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チョットいいこと 82

初のベトナム人生徒
正平調
護国伝説の亀 なぞのまま
駐越ベトナム大使ベトナム出身女性と結婚
小さな息子と司馬さんの世界
20世紀 どんな時代だったのか
健在!!正月料理の王様
近況報告
チョットひとこと



初のベトナム人生徒
母の足を治すため「医者になりたい」

両親と一緒に入学を喜ぶグエン・ドアン・ランプさん(中)姫路市北八代町3丁目で
 播磨地方の県立高校や姫路工業大学などで、8日、入学式があった。 姫路市北八代二丁目の県立姫路西高(谷口勝昭校長)には、 百二十年以上の校史で初めてのベトナム人、グエン・ドアン・ランプさん(15)が入学した。 難民家族の高校進学は少しずつ増えているが、県内有数の進学校への入学は珍しい。 定住外国人を支援するボランティアらは「ベトナムの人たちが日本社会に定着してきた証しだ」と喜んでいる。
 姫路市花田町の自宅を出たランプさんは、父のトアンさん(43)、母のクイさんと(42)と3人で校門をくぐった。 午後1時、同校体育館であった入学式に、約320人人の新入生と一緒にやや緊張した表情で出席した。 ランプさんの両親は戦争中のベトナム南部の村から漁船に乗って脱出し、 1982年春、姫路市仁豊野にあったインドシナ難民定住促進センターに入所した。 父親は日本語に苦労しながら岡山の繊維会社、姫路市内の電気部品加工会社で働き、 現在は友人とベトナムに農機具などを輸出する代理店を経営している。
 ランプさんは3人兄弟の次男。日本で生まれ育ったため「気持ちは日本人と変わらない」と話す。 地元の花田中学校ではトップクラスの成績で「算数と英語が得意で国語の読解がちょっと苦手」という。 父のトアンさんは「小学生のころから母親の悪い足を治すためお医者さんになりたいと言っていた。夢がかなうといいんですが....」 と期待をかける。
 姫路定住促進センターの元相談員で現在もベトナム支援を続ける福本智子さん(52)は 「不況の影響で元難民たちの生活は楽ではない中、久しぶりの明るい話題。 気負わずのびのびと高校生活を送ってほしい」とエールを送っている。
(朝日新聞 姫路版)


正平調

 この春にベトナム首相が来日し、小渕首相特別円借款などさまざまな経済支援を約束した。 日本は最大の援助国となるらしい。わが首相は記者団に「仲よくするすることはいいこと」と述べている。  ◆この談話で、姫路市立花田小学校の「ヴァンヴェールム」のことが思い浮かんだ。 同校に通うベトナムの子どもたちの日本語教室で、「ヴァンヴェ」とはベトナム語で「友達」の意味だ。 難民事業本部の広報誌「ていじゅう」(3月号)に、その取り組みが紹介されている。  ◆教室ができたのは4年前。24人の子どもたちが集まったが、すんなり心を開いてはくれなかった。 日本生まれの子の中には、「自分は日本人」と参加しない児童もいた。 出会いの印象を、担当教諭になった北川香雪さんは、こう記している。 <日本で生きていくには日本人になるしかない、そう感じさせていたのならわれわれの責任ではないか>  ◆一年が過ぎ、教師として何をすべきか、見えてきた。 <ただ教えるだけでなく、ベトナム人として異国で胸を張って生きていく力を育てること>。 ベトナムの旧正月に欠かせない獅子舞「ムーラン」を練習しようと。  ◆子どもたちの表情が、生き生きしてきた。教室を避けていた子も距離を置いていた親も、輪に加わった。 昨秋には他校にも招かれて、親子で踊った。ムーランが誇りを持たせ、心をつないでくれたという。  ◆北川さんは春の異動で隣の小学校に移った。4年間の活動は一つの区切り。 これからは「ヴァンヴェ」の芽をさらに広げていきたいと思っている。
(神戸新聞)


