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チョットいいこと 77

外国人と共に豊かな社会を
なんで本名隠さなあかんのやろ
私のいる風景
ベトナム人シスタ−誕生
ベトナム生還30年目に思う
父が泣いた最高のひととき
ひとこと ふたこと
チョットひとこと



外国人と共に豊かな社会を
神田 裕

 異国情緒あふれる港町"神戸"。昔からたくさんの外国人が住み、 まさに国際色豊かな街として発展してきた。そんな神戸の街を自然が襲った。阪神・淡路大震災である。 わずか十数秒の大地の揺れが。おしゃれな街を一瞬のうちにがれきの街と変えた。 多くの人が犠牲になった。家を失った人も数えきれない。 日本人も外国人も皆同じように被害にあった。 地震の被害に国籍の差はなかった。でも、それは本当だろうか。
 震災にあったその日、人々は避難所へ逃げ込んだ。しかし避難所という言葉が分からずウロウロする外国人の姿があった。 標識も漢字での表記だけなので読めなかった。行政から出される大切な情報も、すべて日本語だった。 「日本に住んでいるのにどうして日本語ができないのか」と平気でいう災害担当者もいた。仲間が集ま って食べ物を分け合っていたら、「それをどこから盗んだんだ」と言われた外国人たちがいた。 被災地で火を付けまわっていると言うデマも一時あった。  このような外国人に対する偏見は被災後4年を迎えた今でも、基本的に変わらない。 と言うより震災以前からの問題がそのまま残っていると考えた方がいい。 外国人たちとともに復興の景気付けにと短期の屋台村を計画した時も治安が悪くなると地元に反対された。 自力で民間の住宅を借りようとしても外国人お断りの入居拒否はあとを絶たない。 職業安定所での就職あっせんは外国人には皆無に等しい。 国際都市と名がつく神戸であっても、ここは外国人にとって、とても住みにくい所だと震災後あらためて知った。
 地域社会における問題だけでなく、もっと大切な生命に関する問題もある。 国は医療に関しては健康保健で対応した。保健証を持っている者は一部負担金も免除され、治療費などは助かった。 しかし、保健証のない短期間滞在の外国人たちは地震関連での入院費を自費で払わなければならなかった。 災害救助法では治療費の実費弁償が書かれているが、震災後、外国人を支援するNGOとの交渉で、 厚生省の担当は「救護所での応急措置は対象になるが、保健に入っていない外国人は救済できない」と語った。 何のための災害救助法なのか。また、長年神戸に住んでいても査証(ビザ)の期限が少しでも過ぎていれば死亡した者への弔慰金も出なかった。 税金は同じように払っているのに生命の保障はなされていない。
 そんな中、外国人たちの支援をしようと集まってきた仲間たちがいた。もちろん多国籍。そして新しい動きが始まった。 「被災ベトナム人救援連絡会(現・神戸定住外国人救援センタ−)」は外国人への震災情報の伝達を主な活動内容とした。 そして、その活動の中から今度は電波に乗せて情報伝達をとコミュニティ−FM放送局「FMわいわい」が誕生し、 多言語で神戸の街にメッセ−ジを送っている。「NGO外国人救援ネット」は震災時に発生した外国人の医療費の問題から始まり、 今は電話ホットラインで外国人の生活相談口を開いている。
 以上これらはソフト面での支援活動である。
 「神戸アジアタウン推進協議会」はハ−ドな面の支援活動を目指す。 アジアの人たちが多い神戸・長田をアジアの街にしよう活動する。 街の案内板を多国語表示にするプロジェクトもその一つだ。 このように見てみると震災後にできた外国人支援のネットワ−クは4年目に入り「救援」から(まちづくり)へと変わっている。 外国人が直面するさまざまな問題は「かわいそうな外国人の助け」ではなく、 同じ市民として共につくりあげてゆく多文化共生の(まちづくり)を通して初めて解決の糸口が見つけられる。 違いを共有することは豊かさを生むことだ。 外国人と共に同じ仲間として暮らして行くことによって成長した豊かな社会を築くことができる。 そこにはもう外国人という言葉はいらない。
 異国情緒あふれる観光都市は異国情緒あふれる地域社会となって、初めて国際都市となる。 自然災害である地震には負けたけれど、新しいものをつくり出すことによって地震に勝って楽しみたいと思う。
(カトリック鷹取教会神父=神戸市在住)
朝日新聞


