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チョットいいこと 79

「あかつきの村」20周年 記念・感謝の集い
チェック神父滞日
ベトナムの人々と皮革のかかわり
故郷にかける夢
いきいき活動激励賞
ハノイ・ジャ−ナル
故国(ベトバム)からの手紙
チョットひとこと



あかつきの村20周年 記念ミサ・感謝の集い

 お祝いのことば

 「知恵のある人がない人を助け、体力がある人がない人を助け、 お金のある人がない人を助けることができたら....そして、助け合うことによりお互いに心の窓が開かれ、 そこに愛があることを見出せたら....」「生きることは愛することである」と。 自分のために生きる喜びを見出すとき、世界中の人々が今よりもっと、もっと兄弟のように近く、 姉妹のように愛すべきものになってくるに違いありません。
 ひとり一人を自由な人間として認めあい、さらにその上で助け合う喜びが発見できるような、 小さな村をこの地上に具体的につくろうではありませんか。
 これは石川神父さんが、1978年「あかつきの村」をつくられるときの呼びかけの要旨です。
 石川神父さんが数人の仲間と力を合わせ、松の木の伐採から始め、どんな大きな障害があり、 いくど失敗しても、希望をもって「あかつきの村」をつくりあげようと努力され、 本日ここに「みんなが集うあかつきの村」ができあがり、創立20周年を盛大に迎えることができました。 先ず皆さんと共に心からお祝い申しあげます。 この20年間に、心に傷を受けた人、 人生の重荷を背負った数多くの人々が、「あかつの村」で、心を癒し力をつけ、力強く社会へ巣立っていきました。
 また1982年からは、ベトナム難民を国連より委託され、受け入れ、 定住・自立への支援・子供たちの教育・奨学金援助と、日本の社会での生活が安心してできるように支援してまいりました。 また、現在は、自立し難い方、心を病んでしまった方へ支援とさまざまな問題に取り組んでおります。
 ひとくちに20年と申しますが、この間には、「あかつきの村」も社会の情勢に押され、 幾多の変遷を経てきました。ここにご臨席の皆様の中には、当時を回想され思い出の新たなるものがあろかと思います。 開村当時の建物の中には、柱が4本でなく、1本足りなく3本の物もありました。 食べ物も質素で、時にはパン屋さんから「パンのみみ」を貰い受け主食としたこともありました。 今、四日市市に住んでいるベトナム人のリェンさんが作ってくれた弁当を持参いたし、 美味しくいただいたことを昨日のように思い出します。
 この頃は、物質的には貧しかったけれど、村のメンバ−とボランティアが一体となって住みよい村をつくるべく頑張りました。 そして、私たちよりもっと困っている人たちにに援助の手をと.... フランスのアベ・ピエ−ル神父が始めたエマウスの活動に38カ国の仲間と連帯し、 日本エマウス、アジアエマウスの中核的な存在となり、特にフィリピンエマウスの建設には、金銭だけではなく、 パラワン島まで行き、現地の人たちと一緒に汗を流し活動の場となる建物の建設にも取り組みました。
 開村当時やベトナムの方を迎えた頃からすると、隔世の感があります。 この間、多くの方々が「あかつきの村」に心を寄せご支援くださり、そして育てて下さいました。
 開村前から法律的なことは、弁護士の角田儀平治先生が、病気になれば駒形の根岸医院の根岸明先生が、 村のメンバ−及びベトナム人にはすべて無料で奉仕してくださいました。 また松林の開墾当時からの協力者、高橋裕先生はボランティアとして石川神父さんの理解者として、 よく「あかつきの村」をご支援くださいました。 このお三人とも、今は帰天され天国から「あかつきの村」を見守って下さっていると思います。
 また、表面には立ちませんが協力者は、この近在をはじめ全国に数えきれないないほどの方々がいらっしゃいますが、 現在八王子教会にられる藤井神父さんは、暇をみつけては東京中トラックを走らせ回収品を集め、 この「あかつきの村」発展の基礎づくりをしてくださり、 みんなが兄弟のように住める現在の「一在楽舎」ができあがりました。 一在楽舎やその他の建物の建設には、あつきの村を巣立ち社会人となって活躍されているベトナムの方々をはじめ、 多くの人々が鋸と金づちを持ち手伝ってくれました。
 このように、この「あかつきの村」は、一人や数人の方がつくられたのではなく、 石川神父さんの提唱に賛同し、 心を動かされた多くの方々が石川神父さんを中心として心と力を合わせて作りあげられたものだと思っています。
 開村当時からのボランティアの方も現在ご活躍中です。くずの会、これは「あかつきの村」のボランティアの集まりです。 ここに集まった人々は石川神父さんがよくよく言われる、人種・民族・宗教を越え、 人間愛に結ばれた「あかつきの村」を支援して下さっております。また、群馬大学のSRC、カリタス・ジャパン、 マリアの宣教者フランシスコ修道会、パリ−ミッション女子会も「あかつきの村」を全面的に支援して下さっており、 人間愛に満ちた皆さんの力により、今日の「あかつきの村があるのだろうと思います。
 この佳き日にあたり、この「あかつきの村」を今日まで支援し育てあげて下さった皆さんとともに感謝の誠を捧げたいと思います。
 物とお金が豊かな中では、人の心を育てるのは大変難しいといわれております。
 あかつきの村」は、心に痛みをもたされてしまった人や重荷を背負っている方の癒しの場・安住の地であって欲しいし、 それぞれの方の自助努力をする力を育てる場であって欲しいと願っております。 また在日ベトナム人にとっては、今も心の拠り所としての「故郷」であって欲しいとも思っております。
 組織が大きくなり、機構が複雑になっても、「あかつきの村」の中心はここに入所している方々です。 重荷を背負った人々です。これからも「あかつきの村」がさらに向上の道をたどれますようお願いし、 一言申し上げましてお祝いの言葉といたします。
 本日はおめでとうございました。
千吉良 進作


