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チョットいいこと 74

ゆく年、くるテト
第14回難民定住懇談会
お国自慢の家庭料理
日本語教室
かぎりない命
ひと模様
山の神と水の神
チョットひとこと



ゆく年、くるテト

 ベトナム人にとってテト(お正月)はいろいろな意味を持つ日です。 伝統により大晦日は不幸な失敗のすべてを運び去らせます。 また、この一年生活や不安で落ちつかなかった人々は新年を心待ちにし、新しい成功、夢の出発点として迎えます。 誰もが望みすら持つことのできない厳しい現実の中で生活していますが、 テトは人々に生活を振り返らせ、沈みきった心に希望の光を輝かさせ、時間の歩みが生活の中に脈打つのを聞かせてくれる絶好の機会なのです。 このようにテトはすべての老若男女にとって今もなお重要な日なのです。 さらにテトは人々に万物の起源や先祖、祖父母、健在であった方々、亡くなった方々を思い起こさせるための神聖な日なのです。 白い雲が浮かぶ青い空のある新春の色鮮やかな宇宙や、数えきれない美しい草花が、 また、創造主、すべてのものの起源のもとに人々を昇らせるような気がします。 
 テトは、また、感謝することを思い起させる日でもあります。 天上への感謝、社会への感謝、恩師への感謝、両親への感謝。自分を支えてくれるすべての人々に対しての感謝なのです。 テトは生きることへの渇望や探究心を深めることだけでは決してありません。 ベトナム人にとってのテトは親愛な出会い、楽しい機会を提供する日でした。 そしてベトナム民族は生きることへの「渇望」「探究心」から大昔、 原始時代の遠い過去から発生した原始宗教に端を発し、 地方信仰の象徴になった複雑で多様な風俗風習宗教そして社会儀式を自分たちのもとしてテトの中に取り入れたのだそうです。 その風俗、風習をを通して自民族のあるべき方向とともに真の評価を認識するにいたりました。
 テトは時間の経過の標識です。私たちが起源から生じ、 そして生きる日々が一日一日と起源へと近づくことを深く深く私たちに認識させてくださるのです。

風は落ち葉を起源へといざない
人生は苦しみふせいながら水の流れのように押し流されて行く。
詩人スアン・ジイェウは春の最中に生活をし始め、
春が来ることはすでに春が過ぎていくこと
新鮮な春ということは春が枯れていくということ。

 真の春の姿をこう確認しています。
 テトはいろいろな面目やすばらしい意味を持つ日です。 また反面、テトはしばしば昔からの言い伝えや迷信や習慣を形だけにこだわって、 その習慣を悪化させてしまう、それを詩人トラン・テェ・ズォンが詩で風刺していました。

新しいもの、新しいものへと競い合い
古いものは誰も手にかけない
ばあさんたちは頭に高価なスカ−フを巻く
娘たちは高価な生地のロングスカ−トでゾロゾロ廊下を掃く
修行僧の坊さんたちも正月を楽しむ
マン族の人達は夕飯の"ウリ"さえこと欠くのにタクシ−に乗る
皆、毎日の生活で首が回らなくとも、
正月三が日だけは誰もが酒を浴びる。

 私たちは春丙子を迎える準備をしています。しばし故郷のお正月のぬくもりを思い出します。 日本でお正月を迎えることはもしかしたら一瞬、友達とお酒を交わすぐらい、 正月料理を口にすることはないかもしれない、しかし、ベトナム人一人ひとりの胸の中に込みあがるものがあるでしょう。
 故郷への愛を通して、ベトナムを離れた子供たちが互いに近づき、ひそかに「恋しベトナム」と互いに語り合うことができますように。