護国伝説の亀 なぞのまま

 ハノイ市の中心部に位置するホアンキエム湖。伝説の大亀が生息するという湖のほとりは市民の憩いの場だ。 この湖と周辺環境を総合的に調査する計画が今年から始まり、このほど中間調査報告書がまとめられたが、 湖の主ともいうべき亀の実態はナゾのまま残された。(ハノイで 渡部恵子)
 湖周辺は、早朝は散歩や運動で楽しむ市民でにぎわい、日中はヤミ両替商や靴磨きの少年が外国人旅行者のあとを追う。 傍らではベトナムの将棋に興じる人、長話のお年寄りたち。夜はカップルや親子がバイクに乗って周囲をドライブする。 その湖で一年に何回か、縁起物の亀が現れると人だかりができ、騒ぎは翌日の新聞で詳しく報道される。 だが、亀の種類、体長など、確かなことは何もわかっていない。
ハノイ・ホアアンキエム湖
 ハノイ市人民委員会が都市・地方開発調査計画センターと協力して着手した環境調査で、 この湖のぬしの姿にスポットライトが当たるのではと、期待された。 だが、湖の水質と生物学的調査を担当するセンターは、 亀の捕獲を禁じているため、できることといえば過去の資料を調べるくらいのことだった。
 センターのル・ドク・ハイ副所長は「湖周辺の環境の包括的調査は初めて」とその意義を強調しながらも、 調査の制約を困惑気味に振り返る。「捕獲して鑑識票を付けるべきだと提案したこともあるが、 捕らえて死なせたら取り返しがつかないと、日の目をみなかった。

 中国撃退の象徴
 湖は周囲わずか2キロ。水が不透明で、ふだん亀はおろか魚影も見えない。 言い伝えによれば、ベトナムが中国・明朝の支配下にあった15世紀、 独立回復の戦いを続けるレロイ(黎利)、後のレタトー(黎太祖,後黎朝の祖)の家来が湖で偶然剣を引き揚げ、 レロイに献上。以後レロイの軍は連戦連勝し、レロイが報告に湖を訪れると、 大亀が現れ「剣は侵略者撃退のために竜王がお前に貸し与えた」と告げた。 レロイが剣を返すと、亀は剣をくわえて湖底に消えた。 これがホアンキエム(還剣)湖の名の由来だ。長く中国の脅威をうけていたベトナム人にとり、 竜王の守護を約束する伝説は祖国防衛の神聖な物語だ。

 体長2メートル撮った!
 ハノイっ子でこの伝説を知らない人はいない。 また、湖のほとりに建つ観光スポットの水上人形劇では、腰まで水につかった人形師らの演じる出し物の中に、 必ずこの伝説が登場。かくしてハノイを訪れた人の脳裏には、剣をくわえた大亀の姿が焼き付けられる。 ハイ副所長によれば、93年から毎年4−6回程度、亀の目撃情報が記録されている。 同年11月には「ハノイ・モイ(新ハノイ)」紙のクオク・クオン記者が亀の姿を写真に収めた。
ホアンキエム湖で調査の意義について語るケー所長(左)とハイ副所長
 「冬の寒さが到来する直前で、あの日はポカポカ陽気。亀は甲羅干しに出てきたんだろうか。 見物人が数人、湖の小島の方を凝視していた。亀だ!あわててカメラを取りに行った。 やじ馬は数百人に膨れあがり、亀は水に飛び込み逃げた」クオン記者。 彼が見たのは、湖の中ほどに建つ玉山祠に祭られているのは、 全長約2メートルの大亀のはく製。68年に死んで岸に打ち上げられたものと言う。
 センターが懸念するのは湖の水質。93年に岸から5メートルの水面下にあるゴミを底からさらった以外、 これといった対策はとられていないのが現状だからだ。 レ・ホン・ケー所長はセンターの使命を「ホアンキエム湖の水をきれいに保つこと。 国民精神にとっても、観光資源としても湖は重要な役割を担っている」と誇らし気に語る。 実証的な科学者らしい態度を崩さないハイ副所長も、湖の主には畏敬の念を隠さない。 「湖の亀はただの亀ではない。国民の心の中に生きている亀だ」
 ホアンキエム湖の主の実態はミステリーに包まれていた方がロマンチック、との声も聞こえてきそうだ。
(読売新聞)