チュック神父来日 

 グエン・ヴァン・チュック神父はベトナムのドミニコ会司祭。 昨年暮れにわたしたちがベトナムを訪問したときに大変お世話になった方である。 このたび、浦和教区の平和旬間のためにチュック神父を招待した。
 チュック神父は8月15日の浦和教会での「平和記念ミサ」で岡田司教と共同司式した後、講演を行った。 講演は「ベトナムの教会の歩みと日本とのかかわり」についてであった。 ベトナムの教会は日本の教会とは一見、直接関係がないように見えるが実はそうではないことがはっきりしてきた。 かつて、日本とベトナムは同じ教区に属していたのである。!
   1557年、パウロ3世教皇はゴア大司教に、日本、中国、べトナムなどのアジアの諸国の教会を所属させた。 さらに、同年には、マカオ教区が設立され、日本とベトナムの教会はマカオ教区に所属することとなった。
 1615年、ベトナムでははじめて復活祭ミサがささげられたとき、ミサは日本語で行われた。 当時ベトナムには多数の日本人信者が居住していたとの記録が残されている。 こういう事実は非常に意外である!それでは現在はどうか。 日本の教会には多数のベトナム人が所属し、有力な構成員となっている。 ますます、多民族、多国籍化するわれらの普遍教会のなかで、今回は特にベトナムとのかかわりを考えてみたい。 さらに、1975年に終結したベトナム戦争がどんな意味を持っているのかを検証するときでもあると思う。
 平和について考え、語り、平和のために特に祈るときを迎えた。
 1995年、司教団は「平和の決意」を発表。これを静かに読みなおしたい。 今日は次の個所が心に響く。「キリストこそ、罪によって互いに憎み分裂するわたしたちの人間の愛の火を灯し、 心の武装解除をなさしめ、傷ついた心をいやし、人類一致と恒久平和のための内的基礎を築いてくださるかただからである」
岡田 武夫 司教


ベトナムの人々と皮革のかかわり

皮革の運搬のためフォークリフトを運転するホアン・バン・コンさん
 日本カトリック部落問題委員会(委員長・島本要大司教)による、訪問ルポシリ−ズの7回目。 今回は、兵庫県姫路市に住むインドシナ難民の一人で地場産業である皮革工場で働いている ベトナム人のホアン・バン・コンさん(37)を大阪教区部落問題を考える信徒の会の金原薫さんが取材した。 ベトナム戦争終結からおよそ4半世紀。定住難民への関心がほとんど消えてしまったかのように見える現在、 彼らは日本社会の中でどのように生きているのであろうか。

