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チョットいいこと 75

ベトナム兄弟に皆勤賞
被災地に生きる人びと
食を通じて国際理解を
共に生きる
みんんなにわかってほしいこの気持ちを
同胞の相談に奮闘
困難の中に恵みが
チョットひとこと



ベトナム兄弟に皆勤賞
勉学、サッカ−支え合う

 伊勢崎工業高校定時制電気科を今春卒業するベトナム国籍の伊勢崎市太田町、 グエン・タン・タンさん(22)とグエン・タン・トンさん(21)がそろって皆勤賞を受ける。 来日して6年。「日本語が上手になりたい」と入学した同校で休みはもちろん、 遅刻もや早退も一回もなし、教職員や友人からも「よく頑張ったね」と祝福の声が寄せられている。
 1992年に四人家族で来日したグエンさん兄弟は伊勢崎殖連中学から同校に入学した。 昼間はそれぞれ別の輸送機器関連会社で仕事をし、夕方から4時限の授業。 放課後の午後9時からは所属するサッカ−部で練習に打ち込んだ。
 4年間での思い出深いのは、サッカ−部の選手として県大会を勝ち上がり、 全国大会と2度の関東大会出場を果たしたこと。兄弟そろってディフンスとして活躍、 弟のタン・トンさんはスポ−ツを通して友だちができたことが良かったと振り返る。
 また、授業では学べない日本語で専門的な用語や説明が出るため 「すぐに辞書を引いたが、なかなか言葉がみつからずに苦労した」と兄のタン・タンさん。 それでも、まじめで頑張り屋の性格から「疲れて眠くなったこともあるけれど、少しでも先生の話しを聞こうと思った」と。 二人で支えあって学年のトップを競いあった。
 卒業後は新たな仕事に挑戦することにしているが、 卒業式の前の27日に開かれる「卒業生・表彰式」で、皆勤賞の表彰を受けるのを楽しみにしている。
(上毛新聞)


被災地に生きる人々
混乱を生き抜いた たくましさをバネに

 靴のまち長田の町工場街に、「ラム・ハノイ」はある。阪神大震災で半壊状態になった自宅を、 大工も雇わずに一家の自力で補修した。その際に、玄関口の一室を改装して開いたのがこの店だ。 夫婦、息子3人の家族手作業で、料理店の体裁を整えた。壁に化粧板を張ったり、 床板を敷いたりしたのは、手先の器用なタックさんだった。
 震災の年、1995年9月開店から20ケ月。「調子?まずまずね」。 タックさんもこのごろ余裕の笑みを浮かべることが多い。ベトナムの家庭料理を楽しめると、 店は繁盛している。米粉でつくった皮で豚肉、クラゲなどを包んだ春巻き「パイン・クォン」、 ベトナムうどん「フォ」などが人気メニュ−だ。 ベトナムの首都ハノイの出身。震災は、ベトナムの正月「テト」の祝いで、 そのハノイに一家で里帰り中に知った。神戸に住む弟から電話で「長田が燃えている」と聞いた。 震災の1年前に3,500 万円で中古を買ったばかりの自宅は、 崩れた壁や屋根を補修すれば住み続けるめどがたったが、問題は仕事だった。
 バイク、冷蔵庫などの中古品をベトナムに輸出する商売を震災まで10年間営んできた。 それが震災の混乱で中古品の仕入れが止まり、神戸港の被災で輸出自体もままならなくなってしまったのだ。
 そこで思い立ったのが、自宅の補修と一石二鳥を兼ねたベトナム料理店の開店だった。 タックさんは「地震がなくても、貿易の仕事は円高でだめだったからね」と、 今は的を射た転職だったと実感している。震災は神戸のまち、人々の暮らしを暗転させた。 しかし、一家からはその災いを福と転じようとするたくましさ、したたかさが感じられる。 それは、混乱を生き抜いた体験が生むものかもしれない。
 日本で暮らす多くのベトナム人と同様、タックさん一家も「難民」だ。 79年の中越戦争の混乱を避けて、船でベトナムを脱出、香港経由で日本にたどり着いた。 タックさんは台湾人の父親とベトナム人の母親の間に生まれたといい、 定住先に日本を選んだのは父の出身の台湾に近い国だったからだ。 姫路市の定住促進センタ−で3ケ月間日本語を学び、同市内の鉄工所などで働いた後、10年前に神戸市に移り住んだ。 ベトナム難民の定住先を都道府県別にみると、兵庫県は神奈川県に次いで全国で二番目に多い。 その半数が神戸に暮らしている。そうした人たちも震災を背負って生きている。 タックさんの周りにも、仮設住宅に入居している一家や長田のゴム工場に勤めていて職を失った難民が大勢いる。 「日本人と同じで、住み慣れたまちだから、みんなここを出ずに頑張っている」
 「夢」を尋ねた。「店をもっと繁盛させて四階建てビルを建てること」という答えが返ってきた。 3人の息子のうち、長男ギエムさん(23)は4月に結婚したばかり。 ハノイの大学で日本語を学んだ新妻のビンさん(21)と二人で店の接客係を務めている。 次男(23)三男(19)はとび職で、店を手伝いながら建設工場現場で働いている。 料理の腕を振るうのはタックさんと妻のラムさん(49)だ。四階建てビルには、 一家四世帯がともに暮らし、神戸で結束していく将来を重ねているそうだ。
(朝日新聞 神戸版)


