい、といった相談などがありました。
 アメリカのNPO研究会を2回開きました。KFCのメンバーがアメリカで視察したこと、感じたこと、 同じ体験と興味を持つ皆さんと話し合った結果、日本でも実行できそうなことから調べることになりました。 チームに分けて、興味あるNPOグループの歴史を調べ、研究していくことからスタートします。 失敗例から成功ケースまで参考になる経験を持つ方々と一緒に始めたいと思っております。 あと5回、興味がある方と一緒に勉強したいと思っています。お気軽にどうぞ!
ハ・ティ・タン・ガ


この国にくらして 仕事

 1998年10月、成田空港。「呼び寄せ」制度でベトナムからやってきたグエン・ティ・ジャンさん(47)は、 別離から7年ぶりに夫のグエン・テ・クオンさん(50)と再会した。髪は真っ白になり、やせ細っていた。 「まるで別の人。痛ましくて声が出ませんでした」

 言葉、社会の無理解がカベ
 クオンさんはジャンさんを一人残して、81年、小中学生3人の子供をつれてボート・ピープルでやってきた。 7度目のトライだった。旧南ベトナム軍の法務官として事務的な仕事をしてきたクオンさんが、 日本では塗装会社、機械組み立て工場、配送会社などで働いた。そして子育て。 「外国なんだから仕方がない。我慢するよ」と黙々と働き、何度か倒れた。
 料理の先生だったジャンさんも来日後はまったく畑違いの仕事に従事した。 「寂しかった」と振り返る。今、ジャンさんは東京・青山の「レストラン・キハチ」で働く。 ジャンさんの技能を生かせるように考えた知人の紹介だ。 「明るい。職場によくなじんでいる」と現場の評判も上々。 アルバイトの身分だが、オードブルの下ごしらえを任されている。 ジャンさんが教えたベトナム春巻きが無国籍料理の店のメニューに載ることもある。
 同店を経営するキハチアンドエス社の熊谷喜八社長は、 「国籍よりどんな人かが問題。彼女は一生懸命だ。 日本人の好みや、忙しい時間の厨房の対応を体で覚えるでしょう」と話す。 水を得たジャンさんは、「ベトナム料理の小さなお店を持ちたい」と、夢を描ける心境になっている。
 やはりベトナム難民だったゴック・リーさん(33)も今は通訳という安定した仕事をやっている。 しかし、14年の間に4度仕事を変えた。難民としては特別多いわけではない。 最初に就職したのは、メッキ工場。仕事は毎晩8時過ぎに終わり12時になることも。 「聞いた条件とちがった。体が持ちませんでした。」3ケ月で辞めた。 工場が用意したアパートを出され、友人のアパートに転がり込み、旋盤工として深夜まで働いた。 しかし、友人との生活時間の違いから不眠状態に。三つ目の塗装会社では2年勤めた。 「さび止めの混じった赤い鼻汁がでた。将来にも希望を持てなかった」 「納得できる仕事を得るために」と百万円ためて日本語学校に通い、猛勉強した。 経営者は土日だけの勤務を認めてくれアパートにも住み続けられた。おかげで来日6年目に通訳の仕事を得た。
 "自分を育てる"のに成功したリーさんは少数派だ。 難民の中には、フランス語の教師や小児科医などもいる。 しかし、資格は適用せず、言葉の壁も乗り越えられず、 まだ家族を養うという目前の必要のため不本意な仕事に甘んじている人が少なくないといわれる。
 国際救援センター(東京)を運営しているアジア福祉教育財団難民事業本部によると、 難民の就職先は金属プレス、縫製、電子器具組み立てなどの製造業が圧倒的に多い。 同本部調査係長中山雅夫さんは「日本語の習得が大きなカギ。言葉の上達をあきらめると悪循環に陥る。 なかなか部屋を借りられないという現象もあり、もっと社会全体の理解が必要だ」と話す。
(読売新聞)


