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チョットいいこと 80

政府との関係
日本でベトナム難民の若者たち
こだま ひびいた 
KFCから
ドキュメンタリ−映像
論壇
1999年幸福論
ハノイで仏語イベント
ベトナムで情緒あふれる器
チョットひとこと



政府との関係改善
ベトナム教会の願い

 【ホ−チミン(ベトナム)1月14日BUCAN 】ベトナムの教会は今年、 教皇訪問の実現か、少なくとも同国政府と使徒聖座のため努力しなければならない、と同国の司教が語った。
 「1999年はベトナムの教会にとって重要な年となります。 教皇様の訪問実現へ向けた努力のほか多くの行事が予定されているからです」と タン・ホア教区のグエン・ソン・ラム司教は1月10日、語った。
 ラ・バン・の聖母出現200 年祭の閉幕式は、強く期待されている教皇の訪問に左右されるだろう。 と同国司教協議会事務局長を務めるグエン司教は指摘した。 ラ・バンがあるユエ教区のグエン・ニュ−・テ−大司教も昨年11月にバチカンを訪問した際に、 教皇を聖母出現200 年祭の閉幕式に招待していた。教皇が「喜んでご招待をお受けしたい」と答えた。 と教会筋は明らかにしている。
 使徒座使節団は今年2月か3月にベトナムを訪問する予定。グエン・ソン・ラム司教は、 司教は、同使節団が政府と教皇訪問についてだけでなく、使徒座とベトナム政府の 間で進められている対話に関してのその他の重要案件についても論議することを願 っている、と語った。
 (カトリック新聞)


日本でベトナム難民の若者たち

 中学2年生のブ・ハ・ビエット・ニャット・アイ・ミンさん(13)は週に一度、 神戸市長田区のFM放送局のスタジオに通う。市営住宅の自分の家からは歩いて10分ほど。 1998年10月から始まった番組のディスクジョッキ−(DJ)をしている。 3歳年上の日系ブラジル人の女子高校生と一緒に、毎週金曜の夜に放送される1時間番組を受け持つ。
 番組の中のコ−ナ−「世界の言葉でお話しましょう」では2度ほどベトナム語を紹介した。 一つは「ヘンガップライ(また会いましょう)」。母(37)に前もって教えてもらった。
 言葉
 日本で生まれた。
 ベトナム語は半分ぐらい聞き取れるけど、しゃべるのは苦手だ。 「頭の中でう−んと考えないといけない」から、面倒くさくて日本語を使ってしまう。 逆に日本語は聞き取れるがしゃべるのが苦手な父(37)はベトナム語で話しかけてくる。 分からないところは、母に通訳してもらう。
 カトリック信徒の父母はそれぞれにベトナムを離れて、17年前、日本で知り合って結婚した。 日本語を勉強する兵庫県姫路市の定住促進センタ−にいるとき、姉(16)が生まれたという。それ以外は知らない。
 名前のビエトが「ベトナム」、ニャトが「日本」を意味するベトナム語だと聞いたのは、7、8歳のころ。 「日本で生まれたベトナム人だということを忘れないで欲しい」。 そう願った両親がつけたのだという。すごいなあと思うけれど、自分では長くて片仮名なのが恥ずかしい。 「ミミーちゃん」と呼ばれているから、小学生のころには、男の子たちに「耳だぶ」ってからかわれた。 それに覚えてもらいにくい。何度も聞き直される。
 「みんなと同じ日本の名前がいい」。母に訴えたら、「自分の名前だから、そのままでいいよ」と反対された。 でも何度か言い続けたら、「高校に入るとき、また考えてみれば」って言われた。 ベトナムへは2回行った。「帰国」というより、やはり「行く」っていう感じがする。 2度目は阪神大震災の直後、避難のためだった。 その1年前に引っ越してきていた市営住宅は無事だったけれど、余震が怖かった。 ベトナムの祖父母の顔をみて、やっとほっとした。でも暑いし、ほこりっぽいし、 市場はなんだかごみごみしている。いとこたちとは話が通じないから、一緒にいても楽しくなかった。
 祖父母に会うのはうれしいから、ベトナムにはまた行きたい。 「でもずっと住むことはないんだろうな」ぼんやりとそう考えている。