食通じて国際理解を
朝鮮やベトナム料理のビデオ制作

 食を通して国際理解を深めてもらおうと、兵庫県在日外国人教育研究協議会が、 韓国・朝鮮やベトナム料理の作り方を紹介したビデオ「ともちゃんの調理実習第二巻」を完成させた。 子どもが簡単にできる三種類の料理を盛り込み、家庭科授業や公民会館事業に使いやすいように約30分に編集している。
 同協議会は今年4月に発足。韓国・朝鮮や中国、 ベトナム籍などの子どもが学び生活しやすい学校・社会づくりを目指し、地域講座や実態調査、横のつながりづくりに取り組んでいる。 ビデオは、第一巻が好評だったことから作製。同協議会のメンバ−自身が撮影や編集をした。 取り上げているのは、大豆モヤシやゼンマイ、ホウレン草のナムル(あえ物)、トック(コリア風雑煮)、 チャ−・ジョ−(ベトナム風春巻)。料理講師は、芦屋市内で韓国・朝鮮料理教室を開く黄賢淑さん=西宮市在住=らが務めた。 ビデオでは、材料を見せ、作り方を実演しながら、分かりやすく紹介し、韓国・朝鮮やベトナムの特徴的な材料も解説もしている。
 千円(第一巻は八百円)。
 注文は〒651-0096神戸市中央区雲井通 5-3-1サンパルビル8階、神戸国際コミュニティ−センタ−気付「兵庫県在日外国人教育研究協議会」
 電話 078−291−0648 FAX 078−291−0691(火・土昼間)
(神戸新聞)