第14回難民定住懇談会
『外国人との共生』の第一歩

 今回の集まりの大きなテ−マは「ベトナム人のネットワ−クを作る」ということでした。 全国にある主なベトナム人共同体の代表に集まっていただき、 "ベトナム語と日本語での果たし合いの場"と"ベトナム料理を囲んでの交流の場"を持ちました。 集まっていただいた共同体には、在日ベトナム人協会・在日ベトナム仏教協会・神奈川ベトナム親善協会・ 在日ベトナム人カトリック共同体(姫路・前橋・藤沢・東京)等があり、 日本人側として内閣官房インドシナ難民対策連絡調整会議事務局、 難民事業本部センタ−相談員、私たちカトリック国際協力委員会(難民定住委員会)のメンバ−が加わり、 まさに宗教の壁・言葉の壁を越えての集まりでした。 日本でのベトナム人の現状を踏まえた上で、今ベトナム人が抱えている問題を話し合い、 大きな意味で「外国人との共生」ができる社会を目指していくための大きなステップとなりました。
 阪神大震災という、大きな出来事を通して貴重な体験をされ、 「外国人と共に」の街づくりを目指す鷹取教会の神田神父様のお話から、私たちは多くのことを学ぶことができたと思います。
 この震災を通して見えてきた問題は、決して震災の問題ではなくて日常の問題でした。 「ベトナム人だ」というと、「何か悪いことをする」というのが国際都市神戸の中の現状です。 アジアの人、特にベトナム人だというと犯罪の匂いしかない....、 ごく一部の人しか悪いことをしていないのに、十把一絡げにされてしまう。 これは日常生活の中での外国人が置かれている一番辛い面です。 また、日本人のボランティア意識の問題があります。 日本人側がベトナム人に対して「援助」したときには相手が「哀れ」でないといけない、相手がたくましいといけないのです。 十数年前に鷹取教会にベトナム人の最初のひとりが来た時に「大変だったね、ご苦労さん」って日本人が世話をし始めました。 しかし長年やってきたことは、自分たちの要らなくなったボロを集めてそれをベトナム人に渡して支援活動をやったという、 その域を出ていないのです。ベトナムの人たちも仕事をし、物を持つようになると、日本人の間から文句が出始めました。 「ベトナム人は可哀相、可哀相って言っても、いい服着て車にも乗っている、家にはカラオケッセトもある。 私の家にはカラオケセットがないから、ベトナム人よりウチの方が貧乏だ」「もうベトナム人にすることはない」と言いだします。
 日本に住んでいる外国人というのは、弱い立場にあります。物を持っている、持っているいないの問題ではありません。 こういうことではベトナム人は教会にも行けない。本人は『見た目』で「可哀相だ」ということがないと動かないようで、 その域を出ません。実はその問題の奥になにが潜んでいるか、というところまで目を向けようとしないというのも、 日本人の特性の一つではないかと思います。
 ベトナムの人たちが日本に来て20年経ちました。今までは日本人はする側、ベトナム人は受ける側という形でずっときていました。 しかし、ベトナムの人も日本語を覚えて、日本の社会の様子もわかってきて、いろいろ自分でできるようになってきました。 こうしてベトナム人の自立し始めるときに「じゃあ、もういいや」とか、 「もう、あんたは日本に定住したのだから、勝手にしなさい」と言って去ってしまう。それはまだ早いと思うのです。
 絵本で「青くんと黄色ちゃん」という絵本があります。 『青くんと黄色ちゃんが仲良く遊んでいて、そのうち二人がだんだんくっついていて、緑になった。 青くんの両親は、緑になった自分の子を見て「これは青くんじゃない」と言う。 黄色ちゃんの一家も、緑色になった黄色ちゃんを見て「ウチの子ではない」と言う。 二人は悲しくなって泣いて、それぞれが青の涙、黄色の涙を流し、また青くんと黄色ちゃんに戻ってしまいます。 これでようやく親たちは「この子はウチの子だ」とわかった。 今度は黄色ちゃんの親が青くんを抱き上げたら、緑になった。 それで親たちも、何故自分の子が緑色になったのか訳がわかった。』という絵本です。日本の中で、外国の人たちと生活する時 に、日本人が「郷に入ったは郷に従え」と言うのは、 例えば黄色の日本人が青のベトナム人に「黄色になれ」と言うことで、それは無理なのです。 ところが、ベトナム人も日本人に「青のことわかってくれ」と言う、これは無理だと思います。ではどうするか?
 新しい色をつくらなければならないということです。緑を作っていかねばなりません。 緑という色は、青色が絶対に青でなければならないし、黄色は絶対に純粋な黄色でなければならない。 ベトナム人は絶対にベトナム人でなければならないし、 日本人は日本人でなければならない、どっちかの色が赤みがかっていたりすると、 緑色はできないのです。緑色を作るというのは、ベトナム人はベトナム人としてベトナム人らしく、 日本人は日本人として日本人らしく生きていてお互いを受け入れるというときに重なって、初めて綺麗な緑になるのです。 新しく色を作るというのは、変わらないことではなくて、ベトナム人はベトナム人らしさを大事にする。 日日本人は日本人らしさを大事にする。それぞれを大事にして、 一緒に何かをしようというときに、自然に違う緑色になってしまうのです。
 ここがものすごく大事なことだと思うのです。「らしく」というのはバラバラになるための「らしさ」ではなく、 新しい色を作っていくための「らしさ」ということです。
 外国人との共生、ベトナム人との共生、ですからベトナムの人たちもベトナム人らしく、 ベトナム人が抱えている問題をベトナム人として、ベトナム人の目を通してベトナム人の口を通して、 日本の社会にストレ−トに訴えていくことで初めて日本社会のなかで新しい共生の色が出来上がっていくのではないかと思います。
 今日本人が日本人のメンタリティの中で「可哀相」と言ってやってきた時期は過ぎました。 ベトナムの人自身が問題を自分たちで解決していく部分というのも、少しずつ出始めたのではないでしょうか。 それをもう少し形にしていく意味で今回の集まりは、その第一歩となりました。 それが各ベトナム共同体からなる一つのネットワ−クづくりです。 ベトナムの人たちがベトナムの人たちの中で自分でできること、 そしてまだまだ日本人がサポ−トして行かなければならないことと、 両面あり、その両面がようやく色分けできつつある時期にあるのではないかと思います。
鏡 和佳