駐越ベトナム大使 ベトナム出身女性と結婚

 【ハノイ20=渡部恵子】ベトナム戦争に米空軍パイロットとして参戦し、 人民軍に撃墜されて投獄された経験を持つ同戦争後初の駐越大使、ダグラス・ピーターソン氏(62)が、 来年前半にベトナム出身でオーストラリア国籍の女性と結婚する予定であるころが明らかになった。
 19日付の「トイ・チェ」紙が報じたもので、相手女性は、ハノイの豪大使館に勤務するビ・リーさん。 リーさんは1956年、サイゴン(現在のホーチミン市)生まれ。 ハノイ出身で南ベトナムに逃れた両親と、57年に祖国を脱出。 香港、タイ、フランスなどを転々とし、オーストラリアに落ち着いた。
 リーさんはその後メルボルン大学で企業経営などを学び、 オーストラリア・ニュージーランド(ANZ)銀行ハノイ支店の副支店長として、再び祖国の土を踏んだ。 大使は2年前に夫人を病気で亡くしている。2人は、大使が着任した今月5月に外交関係の会合で出会ったという。
(読売新聞)


小さな息子と司馬さんの世界

 私は、昨年秋頃から司馬遼太郎の本の世界に没頭している。 彼の著作数は膨大で、これまでやっと三分の一ほどを読み終えられた感じだが、 何を読んでも、必ずこれまでに知らなかった世界への新たな窓が大きく開かれる思いがする。
 のめり込み始めた理由は、私は元来が日本人の起源、世界諸民族との関係などにつき強い関心を持ち、 縄文人と弥生人、蝦夷と大和、沖縄と本州の関係などについても疑問に思い、 遥かな古代への郷愁のようなものを抱いていることにある。 これは、私が東北秋田の出身で、また、大学以来南国のベトナムと長い関わり合いをもってきていることも大きいだろう。 司馬さんの本を読むと、まさにこうした根源疑問が、 彼の生涯倦むことのなかった知的探求や営為の底流にあったと思われるのである。
 司馬さんの博覧強記ぶりにはただただ驚嘆するのみであるが、彼の著作の魅力は単に知識が広く、 かつ仔細にわたるということではなく、日本や、そして周辺の国々の歴史の中で埋もれていた(少なくとも私などにはそう思える) 多くの市井の人々をこつこつと掘り出して、生き生きと描写し出すことにある。 しかも、ストーリーの展開には深い意味のロマンがある。
 これまで「街道を行く」シリーズを始めとする評論や「竜馬がゆく」などの代表作を中心とする小説、 そして「空海の風景」といった両者の混交のような作品群を読み、 司馬さんの作品全体が日本人にとっての無形の偉大な遺産であり、 後世の日本人へのかけがえのない貴重なメッセージと思われるようになった。
 私は、7年前に先妻を亡くし、3年前に縁あって今のベトナム人の妻と再婚した。 26年前のベトナム研修生時代に下宿していた家の長女で、当時8歳だった。 そして一昨年、彼女との間に男児が誕生した。50歳を間近にして出来た子どもであること、 さらに、日本とベトナムの二つの民族の歴史を継承する子どもでもあることから、 先妻の子どもたちの場合とは違った格別な責務感のようなものを、私はこの子に対して覚えている。 そして、実はこうした意味で、司馬さんの作品は、この子への貴重な遺産であるとも思っているのである。