「共に生きる」

 10月の最終日曜日を、大阪教区では「国際協力の日」として、ともに記念しています。 この日に向けて、教皇ヨハネ・パウロ2世は『どうか移住者の窮状に心をくだいてください』と題するメッセ−ジを発表しています。 (全文はカトリック新聞9 月14日号に掲載)。 この中で教皇は、「イエスが教会に託した神の言葉を宣べ伝える任務は、 キリスト者が他国へと移住していくという歴史の中に、最初から組み込まれて来ました」と述べ、 「ただ組織を作るだけでなく、移住者や難民に信仰を伝えよ」と勧めています。また私たちの教区長である池長潤大司教は、 日本のカトリック国際協力委員会委員長として、『移住者のかたわらに立ってください』と呼びかけ、 「傷口に癒しの油と希望の葡萄酒を」注ぐことを求めています。
 このように書くとずいぶん難しいことのように思われるかも知れませんが、そうではないのです。 私たちのすぐ側におられる外国人といわれる人々と、本当に同じ神の子として、兄弟姉妹となっていきましょう。 そうなれるように働きましょうというチャレンジだと、私は理解しています。 日本の総人口の1%強は外国人といわれます。120 万という数字は決して小さくありません。 カトリックについていえば、日本人信徒よりも外国人信徒の方が多いともいわれています。 私たちの社会はいまこういう状態にあることを先ず知りましょう。 十数年前、この仁豊野に全国初の難民定住センタ−ができた時、素晴らしい模範を示した人たちがいました。 (ハリ−神父は、折りにふれてこのことを話します)A自治会長は、他の地域で反対の働きもあるなか、 「ベルギ−神父の教会、病院のアメリカ人シスタ−たち、在日の方々のグル−プに加えて、 今度はベトナムの人たち....、これで仁豊野も国際的な町になりました」と歓迎したのです。 小学校のB校長は、キャンプやセンタ−の子供たちが学校に行かなくてもいいのか、 と自分の方から彼らを迎えにきたのです。勿論地域でも学校でも全く問題がなかったわけではありません。 文化や生活習慣の違いからくるトラブルも少なくなかったでしょう。 しかし、外国人をまず受け入れる、自分と異なる考え方を尊重する、その寛大な心は私たちに大きな示唆を与えてくれたと思います。
 共生社会、共に生きるとは、みんなが全く同じ状態になるということではありません。 大阪教区の国際協力の日、97年のテ−マは「違うんやけどひとつやねん」。 暖かい大阪弁の示すところは深いのです。「私は外国語もできないし、何をしてよいのか分からない」と尻込みする日本人もいます。 言葉は勿論大切ですが、もっと大切なものは「心」です。先のAさんもBさんもベトナム語ができたわけではありません。 2年前、姫路地区の国際協力の日の行事にわざわざ来てくださった安田久雄大司教の力強い励ましがあります。 『国際協力の日は外国からこの教区に来て生活しておられる皆さんを、お客さんとしてではなく、 神の子ども同士の仲間、兄弟姉妹として生きる決意を固める日です』。
 このような行事を行うとき、その日一日だけはその気になっても、次の日にはもう忘れてしまいがちです。 でも国際協力の日の場合は、本番はむしろ他の364 日での「ふだんの生活」にあることを、改めて心したいと願っております。 なぜなら、外国旅行とは違い、外国で生活するとなると、「ふだんの生活」こそが問題となります。 旅行者の印象はよいが、生活者には住みにくい、これが日本に対する評価になってはならないのです。
 「特に教会は、外国から来て日本で生活する方々にとり、一番心を許して参加できる所であって当然です。 外国の方も日本人も等しく、神から分けへだてなく慈しみを受けている神の子だからです」。
 社会生活でも、特に、基本的人権に関わる分野で手伝いましょう。 市町村の役所や自治会との連絡、入国管理局への届け出や、住居を探したり、病気や怪我の時、 病院に伴い保険の世話をすること、子どもが学校や保育園に入る時の世話や、 学校からの連絡簿を読んであげ、答えを伝えること、就職の世話や労働条件の交渉など、 沢山の問題があります。また、毎日の「ふつうの友だち付き合い」として、 ス−パ−の特売日に誘ったり、お国料理を教え合ったり、工夫すればいろいろなことができるでしょう。
 『これらを一人の人が背負うのではなく、小教区の皆で取り組む雰囲気を作るならば、 ふつうの毎日が国際協力になり、神から頂いている慈しみに皆が力を合わせてお応えする、 神の国の実現に第一歩を踏み出すことになりましょう』(『安田大司教のメッセ−ジより』)  これからも、一歩、一歩、「ともに」歩んでいきましょう。
(金原 薫)