激動 アジア
ベトナム

 ホーチミン市の統一会堂は、詰めかけた800人の外国人ビジネスマンや各国大使館勤務・経営担当の異様な熱気で埋まっていた。 参加者は投資関連の法制度に一貫性がないなど、日ごろの不満を相次いで表明した。 今月4日のことだった。昨年9月に就任したファン・バン・カイ首相が、 外国投資向けの新たな投資優遇策の説明を行い、同時に外国人企業が直面する問題について、意見を聞くという初めての会合だった。 「これだけ人が集まったのも、今度ばかりは政府も危機感を持って改革に本腰を入れると期待するからだ」(在ハノイ日本企業関係者)。
 国内投資総額の三分一を占め、開発のカギを握る外国からの直接投資は、 昨年、1996年の「ドイモイ(刷新)政策」開始依頼、初めて前年を下回った。 しかも前年比五割も減少した。背景には、韓国など、ベトナムの主要投資国の多くが通貨危機で打撃を受け、 外国投資どころではなくなったこと。また、改革が期待されたほど進まず、 時間のかかる認可手続きや金融制度の不備など、構造的な問題を抱えたベトナムを投資家が敬遠し始めたことが挙げられる。
 一時は「アジアのニューフロンティア」と呼ばれたベトナムだが、 これを象徴する都市部の高級ホテル・商業ビルは空室が目立ち、今や閑古鳥が鳴いている。 ハノイ市内に総工費七千万ドルで建設中のホテルは、 資本参加しているマレーシア企業の財政難で12月の改行予定が3月まで延期された。
 国立銀行は、10月、通貨ドンの為替価値制限を5%から10%に拡大、事実上、切り下げを容認した。 周辺諸国の通貨切り下げで、ベトナムの製造コストが相対的に上昇、輸出品の価格競争力が低下するなどの影響が出始めており、 切り下げ圧力はさらに強まっている。ドンは現在1ドル=一万二千ドン台で取引されているが、 「市場の要求に従えば二万ドンが相応。常識的には一層の切り下げは時間の問題だ」と言われる。
 こうした状況下で昨年末開催されたベトナム党中央委8期第4回総会は、指導員部若返りの総仕上げとして、 新書記長を選出したが、保守派のレ・カ・フェー人民軍政治総局長と改革推進派のグエン・バン・アン政治局員の間で手間取った。 消息筋によれば、総会期間中にも意見調整を目的とした非公式な投票が2度行われ、 ようやく圧倒的多数でフェー氏を選ぶ体制を整えたという。
 ベトナムが当時、周辺諸国を襲った通貨危機の打撃を免れていたのが保守派のヒュー氏に幸いした。 厳しい外貨規制が行われているうえに株式市場がないため、投機的基金の流入が起こりにくい。 こうした経済的孤立性がプラスに働いたと国内では受け取られた。 これが国際経済社会への統合に懐疑的な保守派を勢いづかせたのだ。
 ヒュー氏を後押ししたド・ムオイ前書記長も中央委総会での演説で「市場の振る舞いは制御がきかず、 国家の介入無しには貧富の差が広がる」と語り、行き過ぎた改革への警戒心をあらわにし、 経済の国家管理の必要性を強調している。新たな集団指導体制では、 改革積極派のカイ首相が外向きの顔となって外資導入を図り、中間派とされるチャン・ドク・ルオン大統領をはさみ、 フュ−書記長が内政ににらみをきかせるという構図になっている。
 しかし、周辺国の通貨危機の影響がベトナムにも波及していた今、 フュー氏率いる改革慎重派が経済改革にブレーキを掛ける事態となれば外国からの投資の一層の減少は必至で、 国内に深刻な問題をもたらす。また、通貨危機の反省を踏まえて経済構造の変革に挑む周辺諸国との経済力格差をさらに広げかねない。
ハノイ 渡辺 恵子(読売新聞)


消えぬ ベトナムの影
語り部"たちの講座

 白眼視された復員兵、悪夢に悩む難民....