お国自慢の家庭料理を紹介
甘酸っぱい魚のス−プ
ベトナム料理 前橋 ウェン・アンさん
「スープはおいしくて、つい食が進んでしまうんです」というニンさん(右)とウェン・アンさん=前橋市西大室町で
 前橋市西大室町、ベトナム人グエン・バン・アンさん(29)と妻ウエン・アンさん(19)は、 「カン チュア」ス−プを紹介してくれた。
 ニンさんは中学生のとき、ボ−ト・ピ−プルとして長崎に来た。 現在は難民定住センタ−「あかつきの村」の職員。 ウェン・アンさんとは昨年、ベトナム・ホ−チミン市で、友人の紹介で知り合い、今年1月結婚したばかりだ。
 ニンさんは「日本に来てからずっと日本食だったので、彼女がベトナム料理を作ってくれるのでうれしい」とのろけた。
 料理のコツは、新鮮な野菜を選び、野菜は煮すぎないことという。 マダイはうろこをとった後、内臓を取り出して水洗い。尾を切り落として頭部、腹部と三等分し、 塩と調味料をすり込む。車エビはカラとすじを取る。パイナップルは皮をはぎ、 一口サイズに切り分ける。トマトも同様に切る。サラダ油をシチュ−なべに入れ、 魚は表面を焼いたら取り出し、パイナップルとトマトを油でいためる。 水を加え、味付け後、タマリンドをス−プで溶く。
 「タマリンドは日本のみそのようなもの。ベトナムの魚ス−プには欠かせない」 とニンさん。煮立ったら魚とエビを入れヌクマムで調える。ヌクマムとは小魚を塩漬けして発酵させた液体調味料だ。 弱火のまま、オクラ、モヤシ、トウガラシを入れ、スライスしたセロリを。
 器に移したス−プの上に油で炒めたニンニク、刻んだグエ、ノガイ、セロリの葉 をのせてでき上がり。グエ、ノガイがない場合はミツバと万能ネギで代用する。 ス−プは香りが強く、辛いが甘味と酸味があり、さっぱりして食べやすい。

ベトナム料理 カン チュア
 ◆材料 (5人前)
 マダイ1匹、車エビ10匹、トマト1個、生パイナップル?、オクラ10本、モヤシ1袋、 セロリ一本、ニンニク1片、グエ1本(なければミツバ4本)、ノガイ(万能ネギ1本)、 赤トウガラシ2本、タマリンド1かけ、ヌクマム、大さじ2、サラダ油大さじ2,5 、塩小さじ4、砂糖小さじ6、水2リットル