みんなにわかってほしい、この気持ちを・・・
前橋市立荒砥中学校 2年 ラン・ティ・キム・リェン

 今、私は、私の気持ちをみんなにわかってほしい。 15年前、私の両親と4人の姉妹はベトナムから船で日本へ渡り、それから私が生まれた。 だから、私は両親や姉たちがベトナム戦争でどんなにつらい思いをしたかは、わからない。 今、ここにいる私は、楽しい生活を過ごしている。だが、決して毎日楽しいわけではない。
 私が初めて幼稚園に入ったとき、私は日本語なんか全然わからなかった。 でも、その頃はまだよかった。しかし、学年が上がるにつれて、回りの人が他の人と私を見る目が違うことに気づいた。 ある日、全然私のことを知らない人が、初めて私の名前を知ると、「君 何人」と聞いた。 「ベトナム」と言うと、「ベトナム語しゃべって」とその人が言った。だから私はベトナム語をしゃべった。 するとその人は笑った。そういうことは何度もあった。 最初のうちは頼まれるとベトナム語を話して聞かせたが、聞いた人は絶対に笑った。 それで私は日本人の前ではベトナム語を口にしなくなった。聞かれても答えないときもある。 「君、何人?」「ベトナム語しゃべって」。この二つの言葉は私が一番嫌いな言葉になった。
 こんなこともあった。人前で私の名前が呼ばれると、回りの人達が一斉に私の方を見る。 クスクス笑う人もいる。私の名前をふざけた名前に変えて呼ぶ人もいる。 こんな私の名前を自分でも嫌いになったことが何回もあった。 ある時、私は友だちに「ベトナムに帰れ」と言われた。その時、私は何も言い返すことができなかった。
 なぜ私はこんな目に合っているのだろうか。それは「外国人」だからなのだろうか。私は回りの人と同じ人間だ。 どこを見ても変わらない人間だ。ベトナム人だが、日本で生まれ、日本で育っている。 日本語だってわかる。それなのになぜ皆は「外国人」だというだけでこっちをジロジロ見るのだろう。そんなに珍しいのだろうか。 日本人は自分がそんなことをされても嫌にならないのだろうか。何度も経験していれば慣れてくるのだろうか。 いや、私は何度も経験したけれどちっとも慣れない。 こんなこと慣れてもいいことは一つもない。
 だから私は絶対に何を言われても、されてもくじけない。そして負けたりなんかしない。 これは私自身の約束である。そして目標でもある。だから約束を破ったりなんかしない。 私は前向きに堂々と生きていく。私は、私の何度も経験した名前を聞くだけで笑われること、 「外国人」だと言うと目つきが変わり色々と質問されること、その時の私の嫌な気持ちを誰かがキャッチしてほしい。
 今私の気持ちをわかってくれている人もいるだろうが、一人でも多くの人にわかってほしい。 ただ私はみんなにこの気持ちをわかってもらえればそれでいい。 そのために、私は、嫌いなことは嫌い、と自分の気持ちを伝える努力をしたい。 私は回りの人と同じ人間なのだから。そして、みんなと同じ毎日楽しい日を過ごせるために頑張る。
平成9年度
全国中学生人権作文コンテスト
群馬県大会 最優秀賞