なんで本名隠さなあかんのやろ
21日、在日外国人教育講座 姫路

 異なる民族がお互いの文化を学び、尊重する社会づくりを目指す 「西播磨地区在日外国人教育講座」が21日姫路市飾磨区下野田図書館飾磨分館で開かれる。 主催する市内の小、中、高校教諭らは「教師や保護者に限らず、たくさんの人に参加してもらい、 一緒に考えてほしい」と呼びかけている。
 
講座の案内チラシを準備する教諭ら
 同講座開催実行委員会の事務局を努める武田ひとみ・市立東光中教諭は高校時代、 在日朝鮮人の同級生男子に、日本名で学校に通っていることを打ち明けられた。 「なんで本名を隠さなければあかんのやろ」。教師になり、 事情が分かってからも外国人生徒の問題が心にひっかかっていた。
 1996年、神戸市内の教諭らが結成準備を進めていた県在日外国人教育研究協議会(会長、安保則夫・関西学院大教授)で、 姫路市内の元中学校長山口英雄さんと知り合った。 山口さんは在学中、日常会話がやっとのベトナム人男子生徒と出会い、 「日本語が上手になって、もっと日本のことが知りたい」と訴える熱意に打たれ、 校長室で1年間マンツ−マン授業をした経験を持つ。
 「外国人生徒は、教師だけでなく、友人や地域の人たちとの触れ合いから学ぶことも多いはず。 一緒に遊んだり、学んだりするネットワ−クが必要だ」と痛感した。 武田教諭は山口さんの考えに共感。同様の問題に関心を持つ教諭たにも呼びかけ、 96年6月、15人で実行委員会を結成。11月に開いた初めての講座では、 約100 人の市民に在日外国人の子どもたちをめぐる教育の現状を訴えた。
 今回の講座は2回目。在日外国人や日本の子どもたち計7人が、 学校生活についてシンポジウムを行う予定で、 ボ−ト・ピ−プルとしてベトナムから来日した賢明女子学院のブィ・ミン・ヒュ−教諭がコ−ディネ−タ−を努める。 同実行委によると、県内の在日外国人の小中高校生は約8,800 人(昨年5月現在)。 多くは言葉や文化などの壁から友だち付き合いや進路などについて一人悩んでいるという。
 武田教諭らは「言葉や文化の違いを認め合えば、それぞれの民族性や名前も尊重できる」と話す。 午後2時から。資料代500 円
(読売新聞)


私のいる風景
瀬戸 正人

 暮れから正月にかけてベトナムで過ごした。ここ数年取り組んでいるハノイの街頭を撮影するのが目的。 現場に三脚を立て、通りが延々と連続するように撮った。 さまざまな建物や、変わりゆく町並み以上に、人々の活気ある暮らしぶりがドラマのように展開するのが面白かった。 天秤棒を担いだ物売り、店に集まる買い物客、 オ−トバイに乗った若者たち、二階からこちらを見ている人....。
 「僕にはハノイの街頭の眺めが、人々がそれぞれの役を演じている劇場のように見えるんです」10年前、 仲間と語らってオ−プンさせた東京・四谷の写真ギャラリ−。 当の連作「ストリ−ト」を壁に展示し、瀬戸正人さんはそう説明する。
 この人の作品に一貫するのは人間への興味だ。 第21回木村伊兵衛賞(96 年) に輝いた「Living room,Tokyo 」 (写真集「部屋」=新潮社刊)80年代のバブル期に着手したこのシリ−ズは、アジア、アフリカからの不法就労者を含めて、 東京に住む人間をその私室ともども撮り続けた。
 モデルはOLあり、労務者あり、SMの女王様あり....団地、マンション、アパ−トなどの室内デザインは千差万別。 人々がどんな飲み物を好み、どんな本を読んでいるかなどがのぞけ、 一見均質に見える都市生活の中身が、実に多様であることが理解できる。
 「基本的に一人暮らしを撮ったのですが、渋谷あたりで声をかけると、 女の子なら60%はオ−ケ−。よかったらヌ−ドになってくれませんかと頼むと、 これにもよく応じてくれた」女性たちの自己アピ−ルの意欲も大いに役だったこのシリ−ズは、 現在『週間文春』に連載中の「東京住宅・解体新書」に継続される。

