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チョットいいこと 72

メコン物語
被害者向け復興資金
ベトナム語教室を開設
ご紹介
著書を語る
ベトナム名にしてよかった
和菓子紹介いざベトナム
支援からまちづくりへ
KFCニュ−ス
チョットひとこと



メコン物語

 ベトナム戦争さなかの1969年の早朝だった、と記憶している。 メコンデルタの最南端ミンハイ省(現カマウ省)のウ−ミンの森に疎開していたズオン・ミン・タンさん(49)は、 上空を飛ぶ米軍機の音で目がさめた。妻トゥイさん(45)と共に家の外に出ると、あたりは一面の白い霧。 「霧」は2人の体に降りかかった。息苦しくなり、家の中に戻って横になったが、 けん怠感が続き、寝たきりの生活が3日続いた。
 夫婦そろって「霧」を浴びた最初の経験だった。当時は「霧」は猛毒の枯れ葉剤とは想像もできなかった。 以来タンさんは毎年20回以上、妻も繰り返し枯れ葉剤を浴びる。 夫婦は後に7人の子どもをつくったが、うち4人が障害者だった。 娘3人は出産時の体重が2キロ未満、17〜20歳の今でも20キロに満たない。 うち2人は先天性言語障害も負う。
 男の子のうち、下半身がまひしている二男のタ−イ君(14)は3年前、小学校に通い始めた。 片道1キロを1人で、よつんばいではって行く。「休み休みだから、片道2〜3時間かかっちゃうんだ。 でも勉強が好きだから」とタ−イ君。「子どもたちの障害と枯れ葉剤の因果関係は、病院で確認しようがないと言われた。 でも、あれだけ浴びたんだ。関係あるはずだ」とタンさんは言う。 タンさん夫妻自身もいまだに、乾期になると、結核のような症状に襲われ、病院通いが続く。
 戦争中、米軍は、南ベトナム解放民族戦線が拠点を置いたジャングルを破壊するため、 61年から11年間に猛毒のダイオキシンを含む計7,200 万リットルの枯れ葉剤を散布した。 障害児は、戦後22年たった今も生まれている。デルタの中では最大量が散布されたカマウ省のカマウ病院では、 昨年も13人。無脳症が2人、水頭症が1人、こう門がない子が5人......。 ベトナム政府の枯れ葉剤障害委員会には、ここ数年間に、孫の世代でも障害児が生まれた例が数件報告されている。
 海に近いタンさん一家の水田は、塩害で自給分も満足に実らないため、借金に追われる生活。 「障害をもった子どもたちの面倒はずっと見続けなければならない。 どこかの人道団体が、資金や医療の援助をしてくれないだろうか」とタンさん。 しかし我が家の苦しみは、戦争がもたらしたものだ。 アメリカ政府に命じられて枯れ葉剤をまいた米兵たちを責めることはできない」とも言う。 枯れ葉剤の直接の標的となったデルタのマングロ−ブ林や森林は、多く失われ、 ベトナム政府は戦後、植林による再生を図っている。
 解放戦線の武器工場があったゴックヒエン地区タンアン村では、マングロ−ブ林 2,100ヘクタ-ルの九割近くが壊滅。人民軍が戦争直後から、地元住民の協力も得て、再生に取り組み、やっと半分が再生した。 元解放戦線兵士ダオ・バン・ミンさん(78)は、そんな協力住民の1人。 ミンさんは戦時中、この村で、当時の北ベトナムから海を通じて送られてくる武器陸揚げ用の港を守った。 枯れ葉剤散布を何度も目撃し自らも何度も浴びたミンさんは言う。 「枯れ葉剤をまかれたマングロ−ブは、2、3日で葉が落ち、1年もすれば枯れた。 62年に散布が始まって、64年には林は消えた。 もう10年もたったら、また来なさい。元のようなマグロ−ブ林が見られるから」
 3年で死んだダンアンのマングロ−ブ林は、戦後30年を経て、ようやくよみがえる。
(読売新聞)


被災者向け復興資金
ベトナム人"門前払い"

