もどる
チョットいいこと 73

あけましておめでとうございます
摩擦解消の第一歩
戦争の悲惨さを知って
この国にくらして
郷に入っては郷に従え
懇親会
日本8割、ベトナム2割?
司祭職志すベトナム少年・アン君(15)
独自のWYD祝う
商売繁盛にゃ神だのみ
ユネスコ親善大使に
チョットひとこと



あけましておめでとうございます

 ベトナムのお正月はテトです。2月、故郷ベトナムでは梅や桃の花が空いっぱいっぱい輝き咲いています。 春の季節はマンゴの季節でもあり、スイカ、オレンジ、ザボンの季節でもあります......
 故郷を離れたベトナム人はお正月を思うと誰もが心ときめきます。 ベトナムのお正月には、人々は知人や親友とプレゼントを交換します。 そして新春(年始)に人々が互いに一番心のこもった挨拶を交換し、祈り合い、また料理を味わいます。 国を離れ、遠くはなれた地にいると、そこでお互いに故郷のお正月の話を語り合うべきなのでしょう?  話すことによって望郷の念にかられ、余計に懐かしく、ともすれば寂しい思いをすることになるかもしれません。 しかし、そういった思いこそが故郷愛なのです。 また故郷を思い出すことによって、自分の中での故郷愛を再確認することができるでしょう。
 少しでも故郷のお正月の味を味わえたら..... と思います。
 春は色とりどりの新鮮な花々、そしてたくさんの愛情と共にやってきます。 しかし、花々の色は薄くなっていき、散っていき、実は熟し、落ちて、春の季節が過ぎていきます。 春が過ぎていくと同時に春の感動、想いも持ち去って行ってしまいます。 人々に残されたのは毎日毎日の生活です。世界一の経済発展を遂げ、 生活基準が非常に高度になったといわれる日本社会の中で生活し、 毎日が忙しすぎることによって、時間を忘れ、時には生活意識も失い、 そして人とのコミュニケ−ションをも忘れてしまいがちです。 しかし、いくら生活が変動しても、互いへの愛情は永遠に変わることがないでしょう。
 皆様にとって、より良い一年でありますように、「TIENG VONG QUE HUONG」より心からお祈り申し上げます。

ファム・デイン・ソン神父
(故郷の響き声)
ヴェトナムではどこでも人々は童謡を歌っています
母はいつも私を連れていってくれた
でこぼこの竹の橋を一緒に通ってくれた
私たち子供は学校へ、お母さん、あなたは社会の学校へ


摩擦解消へ第一歩
和やかに会話弾む

 姫路市営市川住宅に住むベトナム人と日本人が互いの生活習慣を理解し合う「ベトナム味と語らいの集い」がこのほど、 姫路市市川台の同住宅集会所で催され、料理や歌などを通して交流を図った。 市が公営住宅に住む外国人の間に立って企画した初めての試み。 「同じ団地内で外国人と日本人が気持ち良く生活できる弟一歩にしたい」としている。
 同住宅には四百八十世帯のうち三十一世帯のベトナム人が居住。 生活習慣の違いなどから住民から「深夜のカラオケがうるさい」「駐車場を勝手に使う」などの苦情が市に寄せられている。
 催しは、文化の違いなどから生じる住民同士の摩擦を少しでも解消しようと市国際交流協会が計画した。 催しには、ベトナム人と日本人の住民、姫路獨協大学のボランティア学生ら42人が参加。 ベトナムの家庭料理「ピ−ナッツご飯」などの昼食を食べながら会話を弾ませた。
 同住宅のベトナム人のまとめ役グエン・ブ−・チェンさん(48)夫婦がギタ−を響かせ、 夫を戦場に送りだす内容の歌謡曲「ジ−ンスウ」を日本語に訳しながら歌うと、会場から一斉に拍手がわき上がった。 また「少しでも早く日本人の生活様式に慣れ、同じ団地の日本人に迷惑をかけないようにしたい」と決意。 市川台2丁目の自治会長、栗田英昭さん(62)も「今日のようなイベントを通して団地内で共に生活できる環境作りに励めば、 文化の相違による溝を埋められると思う」と話している。
(神戸新聞)