 メコン川を渡ればラオスというタイ東北部のウドンタニ市生まれ。 父親は旧日本陸軍軍曹。終戦後、国に引き揚げれば処刑されるといううわさを耳にした父は現地人になりすまし、 ベトナム人の母と結婚して、写真館を経営した。 やがてベトナム戦争が始まり、タイ政府がベトナム人のスパイ狩りにのりだすと、 一家はこれを逃れて父の実家がある福島県に移住。瀬戸さんが小学校3年生の時だった。
 故郷で再開した父の写真館の後を継ごうと、写真修業のため上京。 そのまま東京に住み、80年代になるとバンコクやハノイをしきりに訪ねるようになった。 自己ル−ツをたどる旅であり、その成果を写真にまとめた。
 なぜ人間にこだわるのか。
 「人って、よくわからないですよね。ちょっとしたしぐさを見ても、やはり人間だなとか、 いいとか、不思議だなと思ったりする。そんな理由で人にひかれます。 大自然の写真もすごいと思う時はあるけど、僕自身はビルとか道路とか橋とか、 とにかく人のからんだものが好きなんですね」
 人なつこく、人間くさい土地がはぐくんだアジア的感性がそう言わせるのだろうか。

 人間への興味は、最近のもう一つのシリ−ズ「Silent Mode 」でも掘り下げられる。 サイレント・モ−ドとはシャッタ−音を消す写真の機能。カメラを首にぶら下げて、 混み合った電車に立ち、目の前の座席に座っている女性を60センチの至近距離からこっそり撮る。
 写された女性たちの、いずれもボ−ッとして、表情のない顔が印象的だ。 だれの視線も意識しない、それゆえに脱け殻のようですらある表情は、おそらく都会生活の中で、 人が完全に「私」に閉じこもる数少ない時間、空間を示している。 それもまたカメラだから記録できる人間の本質に違いない。 「以前のバンコク、ハノイの作品は何かを狙って撮るスナップショットだったけど、 今のハノイの作品シリ−ズはこちらの感情や思いを排除し、淡々と写すことで、向こうから現れてくるものを待っている。 人間を別の角度からとらえようと思っています」
 だれでもカメラを手にし、写真展がひしめく時代。そんななかで、 人間への興味から一作ごとに主題へのアプロ−チと手法を変えていく所に、プロとしての仕事の自覚がある。
(読売新聞)


ベトナム人シスタ−誕生
愛徳姉妹会

 聖ビンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会では、6月7日、日本ではじめてのベトナム人シスタ−が誕生した。 ハ−・ティタン・バンさん(27 歳・鷹取教会出身)は86年7月ボ−ト・ピ−プルとして兄、姪と一緒にベトナムを出国した。 88年11月、先に日本に定住していた姉の招きで日本定住が実現。 94年9月同会に入会、修道会生活の道を歩んだ。
 司祭では、この春東京で司祭叙階された竹内麟太郎神父(コンベンツアル聖フランシスコ修道会)、 高山親神父(イエズス会)を含めてすでに5人がボ−ト・ピ−プルとして来日後、司祭に叙階されているが、 シスタ−ではバンさんがはじめて。「ボ−ト・ピ−プルから定住へ、そして奉献生活へ。 異文化である日本文化を受容していく姿勢、 その意義をアピ−ルしたい」と語る井本百合子管区長はじめ姉妹たちのよろこびはひとしおである。
 シスタ−バンは「九死に一生を得て定住することができた日本で、私を支えてくださった多くの方々の祈り、 神の御手の業を感じずにはいられませんでした。神と貧しい人々とともに生きることのよろこび、 ベトナムで祈りながら見守っていてくれる両親への感謝でいっぱいです」とのべ、大きな祝福に応えた。 
(大阪 カトリック時報)


