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チョットいいこと 76

キャンパス情報
岡田司教ベトナム訪問
習慣の違い越え奮闘
ベトナムの田園にリムの歌声
子供の叫び声に耳を傾けて
ホ−チミン市の今は
ちょっぴり?考えたこと
チョットひとこと



キャンパス情報

 大阪府立松原高校(松原市)がベトナムの公立高校と姉妹校提携した。 戦争の枯れ葉剤による被害者への医療支援を行う医師らによる民間活動団体(NGO)の紹介で実現したもので、 戦後の復興と経済発展で急速に日本にも身近になった同国への理解を、 生徒同士の触れ合いによって深めるねらい。 先日、現地校の生徒や教師を招いて調印式を行い、定期的に交換留学を行うことなどを約束した。 両国の学校の交流例は少なく、府内では初めて。 ベトナム南部のホ−チミン市郊外にあるボ−・ミン・ドク・ハイスク−ル。 中学が併設され、生徒約1,500 人が学ぶ。教育設備や環境が十分でなく、 教科書は同じものを何年も使用、教室も足りず生徒は70人ずつ3交代で授業を受けている。 戦争中に枯れ葉剤が大量にまかれた地方にあるため、生徒は課外活動で地域の戦災孤児たちの世話をしているという。  阪南中央病院(松原市)に事務局を置いているNGO で、 松原高の生徒の保護者が活動している日越医療交流センタ−の紹介で、 同校の易寿也教諭(43)ら教師3人が今年3月、現地訪問し、提携話がまとまった。 同校が寄付を集めてハイスク−ルの校長と教師4人、生徒会長の女子キム・トァンさんを先日招待。 調印式では、トァンさんが松原高の生徒自治会長と「生徒友好宣言」を交換。 一行は同校の教師や生徒宅に宿泊し、PTA が手料理による歓迎パ−ティ−をした。
 同校に在籍するベトナム難民の子弟、2年女子オン・ホアン・ティ・ミンツさんが通訳として活躍。 トァンさんと一緒に母国の歌謡曲を日本の生徒に披露した。 「もう会えないと思っていた祖国の人達を、こんな形で日本の友だちに紹介できてとても嬉しく思う」と感激していた。 一行の来日を機に同校では、枯れ葉剤被害者の写真展示会を開いたり、 PTA がバザ−の収益をハイスク−ルの設備費として寄付したりするなど、 ベトナムへの関心が高まっている。今後は2年に1度、交換留学を行い、 リサイクルできる文房具を集めて送ることなど計画している。
(読売新聞)


岡田司教のベトナム訪問記
活気ある教会と信徒

 昨年12月25日より今年1月4日まで、初めてベトナムを訪問しました。 一行は谷大二神父など計5人。現地では埼玉・川口教会の信者イエンさんとその家族、 友人そしてチュック神父さんに滞在中の面倒をみてもらいました。
 ベトナムの教会は、信者は約7,000,000 人、教区は36と聞きました。 2つの教会のミサに参加しましたが、信者が多いのに驚きました。 また子供が多くて元気なのもうらやましいことでした。司祭は大変尊敬されているようでした。 また聖歌が元気で明るく力強いのも印象的です。 
 ベトナムは社会主義の国家ですが、政府と教会の関係はとても厳しく、司教の任命と叙階には政府の許可が必要です。 バチカンが指示しても政府が認めないことがあり、目下4つの教区で教区長が空席。 また司祭の叙階だけではなく神学校入学にも政府の許可が必要。 司祭志願者は非常に多いが入学を許可される数は少ないという状況です。
 信者さんと会っての印象では、教会には活力があります。政府もこの現実は無視できないだろうという感じ。 政府の規制もだんだん緩和されているとのこと。ところでベトナムは54の民族からなる他民族国家。 キン民族が圧倒的多数を占めています。まずチュック神父さんの案内で、奨学金を受けている少数民族の学生を訪問しました。 さらに別な機会にチュック神父の案内で、カンボジアとの国境に近い、フック教区に住んでいる少数民族を訪ねました。 ここには2つの少数民族、サティンと呼ばれる森林をすみかとする民族と、カンボジア系のクメ−ル人のグル−プが住んでいます。
 助祭であるという神学生の案内で、2つの民族を訪問し、それぞれ村落の長とその家族、そして住民とも会いました。 サティン族の村落の長の家はショッキングなものでした。まるで縄文時代の家のような粗末な藁葺き小屋。 直接地面に柱を立て、屋根と壁は枝と草で覆った15坪ほどの堀っ立小屋です。この中で夫婦と数多い子どもが生活しています。 隅の方には小さな焚き火が見えました。地面に穴を掘ってそこでまきを焚き、その上にやかんのようなものがつるしてありました。 主任司祭が「これが彼らのキッチンです、これがすべて!」と言った時の顔が印象的でした。  紀元2000年も間近いとき、この地球上にこのような生活をしている人びとがいるとは信じられない気持ちでした。 しかし、ではどんな生活が幸せか、今の日本の私たちの生活と比べてどちらが良いか、 簡単には結論が出せないねなどと話し合ったことでした。
(カトリック新聞)