 難民をはじめ、当地の移住労働者と皮革産業の結びつきは深い。 現在も難民のケアにかかわっている宣教師は次のように書いている。
 「関西の定住難民の大部分が、神戸ケミカルシュ−ズ工場、または姫路の皮革の会社に勤めています。 初めからこうした職場を(政府の定住促進センタ−)意図的に斡旋したわけではないのですが、 不景気やさまざまな理由で、だんだんこの仕事にたどりついたのです。 良いことは割合に高い給料と、これらの会社の社長たちと働く人の温かい受け入れの心です。 お互いに仲間を見つけたような感じがします。しかし、先にも記したように、 これは国の受け入れよりも人の善意によるものであり、悲劇の中の恵みと言うべきです」(『福音宣教』1995年5月号)
 今回は、ベトナムの人々が日本という国でどのように生きているのかを伝えたい。

−いつものようにコンさんと呼ばせてください。コンさんのお生まれはいつですか?
 「1961年です。ベトナムのサイゴン(現ホ−チミン)でお酒と豆腐を作って売る仕事をしていた両親の最初の子どもとして生まれました。 大金持ちではないけれどまずまず豊かな家庭でした。後で弟が4人、妹が5人できました」

−国を出たときのことを教えてください。
 「80年に20人くらいの仲間とボ−トで脱出しました。10日間漂流しましたが、 日本の漁船に救助され、シンガポ−ルに送られそこのキャンプに1カ月いました。 それから日本に来て福岡の日本赤十字のキャンプで4年。アメリカに行きたかったのですが、できなかった」

−コンさんはいわゆるボ−ト・ピ−プルなのですね。
 「そうです。でも1人の弟、2人の妹はタイへ逃げました(いわゆる「ランドピ−プル」)。 それから弟はアメリカへ妹たちはフランスに行きました。 父と母、それにもう1人の妹もフランスに呼び寄せられて行きました。 病弱だった父は5年前に亡くなりました。その時、僕もフランスに行きました。ベトナムで結婚している兄弟もいます」

−コンさんはそれから姫路の定住促進センタ−へ?
 「そう、日本語の勉強は3カ月だけ。だから僕は、日本語下手(笑い)。最初の仕事は、ゴルフの会社。 でも3カ月で辞めた。その後メッキ工場でアルバイト。そして今の会社。13年ずっと働いている。

−皮革の仕事は大変でしょう。輸入した原皮から毛や不純物を取り除き、化学処理して「革」にしていくのですよね。 仕事がきつくて辞めよう思ったことなどないですか?
 「全然ないです。今は景気が悪くてあまり忙しくないけれど、以前、仕事がいっぱいだった時、 朝5時半から早出して、夜7時までも残業をした。しんどい(「疲れる」の意)けど、辞めたいとは思わなかった」

−どうして?日本人の労働者でも辞める人がいるでしょう?
 「仕事がきつくて辞めたり、(職場の人間関係の不和で)けんかして退職する人もいる。 でも僕は、いやなことなど何もなかった。仕事に慣れなくて(作業が)遅いとき、文句(注意される)あったけど、 うるさく(くどくど)言われない。休憩のとき友達と話したり、仕事を覚えてうまくできたときは、 とてもうれしい。社長は気持ちが分かる(自分の気持ちを理解してくれる)人」

−ところで日本には部落差別があるということを知っていますか? ある場所で生まれたことで、職業や結婚などに関して差別があったりすることを職場で聞いたことはありませんか?
 「聞いたことある。でもそんなこと関係ない、きれいな仕事、きたない仕事、それは関係ないと思う。 ベトナムにはそんなこと(職業の貴賤)職場の差別はなかったと思う。 日本人から『ベトナムに帰れ』と言われたこともない。言われたら怒る社長はいい人なので、 いろんな相談する。永住の手続きのときも助けてくれた。 仕事を怠ける日本人もいたけど、それは個人の問題」

−職場でコンちゃんと親しまれている彼は、波乱に満ちた体験をしてきたはず。 しかし、その話しぶりはいつも明るい。もとより言葉にならないはがゆさもあるだろうと思われるが、ひたすら誠実に生きている。 その姿に、彼を支える職場の温かさを感じさせられた取材であった。 姫路のベトナム人カトリック共同体の代表も務めるコンさん。昨年クックさんの結婚、待望の女の子ランちゃんも誕生した。 近く政府(難民事業本部)の表彰を受けるという。私たちが、こうした仲間とつながって生きている幸せを、あらためて感じさせられた。
(カトリック新聞)