 司馬さんは、大学時代にモンゴル語を専攻し、常に辺境諸民族の立場から文明や文化を考えるというのが基本的視座であった。 日本もベトナムも、中国という大文明との関係で言えば辺境国である。 この子は、司馬さんの世界を通じ、諸民族の歴史の中における自分の位置を感じ取ってくれるのではないかと思う。
 最近読み終えた「韃靼疾風録」は女真(満州)族が清王朝を興すに至る時期に、 九州平戸に漂着した女真族貴族の娘アビアを、平戸藩士の桂庄助が藩命により女真の地に送り返すが、 アビアの親族係累は勢力抗争で全て滅せられてしまっていたことから結果的にアビアと夫婦となり、 勃興する女真族の歴史の流れの中で十数年を経、アビアとの間に一子をもうけて、 鎖国後の日本に明人として平戸に帰ってきた物語である。 アビアは、係累の失せた広大な大地での生活は帰属感がなくて落ち着かず平戸滞在時の狭い天地で心地よい思いを抱いたことが忘れられない。 逆に、庄助は狭苦しい日本よりも広闊な中国の天地の方が望ましい。が、庄助は妻アビアの願いを尊重して帰国する。
 私の妻は、当初はなにかとベトナムの方がいいと言って、実際よく帰郷もしていたが、 日本に来て3年近くなった最近は、地震の怖さは別として、やはり秩序があって落ち着いた日本の方がいいと言い始めた。 私は、妻の願望に従い、将来定年にでもなったら妻と共に、愉快でのんびりしたベトナムに定住しようかと考えていたのである。
 時の流れと共に、また置かれた環境で人の気分や考えも変わってくる。 今後どうなるか分からないが、三世紀以上も前の庄助とアビアとその子の運命は、 ちょうど今の自分の状況に重なるような感じもし、この本もぜひこの子に読んでもらいたいと思った。
 作夏、私は「ベトナムのこころ」(めこん刊)と題する本を上梓した(上智大ヨゼフ・ロゲンドルフ賞受賞)。 これは、これまでの私とベトナムの関りを通じて観たベトナム人生活や精神世界について、 妻とのなれそめなども含めて叙述している。私は、ささやかながら、この子への贈りものと思っている。 これから29年ほども経った頃に、私の小さな息子が司馬さんや私の本を読み、 どんな風に自分の存在の位置づけを感ずるようになるか、密かな楽しみにしている。
昭和46年、東京外国語大学(外)卒 現、外務省勤務 皆川一夫


20世紀どんな時代だったのか
東南ア独立と日本人の協力

 第二次世界大戦で日本が連合軍に無条件降伏したとき、仏領インドシナでは、抗仏・抗日勢力による独立闘争が火を噴いていた。 まだ主力を温存する日本軍、外交官、知識人の中にはかつての大東亜共栄圏内の「与えられた独立」ではなく、 フランスからの完全独立を助けようとする少数派がひそかにべトミン(ベトナム独立同盟)に武器を引き渡したり、 地下工作を続けた。ビルマやインドネシアの独立にも見られた"日本人の影"を探った。 20世紀企画班 谷口 侑
 「今だから話せる。南方軍総司令官の寺内寿一元帥との直接交渉で、 ベトナム駐留フランス軍(仏印軍)の武装解除の際に接収した武器をわれわれに引き渡すよう頼んだ。 最初は色よい返事はなかった。だが、日本の原爆犠牲者に対して衷心から哀悼の意を表したところ、 寺内はいたく感動したらしい。ある日、トラック十台分の武器弾薬がどさっと届いた」
 今ホーチミン市に引退している共産党指導者チャン・バン・ジャオ(88)が、 サイゴン(当時)での民衆一斉蜂起前後の現地日本軍との秘密折衝のエピソードを明かした。