習慣の違い超え奮闘
ベトナム駐在商社の女性事務所長

ホーチミン市民の足の一つシンクロ(人力車)に乗る大家麻由美さん
 大きな潜在力を秘めるベトナムには、200 社近い日本企業が駐在員を置き、ビジネスにしのぎを削る。 ベトナム専門商社のホ−チミン事務所長大家麻由美さん(33)は、 女性駐在員の草分けとして奮闘している。(ホ−チミン市で 千葉 文人、写真も)
 89年7月、ハノイ。ベトナム初出張の大家さんは国営企業の事務所で、輸入担当の女性部長と商談していた。 10分ほどたった時、ソファ−の横にいた部長は、契約の話に熱中していた大家さんのももに突然手を置き、さすり始めた。 「とてもびっくりしたが、後で、それがベトナム人の親しみの表現だと分かった。
 「お互い顔が似ているが、ベトナム人は、習慣や気質の点で日本人と異なることが多い」と実感した。 この女性部長とは、その後懇意になり、契約は成功したが、ベトナム人には、 「金の切れ目は縁の切れ目といったドライな面もある」という。
 宇都宮市出身。大学卒業後、海外を夢見て商社に就職した。 90年、ハノイ事務所長として赴任し、今年1月からはホ−チミン事務所所長を務める。 初赴任当時、ハノイの日本企業駐在者は約20人。大家さんは紅一点の駐在員だった。 ベトナムでは「『日本人女性と結婚し、西洋風の家に住み、 中華料理を毎日食べるのが最高の幸せ』という伝説が生きている」おかげで取引相手にすぐ名前を覚えてもらえ、 一目見ようと営業先の社長自ら会うこともしばしばだ。 ベトナムは、経済危機脱却のため88年から外資導入に転じ、市場経済に移行中だ。 92年以降は年率8〜9%台の高成長を続けている。ベトナム側の企業の対応も変わってきた。 価格交渉がより厳しくなった。
 かつて、電話一本で済むような用事でも面会が求められていたのがなくなったのは喜ばしいが、 まだ「そでの下などの面があり、一層の改善を求めたい」。 ベトナムは「今後も資本主義化が進み、経済も成長し続ける」という。 日本は貿易、投資、援助などでその存在は大きい。「互いの利益になる仕事」を通じ、ベトナムの発展の一助となり続けるつもりだ。
(読売新聞)