 ヌクマム、タマリンド、グエ、ノガイはタイ食品店で購入できる。 ウェン・アンさんは佐波・東村東小保方5の721 の東南アジア雑貨店「ピ−ティム・ストア」で購入。
(朝日新聞群馬版)


日本語教室

 日本に生活する外国人が増えるにつれ、日本語教室も急増しているが、その多くが、場所や資金の確保に頭を痛めている。 ーー日本語教室の名簿作りを進めている関西国際交流団体協議会(大阪市)のアンケ−トから、 日本語教室のこんな悩みが明らかになった。その一方で、課題を自分たちで解決しようとネットワ−ク作りを進めたり、 大人だけでなく子供も対象とした教室が始まったりと新しい動きも出ている。
 毎週木曜日の午後7時、大阪市港区の市立弁天町市民学習センタ−で開かれる「弁天町日本語勉強会」 (久保房子代表)には30人以上の外国人がやってくる。国籍は中国、ペル−、ブラジルが大半を占める。 生徒とほぼ同数のボランティアが一対一で日本語の勉強に励んでいる。 勉強会は2年前、生徒11人でスタ−トした。学習センタ−と共催のため、教室の心配はしなくてもよかっが、 その後、友人を連れてくるなどして生徒が増え、1教室ではたりなくなった。 今はロッカ−の置いてあるスペ−スや廊下も間借りしている。
 開設時からのボランティア石原弘子さんによると、「場所がこれ以上確保できないので、 入会希望者に待ってもらっている。それでもここは、まだ場所を無料で借りられるだけいい」という。 石原さんらは今年1月に「週1回では足りない」と火曜日にも大阪中央区の公共施設で教室を開始した。 会場費は月8千円。生徒から3百円をもらい、不足分はボランティアが負担している。
 ベトナム出身者が多く住む神戸市長田区で、 日本語を教えている「KFC日本語ボランティアの会」(長嶋照親代表)も場所の確保には苦労をしてきた。 震災後、ボランティアの基地になったカトリック鷹取教会や、南駒栄公園のテント、 共同作業所、日本ベトナム友好協会の事務所などを借りて授業を続けている。
 こうした現状は、関西国際交流団体協議会が「関西の日本語教室ダイレクトリ−(住所・活動の一覧表1997) をまとめる際に、 各教室に活動紹介とともに書いてもらい、明らかになった。ダイレクトリ−がまとまったのは関西で初めて。
 協議会職員の鬼木たまみさんによると、ダイレクトリ−には、 協議会が知りうるかぎりの関西の約2百の日本語教室に調査表を送り、 回答のあった百三十四(大阪70、兵庫33、滋賀11、京都、奈良各8、和歌山4)の教室を掲載したという。日本 語教室は日系人の労働者が多くなった1990年以降に目立って増えており、 とくに94年から96年の3年間で関西だけで57教室が開設された。
 運営主体でみると、民間が62教室で全体の約半数を占め、地域の国際交流協会が36教室、行政・公的機関が36教室となっている。 また、半数以上の87教室が日本語の指導をボランティアだけに頼っている。 鬼木さんは「設立間もない民間の教室の場所や資金の確保に頭を痛めており、 助成金の申請やリサイクルバザ−などで工夫しながら運営を続けているようです」と話す。
 一方で、新しい動きも始まっている。大阪府豊中や東大阪市、奈良県大和郡山市では、 外国人の子供を対象にした教室が開かれている。滋賀県では、外国人の子供を対象にした教室が開かれている。 滋賀県では昨年3月にネットワ−クが結成された。大阪府でも、外国人が利用しやすいようにと、 読み書きの教育に実績のある識字学級と、各地で増えている日本語教室の連絡を密にしていこうとの動きが出ている。
 兵庫県も7月27日に13のグル−プが「兵庫日本語ボランティアネットワ−ク」を発足した。 中心になる「KFC日本語ボランティアの会」の長嶋さんは「利用者が役に立つ情報を教室同士で分かち合いたい。 10月には行政と協力して、日本語教師の養成講座も開く予定です」と話している。 「日本語教室ダイレクトリ−」は2千円(送料別)。  問い合わせは関西国際交流団体協議会(06-773-0256)
(朝日新聞)