故郷へかける夢
グエン・ティ・ゴックハン

 みなさんこんにちは。グエン・ティ・ゴックハンです。私はベトナムのメコン川近くの、 ベンチェンという村に、10人兄弟の4番目として生まれました。
 生まれつき病弱だったために、両親の元を離れて、病院のある所に住んでいたおじいさんやおばあさんの家で育ちました。 私の両親は、私の病気の治療の費用や薬代を手に入れるために、家の物を売ることもあったそうで、 大変な苦労をかけていました。

 4歳のある日、私は、一緒に暮らしていた母方の叔父、叔母に連れられて、混乱の続くベトナムを後にしました。 マレ−シアに逃げ、難民として日本にやってきたのです。 それ以来、長く両親と会えませんでした。これまでの15年間で、両親と生活した時間は、本当にわずかしかありません。 水道もガスもない電気もろくに使えない村です。電話などあるはずもありません。 字を知らないので手紙も直接書くことはできなかったのです。
 あの3年前の大震災がなかったら、顔も思い出せないままだったかもしれません。 『大震災』....私がおじさんたちと住んでいた神戸市須磨区の住まいは、すっかり駄目になり、 その上やっと手に入れたいた叔父の仕事は、勤め先の工場がつぶれてしまっていました。
 「こうしていてもしかたがない。休みに一度ベトナムに帰ろう。」避難していた鷹取中学校で不意に叔父がいい出したのです。 日本では、まだまだ寒い2月、しかし、帰り着いたベトナムは、もう一度目の田植えの季節でした。 私は、農作業をしている両親の姿、その作業の内容に、本当に驚きました。 日本で見慣れた耕運機も田植え機も、草刈り機も、何もありません。 お父さんは、水牛を使って田おこしをしていました。
 田植えは、家族総出でします。私自身も手伝いましたが、暑い中、一日中腰を曲げてふくらはぎまでずっと水にかっていました。 次の日は、ひどく痛んで、全然歩けなくなりました。ベトナムでは1年間に3回お米がとれます。 でも、その分土地がやせてしまって、1回あたりの収穫は少なくなってしまうのです。 お父さんが肥料をまきにいった時のかっこうにも驚きました。 大きなカゴを背中にしょって、肥料をつかんではばらまいていくのです。どんな肥料だったかは思い出せませんが、 真っ黒に日焼けしているお父さんの顔も手足も、肥料と土ぼこりで真っ白になっていました。
 害虫が発生した時、お父さんは慌てて農薬をかけていきました。 自転車の空気入れのような小さな道具で、少しずつ、すごい時間をかけてまいていくのです。
 ある日、たんぼの雑草を抜きに行くというので、お母さんがいつもと違う長袖の服を着て、でかけていきました。 やがて帰ってきた時、お母さんは、顔も手も切り傷だらけでした。 雑草を抜く時、稲の鋭い葉先に触れて、切り傷ができるのだそうです。 だからお母さんはあんな暑い中で、長袖を着て雑草抜きをしなければいけなかったのです。
 私は4月の新学期に間に合うように日本に帰ってきたので、稲刈りを見ることはできませんでした。 でも、やはり家族総出で手作業で収穫するそうです。大変だけどこの時がみんなにとって一番楽しいと聞きました。 本当のことを言って、これまでつらいことがある時など、 私一人でお父さんやお母さんと離れて日本で暮らして いて『私なんて生まれてこなきゃよかった』などと思うこともありました。 でも、あんな苦労している両親を見て、私の中で大きな変化がおきました。
 日本にいるからこそ、この国のすばらしい技術や知識を学ことができる。 日本での生活は私にとってすばらしい宝物なんだ。苦労や心配をかけた両親をはじめとして、 今も重労働の農作業を続けているベトナムの人々が、少しでも楽に仕事ができるようにしてあげたい。 そのお手伝いがしたい。心からそう思うようになったのです。
 ベンチェの村は、水道もガスもありません。電気も、いつとまるかわからないような状態です。 ベトナムには同じような地域がまだまだたくさん残っています。 ですから、機械化の進んだ日本の農業のやり方をそのまま導入することはできません。 高い肥料や農薬を買うことはできないし、これからのことを考えると、 できるだけ農薬に頼らないやり方を考えないといけないと思います。
 ベトナムは、豊かな自然に恵まれた、美しい国です。アメリカの戦争の傷跡は今も 残っていますが、自然は、そんな傷跡を包み込む力を持っています。 自然を農業な農薬などで汚染したくありません。
 私は県立農業高校で、一生懸命に学んで、たくさんの農業知識・技術を身に付けます。 そして、ベトナムに合った農業のありかたを探し続けたいと思います。 将来は、私の生まれた国ベトナムに帰り、その知識・技術を生かして、農業の発展につくしたいと願っています。