ベトナムの田園にリムの歌声
腕競いあう名人たち

松平 誠
 古代日本に歌垣
 万葉集には「糴歌」と言う言葉がみえる。これは、男女が互いに歌を掛け合うことをいったもので、 歌垣ともよばれた。古代の日本人は、互いの恋を歌に託して掛け合ったのである。 この風習は奈良期の中頃になると支配層の間では廃れてしまい、 単なる遊びになってしまったが、庶民の民俗としては、19世紀末まで残っていたといわれる。 歌を掛け合い、踊り回り、そのなかで男女の意思があえば、婚約にもちこむ風習は、何も日本古来のものだけではない。 「糴」という文字は4世紀初頭とみられる中国の詩にも見え、 四川省から南・西側のアジア一帯で、盛んにおこなわれてきた習慣だったのである。
廟わきの池では、竜船に乗った歌い手が自慢の歌を披露する
 筆者自身も、広西壮族自治区で、壮大な歌垣の祭を調査したことがあるが、 今年2月、兵庫教育大学の大橋健一助教授と一緒に研究調査におもむいたベトナム北部の村で、 又々、見事な掛け合いに出会うこととなった。ハノイ特別市の東25キロ、 バクニンに近い村落がそれである。 9,600 人が住むこの行政村のあたりは、専業農家50%の農村で、その中心地の旧村名リムの名で知られており、 その祭も「ホイ・リム」(リム歌会)の名で親しまれている。
 例年、1回目の田植えがすんだ旧暦1月13日(今年は新暦2月9日に当たる)から15日にかけての3日間がその期間である。 また、歌はすべて掛け合いである。先ず男たちが、恋の歌を中心に、日常生活のいろいろな場面を歌詞に盛り込み、 ゆっくりと歌いかける。女性たちがこれに応えて、歌をひきつぐ。 徐々に気分がのっていき、テンポが速くなってメロディ−も変わる。 こうして8種のメロディ−が順にすすみ、伝統の歌詞や自分でつくった歌詞、さまざまな歌がうたわれていく。
 歌詞は、六、八調の民衆詩形式をとって歌い継がれ、うまく継げなかった方が勝負の負けになる。
 「恋がかなわにゃ、百年も、いや千年なりと、わたしゃ、このまま、あなた待つ」旧村リム周辺地域では、 だれもが伝統の民謡「カンホ−」を歌うことができる。 ただし、自分の旧村のチ−ムとは、けっして掛け合わないことになっている。 それは古い婚姻の仕組みとしっかり結びついていたことを物語っている。 こうして、歌の掛け合いは、祭の間中、毎日午後から日暮れまでつづく。 旧村の中心にあって伝説の武将をまつる廟の境内や池のなか、背後のリム山頂にある洪恩寺周辺など、 一帯は歌一色に包まれる。

 占領された時も
 しかし、こののどかな歌会も、ずっと平穏無事できたわけではない。1947年、この村は仏軍によって占領された。 廟は接収され、村のそとへの行き来も制限された。 村人の多くは4キロ先の革命根拠地へと移りリム山の洪恩寺は革命軍の作戦本部になり、武器庫になった。 それでも人びとは、歌を掛け合って励まし合い、戦いに耐え抜いた。
 質素ながら、リム歌会が復活したのは1957年である。「歌声は爆弾の音を遮る」と歌い続けてきた。 69年には、文化政策の目玉としてカンホ−を重視した政府が、 バクニン省カンホ−文化センタ−を設立した。カンホ−芸術団が組織され、各地に派遣されて、伝統文化の普及につとめはじめた。
 86年に、政府がドイモイ(刷新)政策を打ち出し、市場経済と対外関係に力を入れはじめてから、 ここバクニン省でも、人びとの生活が目に見えて良くなってきた。 農業に請負制が導入されたことで、村には活気が生まれた。 現金が手に入るようになり、ハノイや近くの市場に作物を売りに出る人も増えた。 いまやベトナム政府の米輸出計画は、97年実績50万トンを上回る400 万トンを目指すまでになった。 すでに米の輸出量では、タイにつぐ世界第二位になっている。

 昔の勢いが復活
 こうしたなかで、歌会も、年ごとに、また昔の勢いを取り戻していった。 1940年代まで男女が対になった歌組が単位になっていたというが、その仕組みはもうない。 それに代わって、どの旧村にも、歌の名人たちのチ−ムができ、たがいに競い合う。
 旧村リムにも、歌名人の高齢者8人でつくるチ−ム、中年の歌い手20人がつくるチ−ム、 それに数十人の子供チ−ムがあり、歌会のほか、全国コンテストにも参加して、腕を競い合う。 93年には、この旧村のバ・ドイ婆さん一家三世代6人が、全国コンテストで一等賞を獲得、掛時計と賞金を貰った。 94年には廟も再建された。「ホイ・リム」は、いまやバクニン省の文化的シンボルとなりつつある。 来年の旧正月にもまた、リムの歌声は、田植えのすんだ美しいベトナム田園の上を、さわやかにわたっていくことだろう。 
(読売新聞)


子供の叫び声に耳を傾けて!