 日本の敗戦直後の48年8月16日、ベトナム独立の父ホー・チ・ミン(胡志民)はジャングルの中から、 若き日のグエン・アイ・クォクの名前で一斉蜂起を呼びかける。 ハノイ市民は日本軍が警備している総督府、銀行、日本軍兵営を除いた拠点を占拠。 28日、ベトナム民主共和国臨時政府が樹立され、ホー・チ・ミンは主席に就任する。 サイゴンでも民衆が蜂起、青年先鋒隊が官庁を占拠し、 ジャオが新設の南部行政委員会主席、先鋒隊リーダーの医師ファム・ニョク・タクが副主席に就任した。 そして9月2日の独立宣言に向かって、激動のドラマが繰り広げられる。

 「寺内と折衝でわれわらは、これから大きなことをしでかすが、 日本軍は攻撃対象にはしていないとの立場を伝えた。そこで日本軍は自ら動かないとの確信があった。 これが8月革命勝利のカギを握っていた」ジャオは緊迫する当時の現地の状況を回想した。
 「武器弾薬とは別に寺内はタクに、私あての友好の贈物として、銀透かしのある短刀とピストルを託した。 その後ベトナムの混乱の中で紛失したのはが何とも残念た」ジャオの回想は、独立に向けて現地の日本首脳部の間にさえも、 ベトナム人独立願望をかなえてやりたいとの心情が潜んでいたことを物語る。
 さらにべトミンと寺内との交渉仲介にたずさわり、ベトナム独立をひそかに支援して地下工作を続けた日本人もいた。 その一人はロシア革命の熱気が20年代のパリで若き日のホー・チ・ミンら知識人と接触し、 ベトナムに深く足を踏み入れることにたった仏文学者、小松(1900-62)。 96年春、ベトナム歴史学会が月刊誌「過去と現在」に小松の長編小説「邂逅(原文仏語からベトナム語訳)」の一部を復刻連載したことで、 ベトナムの若い世代は、独立にかかわったこの日本人の名前を初めて知った。
 「邂逅」は個人的体験をもとに青春時代、フランスで結ばれたベトナムと日本人との友情が、 のちにインドシナで実を結ぶという巡り合いを描いた。44―45年、ハノイの日本文化館に勤務中に書き下ろしたもので、 ベトナムの近代日本思想史研究家であるアルバータ大学(カナダ) ビン・シン教授がベトナムの図書館で発掘「ベトナム独立期の貴重な資料」として復刻した。 「君だって同じ東洋人、一度インドシナに足を踏み入れて、君の目でもってぼくの同胞がどのような条件の下に生きているか、 それをみてもらいたい」(小松とベトナムの自伝小説「ベトナムの血」)
 パリ時代のグエン・アイ・クォクのこの一言が、小松とベトナムの運命的な絆を決定的なものとした。 帰国するとベトナム独立運動支援のために「水曜会」を設立、41年春には初めてインドシナに旅行した。 対米英戦争不可避論をあおりたてる日本の風潮に反対、真珠湾攻撃の翌日、 小松は「要警戒人物」として東京で逮捕され、4ケ月獄中にいた。 出獄後、パリ時代からの知人のつてで42年春、ベトナムに脱出する。
 小松はベトナム在住フランス人と親しく付き合う反面、 ゴ・ジン・ジェム(後の南ベトナム大統領)らベトナム民族主義者・知識人との絆を深めた。 この時代に親友になったのが、医師のタクだった。 仏側官憲に追われていた親日派要人3人を ハノイ第一憲兵隊隊長大島親光少佐に頼み込んで将校校舎にしばらくかくまってもらったことがある。
 また日本軍が建前の上では「共同防衛」にあたっていた現地駐留フランス軍(仏印軍)を 武装解除するために決行した45年3月9日の「明号作戦」では、 小松は日本人青年らと刑務所を襲撃して政治犯を解放するという荒っぽいこともやった。