いきいき活動激励嘗
『気持ち伝える貴重な仕事』

 全国の高校生から高校生活の体験を論文で募集した「第5回いきいき生活激励賞」 (日本青少年研究所主催、文部省など後援)の表彰式が東京都新宿区の日本青年館で行われ、 準グランプリにあたる特別優秀賞に、ベトナム国籍で県立新田暁高校(立川博校長)総合学科2年、 ファン・バン・チュウ=PHAM VAN TRIU =君(18)が選ばれた。
 論文は、夏休みを利用したベトナム難民のボランティア通訳の体験がつづられたもので、 日本とベトナムの両国の"懸け橋"として貢献できた喜びを表現している。 同賞は生徒会や部活動、ボランティアなど学校内外で活躍した個人やグル−プの地道な活動にスポットライトをあて、 広く紹介するのが目的。全国各地の高校生が活動状況を原稿用紙5枚以内の論文にまとめ、352 件の応募があった。
 チュウ君は外国人でただ一人選ばれた。特別優秀活動賞の受賞は19件で、 県内ではチュウ君のほかに高崎商科短大付属高校のボランティア部(岩佐佳代表)の 「はずむ心で老人ホ−ムへ」万場高校の二ツ橋香苗生徒会長の「コスモス街道づくり」が受賞している。
 チュウ君はベトナム難民で1993年に両親や2人の妹とともに東京都品川区の国際救援センタ−で、 半年間にわたり生活。94年に父親の仕事で太田市内に移り住み、 昨年から同校に通学している。受賞した論文は、今年の夏休みに3日間にわたり、 同センタ−で母国人を相手にした通訳ボランティアの体験をまとめた。 同センタ−は、ベトナム難民を対象に日本社会への適応と自立を促進するため、 日本語の習得や社会生活の適応指導を行っており、チュウ君が訪ねた8月には200 人ほどのベトナム人が入所していた。
 チュウ君は「自分や家族が世話になったセンタ−で、自分のように日本語に困っている人の役に立ちたい」との思いから、 通訳のボランティアに参加した。論文は「ベトナム戦争終結後、混乱は他のインドシナ全般に広がり、 政治的迫害を避けて難民として外国へ脱出する人々が少ないとは言えません」と始まり、 ベトナム難民は言葉や風俗、習慣に戸惑いながら見知らぬ土地の生活を不安に思っていると訴える。
 チュウ君は「久しぶりに母国人と話ができ、うれしかった。 人に代わってその人の気持ちを相手に伝える仕事の重要性を学ぶ貴重な体験だった。 全く日本語が分からない4年前の自分の姿がそこにあった」という。
 同校の生徒指導主事、栗原長告教諭は「漢字を交えた日本語の論文を来日から4年間でよくマスタ−出来たと思う。 国際化時代にふさわしい人材として、夢を実現してほしい」と語っている。
県立新田暁高校総合学科3年 ファン・バン・チュウ(PHAN VAN TRIU)


ハノイ・ジャ−ナル

 世界のベトナム研究者が一堂に会するベトナム初の国際学術会議が、このほどハノイで開催された。 マルクス・レニ−ン主義とホ−チミン思想に照らした社会主義国家建設を目指す同国が、 体制の異なる各国の研究者を招いて議論を交わした会議は 解放政策「ドイモイ(刷新)」の成熟ぶりを国家社会に印象ずけるための一大行事となった。
 3日間にわたって行われた会議、「ベトナム学と国際協力強化」はハノイ国家大学とベトナム国家社会人文科学センタ−の共催。 文学、歴史、社会・経済の発展などがテ−マで、ベトナム側から約300人、 米、仏など海外から約300 人の計600 人が参加した。日本からは約50人と外国参加者の中では最大の勢力となった。
 社会主義体制下のベトナムでこれまで開催された大規模な国際会議としては、 昨年11月の仏語圏諸国首脳会議があるだけ。それだけに今回は、学術会議とはいえ、 ファン・バン・カイ首相が開幕の挨拶を行い、最終日にはレ・カ・フュ−党書記長が研究者代表と会見するなど、 国をあげての取り組みとなった。
 会議では「ドイモイ」の下、変貌しつつあるベトナムの伝統的価値観やアイデンティティ−について議論が交わされた。
 レ・カ・フュ−書記長と研究者代表約50人との会見に参加した古田元東京大学教授によれば、 同書記長が「国際会議は以前から設定されており、 同時期に開催された中央委総会の議題と(扱う分野)が重なったのは、意味のある偶然だっだ」と語ったという。
 今回の会議では「政治・国際関係」といった微妙なテ−マは意 識的に避けられ、ベトナム国内での学術的意見交換に一定の限界があると見せつけた。 それでも主催者側は、出席意向者を拒否したケ−スはないとの説明。 政治的理由から90年に党籍を剥奪され、主として国外で高い評価を得ている作家ズオン・トゥ−・フォン女史らが不参加だったのも 「そもそも出席申請がなかったから」としている。
ハノイ 渡部 恵子 (読売新聞)