 この間、ある中学校の依頼で、その中学校にうかがいました。すると信じられない話が耳に飛び込んだのです。 この中学校1年生のベトナム人の子が、なんと同じ柔道部の2年生の子の足の爪を舐めさられたことでした。 私は大変なことだと思わず心から叫びました。学校の先生は、この子を指導したというのです。 しかし、指導の仕方はちょっときつかったと言います。よく聞くと、先生も同じことをその1年生の子にしたと言うのです。 なぜかと聞くと、同じことをしないと、どんな目に合うか分からないと言うのです。 でもこの子にとっては、ベトナム人だからされたと思い込んでいるみたい。学校はそんなことはないとの説明と、 この子の親にあやまりたいから通訳をお願いすることにした。 このことを皆さんはどう思いますか。とんでもない話と思いませんか?  私はカッとなって暫く言葉も出なかった。通訳の立場でなかったら....しかし通訳だから言えないし、 言う権利もありません。まあとにかくベトナム人の子の家に行くことにしました。
 すると意外に子の親は怒りませんでした。反対に、自分の子はごんただし、 悪いから、言うことをきかない子だから、学校のル−ルを守らなかったら思い切って言葉で指導してください! これからもよろしく!そう言うことになってしまったんです。私はしかたなく何も言えなくなりました。 親はそれでも納得したのに私は言える立場ではないです。しかし、もやもやすっきりしない気持ちでした。 これからこの子はまたやれるんではないか心配です。 この子の親の気持ちは分からないことはないのです。 怒るとまた学校でやられるでしょうし、先生への尊敬はすべてだとの考えを持っている親だからと思います。 けれども私は反対だと思います。きちんとしないと、どんどんやられる可能性は高いのです。 私なら教育関係の所まで訴えます。こういう学校には子供を任せていいかどうか。 もっと大事なのは、そのような先生が子供たちに教育を授けてもいいか考えてしまいます。
 この頃、子供の犯罪や変わった行動がよく報道されます。 今の子供たちは変わった、変だ、危険物やナイフを持っているしと、彼らの責任にしてしまいます。 事件後、緊急インタビュ−などで、子供の意見。声を聞きます。 その時、彼らの声は本音で正直な心だと思います。それを聞いて真剣に考えてくれる大人はどのくらいいるでしょうか。 子供らが本当に望んでいること、ほしい物、必要な物を大人たちがきちんと与えていますか。 いらない物、甘やかすこと、愛情のかわりものを与えていませんか。 日本の発展と共に豊かな生活に走っている大人、いそがしいから子供たちに必要な愛情や話相手を与えずに、 代わりに金や物でカバ−してしまう。すべて学校にお任せし責任はとってもらう。 学校は勉強好きな子も嫌いな子も行かねばならない場所であるのですから、 外から見えないけれども複雑な所だと思います。 中ではさまざまな問題もあるはずです。 子供にとって学校にも問題があるし、家に帰ると勉強熱心な親がいるし、 子供と顔を合わせると勉強しなさい、または塾に行きなさいなど子供たちの逃げ場はないのです。 何でも話せる人、また話せる親がほしい。しかし、ほとんでいません。
 ストレスは溜まるはずです。さて、いったいどこで、どんな形で発散するのでしょう! もちろん変わった行動や考えられない行動で現す。それで子供でもキレることがあるのです。 大人が子供を押し込んでいることも限界だと教えてくれる。 現在の子供はかわいそうだと思います。子供らしいことや自分らしいことをさせていないからです。 子供は一人一人の素晴らしい考えや独自の特徴を持っているはずです。 親だからと言ってその子の考えや特徴を踏み潰す権利はないのです。 子供を工作粘土のように形や内心まで作って決めてしまうのはとても残念なことだと思います。
 親の愛でその子の特徴ややりたいことを生かすべきではないでしょうか。 ただし、親の経験や知恵などで子供にアドバイス、説明、案内も必要だし、とても大事なことなのです。 親は約束を必ず守らなければなりません。もしどうしても守れない場合は、親が子供にきちんと説明しなければなりません。
 子供たちを信頼し、責任を持ってもらいます。そうすることによって、やりた いことは納得するところまでしなければなりません。もし途中で諦められたら、 親のせいにすることもないと思います。いい経験でした。今度気を付けましょう。 自分で決めることでしょう。自立をさせるために、とにかく体験させること、自 分が出来ることなら自分でさせます。ある程度辛抱や忍耐をさせることも一つの 大切なことです。欲しいならまともな方法で何とか手に入る ように努力する。お金の大切さの説明も必要です。汗と労働、 一生懸命に働いた結果だから大事に使うよう躾けましょう! 簡単にあげることをあたりまえと思ってしまうことはこわい ことです。叱るところはしっかり叱って、褒めることがあれ ば褒めてあげます。「イエス」と「ノ−」ははっきりしなけ ればなりません。あいまいな躾けは子供のためになると思いません。
 世界中の親の愛情は地位か貧富にまったく関係ありません。皆は子供の教育に一番力を入れます。 大きく分けると2つがあります。可愛いから何もさせない、 してあげたい親と、可愛いから自立する力を身につけさせる親がいます。 よく考えてください。大きくなったら社会に入らなければなりません。 今まで親の腕に大事に守られ、何もしなかった人でも社会人になって、一人暮らしをすることになる事もあるでしょう。 社会は親みたいにしてくれるはずはなのです。そのような時全く経験したことのないことばかりで、 どうすればいいか分からないで迷うでしょうし、不安にかられ、自信を持っていないままで生活しなければなりません。 反対に自立させた方は、予想出来たことはある程度身につけていますから安心して社会に出し独立することが出来ます。
 最近は子供たちの犯罪、問題などが増えています。大人の私たちは考え直す必要があると思います。 関係ないと言いきれないのです。全ての子供のせいでしょうか。子供の問題はとても難しいです。 特に外国人の子は大変です。家には母国の文化。学校、社会では日本の文化になります。 二つの文化をうまく取り込んでいかねばなりません。子供のそばに来て話相手になったり、 頼れる親になったりしてあげて下さい。大変でしょうけれども、いい教育方法をめざして頑張ってと願っています。
ハ ティ タン ガ