 ゲスト
 今年の夏、震災を機に発足したコミュニティ−FM「FMわいわい」のDJに誘われた。 「人と違うことをやってみるのもいいかな」と思って引き受けた。 毎週、いろんなゲストがやってくる。みんな同年代の子供。日系ブラジル人、 メキシコと日本の二つの血をひく「ダブル」....。母国の言葉や祭りの様子など文化をしっかりしゃべれるのが、うらやましい。
 自分の中のベトナム文化はみんなより少し「小さい」感じがする。もっと知らなきゃいけないんだろうな。 読み書きのできないベトナム語も将来は勉強したい。そう考えているけれど、両親には照れくさくてまだ言っていない。
 (この連載は、社会部・岡本峰子、写真部・茨木信一、武田剛が担当しました)
難民と家族 ベトナム政府と国連難民高等弁務官の合意に基づいて1979年、 定住難民が家族を呼び寄せることが認められた。日本人では81年に初めて20人の入国があり、近年か年間100 − 200人。 総計は1998年11月までで計1,840 人と、定住難民の2割近くを占める。 また難民が日本に定住した後に生まれた子や、 一時帰国した本国で得た配偶者らはこの数字に含まれておらず、実態はさらに多いとされる。


こだま ひびいた
広がる日本語ボランティア

 阪神大震災の発生から5年目を迎える1999年。多くの命が奪われ、 街が破壊された被災地では、「あの日」を出発点に多くの人が立ち上がり、新たな取り組みが発信されている。 日本人とベトナム人が共に学ぶ教室、ボランティア経験を元に郷里の自然を守決意ある男性−。 資金難などをしなやかなネットワ−クで乗り越えている。 被災地から、それぞれの生き方をこだまさせようとする人たち。 被災地のいま、未来への思いをつづる。
 「17番」「チュンム・ゴォイ(当たった)日本語とベトナム語が飛び交う中、 ベトナム人の小学生が「ビンゴ」と勢いよく立ち上がった。姫路市市川台の市営団地にある集会所。 週一度、学生ボランティアによる日本語教室が開かれている。 昨年暮れの忘年会を兼ねた交流会には、ふだん教室に出席できないベトナム人や地元住民も集まった。
 ボランティアによる定住外国人への日本語教室は、阪神大震災以降広がった活動の一つだ。 被災した外国人に生活情報が伝わらなかったことを教訓に始まった。 支援グル−プは被災地以外にも広がり、県内だけで40以上にのぼる。
 市川台の教室は、1996年 7月に開校。団地内には約30のベトナム人世帯が住む。 約3年前まであった姫路定住センタ−にいた人が中心だ。生活に日本語は欠かせないが、日本語学校に通う時間も金もない。 難民相談員らが協力し、日本語学科がある姫路独協大に働きかけ、15人の学生によるボランティアグル−プが発足した。
 冬のある日、午後7時前に集会所に明かりがともった。参加者は大人5人と子ども10人前後。 定住者の女性と結婚し、1年前に来日したトラン・クン・ニィさん(23)はペットフ−ド工場で働いたあと、毎週やって来る。 母国では背広職人だった。「技術を生かす道を探したいが、言葉の壁があり難しい。 希望の仕事につくため、学んでいる」。子どもたちは漢字ドリルと向き合っている。 グエン・ファイム・トンさん(14)は「所得控除」の申告書を広げて思案顔だ。 日本語の読み書きができない両親にかわり、学生の協力で記入を試みる。 きている幸せを、あらためて感じさせられた。
 語学教育の実践の場として選んだ同大4回生の小谷美紀子さん(22)は「講義では学べないさまざまな問題を知ることができた。 生きていく上で欠かせない日本語を本当に必要としている人たちがこんなにいたとは」と話す。 卒業後、ベトナムの日本語学校で教えたり、青年海外協力隊員に志願する学生ボランティアも出てきた。 県国際交流協会の日本語教育補助員もいる。震災後に生まれた活動は、思わぬ芽もふかしはじめている。
(朝日新聞)