 最高三百万円の融資が受けられる兵庫県生活復興資金で、 神戸市長田区で被災した定住ベトナム人男性(25)が今年2月、同区内のさくら銀行駒ケ林支店から、 生活再建のため百万円を借りようとして、保証人のベトナム人に永住資格がないことを理由に、 融資を断られていたことが9日までに分かった。 同資金制度では「永住の有無」は融資要件とはなっておらず、 申請は約2カ月後、男性側の抗議で受理されたが、県生活復興推進課は再発防止のため、 来週初めにも関係金融機関へ外国人への融資について文書であらためて通知する。
 神戸定住外国人支援センタ−などによると、男性は震災で同区内の市営住宅が全壊し、 加古川市内の仮設住宅へ家族と転居した。今年2月上旬に同資金制度を利用しようと、 兄が保証人になった申請書類を職場近くの同支店へ提出した。 ところが、同月中旬に申請書類が自宅へ返送されてきた。 返送理由が付記されていなかったため、男性は不思議に思い、同センタ−へ相談。 同支店へ説明を求めたところ窓口で「保証人に永住資格がない」との理由で融資を拒否されたという。 同センタ−は3月下旬、県や同行本店へ抗議。その結果、約1週間後にこの申請は受理された。
 同行本店広報部は「基本的に個別の取引内容のため返答できない。 申し込み者には納得してもらっている」としているが、県は2月13日、 同資金取扱金融機関との会議で「外国人の場合、永住権の有無は貸し付けの要件には入れない」と出席者に再確認した。 同センタ−の金宣吉副代表は「同じ被災者でありながら、 融資を断られて困っている外国人が他にもいる恐れがあり、心配だ。 公的な貸付制度なのに被災地の金融機関に理解が足りな過ぎる。各金融機関で洗い直し、 融資の見直しを徹底してほしい」と強く要望している。
(神戸新聞)


ベトナム語教室を開設
「将来は両国の架け橋に」

アジア交流センターで始まったベトナム語教室
 ベトナム難民だった父親の呼び寄せ家族として7年前に来日したブ−・ティ・タン・ユンさん(19)=賢明女子学院短期大学一年=が、 覚えた日本語を使って姫路市仁豊野のアジア交流センタ−で、ベトナム語教室を始めた。 市内では初めてのベトナム語教室だが、大学生や公務員など8人が生徒として学んでいる。 生徒の一人、姫路定住促進センタ−元難民相談員、福本智子さん(51)=同市野里=は「若い人が東南アジアに興味を持ち始めた証拠。 難民の受け入れが始まった15年前、ベトナム語の本もなく、誰も勉強しようとしなかった時と比べて時代の変化を感じます」と話している。 福本さんに数人から「ベトナム語を習いたい」という相談があり、ユンさんに講師を依頼したのがきっかけ。 昨年12月から福本さんの自宅で5人が学んでいたが、 6月からさらに3人の生徒が増えることから、同センタ−で本格的に開くことになった。
 市立中学の国語教諭(25)は、ベトナム人の生徒が大勢通っていた中学校で勤務したことがあり、 ベトナム人の父母とのコミュニケ−ションに苦労した。また姫路獨協大学院言語研究科一年生の名嶋義直さん(31)は、 ベトナムを旅行したことから興味を持ち、ベトナムで日本語教師をすることを視野にいれて勉強することにしたという。 同市近辺では、ベトナム人、ラオス人が多く住む。しかし、これまで日本語を教える教室はあったが、 ベトナム語を勉強する教室はなかった。ベトナムと日本で育ち、 両国の文化の違いをよく知るユンさんは「ベトナムのことを日本の人にも っと知ってほしいと感じていたので、教室が始まってとても楽しい。 将来は通訳か教師になって、両方の国を結ぶような仕事がしたい」と話している。
(産経新聞)


ご紹介
生活の中のベトナム語 Chào チャオ
 皆川一夫 著 (国際語学社) 1,900 円+税 
 本書は95年夏にホ−チミン日本商工会から発行された「生活のベトナム語」を 一部補充改訂しコラムや索引などを加えて装いを新たにしたものです。
 【生活のベトナム語】発刊の経緯は同書の著者序で述べてある通りですが、 本書はあくまで現地での実際の生活に必要な表現や物の名前などを、 私自身の通算10年におよぶベトナムの南と北の両方で現地生活した経験を通じて一つ一つ収集し、 ベトナム人やベトナムの辞書なでで確認もしながら纏めた実用即戦の書です。 