戦争の悲惨さ知って
「ベトナムのダ−ちゃん」ビデオに

 ベトナム戦争で両親を失った孤児の実話を失ったを基に作家早乙女勝に作家早乙女元さんが、 執筆し、遠藤でるよさんが絵を描いた「ベトナムのダ−ちゃん」が、このほどビデオ化された。
「ベトナムのダーちゃん」の一場面
 チャン・ティ・ダ−さん、通称ダ−ちゃんはベトナム中部のクアンガイ省の出身。 1996年にアメリカ軍の掃討作戦で村民65人が殺された事件の貴重な生き証人だ。 早乙女さんは71年、ベトナム戦争の悲惨さを訴えるためにハンガリ−の首都ブタペストを訪問中だった 当時13歳のダ−ちゃんと偶然同じホテルに滞在して知り合った。 自身も12歳の時に東京大空襲を経験した早乙女さんは、帰国後彼女の話を基に絵本を作った。 93年に映画化された。
 ダ−ちゃんとは75年にベトナムで会ったのを最後に消息が途絶えていたが、 91年に16年ぶりに再会。3人の娘の母親になり、戦争で負傷して働けない夫に代わって医師助手として一家を苦労しながら支えていた。 「丸々太ったダ−ちゃんが人違いと思うほどやせていた」という。 昨年彼女から届いた手紙で、今秋高校に進む長女の学費で苦労していることを知った。 これまではダ−ちゃんの勤める病院や子どもたちの学校に寄付するだけで個人的な援助は控えてきたが、 ビデオ化の話が実現したため原作料を子どもたちの教育費に充てることにした。
 「売れた分だけ教育費が増えるので、多くの人のご協力をお願いしたい。 また、若い人達にベトナム戦争で何があったかを知ってほしい」と早乙女さんは話している。 ビデオ本体価格は五千円。問い合わせはプロデュ−スセンタ−(03-3596-6834)
(読売新聞)


この国にくらして
インドシナ難民はいま

 分厚いコミック雑誌にミニ四駆......。神奈川県綾瀬市の小学5年生、 スッタヌ−君(11)の学習机の周りは、ごく普通の小学生と変わらない。
 父親のラッソムバット・ス−さん(34)は難民として16年前、ラオスからやってきた。 スッタヌ−君は日本で生まれた。大きな声の元気な少年。家ではスッタヌ−と母親は日本語で話す。 「漫画ばかり見ていると、お父さんに怒られるちゃうんだ。 何を怒っているかは感じで分かるよ」とスッタヌ−君。 「息子がラオス語を話せないのは気にかかるが、日本の文化の中で育っているんだからしょうがない」と2人は考える。
 インドシナ難民の定住が許されてから19年。日本語の苦手な親と、日本語しかできない、日本育ちの子供の"断絶"が目立ってきた。 親子の意識のギャップが深まり、母国語のできない子供は、アイデンティティ−が揺らぐ。 ラオス出身で同県大和市の大和定住促進センタ−の通訳の新岡史浩(シンカムタン・レック)さん(51)は、 同国からの難民たちの相談に乗ってきた。「一世は生活で苦労したが、二世は別の大きな問題を抱える」と新岡さん。 子供たちが中学生になると、「お前は日本人じゃない」などといじめに遭いやすく、意識をがたがたに揺さぶられるという。 「はね返す力が育っていない子ほど家庭が大事なのだが」と新岡さんの顔は曇る。
 新岡さんの家庭でも、成人した2人の子供はラオス語をあまり話せない。 息子は中学のとき、ラオス名の名札を嫌がって、ひそかに勝手な日本名に付け替えていた。 「彼は心の中でラオスを否定した」と新岡は感じた。 在日ラオス協会は、母国語を知らないラオス人のための教室を開いている。 ところが、出席する子供は少ない。発音練習の繰り返しなどが「つまらない」という。 ほかのボランティア団体が開いている母国語講座もどこもあまり人気がない。
 ラオス人で、4歳で来日した同県厚木市のOLサッダポン・トレスックさん(19)と親友の高校2年生A子さん(18)はこのごろ、 日本語とラオス語を混ぜて話している。 2人とも子供のころは日本語しか話せなかった。だが、相次いでラオスに帰ってから母国語を勉強し始めたのだ。 「日本ではラオス人。向こうでは日本人に見られた。自分の国はどこ?って感じ。とてもショックを受けた」と話すA子さん。
 理由はもう一つある。向こうで知り合った異性の友人たちに手紙を書くこと。 「日本の同年代の男性はかっこつけてばかり、人を傷つけることを平気でいう。 だけどラオスの男性はすっごく純粋な感じ」という。祖国訪問で、2人は自分を見つめ出した。 同協会会長で、麗沢大学教授の竹原茂(ウドム・ラタナヴォン)さん(53)は難民の大学教授の第1号である。 日本人の妻(54)との間に4人の子供がいる。
 「日本語しか話せない娘をラオスに連れていったら、言葉や文化の違いに強い関心を持った。 一時帰国しやすくなった今、親は子供をときどき祖国に連れて行く努力が必要。 周囲もこうした状況をもっと理解してほしい」と話す。
(読売新聞)