限りない命
岡田 夕香(ファム・ティ・タン・タン)

 1996年、4月21日私の父は、私たち家族4人を残してこの世を去りました。 何よりも私たちの支えであり、誇りであった父。 私たちに残っものは「悲しみ」だけでした。私のたった一人のお父さんはもうここにはいない、 そう思うと何かやりきれない気持ちに今でもなります。
 父は痩せ型でしたが病気になる前はかぜ一つひかず、とても元気でした。 しかし車の運転中、急にめまいがし、病院に行った結果、「脳に何かがある」と言われ、すぐ入院しました。 その時私は小学校4年生だったので父の病気の重さもつらさも何一つわからないまま父の見舞いに行っていました。 一ケ月後、父は手術することになり私は学校を休みました。
 長時間にわたる手術が終わって父に会いましたが意識はあまりしっかりしておらず、ベットの上でつらそうに寝ていました。 その時、私は初めて父の病気のつらさ、重さに気付きました。 やがて父は無事退院しました。喜びが胸いっぱいにあふれてこれから父と私たち家族5人の新しい生活が始まるんだなと思っていました。 しかし、父の病気はそんなに簡単に治るものではありませんでした。 1年後にまた再発してしまったのです。これ以降父は、どんどん悪化するばかりで、 退院はしましたが父の体はボロボロという状態になりました。食べ物は口に入れる度に吐き、 母の手にはいつも父の吐いた物がありました。そしてこの時、私は初めて父の涙を見ました。 早く元気になりたい、助かりたいという心からの願いが込められていました。 また、一人で立つことも座ることも歩くこともできず、家族に迷惑をかけているという思いがあったのかも知れません。
 それから、しばらくして今度は体の半身が麻痺し、全く動かすことができなくなってしまいました。 父は入退院をくり返しました。ところが私は中学1年の冬の入院を最後に父は二度と退院してきませんでした。
 その最後の入院の前、私は父と二人家にいました。父は私を呼び、そしてこう言いました。 「お父さん死ぬわ」。私はショックでした。あれほど病気を克服しようと病気に立ち向っていた父がとうとう力つきようとしている。 それが私にはよく分かりました。そして、これが父との最後の会話になってしまいました。
 入院してからあとの父の容態は最悪でした。もう子供の私すらわからなくなっていました。 言っていることも理解できませんでした。その時、お医者さんから父がもう長く生きられないことを聞きました。 けれどもわたしにはその実感がありませんでした。私は部活を休んで、母と交代で朝から晩まで父を見ていました。 母は病院から家に帰るといつも父の服を抱きしめ泣いていました。
 母の涙の分、父の死は近づいている、私は母の姿を見て胸がしめつけられる思い がしました。そして父は私たち家族を含めてたくさんの人にみとられて亡くなりました。 父の病気は悪性脳腫瘍でした。私たち家族にとって大きな大きな支えであった父。 その父を亡くしたことは私たちにはあまりにつらく悲しいことでした。 立ち直るにもずいぶん時間がかかりました。 しかし私はその悲しみの中で"命の尊さ""懸命に生きることの大切さ"を学んだように思います。
 父はベトナムで生まれました。かつてベトナムが南北二つの国に分かれて戦争をしている時、 父は一人の兵士として戦っていました。しかし、父のいた南ベトナムが敗れ、 北ベトナム政府から追われる身となり父は日本に渡ってきたのです。慣れない日本での生活。 父の苦労は並たいていのものではなかったと思います。たった44年という短い生涯。 子供の頃すでに戦争でした。父はどんな困難、苦労があっても弱音をはかず頑張ってきました。 44年間精一杯生きてきました。私たちに「たった一度の人生を懸命に生きること」を身をもって教えてくれました。 私もこの命を大切にし、これからの人生を精一杯生きていこうと思っています。
 いつも私を見守ってくれているお父さん、私はお父さんのようにはずかしくない 生き方をしたいと思います。時々悲しくなる時もあるけれど私は大丈夫。 お父さんがいつも言っていた"がんばれ"を胸に。
 (市川町立 市川中学校 校内弁論大会・発表より)