小牧近江
 日本の無条件降伏から1週間後の45年8月22日午後。ベトナム北部ハノイ市のジアラム空港に米国製ダコダ機が着陸、 中国の昆明から乗り込んできた米、仏情報将校たちが降り立った。 当時、25歳のフランス軍中尉フランソワ・ミソフもその一人だった。 米戦略情報部(OSS)少佐アーキメデス・パッテイら米将校が主力だったが、 仏印進駐(40-41)以来、日本軍の占領下にあるインドシナをフランスに取り戻す密命を帯びていた仏銀行家ジャン・サントニーもいた。
 45年7月、ドイツのポツダムで会談した米英ソ三国首脳は、インドシナ16度線で分割、 16度線以北に中国国府軍が、以南に英軍が進駐して日本軍の武装解除にあたることを決めていた。 昆明から到着したパッテイは、まず「逮捕すべき日本人関係者」として 「元公使で日本文化会館館長の横山正幸とその側近」(パッテイ著『なぜベトナムか?』をブラックリストのトップにあげた。
 日本文化の普及・宣伝にあたっていたサイゴンとハノイの日本文化会館を日本の諜報機関の拠点とにらみ、 横山を日本の東南アジア・スパイ網のリーダーだと思いこんでいた。 「側近」とは小松と文化会館事務局長の小牧近江(こまき・おうみ、1894-1978)の二人だった。 嫌疑をかけられた小松と小牧だが、ベトナム各党派にわたる二人の人脈は対仏交渉にとって貴重な資産となった。
 「ベトナム独立交渉をめぐって足並みがそろわないべトミン、 国民党、大越党などにもパイプをもっている二人に仲介を頼んだ。 二人は戦争犯罪人として仏側から追求されることさえ危ぐしていたが、要請を受け入れて、各派との関係を取りまとめてくれた」。 後にフランス大使(64-66)となる青年将校ミソフは、"小牧・小松コネクション"を高く評価した。
 小牧・小松の貢献もあり、46年3月、ベトナム・フランス暫定協定が調印された。 翌4月、二人が帰国する時、独立派のリーダーの一人タクは夜を徹して飲み明かした。 船が出るハイフォン港では、ミソフのほか多くのベトナムの友人たちが見送った。 この時ベトナムは平和をつかんだかに見えた。だが、ベトナムの苦難の歴史は、ほんの序章にすぎなかった。
 46年末のハノイでの銃撃戦をきっかけに、ベトナムはフランスとの第一次インドシナ戦争、 ついで米国も加わった第二次インドシナ戦争に引き込まれた。 平和な独立への道を懸命に模索した少数の人々の努力は「逸した平和の歴史」(サントニー回顧録)に終わる。
 「小松はホー・チ・ミンとの有力なパイプを持ち、ベトナムの心を理解していたと思う。 われわれは泥沼のベトナム戦争を避けることはできたはずだ」ミソフはベトナム現代史の一幕を駆け抜けていった 日本人文学者に強い思いをはせる。
(読売新聞)


健在!!正月料理の王様

 旧正月用の桃の木や、キンカンの木を配達する自転車が路地を駆け巡り、ハノイの冬が華やいできた。 ベトナムのテト(旧正月、今年は16日から)は、祖先の霊を迎え新年を祝う、 日本の盆と正月を一緒にしたような行事。家族が集まりごちそうを囲む時、欠かせないのがバイン・チュン。 ちまきに似た食べ物で北部では四角だが、南部では筒形で名前もバイン・テトとなる。
 ジュ−ト(南部はバナナ)の葉の包みの中には、豚肉と緑豆のあんが入ったもち米が詰まっている。 味は薄い塩あじ。「食べ飽きた」という人は多いが、正月料理の王様の地位は不動だ。
 コメを水に漬けること5時間、蒸すだけで10時間と手間がかかるため、 最近では店で買い求める人が多い。戦中、戦後は入手困難だったが、 今では年中店で買える。一個一万ドン(60円)程度だ。 」ハノイ有数の「チョ―ホム(ホム市場)」には、 バイン・チュンの店が並ぶ。威勢のいい売り子の叫び声は、暮れのアメ横に似ていなくもない。
文と写真 渡部 恵子 (読売新聞)