ホ−チミン市の今は

 昨年、17年ぶりに故郷に戻ってきて、昔のサイゴンがあまりにも変わってしまったので、 驚きと複雑な心境で心が一杯になった覚えがある。そして今回の訪問は、 すこしでもサイゴン(現在ホ−チミン市の中心部)の真相を知ろうとして裏の生活を覗いてみた。

 かつて豊かな国であったベトナムは何故再貧困国と言われるのか。 肥沃な土地、勤勉な国民、広大な山河。22年間社会主義となったベトナムは、今のサイゴンを見れば分かるだろう。 政府は思想がなく、独党で支配している共産党幹部たちは腐敗や横領だけで精一杯のようだ。 国民の7割強の農民は今年は豊作だが、逆に苦しめられている。 政府が米を押さえているからだ。教育や医療は政府が管理しているために機能していない。
 義務教育を卒業する子供は何人いるか誰も分からない。 外国からの援助があれば、ほとんどは政府の高官たちのふところに入ってしまう。 そして、ベトナム戦争の時に幼児だった人たちは、後に基礎教育を受けられず、今の社会の支配階級者になっている。 『上不正、下即乱』というベトナムの諺のように「お金になることなら何でもやる」そして、 「お金があるなら何でもする」という今のベトナム社会の風潮なのだ。
 経済都市であるホ−チミン市は、現在のベトナムの状況を現している。 市場開放のせいか外国の企業の会社が目立ち、贅沢なレストランや高級なホテルが点在している。 その裏に50万人ほどの不法滞在者があふれている。3〜5万人の子供が路上生活をしていると言われる。 そして、不明のお金で10万人ほどの麻薬常習者と、それに劣らない数の売春婦(子どもを含む)が白昼から出没している。 HIV感染者も何万人もいると言われている。
 あるエイズ患者に会って、自分のような生活に絶対ならないように、 多くの若者に知らせて欲しいと、彼の感染経路や心境を漏らしていた。 ちょうど青年期に入った時の彼は、動乱の社会に砕けて、生きる理想を失ってしまったから、この穴に落ちたわけだ。 ある売春婦はこう話してくれた。『こんな道を歩んだのは他の選択の余地がなかったからだ。 だって、無学の私はどうやって生きるのか。夢がなく、仕事もない。家族も誰もいないから』多くの若者は、 社会秩序の崩壊の只中に置かれているからこういう生活を強いられたのでは?
 日本の場合、終戦後は外国からの多くの団体や宗派が救済事業として救援活動を助けてくれたことがあった。 ところで、故郷のベトナムでは、今の政府はそれを規制している。 宗教活動さえも迫害している。戦争で子どもの時代を失った私にとって、 どうして今のベトナムの子供たちはもう一度国の崩壊の危機に遇わなければならないのか。 日本のように子どもたちが正常の教育を受けられるならばとそれを思う度に胸が痛くなる。 
カオ ソン タン