 サイゴン陥落から4年後79年、米国民に深く暗い影を投げかけるベトナム戦争をテーマに、 米カリフォルニア大サンタバーバラ校で連続講座が始まった。 復員兵や戦争捕虜経験者、看護婦、政策立案者、反戦活動家、 難民など戦争にかかわった様々な人々の体験を通しての検証=というユニークな80年代、全米で話題になり、 ベトナム戦争再考ブームの一つの先駆けになった。名物授業を行ってきた教授は10 月に急死したが、「語り部」たちの協力で講座は続けられることになり、 6日、20年目となる講座がまた始まる。(ロスアンゼルス 河野 博子)

カルフォルニア大サンタバーバラ校
 20年目、名物教授の遺志守る
 「ベトナム戦争とそのアメリカ文化への影響」と題する連続講座は、 10月に急死したウォルター・ギャップス教授(宗教学)が、毎年1月から春までの学期に行ってきた。 初年の受講者は22人だったが、80年代半ばからは毎年、希望者が約二千人にのぼり、 大教室の定員の九百人が受講する人気授業となった。
 教室を埋めたのは、ベトナム戦争に赴いた兵士たちと同年代の学生たち。 父親や叔父など身内が「ベトナム帰り」だという学生も目だった。 84年、大学図書館に勤めていた復員兵仲間から話を聞き、「教室をのぞいてみて、信じられない思いだった」と、 サンタバーバラ市職員、ウイルソン・ハベルさ(52)は振り返る。 ハベルさんは20歳の時に召集を受けて66年末に職場に赴き、68年7月に帰国。 その後、大学で勉強をし直すが、ベトナムに行ったことは口にしないようにした。 「年齢を2歳若くごまかすか、東海岸の方にいていた、とウソをついた。 当時、ベトナム帰り、といえば性病持ち、麻薬常習者、女・子ども殺し、神経病者という固定観念でみられた。 家族さえ、もう終わったことだからと、まるで2年間刑務所に行っていたかのような言い方をされた」
 ベトナム戦争の米戦没兵士は計5万8千人。 が、戦争中に受けた心の傷が原因で自殺した人なども95年までに832人にのぼる。 トーマス・バーチ全国ベトナム復員兵連合会長は、「戦争に批判的な風潮を背景に、 戦争遂行の決断を下した政治家ではなく、復員兵が嫌悪の対象になった」と指摘する。
(左)故ウォルター・ギャップス教授(カルフォルニア大提供)(右)講座継続を決めたリチャード・ヘクト教授(河野博子撮影)
 ロスアンゼルス近郊で医療販売を営むクアン・ファンさん(33)は75年4月、 家族と陥落直前のサイゴンを脱出し、米国へ移った。テレビや新聞で故キャップス教授のことを知り、 「難民の話も聞いてほしい」と手紙を書いて、93年から毎年、授業で話してきた。
 ベトナムにいた8歳の時、夜中にあちこちで爆弾がさく裂した音を忘れられない。 米海兵隊員として行った91年の湾岸戦争の前線では、故郷での悪夢が思い出された。 ファンさんはこうした体験を語りながら、 「市民として、戦場のただなかに生きるというのがいかに無力でどうしようもない感じか」を学生たちに訴えた。
 キャップス教授が96年秋の選挙で民主党下院議員に選出されたため、昨年1月の授業は同大の宗教学部長、 リチャード・ヘクト(51)が代講した。「議員の任期を終えてキャップス教授が戻ってくるまでは」というつもりだったが、 その突然の死に、ヘクト教授は今後も授業を続けることを決めた。 「米国は世界最大の強国で、第二のベトナム戦争もありうる、ということを忘れてはならない。 国民の合意を得ずに始めた戦争は悲惨な結果に終わったことを学んでほしい」とハベルさんも協力を約束した。
 ヘクト教授は、「現在、ミリシアなど政府を敵視する極右勢力には、 ベトナム戦争体験を原点に持つ復員兵が目立つ。 不満を抱く戦士ともいうべき彼らの感じ方、考え方は案外広がりを持っており、戦争とその後の検証は、 ますます重要になっている」と故キャップス教授の遺志を継ぐ意義を語っている。
(読売新聞)