ベトナム生還 30年目に思う

金子 熊夫
 丸30年前の今頃、私は、死を覚悟していた。当時、ベトナム戦争が最高潮に達した頃で、 サイゴン(旧南ベトナム首都、現在のホ−チミン市)の日本大使館に勤務していた私は、 1969年1月末から2月の初めてのテト(旧正月)の休戦期間を利用し、地方の実情視察を兼ねて、 北ベトナムとの境界線のすぐ南にある古都フエに出張していた。そこで偶然あの歴史的なテト攻勢に遭遇し、 猛烈な市街戦に巻き込まれたのである。
 南ベトナム民族解放戦線と北ベトナム軍が、総兵力54万人の米軍を実力で敗北に追い込み、 戦局を決定的にしたベトナム戦争最大のクライマックスで、なかでもフエの攻防戦は激烈を極め、約3週間続いた。 その間両軍兵士、一般市民合わせて数万人が犠牲になったが、その中には、米国はもちろん、 米国の同盟国である西側先進国の外交官、ジャ−ナリストも多数含まれていた。

 そのような状況で私が無傷で生還できたのは、まさに奇跡的な出来事であったと、 今にして痛感する。その後20年近くたち、すっかり平和になったフエを再訪した折、 私は往時を知る数少ない関係者から、あの時何人かのベトナム人の友人たちが、 私の知らないところで、いかに必死に私を守ってくれたかを聞いた。 また、私の救出のために、米軍当局も大変気を使ってくれたことを後で知った。
 当時日本は、日米安保条約下で、一貫して対米協力路線をとっていた。 その政府の「手先」である私たち外交官は、当然共産側から狙われているだろうと考え、 青木盛夫大使(偶然ながら、先般のペル−事件の際の青木盛久大使の父君)以下全員、 それなりの警戒態勢は常時とっていた。
 しかし、人間は、365 日24時間緊張を維持できるものではなく、わずかな隙をつかれればどうしようもない。 テト攻勢の時も、日頃の共産側の秘密情報に通じているとみられたフランス総領事ですら、 不意打ちをくらい、慌てていた。東京に帰ってから、 そもそも戦争中の国で地方へ出張するとは不注意だったとの批判をときどき耳にしたが、 平和な東京の茶の間でテレビ観戦しているだけの評論家には、 何を言っても無駄だと悟ってあえて釈明しなかった。

 実際冷戦終結後も、とくに湾岸戦争、ペル−事件等の際には、 現地駐在の日本の大使や大使館員の対応がマスコミで厳しく批判されている。 それらの批判の中には、もっともなものが多々あり、外交当局としては、正当な批判には謙虚に耳を傾け、 徹底的な改善措置をとるべきである。また、日頃の細心の情報収集・分析により、 できる限り危険を予測し、予防措置を講ずることが必要なことは言うまでもない。
 しかし、現在の世界には、戦争、内乱、テロ、誘拐等々いろいろな危機があり、 これらすべてを予知し、未然に防ぐことは到底不可能である。そこで改めて問題となるのは、 予測を超えた危機が発生し、それに巻き込まれて、不幸にして一命を落したり、重傷を負った場合の事後処理である。
 特に、政府や会社の命令で海外活動に従事している人々の場合はどうか。 私は幸い殉職を免れたが、例えば私の後輩で、1970年代末、 ラオスのビエンチャンに臨時代理大使として在務中惨殺されるという不幸な災難に見舞われた人もある。 彼の場合、一緒に犠牲になった夫人が「公務中」の殉職に該当するか否かが政府内部で揉め、 遺族との間で長い感情的な対立が続いた。
 外交官の「殉職」について、法律上特段の規定はなく、曖昧な状況はこの30年間基本的には変わっていないようである。 企業の場合も、近年「危機管理」が叫ばれる割には実際の取り扱いは不十分なところが多い。 例えば、ベトナム戦争やカンボジア紛争で不慮の死を遂げたジャ−ナリストの中には、私の親友も何人かいるが、 遺族への処遇に問題があるケ−スは少なくない。
 普通、生命保険では、戦争、内乱、暴動などは除外されている。 また、民事訴訟による損害賠償にしても、発生した国の事情や法律によって大きく異なるので一概には言えないが、 一般に所得水準の低い途上国で遭難した場合、日本国内の場合とは大きな隔たりがあり、不満足な解決に終わる可能性が高い。 ボ−ダ−レス時代とはいっても、生命の値段には国によって大きな差異がある。