KFC から

 震災から間もなくまる4年、このきっかけでボランティア団体が沢山生まれました。 KFCもその中の一つ、外国人の支援、自立の目的でありますが震災当時と違って支援内容もかわりつつあります。 複雑な問題・解決しにくい問題などに皆さんの知恵・力を借りて取り組んでいきたいと思います。 今年もどうぞ宜しくお願いします。
 兎年についてちょっと面白い話があります。今年日本は兎年ですがベトナムに兎年なんかありません。 兎の代わりに猫になります。(兎年!初めて聞いた私は思わず笑ってしまいました。 今、皆さんも同じでしょう!ほかに、羊は山羊、イニシシは豚です。これ以外は日本と同じ)
NGA


ドキュメンタリ−映像
「多民族社会の風」
 阪神・淡路大震災から4年 国籍、民族を越えたまちづくりが進む......

 多言語コミュニティ−放送、まちの標識の多言語化、多言語による相談活動、 異文化交流事業....どれも震災復興の苦しい経験から生まれたものです。 震災救援の必然からスタ−トした多民族・多文化社会実現に向けたこの取り組みを、 阪神淡路大震災の記憶のための連作「人間のまち、野田北部、鷹取の人々」を定点取材により撮り続けました。
 震災報道でマスメディアに決定的に欠けている視点は、震災ですべてを失い、 そこから始まった復興の日々の中から、過去にこの列島が全く経験したことのない新しい動きが生まれている、ということです。
 多文化・多民族共生のまちづくり....まだまだ道半ばですが、震災が生んだ新らしい息吹であることに間違いはありません。 できるだけ多くの方がこのビデオを見て、その風を感じていただけたら幸いです。
 監督:青池憲司 撮影:千葉景房 編集:村本勝 録音:青池雄太 ナレ−ション 黒田福美

 このビデオを希望される方は、下記までお申し込みください。 2,000 円(コ ピ−費他)+郵送費になります。
 「多言語で災害情報を!」シンボジュウム実行委員会 事務局(月〜金、13時〜18時)
 〒650-0011 神戸市中央区下山手通2-12-26 藤本ビル4-B
 TEL:078-326-7888 FAX:078-326-7890 E-Mail:QWSO2330a nifty.ne.jp