郷に入っては郷に従え

 「郷に入っては郷に従え」という諺がある。世渡りのコツについての知恵の言葉。
 先日若いベトナム人家族からのSOSの電話が入った。となりの人が怒鳴り込んできたと。 現場へ行き事情を聞いてみると、原因は臭いだった。換気扇から出てくる料理のくさい臭いが家の中まで入ってくるというのである。 今まで7年間我慢した後の堪忍袋の尾切れだった。換気扇の外に立つと回すだけで確かに少し臭いが出る。 原因の一つは換気扇の中のこびりついた臭いだった。換気扇を掃除することで解決しようとした。 ところがそれでは済まなかった。ここは日本だからベトナム料理を食べるなというのである。 そんな馬鹿げた話はないと抵抗するが、執拗に迫ってくる。 それに何故7年間も何も言わずに今になって突然言うのかと問えば、ベトナム人は怖いからと答えた。 わけのわからない話である。ベトナム人の方が怖がっているというのに。 臭いという感覚は人によって差があるので理解はできる。 何らかの解決策は必要だ。しかし一方それも立場的に弱い方が我慢をしなければならない解決法は大いに問題がある。
 町内の掃除。ゴミの出し方、真夜中の騒音など皆で決めた決まりには従うようにしなければならないし、 理解できるように配慮もしなければならない。しかし人として生きるための権利を奪う「郷」であってはならない。 日常生活の些細なことが些細でない。些細なことに目を向ける「神戸定住外国人支援センタ−」。 重要な活動のひとつです。
 神戸定住外国人支援センタ−代表   神田 裕


懇親会

 今日7月17日、阪神大震災になって丁度2年半たちました。長いような短いような気もします。 周りの家もぼちぼち建ってきました。復興が進んでいることが見えます。
 2〜3日前には垂水教会で「ママさんうさぎの懇親会」がありました。 ママさんうさぎとは救援基地の食事の世話中心のボランティア婦人方の呼び名です。 そこで20人ぐらいの婦人が集まりました。私はこれで2回目ですのでとても楽しみにしていました。 きっかけは去年いやいやながら懇親会に参加しましたが、そこでいろいろなことが分かるようになりました。 救援基地の仕事や活動は神田神父の話しで分分かりました。 救援基地ができたのは私たちベトナム人のためだったことを強く思いました。 感動とありがたさが胸いっぱいでした。何とかしなくちゃと決心しました。
 あれから1年、今回の懇親会は少し違う形で話し合いをしました。 やっぱり食事を作りながら皆さんも不安と疑問をたくさん持っていたようです。 例えば何時までするの?お金は?自分の味で大丈夫?などなど....話と説明でよく分かりました。 皆さんも安心顔になって、これからもやる気まんまんです。私自身はここの食堂が大好きです。 なぜなら毎日同じ味じゃないからです。 ボランティアの皆さんの知恵とアイデアや愛情いっぱいの食事を楽しんでま〜す。


日本8割、ベトナム2割?