 もともとが、23年前に当時のサイゴンで作成したものであるので、 「南部方言」が多く収録されていますが、北のハノイでも使用できるようにしてあります。 南部を旅行したり生活したりする場合には、いわゆる北の「標準語」を使うと歓迎されません。 本書は、南に行く機会のある人や、あるいは日本などで南部出身のベトナム人 (ボ−トピ−プル難民はほとんど南部出身です)と接触する機会のある人には特に役立ちます。 また、本書は日本人だけではなく、ベトナム人も使用できるように種々の工夫をこらしてあります。
 現在、首都ハノイには900 人、ホ−チミン市には1,500 人、 ベトナム全土では2千数百名の在留邦人の皆さんが長期滞在していろいろな分野で活躍しています。 3〜4年前にはホ−チミン市で50人、ベトナム全体でも百数十名しかいませんでしたから、 本格化したドイモイ対外開放策の流れの中で十数倍にも増えたわけです。 今後も日本とベトナムの関係は加速度的に拡大、発展していくことでしょう。
 こうした中、コミュニケ−ションの基本としてのベトナム語の重要性が増していくことはまちがいありません。 今、ベトナムでは多くの人が英語や日本語をはじめ各種外国語の勉強に一生懸命励んでいますが、 それでも外国語の通ずる場所や程度は限られていますし、やはり現地の言葉で直接交流し合うのはお互いに格別の喜びです。 また食べ物や病気関係の言葉などは、英語など第三国語を通じてでは隔靴掻痒(かっかそうよう)でどうにもならないものです。 今後本書がこうした意味で、日本人とベトナム人との間の円滑なコミュニケ−ションを図ると共に、 日本人がベトナムであるいはベトナム人が日本で生活したり旅行したりする上で役に立ち、 助力となることができれば著者として大きな喜びです。
 なお、本書発刊にあたり、前身【生活のベトナム語】のコンピュタ−入力や編集について多大な尽力をいただいた 大島東君(現在、福井大学研究生)そして、綿密な索引の作成や今回の新たなコンピュ−タ入力についても協力を得た 三浦憲君(東京外国語大学ベトナム語科在学)に謝意を表すると共に、本書の意義と価値を深く理解された上で、 日本での出版をご快諾いただいた国際語学社の田村茂社長に対し心より御礼申しあげるものです。
1997年春
皆川 一夫


著書を語る
ベトナムのこころ・しなやかさとしたたかさの秘密
前在ホ−チミン日本総領事館首席領事 皆川 一夫

 私のベトナムとのつきあいは長い。
 外国に憧れて入った大学(東京外語大学)でベトナム語を専攻し、 その奇妙なヒゲつきアルファベット文字に驚いてから30年以上も経っている。 大学卒業後、外務省に入り1972年に在外研究生としてサイゴン(現ホ−チミン市)に派遣され75年春の南越政府崩壊後は、 北のハノイに2年半づつ2回、そして、最近ではホ−チミン市に93年秋から2年間滞在した。 つまり、ベトナムで通算10年、しかも、南北でちょうど半分づつ暮らしたことになる。 また、6年前に先妻を病気で亡くした関係で、95年夏、ベトナム女性を二度目の妻として迎えた。 相手は、サイゴンで研修時代に下宿した家の長女(当時8歳)である。 そして、昨年夏には日越協力の証としての二世も誕生した。
 こうして私はベトナムとは抜き差しならない関係にあるが、ベトナムの一般庶民との付き合いを通じて感じ、 学び、そして考えてきたことを書き上げたのが本書である。
 実は本書は、私がホ−チミン市にいる間に、 日本から視察などで見えた多くの方に対して現地事情説明としてブリ−フしたことが内容の基本になっている。 皆さんの質問は、ドイモイ開放政策や社会・経済状況に関することは当然として、 ベトナム人の特質や特徴、アメリカとの戦いに勝った秘密、日本人との違いや共通性、 中国人や他の東南アジア諸国人との違い、日本人やアメリカ人などの外国人に対する感情、 南北の違い、解放後の社会構成や軌轢、ベトナムの将来、ベトナムの言葉や文化、 はてはアオザイ美人の魅力の秘密などに至るまで実に多方面にわたった。 こうした質問に対し、私はあくまで現実にベトナムで暮らし観察したことを基に帰納演繹し、 様々の具体例や諺などを紹介しつつブリ−フしたので、皆さんに喜んでいただけたようだ。
 確かに、ベトナムについては日本でも沢山の本が出ており新聞やテレビなどでも随分紹介されているが、 一般庶民の現実の生の暮らしぶりや生き方、 つまり「ベトナムのこころ」の部分については殆ど知られていない。 ベトナムといえば昔から戦争、革命、ベトコン、難民といった固いイメ−ジがある一方、 最近では逆にアオザイ美人に代表されるような華やかで明るいイメ−ジも抱かれ始めているようだが、 どうも両極端でチギハグな印象があるのではないだろうか。
 私自身も大学に入った頃は、ベトナムといえば「ベトコンとニッパヤシの泥の家」といった程度のイメ−ジしか抱いていなかった。 現地に行って驚いたのは、まず何といってもチャ−ミングな美人の多いこと、洗練されたインテリの多いこと、 老若男女を問わず皆おしゃれなこと、そして生活習慣が日本とよく似ている面の多いことなどであった。 また、自然が豊かで海産物や肉、野菜、果物などの食料が豊富なのには圧倒され、彼らの逞しい生活力(特に女性)には目をみはった。 聞くと見るとは大違いである。ベトナムには見るべき歴史的遺跡や建造物、そして、リゾ−トなどの観光資源はないに等しい。 にも拘らず、魅惑される外国人が多いのは、なんといってもベトナムの人間自体が面白く興味が尽きないからのようであり、 これが本書の副題の所以でもある。
 本書は、こうした龍宮城的なベトナムから持ち帰った玉手箱である。 その中にはこれまでに私がベトナムとの格闘を通じて探し当てた無形の宝物が沢山納められている。 この玉手箱が、これを開ける日本の読者にとり、ベトナムへの豊饒な無形文化の世界を旅し、 「四千年の歴史」を誇る「文の国」ベトナムへの理解を深め、 ついでに日本人自身のありかたについても振り返る縁になりうるとすれば、 著者としてこれに過ぎる喜びはない。(1997 年8月、先妻・公子の七週忌祥月に記す)