 30年前私は、極限状況で死を覚悟したものの、日本が直接関係しておらず、 しかも正義のない戦争で「犬死に」だけは絶対にしたくないと思った。 「国家」「民族」「祖国」という観念がすっかり希薄になり、 自らの命を懸けるだけの大義名分が見付けにくくなった今日、国際化の最先端で働く人々が、 せめて後顧の憂いなく職務に専念できるように、国や企業は平素から万全の対応措置を確立しておかなければならない。 行政改革に関連して官僚批判も大いに結構だが、徒に「官僚バッシング」「外交官バッシング」に偏すると、 「角をためて牛を殺す」結果に終わることを恐れる。
(読売新聞)


父が泣いた 最高のひととき
武永賢の日記から

 杏林大の医師、武永賢(32)は4年前、作家の曽野綾子さんと同行し、 身体障害者とともに聖地巡礼の旅をする機会を得た。当時80歳の父親のカオさんも一緒に旅をした。 カオさんは、武永さんにもまして敬虔なカトリック信者である。旅はカオさんへの最高の、そして最後のプレゼントになった。

 聖地巡礼の旅をした仲間たちとの"同窓会"の招待状が届いた。ぜひ出席したいと思う。 私の人生にとって忘れられない旅だったから....。
 旅は、ロ−マ教皇にお目にかかれるという内容で、父に贈る最高のプレゼントになると思い、すぐ参加を希望した。 出発までは大変な道のりだった。まず国籍の問題。当時私を含めて家族は無国籍に近い状況にあった。 だからビザを申請するときはほとんどの大使館から門前払いにされた。 パスポ−トの代わりに、難民が持つ再入国許可を投げ捨てて返すところもあった。
 しかし、80歳になった父を今回連れて行くことができなければ二度と機会はない。 平成6年3月半ばには医師国家試験を控えていたが、2月中のほとんどは医学教科書を手に大使館まわりに明け暮れた。 結局はたくさんの人から助けや理解で、巡礼国からビザをもらうことができた。
ローマ教皇に祝福される武永さん。人生最良の日となった
 4月17日、イスラエルに向かって出発。4月22日、死海のホテルで国家試験合格を国際電話で知らされた。 その日の死海は熱風に襲われていた。目が開けられないほどのあらしの中で、同行の人たちからたくさんのお祝いを受けた。
 人生最高の感動はさらに続く。4月27日ロ−マの教皇にお目にかかることになった。 身体障害者と同伴だということで、他の何万人という群衆よりも優先され、最前列に座ることができた。
 教皇の側近のベトナム出身の神父が私たちに近づいてきた。 まさかその神父が父と旧知の関係だったとはだれが予想しただろうか。 半世紀ぶりの再会、しかも異国で。その晩、父はホテルのバルコニ−で泣いた。
 その1年後、父はこの世を去った。思えば父の運命はベトナムの運命と同様に波乱に満ちていた。 でも、その父がエルサレムに巡礼し、教皇に祝され、友人に再会し、 やさしく穏やかなひとときが人生の最後に与えられたのだ。神様、ありがとうございます。
(産経新聞)