同胞の相談に奮闘
日本在住ベトナム人協会姫路連絡所

 姫路市の市営市川住宅に住むベトナム人、グエン・ブ−・チェンさん(47)が1997年2月、 ベトナム人同胞の生活相談に乗る団体「日本在住ベトナム人協会姫路連絡所」を手弁当で発足させた。 姫路市は県内で二番目のベトナム人居住地。次々に舞い込む相談に、 自宅はいまや、悩みを抱えるベトナム人の"駆け込み寺"となっている。チェンさん自身、 1983年に難民として来日した経験を持つ。 昼夜、奮闘するチェンさん夫婦の姿を追った。 (西尾 和高)
 午後8時頃、チェンさん宅の電話が鳴りはじめる。 同9時ころをピ−クに、受話器を置いたとたんに、別の電話がかかる目まぐるしさ。 取材に訪れた夜は、市内に住む知り合いのベトナム人(30)が訪ねてきた。 「不眠症で熟睡できないので、一緒に病院まで付き添ってほしい」チェンさんは家事に忙しい妻のブ−・ティ・フォンさん(41)を、 近所の病院まで付き添わせ、診察に同席し、医師の診断をベトナム語で詳しく伝えた。
 チェンさんが暮らす市営市川住宅は、四百八十世帯のうち三十一世帯がベトナム人。 「チエンさんに相談すれば、どんな問題もすぐ解決する」。うわさはたちまち広まった。 他の地区からも電話が舞い込み、多くは知人の紹介がきっかけ。 相談は一日十件以上。午前零時を超え、二十以上になることもある。
 「子供が学校から遠足の通知を持って帰ったが、言葉がわからないので読んでほしい」 「子供たちが大きくなり、家が狭くなったので引っ越したい」「子供を小学校に入学させたいが、手続きは?」 「国民保険の請求が届いたが、見方がわからない」「祖国から嫁を呼びたい」.... 日本とベトナムの習慣の違いから生じたありとあらゆる悩みごと、 中でも住宅、教育、就職の相談が目立つという。チェンさんは同市余部の食品工場で働いていている。 勤務は午前六時から午後二時まで。朝が早いため、帰宅後はぐったり。 疲労がピ−クに差し掛かる夕方に相談者が訪れる。 プオンさんは、コ−ドレス電話を片手に夕食の準備に追われる。

 姫路在住のベトナム人に日本語から部屋のカギのかけ方まで教えてきた姫路定住センタ−(姫路市仁豊野)が閉所したのは96年3月。 同センタ−の業務を引き継ぎ同年6月、財団法人・アジア福祉教育財団難民事業本部関西支部(神戸市)が設立されたが、 姫路市から身近な"駆け込み寺"がなくなった。
 同関西支部は「各地から寄せられる相談だけで1年間で1,200 件も受け付けた」という。 「しかし6人の相談員では、迅速に対応でない」とこちらも悩みを抱える。 一方チェンさんらが参加する「日本在住ベトナム人協会」は、 約15年前に来日した留学生が東京と大阪に事務所を設立したのが始まり。 生活相談のほか、祖国のニュ−スを伝える月刊誌1ケ月500 円で郵送し、 祖国の言葉を忘れないように「ベトナム語教室」を開くなど、同胞の交流活動を展開している。 市川市台住宅のリ−ダ−を務めるチェンさんが、率先して同協会姫路連絡所を発足させたのは、 「東京や大阪の仲間と情報交換がら活動できるから」だ。

 外国人登録による県内のベトナム人は1,894 と神奈川県に次いで全国で二番目。 姫路市は647 人と神戸市の774 人に次いで県内で二番目だ。このため姫路市国際交流協会も相談口を設けてはいる。 だが、チェンさんへの相談はいっこうに減る気配がない。 「同じ痛みを分かち合え、言葉も通じる身近な存在だからでしょう」とチェンさん。 病院に付き添ったりする交通費はすべて自前。電話代も2倍に膨れあがった。 「働きながら24時間相談を受け付ける状態。妻もパ−トで働いており、中・高校生の息子との会話もままならない」。 個人での奔走にも、限界があり、「時間を限定するなど、1日に受ける相談件数を減らそう」と思う。 しかし、鳴り出した電話にはつい手が伸びてしまう。「仲間が悩む姿を思うとね。自分も苦労したから」 
(神戸新聞)