ひと模様
「吉本」で日本語を学ぶ

 「日本語を学ぶ秘けつでっか?関西でならテレビで吉本新喜劇を見るのはいいとベトナム難民の仲間には勧めています」 そう語るのはアジア福祉教育財団難民事業本部関西支部 (神戸市中央区)で通訳をしているベトナム グエン・クォク・トゥアンさん(32)。
 トゥアンさんもベトナム難民だ。来日は1982年、大阪の印刷工場で働きながら日本語を独習した。 鏡の前に立ち自問自答する一人二役の会話練習と日本語の日記、 それにヒアリングの訓練を兼ねた吉本新喜劇のテレビ鑑賞が独習の柱だった。
 「新喜劇の役者は泣き笑いの表情が豊か。 その表情でせりふを推理できれば合格ね。楽しく学んで、関西の日本語の難しいニュアンスも身につきます」
(朝日新聞)


山の神と 水の神

  昔、四千年ぐらい前、ベトナムのフン・ヴォン王に一人の娘がいました。 その娘は大変きれいだったそうです。娘が18歳のとき、王様は娘におむこさんを選びました。 一人は海からで名前はトゥイ・ティン。もう一人は山からで、名前はソン・ティンです。 両方とも才能や力が同じだったので、どちらを選んでよいかわかりません。 それで王様は二人に、明日、一番早くきた者に財産を全部与えると言いました。
 さて、ソン・ティンが先に来ました。娘と結婚した後、一緒に山に住みました。 次にトゥインがきましたが、もう娘がいないとわかって大変怒り、山に行きました。 トゥイ・テンはソン・ティンをやっつけようときめ、力を使って海の水に静めようとしましたが、 ソン・ティンも力を出して山をだんだん高くしたので、山はいつも海より高いのです。 だからトゥイ・ティンが怒ると海の波は大変高く、風が吹きます。 これを台風と言います。毎年、ベトナムに台風がありますが、 この時人々はソン・ティンとトゥイ・ティンが戦っていると思っています。


チョットひとこと
――新たなゆとりを求めて――

 アジアの中で非常に小さな部分を占める日本の社会で今何が起こっているのでしょうか?  経済界の悲劇か、解決されない政治の諸問題か、あるいは・・・真相が何も見えていない透明さの欠如か・・・。- この揺れ動く時代に、もはや今あまでとはひと味違う国際化が求められ、コイノニア(共に生きる、交わる)について考えさせられます。 社会生活の中では、暖かい思いやりの心に接して感激したり、 人間関係において波長が合わない、テンポが異って一緒に歩けないと感じて悩むこともあります。 自然との共生も独りよがりで周囲の環境を傷つけていることもあると思います。
 そんなことを無秩序に考えているとき、「アンダンテへの誘い」という社説が (朝日1998.1.3.)時宣にかなった一つの指針のように目に入りました。 効率と速さを目指すあまりに「エネルギ−をつかって時間を生み出し、 その時間でさらにエネルギ−を使うような生き方をしてきた」日本人についての鋭い見方に賛同しながら、 アジアの美しいシンフォニ−に思いを馳せました。共生のハ−モニ−を念願において、 周りの音をどこまで鋭敏に聴いているでしょうか。そして心に響いた音をどれだけ大切にしているでしょうか。 飛躍した思いつきではありますが、 今年は有名なベ−ト−ベンの第六交響楽「田園」のような心で過ごせればという考えが脳裏をかすめました。 ウィ−ン郊外の小川の情景が表現され、田園での歓びが伝わってくる第二楽章のような、のどかなメロディ−を心にとめながら。 それはまさに躍動的なアンダンテで演奏される楽章です。 空を仰ぎ、大地を踏みしめ、深く呼吸する人間の生き方がすべての存在の調和を壊すことなく、 平和な生活を進展させるように方向づけられるならば、異常な競争社会ではなく、 正しい自己表現に道を開く暖かい自由な社会が生まれることでしょう。
 アンダンテでいきましょう! アジアの兄弟姉妹と一緒にミサにあづかり、 暖かく落ち着いた眼の輝きに魅力を感じつつ、 心のこもった平和の挨拶を通して本来のコイノニアに身をおきたいと願った時の心の動きでもありました。 

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