ひとこと ふたこと

 アメリカへ行ったこと
 センタ−を出て会社に勤めたときから、私はアメリカへ旅行したいと思っていました。
 今年の夏休み、とうとうアメリカへ行ってきました。そこではいろいろ観光しました。 アメリカはほとんどの家が大きくてきれいです。町も道路も大きいです。わたしは海へ行きました。 ロングビ−チというところはきれいなところです。人は海で泳ぐのが好きです。 彼らは体を太陽に干したり、泳いだり、バ−ベキュ−をしたりしました。 ベトナムのス−パ−マ−ケットとチャイナタウンにも行きました。アメリカで中国人が建てたお寺は、浅草のお寺より大きいです。  海や買い物だけでなく、わたしは娯楽でユニヴァ−サルスタジオやベトナムの劇場などアメリカの有名なところへ行きました。 はじめての私の旅行はほんとうに楽しかったです。お金があったら、また世界中の国々へ行きたいです。
リエウ
 日本のこと
 私の家族は4年前に日本に来ました。今、私の両親は団地に住んでいます。私の近所の日本人は皆さん親切です。 でも、時々きびしいです。
 日本の都会はきれいで、にぎやかです。日本の家と道はちょっと小さいです。デパ−トがたくさんあります。 そしいろいろなものを売っています。わたしはお寺へ行きました。お寺は古いです。
 私は妹と一緒に海に行ったことがあります。ベトナムの海は日本の海よりきれいです。日本は大変寒いです。 冬は時々雪が降ります。そして桜の花が好きです。 ベトナムは雪と花がありません。しかし、ベトナムの正月は大変楽しいです。日本語は大変むずかしいです。
 私の日本語はまだへたですが、がんばって勉強します。 
ルー
 日本での生活 へやさがし
 3年ほど前友人のために部屋さがしをしたことがある。朝から夕方まで30軒以上の不動産屋を回ったが、空振りに終わった。 ドアを開け、外人らしい口調が伝わっただけで××反対運動のサイン集めの人が入ってきたみたいに何も聞かないで追い出すふりをされた。 もう少していねいな人は中に入れ相談に乗ってくれた。 そしてこちらの条件を先に聞き出してからそれに合わない点を数え上げ、「残念ながら....」と断ってきた。 不動産屋が斡旋してくれても、いざ家主に合うと「外人さんはねぇ」柔らかく断られる。
 しかし、よく考えてみると我々の先輩たちのおかげで、 日本人が外人に対して国籍に関係なく「外人だったら悪い人間だ」という悪い印象を与えてしまったとといういきさつもある。 我々が、誰か冷たい日本人に何かやられた経験があれば「日本人は冷たい」と考えてしまう傾向があるのと同じではないかと思い 「お互い様」と、自分の心を落ちつけることができる。でもやっぱり苦労は多い。
タオ


チョットひとこと

 「平和は、容易には得られない」と文章をしめくくった新聞記事に共感はするものの、 何とも淋しい人間の世界ではないかと思わざるを得ませんでした。 どうにかならないものでしょうか?視点を少し変えて解釈すれば、 容易に得られないから貴重なものだということもできます。 一方において、「平和」は理想であって現実性の薄いものであるとも言えるでしょう。
 人間の歴史をたどっていくと、常に戦争と平和の繰り返しに彩られ、権力と闘争、 富と破滅、表の道を歩んでいるもの、裏街道を往くもの、さまざまな表情が浮かび上がってくるのに気付きます。 そして、平和な社会を実現させようとして業績を残した人々、 働き半ばで犠牲になって平和を築くための礎となった人々も世界の動きの大切な軸になっています。
 アジアの中では、太平洋戦争の傷跡が今でも残っており、いまだに疼いている傷も存在しています。 傷つけたほうは、どんな想いで戦争を回顧しているのでしょうか? 被害者は、どんなに忘れなさいと言われても極限の痛みを忘れることはできないでしょう。 心と体に残る傷はいつか癒されるのでしょうか? そして赦し合うことが決して簡単ではないということも互いに背負っている重荷についての認識が深く、 誠実な生き方を貫いているならば当然浮かび上がってくる問題です。
 戦争というものを知っていても知らなくても、「平和」をつくりだすためには、 できるだけ多くの人々が誤った潮の流れに巻き込まれないようにしなければならないと思います。 今までどこの国でも、戦争に傾く体制に抵抗できず、結局悲劇の中に埋没してしまった事実を数多く経験してきました。 自然界でも人間の力では防ぐことのできない現象が起こっていますが、 人間同志がつくっている社会でもある時には予期していなかった出来事に遭遇し、 激しい流れに押し流されることもあります。では、私はそのような環境のなかで何をしたらよいのか? どのように生きればよいのか?しばし考えてみたいと思います。
 「平和をつくりだす人たちは幸いである、かれらは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ 5,9 )

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