「ベトナム名にしてよかった」
トラン・ディン・トン

●県外教のある三宮サンパルの神戸コミュニティセンタ− で懐かしい名前を見て、トンさんと出会う。 彼とは10年以上前に出会ったきりだった。数年前、新聞で六甲アイランドにベトナム料理店を出したという記事を思い出した。

●約30年前のベトナム戦争中、当時の「南ベトナム」から 知人も友達もいないまま単身で船の勉強ののために日本へ留学。 しかし、1975年「サイゴン陥落」により政府の奨学金は停止。彼らは「無国籍」になってしまったと言う。 当時の日本には「難民」規定がなかったため、30人の留学生はほとんどは生活と生命の不安のため第三国へ。 彼は日本に残って大学を卒業。しかし、「外国人だから就職できない」就職差別。 やっと外資系企業に就職できる。無国籍のため不自由が多すぎるので日本人の妻の戸籍に入れてもらおうと「帰化」の申請を出す。 当時の日本の裁判所は日本名の申請しか受け付けなかった。ベトナムに生きていた家族のことを思い、 日本名の申請をずいぶん悩んだという。結局かなり時間がかかったがベトナムの名での「帰化」申請が許可された(1982 年)。 日本で最初の外国名での「帰化」許可と聞いている。それまで多くの在日朝鮮人が「帰化」を申請していりが、 民族名での許可は出なかった。トンさんのあと、日本籍韓国朝鮮人の民族名回復裁判が勝利していくことになる。

●このあと彼は10年ぶりに帰国して家族と再会。そして、ベト・ドク兄弟を援助し、 ベトナム医療交流センタ−を作る。また、ベトナムへの関心を増やしてもらおうとテレビ界に頼み回ったり、 ベトナム音楽祭を企画したり....。そして、93年に今のベトナム料理店を開店する。 しかし、あの震災で家は全壊、店も半壊・休業だったそうだ。

●最後に今振り返って、ベトナム名を使用していて良かったと言う。 日本名のベトナムや韓国人がいじめられているようだが、彼の子どもたちはベトナム名を使っているのでいじめはないそうだ。

●10数年ぶりにトンさんの元気な姿をみた。彼は話の終わり頃、私を思い出したようだ。 彼が故郷ベトナムを大切に思って活動していることを聞いて、これから彼と出会える機会が増えそうだとうれしくなった。