論壇
キム ソンギル 金 宣吉

 1998年度第三次補正予算で、新聞紙上でもさかんに取り上げられてきた地域振興劵(商品劵)の配付が決定した。 最終的に支給される対象者は▽老齢福祉年金や児童扶養手当、 特別障害者などの受給者▽65歳以上で在宅寝たきりの人や低所得者▽15歳以下の子どものいる世帯主 となった。 だが、支給条件に当てはまるにもかかわらず、適用からすっぽり外される人たちが存在している。 私の知る在日ベトナム人の多くが、実はそうである。
 日本に住むベトナム、ラオス、カンボジアの人の大半は、 ベトナム戦争やカンボジア内戦によって国を出た「インドシナ難民」と呼ばれる人たちである。 かれらは、日本政府が正式に受け入れ枠を決め、現在全国に約1万人が暮らしている。
金 宣吉
 これらの人たちは、日本での永住を前提として暮らし、 法的には出入国管理及び難民認定法(入管法)上の「定住者」という在留資格を持つ人が大半である。 今回、種々の団体の働きかけによって外国人の中で地域振興券の支給者の対象になった「永住者」は少ないのが実態だ。 入管法でいう「永住者」とは「法務大臣が永住を認める者」とあり、在留資格に期間に制限はない。 一方「定住者」とは「法務大臣が特別な理由を考慮し一定の在留期間を指定して住居を認める者」であり、 ▽インドシナ難民▽日系人▽日本人や永住者の家族ら が対象となっている。
 「定住者」という在留資格は、言葉から受ける印象とは違って、内容は労働ビザ的なものである。 就労制限はないが、在留期間も6カ月から3年までと決められ、更新手続きを繰り返し日本に住むという法的地位であり、 永住を前提とする「インドシナ難民」の実態に本当はあたっていない。
 難民の受け入れには、受け入れ国の対応として「難民条約」があり、 日本も81年に批准、社会保障の内外国人平等をはじめとする難民の保護を世界に約束した。 にもかかわらず「インドシナ難民」が含まれる「定住者」を今回の地域振興劵の対象から外したことは、 重大な国際条件違反と言わねばならない。納税など同じ義務を負い、 地域住民として暮らす人たちを除外することは、公平や平等の原則、 人道的な視点からも問題である。
 「インドシナ難民」が日本に暮らし始めて、最も長い人で20年余りになる。 しかし、日本で永住資格をとるには、経済的自立など多くの条件が必要であり、 申請時の費用がかかることもあって取得できない人が大半である。
 私が所属する団体には、2児と4児の母親である2人のベトナム女性が働いているが、 彼女たちも在留資格は「定住者」となっている。いままで、地域社会振興券の効果については、賛否がさかんに論じられてきた。 だが、実施にあたって住民の一部が、法の穴から落ちた実態について考える視点はこの社会になかったことを強調したい。
 野中官房長官は先月、99年以降も地域振興劵の配付を検討したいと述べた。 今後も地域振興劵が配られるのであれば、平等で公正な支給となるよう見直しがされることをぜひとも立法府に期待したい。 世界人権宣言から50周年を迎えた去年、小渕恵三首相は「世界の人々も等しく人権が、守られなければならない。 日本のみならず世界の人権問題に責任を果たしたい」と語った。 だが隣人として暮らす外国人の人権に対する視点さえない中で、本当に中身のあるものになるだろうか。 日本のあらゆる分野で「国際化」という言葉がさかんに聞かれるようになったが、 いま問われているのはその内容であろう。
 今回の商品券の支給対象から外されかけていた2人の「永住者」の子どもを持つ親として思うことは、 ただ金銭の問題だけではなく、わが子がこの社会から認められていないように感じる寂しさである。 商品券構想が発表された時、「定住者」であるベトナムの人の彼女らも楽しみにしていた。 自分たちが支給の対象にならないと知った時、「やっぱり」と落胆していたことを多くの人に知ってもらいたい。
神戸定住外国人支援センタ−副代表


1999年 幸福論

 なぜかあの時の光景が忘れられない。
 1000cc程度の大衆車「ファミリア」に乗り込んだ一家4人が、ゆるいカ−ブを曲がりきったところで車を降り、 真新しい建物の中に駆け込んでゆくのである。母親は台所で「まあ、キッチン流しが付いている。 窓も明るくていいわ」と言うと、父親が「蛍光灯もついているぞ」と、 流しの手もとを照らす10ワットほどの小さな蛍光灯を点けてみせるのだった。
 子どもたちが「冷蔵庫もある」とはしゃぎ、母親はすぐ横の洗濯機のふたを開けて「いいわね」と、 これからはじまる豊かな生活に夢と希望を託すのである。 四畳半の台所の流しセットと冷蔵庫、洗濯機、家族4人で食事するテ−ブルセット。 市松模様のしゃれたプラスチックスタイルの床も見えないほど、狭い部屋で食事もし、洗濯もする。 冷蔵庫にはカギが付いている時代だった。