近況報告

 近頃、KFCに来る相談で多いのは、日本語学習のことと仕事のことです。
 特に日本語は、この4年間の取り組みの実数もあってか定員の80人を超えて、現在では十数人の待機者がでています。 KFCとしては、なんとか日本語を学びたいという希望者を受け入れるため、 現在の学習者を対象の中心にしています。クラス授業には日本語学習の上達した人に移ってもらい、 空き枠を作って新規の学習者の受け入れのための準備を進めているところです。
 仕事の方は、大不況の影響を外国人住民はもろに受け、働きたくても働けない人が急増しています。 センターのスタッフが職業安定所に行っても求人票自体が少ない上に、 学歴制限(高卒以上が大半) の問題や日本語能力が低いとなかなか雇ってくれないといった障害が多く、 何度職業安定所に通っても無駄足になることが増えてきました。

 国や自治体といった公共機関による緊急な外国人雇用対策が必要だと感じられます。 同時に公共機関やKFCをはじめとするNPO団体などが、外国人住民が仕事に就くための職業訓練、 技能訓練的なプログラムを考えないと長引く不況の中で、事態が悪化していくだけではないかと心配です。
 KFCが発足して3年目を迎えますが、周辺の「震災は終わった!」という空気とは逆に いまからが本当に苦しい時期になってくるのではないかと感じるこのごろです。 楽観する材料が少ないのは事実ですが、KFCとしては夢を持って活動を続けたいと思っています。
 その一つとして3月から、在日ベトナム人の子どもたちのため美術教室と ベトナム語教室を、 とりあえず月1回のペースではじめることになりました。
 KFCしては、現在の問題に対処することも大切な仕事ですが、 これから日本社会の中で育つ子どもたちのためのプログラムにも積極的に取り組んで行こうと思っています。
(金 宣吉)


チョットひとこと

 梅雨空の広がる季節になりました。今回、皆様のお手許に82号をお届けすることによって、 さらに多くの方々とコミュニケーションをもつ機会が生まれればと願っています。
 今の日本社会は、まだまだ不況の沼から脱出できず、深刻な様相を示しています。 バブルの崩壊と一言で過去の世相を説明していたここ数年間に、単なる経済危機の問題だけではなく、 まさに人間そのものが問われる現実を目の当たりにしました。 経済界を支え動かしているのは人間であって物ではないということを皆承知の上で「人間」と「お金」に操られ、 大切にすべきことの評価判断とモラルが明確になっていない状況が私たちにも不安をもたらしていることは否めません。
 6月に入ってすぐ、斎藤 学先生(精神科医)の書かれた記事(毎日新聞)に目を通す機会がありました。 その一部に現代の親子関係について次のようなことが取り上げられていました。 「『世間さま』教信者である親」が子供たちに何を押し付けているかを指摘されたものでした。 「親は何でも知っている」「世間並になれ」「ほかの子に負けるな」という三つの要素を挙げて問題の所在を明らかにされています。
 日本では「世間ではこうしている」「世間なみに」「世間に対して恥ずかしい」など、 「世間」の目を気にしながら生活しているケースがいまだに多いようです。 政界でも財界でも、何か事件が起きた時に、 責任者は「世間をお騒がせして申し訳ありませんでした」というお詫びを述べてその場を退いています。 自分自身が本当に誤りを認め、罪意識をもつよりは、 「世間」という漠然とした人の集団、人の目を気にして自分の立場を弁明し、 陳謝するというところに問題があると思います。人々に全く目を向けないということではなく、 人生をどのようにとらえ、自分を社会との関係においてどのように生かしていくのかを深く考えたいものです。 「世間」が価値判断の基準になってしまえば、思わぬ差別意識が生まれ、 思想や行動において少数の正しい価値判断さえも見逃す結果となってしまうでしょう。 私たちは、国籍を問わず本来の意味での自立心を持ちたいものです。

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