故国(ベトナム)からの手紙

 アンちゃん、
 お父さんはしばらくアンちゃんに手紙を書きませんでしたね。この頃元気ですか。 アンちゃんは4カ月以上も私たちに手紙をくれませんでしたね。 お父さんもお母さんもあなたからの手紙を待っていましたよ。家族はみんな元気で安泰です。 この手紙を読んだらお父さんとお母さんに手紙をくださいね。
 チイちゃんとチャンちゃんは(妹)最近レストランで働いています。 お父さんとロン君は鉛筆工場で働いて一年になりました。でも最近、鉛筆の材料がなくなってしまいました。 材料が揃うまでまた仕事がありません。
 アンちゃんから送ってもらったお金でお父さんはバイクを買いました。 チイちゃんとチャンちゃんが働いているレストランへ行くために必要だったのです。 レストランは家から20qも離れているのです。チイちゃんはそのバイクに乗って毎日仕事に行っています。 ロン君とホンちゃんは夜間小学校に通っていますが、よく頑張っています。 昼間の小学校に行かせたいと思いますが、お金がかかるので考えてしまいます。
 ニュ−スがあったらまた知らせますから、アンちゃんもそちらで頑張ってください。 あなたの面倒を見てくださっている方たちによろしく。 父より。


チョットひとこと

 この地球上を旅する私たちは、1999年という年を迎えました。「新しい」ということには、何か魅力が潜んでいるようです。 新しい時代を迎える、それは変化する世界にのみ当てはまる言葉です。 世界の国々でも、もちろんその国の伝統にしたがって年の始めを祝っています。 新しい年が充実した年であり、幸福な「時」が少しでも長く続くように願っています。
 教会では、1月1日には「神の母聖マリア」を祝い、 また同時に「世界平和の日」として平和の大切さをあらためて思い起こしています。 平和の王であるキリストが誕生されてから一週間経って、この日に「イエス」と名付けられた記念すべき日でもあります。 聖母マリアの優しさ、強さを思いながら、キリストによる救いの歴史が始められるための大切な存在であったことを、 もう一度意識の中に新しく位置付けたいと思います。
 今回掲載された作文、その他を通して、ベトナムの方々の親子の愛情や深い思いやりが心に響いたことはいうまでもありません。 それこそ愛の絆で結ばれていることを証しするものだと思います。 思いやりこそ傷ついた心を癒し、生きるための励ましを与える力です。 「物」では置き換えられない人間の暖かさだと思います。
 最近の世相を見ると、一生懸命働いても、祈ってもよい結果にはほど遠く、絶望的だと感じることさえあります。 一つの試練かも知れません。日本の社会には、白か黒かを明確にしないことを良しとする傾向があるようです。 「存在」についても絶対か相対かを明らかにすることから逃げてしまう場合があります。 何でも適当に許容してしまう曖昧な世界観、道徳観から脱却して、 一つのはっきりした道筋を示すことに目覚めなければ、内面的な豊かさを加えていくことはできないでしょう。 便利な快い生活を目指して突進してきた日本の社会に来るべくして来たものは、 多くの公害、病気、ゆとりの無さ、そして物質主義の高波でした。 アジアの方々と協力してより良い関係を築いていくと言いながら、実は経済的な侵略を続けていたこ とも認めなければならないと思います。こんなことを反省しながら、これからの一年間、 アジアの兄弟姉妹に謙遜な態度でかかわっていけたらと願っています。

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