駐ベトナム大使
自分を捕虜にとった村民と31年ぶりに再会

 【アンビン(ベトナム北部)=千葉文人】ベトナム戦争後初の駐越米大使として5月に着任したダグラス・ピーターソン大使(62)は10日、 米軍パイロットとして同戦争に従軍中に撃墜され、着地したハイズオン省アンビン村を初訪問、 自分を捕虜に取った村民と31年ぶりに再会した。
 大使が捕虜となったのは、1966年のこの日。ハノイの70キロの同村の民兵に捕らえられ、6年半の捕虜生活を送った。 大使は、その元民兵グエン・べト・チョップさん(68)とグエン・ザイン・シンさん(69)の2人の自宅を訪問。 チョップさんが「あの日、夫や息子を戦争で亡くした村民が、あなたを取り囲んだので、私があなたを守りました」と語ると、 大使は、「助けてくれてありがとう」と礼を述べた。
 大使は、「いま、私たちは友人として会える」と語り、大使公邸に2人を招待、 関係改善をアピールした。
(読売新聞)


カルチャーマップ

練習に励むベトナム・シンフォニー・オーケストラ
 ベトナムで初めてのクラシック音楽CDが作成され、4月にも発売される。 演奏はハノイを拠点とするベトナム・シンフォニー・オ−ケストラ。 グエン・フー・チュ−副監督は「国内はもちろん、諸外国にも我々の存在を知ってほしい」とアピールする。 収録されたのは、ロッシーニの「セビリアの理髪師・序曲」、 ハイドンの「83番」そしてハノイ在住の新進作曲家ホアン・ルオンさんの交響曲「伝説」(仮称)の3曲。 指揮者はハンガリー系スイス人で、通常はドイツ・ケルンの交響楽団で指揮棒を振っているが、収録のため6回もベトナムに足を運んだ。
 CD制作は、スイス政府の援助を受けた文化事業の一貫で、 1万5千ドルの費用のうち半分をベトナム側が負担、5千枚をリリースする。価格は日本円にして4千5百円程度の予定だ。 実は95、96年に日本などから客演指揮者を呼ぶ計画があったが、つぶれた。 ベトナム・シンフォニー・オーケストラがどれほどの実力か知られなかったからだとの思いがベトナム側に強い。 そのため、CD発表は知名度を上げるためという側面もある。
 ベトナムのクラシック音楽は、革命前は一部支配層のものだった。 その後、同じ社会主義のソ連との人的交流で音楽家の水準は向上したが、 市民生活への定着には至らなかった。だが、国の解放制作と生活水準の向上からクラシック・ファンは急増している。 チュ−副監督は「我々の年間講演回数は60回。ここ4、5年で3倍になった。 今後も水準向上のため、客演奏者を招きたい」と意気込んでいる。
ハノイ 渡部 恵子(読売新聞)


一人で歩きたい
脳性まひのベトナム人少女支援コンサート

 大阪教区(池長潤大司教)の信徒、田中豊作・寛子夫妻は、所属する八尾教会 (大阪府八尾市小阪合町3-2-15/生藤達夫主任司祭)で3月28日、午後2時から英知大学(兵庫・尼崎)の 「聖アウグスチヌス聖歌隊」による「ニイイちゃんのためのチャリティーコンサート」を開く。
 ベトナム人の7歳の少女(本名ダム・ウイツ・ニイイ)は脳性まひのため、生まれつき手足が不自由。 田中さん夫妻との出会いは、親しくしているベトナム人のグループと食事をしていたときの会話に端を発するがその中の一人が、 歩くことのできない故郷の自分の姪について触れ「日本の優れた医療を受けさせ、一人で歩けるようにさせたい」ともらした。
 八尾教会で日ごろから熱心に外国人の世話をしている田中さん夫妻はこれを聞いて10月、 ニイイちゃんをベトナムから呼び寄せ、大阪城東区にある病院に入院させるに至った。 しかし、重度な障害の上、外国籍のため健康保険がない。月平均13万円かかる治療を得るために、 夫妻は各方面にカンパを呼びかけて120万円ほど集めた。 手術・リハビリを受ければニイイちゃんは必ず一人で歩けるようになると担当医は言うが、 現段階では治療がどのくらいかかるか分からず、数百万円はかかると考えられる。 そこで田中さんはコンサートを思いついたのだという。 コンサートでは、グレゴリオ聖歌からポピュラー・ミュージックまで幅広く演奏する。 聴衆との合唱も予定。千円。当日は午後一時から、ヒエン・フー神父(東京教区)司式によるベトナム語のミサが行われる。 主催=八尾・布施・枚岡3教会ポンテ委員会。問い合わせ=田中夫妻〒581-0816八尾市佐堂町3-2-20 Tel: 0729-23-2592
(カトリック新聞)