 (97年5月21日KICC異文化ト−ク「日越の橋渡しとしての私」より)
【この異文化トークは、月2回ゲストを迎えて実施されている】 県立武庫高校 辻本 久夫


和菓子紹介にいざベトナム
菓子学校仲間 ユニ−ク卒業旅行

 「卒業シ−ズンを迎え、記念旅行が花盛りだが、「ただの旅行じゃ面白くない」と、 新宿区の菓子学校で和菓子作りを学んだ5人が、11日、1週間のベトナム旅行に出発した。 現地で日本語を勉強している人たちに、和菓子を作って食べてもらおうという旅だ。 「どんな反応が返ってくるか」と、5人は期待を膨らませている。
 和菓子作りの旅は、間もなく学校での2年間のコ−スを終える片岡義雄さん(34)と白石勝之さん(20)、 韓国から留学している白珍尚(パク・ジン・サン) さん(25)が思いついた。 そこに、昨年卒業した仲間2人が、話を聞いて加わった。
 初めは、南の島にでも遊びに行こうと思っていたという白さんが通う日本語学校の校長先生に勧められ、 同校の姉妹校があるベトナム・ホ−チミン市に行き先を変更。 「せっかくの旅行を意味あるものにしたい」と、日本語を学ぶベトナムの人に和菓子を紹介することにした。
 片岡さんは新宿区若松町に和菓子屋を営む二代目だ。家を継ぐ気はなく、 大学を卒業してからは、コンピュ−タ−のプログラマ−をしていた。 しかし、「いつまでも人に使われているのは」と、菓子学校に通うことを決めた。 学校では、あんこの煮方から、高級な練りきりまで、みっちりと学んだ。 「うちは小さいけれど、名物になるようなオリジナル菓子を作りたい」と将来を見つめている。
 白石さんの実家は、千葉県多古町の和菓子屋さん。4月に帰ったら、喫茶コ−ヒ−を充実させようと思っている。 一方、和菓子の繊細さにひかれて、入学した白さん。今度はパン科に入り直して、あと1年間勉強するつもりだが、 将来は韓国に戻って和菓子屋を開くつもりだ。 そんな3人と、OB2人が腕試しも兼ねて出かけるベトナム旅行。 百人分のあんこは持っていくが、あとの素材は現地で調達するという。
 考えたメニュ−は、桜をモチ−フにした練りきりを3種類、暑い国なので水ようかんと、 現地の果物を使ったゼリ−も作ってみるつもりだ。 白さんは「ベトナムの人に作っているところを見せて、日本の技を味わってもらいたい」と言う。 一方、片岡さんは「現地にどんな素材があるのか。オリジナル菓子の研究に役立てたいと意気込んでいる。
(読売新聞)


支援から『まちづくり』へ
震災1000日期し組織再生 「パストラルセンタ−」に

 震災以後、仮設住宅の訪問など被災者支援活動を続けてきた神戸市長田区海運町のボランティアグル−プ「たかとり救援基地」 (カトリック鷹取教会内)が、震災千日目を迎える十二日、名前を「パストラルセンタ−たかとり」と改め、再出発する。 同基地の活動を引き継いだ上で、さらに、被害者を地域で迎えるまちづくりに取り組む。 当日は「千日目記念報告会」を開催、これまでの活動を記録した資料店も開く。 「パストラル」は英語で牧歌的の意。ホスピスの世界では、だれも分け隔てなく看護する「パストラルケア−」という用語があり、 そうした内容をイメ−ジして命名した。

 同基地は、震災後から同教会の神父で、基地代表でもある神田裕さんとボランティアらが連携して須磨、 長田区の仮設住宅などを訪問。外国人や日本人らの生活支援を続けてきた。 しかし、「非常時だった震災が次第に日常的に変わりつつある」と、震災千日を区切りに、 より被災者の現状に則した活動を目指し、被害者が少しずつ戻りつつある長田の町で、 被害者同士の交流を進めるまちづくりにも積極的にかかわりたいと、している。
 併せて、教会内にあった同基地の事務所を敷地にある別のプレハブに移転。 住民が自由に集えるミニ集会所もつくった。今後「たかとり救援基地」という名称は、 パストラルセンタ−たかとりのほか、神戸定住外国人支援センタ−やFMわいわいなど、 同教会で活動する六団体を統括する総称として使う。 報告会は、十二日午前十一時半から同教会「ペ−パ−・ド−ム・たかとり」で活動報告と今後の方針を発表するほか、 地域のまちづくり協議会会長の現状報告もある。
(神戸新聞)