ちょぴり?考えたこと
日本での一つの経験

 私は入学するとき、たくさん心配することがありました。話せないし、友達もいないし、こわくて悲しかったです。 みなさんがいつも私を親切にしてくださったので、少しずつ慣れて友達もできてきて、楽しく元気に勉強しました。 中学で勉強して本当によかったと思っています。
 私は日本語がまだ下手なので、学校ではベトナム語で話しています。 そのため、私は先生に注意されてしまいました。 先生は私に、日本語が上手になるようにいろいろ言ってくださった。私はよくわかっています。 けれども私の気持ちもわってほしいです。 例えば I love you や I like you と、あなたを愛しています、や君が好きです、という言葉です。 日本人にとってどちらの言葉がいいのでしょうか。
 私は映画を見ていて一つの問題に気がつきました。 日本とアメリカの映画のなかには、男と女がキスしたり、抱き合ったりすることがありますね。 その時、私は見ても平気です。でも、もしそれがベトナムの映画ならば私は平気な気持ちではなく、へんな感じがします。 また、同じ映画ならば日本やアメリカの映画よりベトナムの映画のほうが好きです。 どうしてかよくわかると思います。つまり、自分の言葉は話しやすいし、そして、自分の気持ちがよく表現できます。 先生方もいつかそんな経験をしたらすぐわかるはずだと思います。 こんなことはここでおしまいにしたいと思います。
 卒業したら、私にまた、どんなことが起こるかわかりませんが、せいいっぱいがんばりたいと思っています。
ニュ− ハ


チョットひとこと

 最近、「当たり前」という言葉が取り上げられて評価や議論の対象となっています。 今回寄せられた原稿の中で、日本の「学校」についての率直な感想を述べられているものがあり、 私たちの社会生活における視野を広げるために良い刺激になるのではないかと思いました。
 人の行き方はさまざまで、同じであるほうがおかしいことを誰でも知っています。 ところが現実には「常識」とか「当然のこと」という基準のもとに、 余り意識もせずに人を裁いている場合があるのではないでしょうか。 なぜ私たちはこのように自分たちの世界を狭め、おおらかさを失ってしまったのでしょうか。 この現実に対しては多角的な見方を必要としますが、一面だけを取り上げて考えてみると、 精神的にも物質的にも良い意味で動きの少ない生活に慣れてしまったことが原因なのかも 知れないと思います。最初は誰のものでもなかった広い世界は、 人々が居を定めることによって境界線を設け、国家が形成され、 他を制圧して勢力範囲を広げることによって狭いものになってしまいました。
 現代社会、とくに日本に住む私たちにとって、 「国」という枠を超越して広い草原の中で綺麗な空気を胸一杯吸って遊牧民のような変化の多い生活をするということは、 夢に近いことであり、不安定なことは退ける傾向にあることも否めません。 しかし、物理的に現実不可能であったとしても、 もともと人間が置かれている不安定な状況から本来の自由を見いだして地上の度を続けることができれば、 それは一つの生き方であるし、年齢を問わず私利私欲によって人間を傷つけ、自然を汚し、 地球環境を破壊している現状から脱して新しい動きのある平和な世界を築くための力にもなると思います。
 最近、残念なことに二つの国で核実験が行われました。簡単には言えませんが、 「インドとパキスタンの間で、不毛で不安なやりとりが続いている」と報道されていますが、 地域の帰属問題、国家権力など、それが核実験を余儀なくさせることにつながるとすれば将来どうなるのでしょうか。 教育から始まり社会問題にいたるまで、「人間」の根本問題を原点に戻って誠実に考えてみたいものです。

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