『在日ベトナム人連絡協議会』 まもなく発足

 難民としてベトナムの人たちが日本に定住して20年以上が経ちました。 しかし、依然として言葉や文化の違いによる壁があり、日本社会の中で生活していくには大変な苦労があります。
 それは、難民として受け入れられたにも関らず、十分な語学教育も受けられなかったなど、 日本社会の受け入れ体制が充分でなかった事実もあります。 また、住居問題、家庭問題、帰化申請に伴う国籍離脱の問題など、 さまざまな問題が日本に在住するベトナムの人たちを悩ませてきました。 カトリック難民定住委員会では、今まで行政にそれらの問題解決を要望してきました。 しかし、ベトナムの人たちが日本の社会に入っていける現在の状況では、 むしろベトナムの人たちが中心になって解決しなければならないような問題も出てきています。
 そこで、ベトナムの人たちがベトナム人の問題を解決するためには、 自分たちのセンター(ネットワーク)を作る必要があります。 ここでネットワークというのは、"統一する"というものではなく、 「センターに連絡したら何かできる」という「窓口作り」です。 この会の設立目的は日本にある各ベトナム人共同体との連帯し、 いろいろな思想や宗教を超えて力をあわせ、情報や問題を共有し、 日本社会に働きかけること、そして、ベトナム人としてのアイデンティティー (その人らしさ、その文化・習慣)をアピールしていくことです。
 カトリック難民定住委員会のサポートによって、そのセンターとなる「在日ベトナム人連絡協議会」が2000年1月1日、 ついに発足します!ベトナム語、日本語どちらでも読めるホームページも開設しているそうです。
 ホームページのURLは:http:/www.bekkoame.ne.jp/ha/vietnhat
 E-メール:  vietnhat@ha.bekkoame.ne.jp
 このセンターが、日本在住のベトナムの人たちの交流を深め、情報交換の場となり、 悩みや問題を相談できる精神的サポーターとなることを期待しています!
(鏡 和佳)


かんちゃん日記

その1
 季節の変わり目。私はよくカゼをひく。用心ないのが原因だ。 震災時、すむところや着るものや食べ物にも不充分だったのに、なぜかしらカゼはひかなかった。 しっかりと足元を見て生きていたからだろう。復興の変わり目。気をつけないと、こころ(夢)のカゼもひいてしまう。
その2
 もうすぐ世界が滅びるなんて巷で時々耳にする。ふぅーん。なんぼでも滅びたらええやん。 4年ちょっとまえにもそうやった。でも滅びはおわりはしないやで。 古い価値観がすたれ新しい価値観が生まれる。 みなさんと一緒に創ってきた「たかとり救援基地」は今年、NPOで法人格を取ることになり、 「たかとりコミュニティ−・センター(仮称)へ。 21世紀はもうすぐや。
その3
 お祝いに行った。ベトナム人で最後まで残っていた家族が復興住宅へ入居したのだ。 「長かったなぁ しんどかったなぁ」と涙を誘うような言葉をかけてみたが、返ってきた返事は、 「こんな綺麗な家に入れてうれしい 神さまありがと」だった。 辛いこともいっぱいあるはずだけど、どこまでのん気で辛抱強くて逞しくてマイペースなベトナムの人たち。 いつまでも側におってや。(みんなが戻れるまでには後もうすこし)