困難の中に恵が
ベトナム人兄弟祖国離れて司祭に

兄タンさんと左、弟リンさん
 春の司祭叙階のシ−ズンを迎えたが、3月21日、 ベトナム出身の兄弟、イエズス会の高山親(ベトナム名カオ・ソン・タン)助祭と コンベンツアル聖フランシスコ修道会の竹内麟太郎(ベトナム名カオ・ジュイ・リン)助祭が 東京麹町教会(聖イグナチオ教会)で同時に司祭になる恵みにあずかることになった。 カオ兄弟に、これまでの歩みと司祭職への抱負を聞いてみた。(2月28日取材)
 「将来は、ベトナムで宣教したい。弾圧があろうと、 今はマイナスの要素は考えていません。何があろうト先行き楽しみです」(弟リンさん)。 「困難な中に恵みの芽があるから楽しみなのです。ぼくの希望は、ホ−ムレスの人達と共に生きる司祭になることです」(兄タンさん)。 叙階を間近に控えて、兄弟そろって胸をふくらませている。

 戦争を拒否して祖国脱出を計画
 カオ兄弟が来日したのは、1979年11月。当時、弟・リンさんの2つ年上の兄クイさんは、 徴兵の義務でカンボジアに派兵される恐れがあった。弟たちの将来に不安を抱いた両親は、 知人の助けで舟を造りベトナム脱出を計画。9人兄弟(4人兄弟5人姉妹)のうち、 リンさん、タンさんを含む4人が脱出し、長崎に到着。 けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会が世話する難民キャンプでの生活が始まった。 タンさん23歳リンさん15歳の時だった。
 リンさんは82年に難民キャンプを離れて、ベトナムにいたころから抱いていた司祭職への夢を果たそうと、 長崎で出会ったコンベンツアル聖フランシスコ会に入会。 日本語を学びながら、中学校から勉強をやり直した。一方タンさんは同年10月に長崎を離れて東京へ。 直接定住者として、東京の建設会社で働くことになった。

 兄は働きながら司祭の道に
 タンさんは建設会社の社員として、飯場で生活しながら、鉄道、高速道路の整備、 トンネル工事などに携わっていた。
 プレハブの飯場で、10人から20人の労働者と一緒に生活していました。 秋田や岩手から出稼ぎに来ているおじさんたちが優しくしてくれました。 日本語を教えてくれたり、話し相手になってくれたて、 素朴でよい人達に出会った経験が司祭を志すきっかけの一つになりました」(タンさん)。 その後、タンさんは、ベトナム人が経営する出版社で働きながら、 イエズス会が経営母体の上智社会福祉専門学校に(東京)の保育専門課程に入学。 卒業後、東京・品川の国際救援センタ−で通訳の仕事に就いた。 その後、これまでのイエズス会司祭との出会いから、同会への入会を決心。 こうして、兄弟二人は別々の修道会で司祭職への道を歩むことになった。

 家庭での信仰教育が司祭召命の芽
 「日本では、兄弟で司祭になることに驚かれますが、 ベトナムのカトリックの家庭では、いつ子どもたちが司祭への道を進んでもいいように、 熱心な信仰教育が行われています」。 カオ兄弟の場合は6代前の先祖が1800年代後半のキリスト教徒弾圧で殉教したというクリスチャンの家庭。 先祖が、その弾圧で死刑判決を受けたときに渡されたという「耶蘇邪教」の罪状書きの札は、代々伝えられ、 1975年に叔父が難民として米国に渡ったときに、お守りとして持っていったという。 「家では食前食後の祈り、ロザリオもあり、お祈りしないと食事も抜きという感じでした。 兄弟が多くて経済的には大変でしたが、 僕たち男の子4人はベトナムにいた頃ドミニコ会の小神学校で信仰教育を受けさせてもらいました。 そのために、姉妹たちは、犠牲を払ってくれました」とタンさん。 今までに、カオ兄弟の親族から10人以上の司祭が誕生している。 カオ兄弟の姉妹2人も修道女( マリアの宣教者フランシスコ修道会)としてベトナムにいる。 「政局が変わるたびに家族がほんろうされるので財産より教育を身につけるようにというのが両親の方針でした」 「母は『大統領になるよりも司祭になった方がよい』が口ぐせでした」とリンさんは笑う。