KFCニュ−ス

差別の壁
 先日、支援センタ−のスタッフと一緒に、ベトナム男性と神戸職業安定所に仕事をさがしに行きました。 外国人の相談窓口で相談をして、いろいろな会社の求人カ−ドを見せてもらいました。 いくつかのカ−ドを選んだ後電話をしてくれました。 すると次から次へ断られました。理由は『外国人はいらない』です。 安定所の職員は「外国人不可」と事務的にメモを書いてきました。その姿を見たスタッフは憤慨していたみたいです。 外国人のための相談コ−ナ−で外人不可とはどうも納得できなかったようです。 しかし、私はいつものことで何とも思っていませんせした。 いつの間にか諦めて、おかしく思わなかったからだと思います。 今から考えるとそれまで随分差別されたけれども、形が違うだけで気が付かなかったんです。
 今まであたりまえと思ったことは、もう一度考えなおさなければいけないと思います。 小さくなった外国人のことをなんとかしたいと思います。日本の社会では外国人が暮らすだけでも大変なのに、 おまけに差別の壁で私たちはやっていくのが難しいです。支援センタ−の皆さんと力を合わせて、 少しでも変えていかれればうれしいです。
ボランティアの皆さんに感謝!
 6月14日、KFC日本語ボランティア会の総会に参加しました。 実は、日本語ボランティアの皆さんのお顔が知りたくて、また少し興味あって行きました。 そこでは、30人近くの人が集まって会議が始まっていました。 みんな真剣に話し合っていました。今までの活動は、まとめて報告がありました。
 ボランティアと一言でいうのは簡単だけれど、その協力はすごいと思います。 ベトナム人と違って、時間がとても大事な日本人。日本語教室がここまで大きくなったことは、普通ではできないことだと思います。 言葉や習慣の違いでいろんなことが起きるはずなのに、皆さんのやさしさでここまで支えてくれました。
 神田神父様がこんなことを話してくれました。「日本人は青色、ベトナム人は黄色。 自分の色をしっかり守るだけでは、いつまでも仲良くなりません。 でも日本人に「黄色になれ」といっも無理です。同じようにベトナム人に「青になれ」といっても無理です。 一緒になって緑になれば、仲良くやっていけるでしょう」こんな意味のことを言われたと思います。 少しずつ、私の関心が感動に変わっていきました。 私たちは何人ぐらいボランティアの皆さんの苦労が分かっているのでしょう。 恩返しするのは無理だけれども、一生懸命勉強して日本語が上手になるだけでも、皆さんへの恩返しの一つだと思います。 皆さんありがとう。私のようなのんきでわがままなベトナム人に、 なんでここまで親切にしてくれるの、と思うことがあります。
 これからも私たちに力を貸してください。
ハ−・ティ・タン・ガ−


チョットひとこと

 一昔前の1981年3月3日、その日の毎日新聞にこんな記事が載っていました。 もしかしたら当時を思い出される方もあるでしょう。
 「全校生の歓迎を受け入学するベトナム難民のこどもたち」という説明入りの写真が何とも可愛らしく、 恐らく多くの人々がベトナムのこどもたちの姿に注目したことでしょう。 「ベトナムの皆さんこんにちは、早く仲良く一緒に遊びましょう」このような挨拶にはじまって大阪の市立平野南の小学生たちは、 9名の友達を迎えました。1980年の12月、家族と一緒に横浜に上陸した人たちで、 なかには日本に定住する希望をもっていない人もいたかも知れませんが、学校で勉強したほうがよいという勧めもあって、 教師、PTA、通訳に当たった司祭、その他多くの人々の協力によって日本での学校生活が経験できるようになりました。
 日常生活では、大人が考えるほど言葉の壁は厚くなく、遊びと触れ合い、 必要に応じて問いかけることなどを通して互いに理解し合うことができたようです。 この機会に、こどもたちはそれぞれの年齢なりに「人間の交わり」の奥底にある暖かさを感じ、 一方では自分の中に潜む思いやりの無さなどを反省したことでしょう。
 さて、次にクリスマスの集いについての記事にも目を向けて見ました。 世界中の多くの人々が祝う救い主誕生の日に、ベトナム人の兄弟姉妹たちも教会に集まり、 市民団体の方々からのプレゼントを受け取ったりして喜びの一日を過ごしたということでした。 自分だけが幸せであればよいとは誰も考えないでしょうが、 少しでも「私」から抜け出して積極的に「周りの人々」を喜ばせようと決心し、 実行の第一歩を踏み出すことができれば、その瞬間から心が軽く、晴れやかになるのを覚えるのではないでしょうか。 平野の教会に集まった人々の微笑みから明るい雰囲気を読み取ることができました。 お互いに受け入れ合う大きな喜びが、国境を越えてこれからもさらに広がっていくように力を尽くしたいと思います。
 「難民」の問題は、小さな日本の現代史の流れの中で、 広い視野をもって「人間」と「世界」を考えることを促す1980年代の大事な史実ではなかったでしょうか。

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