税関アップ影響深刻
ベトナム

 【ハノイ8日=渡部恵子】
 ベトナムで先月1日に施行された改正輸出入関税法により、日系企業が深刻な影響を受けている。 同法が規定する新税率では、日本からの輸入品に対し、大多数の国や地域に比べて五割増の関税が課されているからだ。 税率発表が施行直前だったことから、多くの日系企業は「寝耳に水」と受けとめており、 周知の不徹底から税関で混乱も生じている。当地の日本企業関係者で構成するベトナム日本商工会は8日、 首相、計画投資相などにあてて陳情書を送付した。 「五割増関税」は最恵国(MFN)を付与していない国からの輸入品を差別化する措置。 東南アジア(ASEAN)諸国、大湾、韓国、欧州連合(EU)諸国など、ベトナムの貿易相手国・地域のMFNを相互付与しているが、 日越間ではベトナムからの輸入品に途上国対象の医パン特殊(GSP)を適用しているもの、 MFNは寄与国のリストを提案して初めて、日本が「五割増関税」の対象になることが表面化。 年末年始休暇も日本側の対象が遅れる原因となった。
 改正関税法で特に打撃をうけているのは、日本からの輸入部品に頼る自動車産業や家電関係。 日本外務省によると、日本側は今後、政令改正によりベトナムとMFN相互付与を行うべくジュム作業を進めている。 これに対して、自動車製造・販売の合弁企業トヨタ・モーター・ベトナムの谷川社長は「部品はとりあえず一般関税を払って引き取っている。 (問題解決後)改正法施工開始の1月1日にさかのぼって差額分を還付するなり、 今後の関税支払い時に調整するなりして欲しい」と話している。
 一方三菱自動車工業の部品を供給するビナスター・モーターズでは「問題が長引けば還付や調整は難しくなる」と懸念している。 五割増関税については、日本とMFNを付与しないアメリカも対象となっており、 米商工会議所のハノイ支部とホーチミン支部はすでに、割り増し措置の中止を要請する所管を越政府に送付、 「現在ベトナムに投資している企業や、今後投資する可能性のある企業を遠ざけることになる」と警告している。  
(読売 新聞)


チョットひとこと

 「なぜ人々は殺し合うのでしょう。なぜ政治家や宗教家は国を超えて平和に努めないのでしょうか」と、 オーストラリア出身のトニ・グリン神父が、著書「HEART,小さな手のひらに地球を」の平和教育についての導入部分に述べています。
 世界中で平和を望まない人はいないはずなのに、なぜ戦争が絶えないのでしょうか。 もちろん、簡単に答えを出すことはできませんが、 現実には民族、国家、思想、宗教などに関する人間同士の深い対立意識によるもの、 支配権の問題などがほんの一部分とはいえ、その原因になり得るものとして見えてきます。 このような事実を前にして、グリン神父は、「温かい思いやりをはぐくむ教育が、今一番必要です」と、 まず個人の心の問題を取り上げて、難民を解く鍵を握りヒントを与えようとしています。 その中には、重要な要素として「赦し」ということが含まれています。
 「現在オーストラリアと日本はたいへn仲のよい国で、若者や文化の交流が盛んに行われていますが、 50年前は敵国どうしでした。50年も時を経た今でも、オーストラリア人のなかには日本を恨んでいる人がいます。 しかし、多くのオーストラリア人は日本に対し、平和と和解のしるしを行動で表しています。」
 アジアでは、1945年8月の戦争終結をそれぞれの立場で、複雑な思いをもちながら迎えかした。 そして、太平洋戦争後は、平和への思いを新たにする「時」としてその事実を記念することになったのです。
 日本も敗戦を機に「平和」への強い望みをもって、戦争の犠牲となった人々を追悼し、 平和を祈るミサや集会が積極的に行われるようになりました。 しかし、一方において今の若い人たちの中に、第二次世界大戦、 とくに太平洋戦争を史実としても知らない人がいる程、多くの人々が苦しみを体験した時から月日が経過しています。 私たちは、過去の史実をできるだけ明らかにしながら、これからも一人一人の「平和」への責任と努力によって住みよい、 そして皆のために居場所のある世界をつくっていきたいと思います。
 「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5.9.)

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