  久しぶりに、ベトナムに帰ったとき、飛行機から降りた瞬間、汗がたくさん出ました。 周りの風景はゆっくり見る間もなく流れて、出口を出てホットとしました。 ベトナムは11年振りでした。一番びっくりしたのは交通量とル−ル、昔そうだったのか?信じられない気持ちです。 その晩、日本での暮らしでは蚊帳は必要ありませんでしたので、そのまま寝ました。 すると蚊にいっぱい噛まれて、次の晩から蚊帳で寝るようになりました。
 ベトナムに着いた最初の頃は、うるさい所だと思いました。 自分の心のおくになかなか受け入れられない気持ちでした。 原因はたぶん日本で毎日生活するのにだんだん慣れて、静かな生活になっているからだと思います。 料理をするために、まな板に包丁のとんとん音を聞けたのは10年振りぐらいです。 すごくなつかしい音だなと思いました。ご近所のしゃべり声なども遠慮なく耳に入ります。 ここでは近所迷惑問題なんかありません。最初のうるさいと思ったことは羨ましい気持ちになり、 やっぱり母国はいいな!わたしの国はここだ!日本で暮らしている外国人、 自分の国の習慣や生活などは何十パ−セントで暮らしているのでしょう。 私には20パ−セント位だと思います。残る80パ−セントは日本の暮らしに合わせての毎日です。 ここに住もうと思ったら、大変努力が必要だと思います。 しかし周りのみなさんにはその努力が見えないのでしょう。 母国で大きくなっても、生活は大変でした。しかし気軽に暮らせました。 少なくとも言葉の壁も外国人差別にもぶつかりません。し かし、私は日本に住んでいる外国人はとても得だと思います。 日本の良さ、素晴らしさと母国のいいところに、うまく取り組んでやって行けば最高だと思います。 (まな板の音は、鶏をさばく包丁の音などです。日本での生活では包丁の代わりにほとんど鋏を使用しています。)
ハ−・ティ・タン・ガ− 
(KFCニュ−ス)
 72号は紙面の関係でガ−さんの紹介ができませんでした。ガ−さんは「チョットいいこと」の愛読者であり、 支援センタ−の力強い協力者で頑張っています。KFCニュ−スに毎回投稿していますので、 これから「チョットいいこと」にもたびたび出てきます。よろしくお願いいたします。


司祭職志すベトナム少年・アン君(15)
父から伝えられる信仰 祖国への思いも熱く

 在日外国人の定住化が進む中、子供の学校教育、信仰教育の大切さが重要な課題となってきている。 1984年2歳の時に難民として来日したベトナム人のグエン・ティ・ティエン・アン君(15)は司祭を志し、 現在、三重県の四日市サレジオ志願院(鈴木正夫院長)で養成を受けている。 来日13年のアン君に、家庭での信仰教育や志願院での生活について聞いてみた。
 幼児洗礼のアン君が司祭になる夢を持ち始めたのは、6歳のころ。 当時ミサでの「聖変化に見られるように"奇跡を起こせる司祭"にあこがれた」のが理由だという。 アン君の家族は、両親と妹2人の合わせて5人。故国を脱出する時、 父親がけん銃で撃たれるなど、家族は多くの苦難を乗り越え来日。 現在、神奈川県川崎市で暮らしている。
 アン君が志願院に入る前の生活は、家族で月1回のベトナム語のミサにあずかり、 他の主日は地元の教会に通うというもの。寝る前には家族で祈りをささげ、父からは、しばしば司祭職の大切さを教えられた。 「ベトナム語のミサでは侍者をしていたのですが、父は常々、福音箇所の説明や信仰について話してくれました。 東京・瀬田教会での初聖体の時、父が子供向けの旧・新約聖書を買ってくれたので、 そればかり読んでいました」とアン君は幼い日々を懐古する。
 小学校高学年になったアン君は三重県の四日市サレジオ志願院に入学を希望。 東京上野毛教会で神学生に勉強を見てもらい、四日市の海星中学校(エスコラピオス修道会が経営母体)受験に向けて猛勉強した。 現在は、教会・修道会関係者に支えられ、志願院で養成をうけながら海星中学校で勉強に励んでいる。 「皆に支えられ楽しい毎日を過ごしています。将来は他人の助けになれる司祭になりたい。 そしてベトナムの教会のためにも役立ちたいと思っている」とアン君は意欲的だ。
 志願院の生活は6時30分起床で、7時のミサに始まる。食事・掃除の後、中学校へ登校、下校後は、 小神学生9人と鈴鹿川の河原でスポ−ツを楽しむ。夕食後は、休憩と自習をし、夕べの祈りを済ませて11時消灯だ。 休日は志願院長の引率で歴史散策や登山、合宿に出掛ける。
 院長も認める読書好きのアン君は、志願院では図書係を担当。 「志願院は環境に恵まれ、庭で取れる季節の果物や自然を楽しんだり、 友達と音楽や勉強の話などをしてとても楽しいです」と笑う。
 一方母のトゥエットさんは「夜中に目が覚めては『暑くはないかな』『食事は大丈夫かな』と心配していますが、 別れて暮らすつらさなども、すべて子供の将来のためと自分に言い聞かせて、お祈りしています」と語っている。 家族と教会の仲間に支えられて、アン君は一歩一歩司祭職への道を歩んでいる。
(カトリック新聞)