 目には見えない教会への弾圧
 カオ兄弟が住んでいたビエンホア県ホナイ市内にある町は99%がカトリックで、 教会が中心の町づくり。4,000 人住む町が司祭を中心に生活を営んでいる。 ベトナムが社会主義になった(1975 年) 後、 旧政府の家族やカトリック信者は大学に入れてもらえないなどという間接的な弾圧があったが、 教会や修道会の活動などには自由がなく、信仰を持ってもいいが、 社会福祉活動という具体的な活動を起こしてはいけないなど。 あくまで、信仰が理念としてのみ認められているという状況。 もしカオ兄弟がベトナムで政府の許可なしにミサをささげたとすれば、即刻逮捕という。

 十数年ぶりの家族再開
 3月21日の司祭叙階式には、米国、日本、ベトナムに散りじりになっている家族11人が十何年ぶりの再開を果たす。 タンさんは叙階後、1年間、神学の勉強を続けリンさんは、司牧活動を開始する。 「僕たちの長兄は軍の将校だったため、75年の政変を機に投獄され長い間、獄中生活を強いられていました。 その間、両親、兄弟の面倒を見てくれたのが、二男の兄(タン)さんでした。 僕たちの世話をしてくれたように、司祭になってもきっと、面倒見のよい司祭になると思います」とリンさんは語っていた。 
(カトリック新聞)


私たち結婚しました。よろしく
 チャウ・バン・コン と チャン・ティ・マイ・リン
卒業: チャン・ティ・ダ・タオ 池見東京歯科衛生士専門学校
クァック・トアイ・ニュ− 育英工業高等専門専門学校
チャン・チ・ユ−ム 暁星国際学園高等学校
入学: グェン・ティ・キム・クック 暁星国際学園高等学校
ルオン・チョン・フィ 神奈川大学第二経済学部


チョットひとこと

 四月といえば日本では新年度、新しい気持ちでスタ−トするという考え方が定着しています。 この中の記事にもあるように、結婚された方々、司祭に叙階されたご兄弟、 入学、卒業、就職などでこれから新しい世界に向かって歩みはじめられる多くの方々を思い、皆さんと一緒にお祈りしたいと思います。
 教会でも復活祭の季節には、とくに「新しいいのち」について指し示すと同時に信ずる力が与えられるように祈ります。 過日、若者たちが準備したフォ−クミサにあずかる機会があり、 そこで歌われた「祈り求める」という歌の単純な歌詞がこの時期に相応しいと感じたので一節だけ紹介したいと思います。 別に教会に関係をもたない方でも、ある時には目に見えない神様に対してお願いごとをしたり、 感謝の心を表したりすることがあると思いますから、自分の思いと重ね合わせて読み取っていただければそれで十分です。

 主よ 私がどこにいても いつも見ていて下さい
 主よ あなたの愛の中で いつも歩いていきたい
 辛くてくじけそうな時こそ あなたを思い出します
 心を強めて下さい 勇気を与えて下さい
 祈ります  心をこめて

 私たち一人一人の人生も、喜びと苦しみ、 順風にのって楽に進める時とそうでない時に奏でるメロディ−によって出来上がっていく一つの曲のようなものではないでしょうか。 皆が同じ道程を歩んだとしても一つとして同じ曲は生れません。それこそが人間のすばらしさだと思います。 両親から目を掛けられ、認められ、厳しさの中にも大事にされた経験を通して「人間」を理解し、 心と心の交わりの接点を見つけることによって兄弟姉妹との交わりにも発展していきます。 そして、静かに対話しながら一人一人がもっている豊かな経験と心を伝え合うことができます。 今の時代、とくに学校のような所では国籍はどこであれ、 「一人一人を大切に」する場を築いて積極的に受け入れる姿勢が要求されていると思います。 21世紀を生きる若者たちが希望を見失わないように!

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