 それは昭和40年代のテレビコマ−シャルの一場面であり、憧れていた文化的な生活がいまにも手にできそうな瞬間でもあった。
 それから10年ほどした、クリスマスが間近にせまった寒い日のこともよく覚えている。 ベトナムからの難民が収容されている埼玉県大宮市の赤十字の施設を訪ねたことがあった。 クリスマスパ−ティ−があるから来ないかとの関係者からの誘いだった。
 廃校になった校舎がそのまま使用され、広い教室に3、4家族が4隅に陣取り、 真ん中にコタツがあって皆で共有していた。教室にはあのころ私たちが憧れてやまなかった冷蔵庫や白黒テレビ、 伸しイカのようにして脱水するロ−ラ−が付いた洗濯機も置いてあり、 すべてがすでに錆ついた旧式の家電で私たちが捨てたものだった。
 社会主義の窮屈な暮らしに見切りをつけ故国を捨てて海を渡ってきた彼らには国連の管理下にあるとはいえ、 夢と希望、そして自由があった。すでに豊かなるもの後にそれは嘘だったことを知ったのだがを手に入れ、 さらなる欲望へと突き進んでいった日本は彼らの定住を許していなかったし、 故国に残った父母を想えば幾ばくの不安はあったものの、数カ月前、小舟で南シナ海の波間を漂っていたことを思えば、 それはそれで何にも代えがたい幸福だったにちがいない。

 花柄の布団がかかったコタツを囲んで、日に焼けたべトナム人たちがミカンの皮をむいている。 不思議な光景ではあったが、そこに座っていたひとり一人が僕自身でもあった。
 際限なく追いかけても「青い鳥」は逃げる。足りてることを知り、 見ようと思えば彼方に青い影が、かすかに霞んで見えるような気もする。

 いま、あなたには、幸福の姿が見えますか。1999年の年頭、写真と文章で、それぞれの幸福のイメ−ジを示してもらいます。

せと・まさと
  日本人を父に、ベトナム系タイ人を母に1953年、タイに生まれる。 東京で暮らす外国人とその居間を、静けさと生々しさを同居させながら広角レンズでとらえた写真展 『Living Room,Tokyo1989 − 1994 』などで、第21回木村伊兵衛写真賞を受賞。 写真集に『バンコク、ハノイ』など。著書に『トオイと正人』。


ハノイで仏語イベント

  旧フランス植民地を中心に、仏語と仏文化の影響を共有する国々の協力関係を深める 「第7回フランス語圈首脳会議」が11月にハノイで開かれるのを前に、参加国の映画祭などプレイベントが早くも始まった。 国際会議場の建設も始まるなど、準備作業も本格化している。
 会議は86年からほぼ1年おきに開かれているが、 アジアでの開催は初めて。ハノイ会議は11月14日から3日間、シラク仏大統領ら49カ国の首脳が出席し、 経済協力や環境問題などを協議する。
 ただ仏側にとって気になるのは、ホスト国ベトナムにおける仏語人口の激減ぶり。 推定仏語人口は、現在、35万−50万と全人口約7,600 万人の1%に満たず、 官公庁、民間とも最近は東南アジア諸国連合(ASEAN) 加盟などを受け英語学習の方に傾斜している。
 仏政府はこのため、学校での仏語教育支援などを通じ「10−15年先に、 仏語人口を全人口の7−10%に拡大したい」(ハノイの仏外交筋)考えで、 今回の会議を仏の文化・政治的プレゼンス強化の弾みにしようと、 会議関連援助も以前より多い7,500 万フラン(約16億6千万円)を無償で提供した。
 国際会議場の建設はこの援助で行われており、会議運営を担当するベトナム人2,000 人の仏語研修も始まった。 また、仏政府の別の援助で、昨年10月には仏語専門店がハノイにオ−プン。 さらに会議開催までには、ハノイにオ−プン。さらに会議開催までにハノイに仏語専門映画館も開設される。
 会議参加国の映画祭に続き、芸術祭や教育相会議など次々に行われる予定で、 ハノイは秋の会議に向け、フランス色が強まっていきそうだ。
ハノイ 千葉文人 写真も (読売新聞)