独自のWYD祝う
ベトナム南部で青年2000人

 ベトナムのカトリック青年2千人以上が8月28日、当地の小教区で、 彼ら独自の「ワ−ルド・ユ−ス・デ−」(WYD)に参加し、ミサや歌、ゲ−ム討論会などで出会いを楽しんだ。 「こんなにもたくさんの青年が集まったことで、 パリで終わったばかりのWYDやあなた方がそれに参加する許可を行政当局から得られなかったことを考えてしまいます」 とベトナム南部ダラト教区のグエン・バン・ニョン司教が青年たちに語りかけた。 「しかし、今あなた方を前にして、パリに行けなかったことをさほど残念とは思わなくなりました」と同司教は続け、 教皇や世界中の青年百万人以上が参加し、8月19日から24日までパリで開催されたWYD記念式典に言及した。  少人数民族の若者も含む多くの青年が、ホ−チミン市の北約180 キロにあるラムドン省のタンハ小教区まで数時間歩き、 この祭典に集まった。「あなた方は、これほどの長距離を旅してまで、早朝にここまで来てくれるほどの勇気を持っています」 とニョン司教は、同小教区の保護の聖人である聖アウグスティヌスの祝日に午前5時のミサに集まった青年たちに感謝した。
 同司教は「青年は教会の未来です」と、教皇がよく口にする言葉を引用し、「今 日、あなた方は喜びと熱意に満たされています。 だからこそ、私はこの世界がよい方向に変えられていくだろうと確信できるのです」と付け加えた。
(カトリック新聞)


「商売繁盛」にゃ神頼み
信仰にもドイモイ効果

 供物を売る露店が並ぶ参道を抜けて約20階段を上る。白色の正門をくぐって正面の本殿に入る。 線香の煙が立ち込め、数か所ある祭壇の前は、手を合わせ一心に祈る人でいぱいだっだ。
 ベトナム・ハノイの北東35キロ、バックニン・バ−・チュアコ−」。「デン」とは、歴史的な人物や心霊を祭る宗教施設。 ここは李朝(1009 〜1225) 第三代皇帝の6女、安国公主が祭られ、財産を守る神様として信仰されている。 安国公主は、中国の宋軍に攻められたとき、兵たん基地の食料倉庫の防衛に活躍、 このデンの近くで23歳で戦死したと伝えられる。「バ−」は女性の敬称、「チュアコ−」は倉庫の管理者を意味する。
 ドイモイ(刷新)政策で金もうけが自由になったベトナムでは、 商売繁盛にご利益があるとされる宗教施設参拝が流行している。若くして死んだ者の霊が尊ばれることもあり、 このデンの人気は際立ち、テト(旧正月)明けには供物の模造紙や模造金塊を手に数千人は訪れる日もある。
 ハノイの東約百キロのハイフォンからバスに揺られて来たブ−・タイン・ビンさん(43)は1990年から毎年参拝している。 夫と共同で鉄材販売会社を経営しており、「おかげで91年から経営は順調。お参りするだけで自信がわいてきます」と話す。 「恋人ができますように」と祈る若者や、かけごとなどや密輸で一もうけを祈願する者もいるという。
 共産党政権は75年のベトナム戦争終結直前、「信仰の自由は保護するが、迷信・異端は排除する」との方針を打ち出し、 女神信仰などの民間信仰を禁じた。「無駄な消費をなくすためと、国内の反体制勢力に利用されることを恐れたため」 (ハノイの宗教研究者)とみられる。
 83年、このデンの原型の祠は排除対象となり、破壊された。ところが政権は、86年のドイモイ導入後、 この祠の由来の調査を行い、国の文化史跡に指定した。 これきっかけに人々が訪れ始め、91年に地元民らの寄進でデンとして再建し、規模も拡張した。 政権は89年ごろから、排除対象としていた宗教施設の復権を認め始めた。 公式には「迷信・異端の排除」方針を保持しているものの、事実上黙認状態だ。
 「ドイモイ下の経済復興などで、規制する必要性が薄れてきたため」(同研究所)のようである。
(読売新聞)


ユネスコ親善大使に

現在のキム・フックさん
 ベトナム戦争中、ナパ−ム弾に背中を焼かれ、裸のまま泣き叫び、 逃げまどう姿をおさめた写真で世界に衝撃を与えた当時9歳のベトナムの少女キム・フックさん(34)が 国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)親善大使を務めることになった。
 ユネスコが4日発表したもので、10日正式に任命され、来年1月から任務に就く。 「紛争に際し、対決と暴力ではなく、和解、相互理解、対話、交渉が必要とのメッセ−ジを伝える」 (ユネスコ事務局)ことが期待されている。キム・フックさんは1972年6月8日、 避難先の仏教寺院で南ベトナム軍の空襲にあい、大やけどを負った。 AP通信カメラマンが撮った写真は、戦争の悲惨さをとらえたものとして撮影年である72年度のピュリツァ−賞を獲得した。
 キム・フックさんはその後、皮膚移植など計17回の手術を受け、サイゴンの病院で14カ月間手当てを受けた。 現在はカナダのトロントで夫と二人の子供に囲まれて暮らしている。
(読売新聞)


チョットひとこと

 1997年の終わりに、私たちの感動を呼んだニュ−スは、 何といっても「宇宙」に向かったスペ−スシャトルと飛行士たちの業績でした。 経済界の暗いニュ−スを毎日のように伝えられた者にとってこの歴史的出来事は、 一緒に宇宙に昇る思いを起こさせるものでした。
 11月29日の朝日新聞の社説に「人間が宇宙へ行く意味」と題して、次のようなことが書かれていました。 その中の文章の一部を引用して考えたいと思います。 「人間を月に送った60年代のアポロ計画の時代とは異なり、国威の発揚はもはや原動力ではなくなった。 冷戦が終わり、軍事目的の比重も下がっている。」 「宇宙は人類の精神的なフロンティアである。そこへ人間を送ることは、国際強調のシンボルとしての意味をもつはずだ」と。 宇宙から地球をみれば、科学の面ではもちろんのこと今まで解明されなかった多くの問題に触れて、 解決のいとぐちが得られるでしょう。しかしそれだけではなく、国境や民族、環境や自然と人間の共存についてもさらに広く、 より深く問題点を見つめ、発想の転換ができるようになるのではないでしょうか。
 国家があり、国境線がある限り「外国人」という表現は消えないでしょう。 この言葉がかならずしも排他的な意味でのみ使われているとは思いませんが、 相対的に見て小さな地球上での兄弟姉妹意識を密度の濃いものにしていくためには気にかかる表現です。 言葉の違いもあり、それぞれが生活している場所で自然に身についた習慣もあり、 文化的な多様性をもっているにもかかわらず、広義の共同体が実現する可能性をもっているのが私たちの世界だと思います。 空間的に今地球から離れることは宇宙飛行士にならない限り無理ですが、 少なくとも知性を通してその貴重な経験を学び、客観的に世界を見ていくことが可能になるでしょう。  今まで人間が破壊し続けてきた地球の自然環境を、少しずつでも「自然」の名にふさわしい状態にしていくことは、 宇宙開発と同時に国際強調に根を下ろした私たち皆が担っていく重要な課題だと思います。国境を越えて!

もどる