ベトナム情緒あふれる器

 焼き物の中でも特に珍重される赤絵の皿や器がずらりと並ぶ。 どこか古びた風なのに、細かな絵柄と鮮やかな朱色が印象的、華やかさがある。 実はこの器たちベトナム生まれ。骨董品を再現したレプリカに、色あせた感じを出し、細かい亀裂を入れるなど、 一つずつ特殊な加工をほどこしてあるという。
 中でも目を引くのが、足付きの水差しや"アラジンの魔法のランプ"を思わせ るユニ−クな形のきゅうす。多角形のものや片手で覆いかくせるほど小さいタイプなど約10種類ある。 値段は2,800 −5,000 円。手ごろさも魅力だ。赤絵だけでなく、青色で描かれたもの。 ヨ−ロッパ風に細かい花や鳥をあしらった絵柄のほか、エビや巻き貝、カニ、魚介類のデザインもあって見ているだけで楽しくなる。
 今年、3月にベトナムから入荷したが、20代−40代の女性が「今まで見たことがない」と買っていく。 とりわけ、野の花などを生ける花器として使う人が多いのだとか。 ほかに酒器やしょうゆさし、小物入れなどにしてもいい。
 日本でも古くから茶人などが安南焼きとしてベトナムの陶器を愛してきた。 先人たちが魅せられた異国情緒たっぷりの器たちを、生活の中で生かしてみてはどうだろうか。
 (東京世田谷のアジアンスタイス・マオで)
(読売新聞)


チョットひとこと
「人の表情」 −今と昔−

 昔から、「日本人は何を考えているか分からない」とたびたび指摘されてきました。 それには思いあたるふしもあります。小さい頃から、「喜怒哀楽の表現を大袈裟にしてはいけない」 「本音と建前を読み取り、自分もその場での判断でこの二つのあり方を繰りながら人間同士の交わりを保っていく」 ことを教えられて育った人も数多くいりはずです。そのような処世術を身につけてしまった日本人は、 個人の違いは十分認めつつも、他国の国民性に接してその明るさと正直な反応、 本音で交われることに安心感を見出すだけことも少なくありません。
 最近は、経済的にも不景気なのでそれが表情に出てくるのかもしれませんが、日本人の表情が暗いと言われています。 ベトナムの皆さん、どう思いますか? どうぞ思ったままを私たちに伝えて下さい。 皆さんは祖国を離れて危険を侵しながら、特に日本では、言葉の問題、生活習慣の違い、 上に述べたような表現の複雑さなどを学校や近くに住む人たちとの間で経験したと思います。
 そこで、私は昔の極端な例を引いてこの問題を考えてみることにしました。 最近の出来事から想像するのでしたら、阪神大震災を想い起こして下さい。 今から55年も前に話は遡りますが、その頃日本は太平洋戦争も敗戦の兆しが見え始め、 国内の食料不足は今では考えられない深刻な状況でした。都内には雑炊食堂が開設され、 レストランの類いはもちろん閉鎖されました。そして食料を増産するために500 万人の学徒動員が行われました。 また、学童たちは集団疎開といって、親から離れて都会よりは安全と思われる場所に送られました。 このような体験を伝えるものは、言葉と写真だけですが、悲壮な中にも何か目的に向かって (今、その目的の善悪を論じているのではありません)一生懸命生きているという心が伝わってくるような気がしてならないのです。 それに引き換え、現在はテレビでもマンガでも人の表情は豊かに映され描かれていますが、 人々の目的意識と希望に向けられた眼の輝きはどうなっているのでしょうか? これは私の素朴な疑問なのです。

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