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チョットいいこと 71

メコン川物語
学舎のしらべ
海を越えて
いじめ「勉強のため」耐えた
  今は障害者の自立助けたい
子どもらと一時帰国
同世代のベトナム難民に
  「前向きな生き方」学ぶ
チョットひとこと



メコン川物語

 メコンデルタの中心カント−省にある国営農場「ソンハウ農場」を訪ねた。 メコン川の二大支流の一つで、農場近くを流れるハウ川を意味するソンハウの名の通り約七千ヘクタールの敷地に、 ハウ川からの水をたたえた水路が総延長百二十六キロにわたって縦横に走る。
 ベトナムの共産党政権は、国営農場や合作社を主体とする農業集団化の失敗を受け、 一九九八年に農業のドイモイ(刷新)を断行、効率の悪い国家農場や合作社を次々に体験し、個々の農家の経営にゆだねた。 その結果、国営農場は三分の一の約四百に激減した。うち生産性が上がっているのは五%とも言われる中で、 この農場は最大の成功例。二期作によるコメの一ヘクタール当たりの平均年間生産高は、国内平均の三倍近くの十トンにのぼる。
 「反動的だ。逮捕すべきだ」と地元当局ににらまれた時代もあった。だが、今は違う。 「昨年視察に来たド・ムオイ共産党書記長も『手本となる農場だ』とほめてくれたよ−」。 農場長のチャン・ゴック・ホアンさん(75)は、農場の歴史を振り返る。 「反動」と見られたのは、75年の農場開設直後から、各入植農家に、割当量を超えたコメの自由処分を認め、 国営農場が収穫全量を管理する当時の集団化政策に反したためだ。
 ホアンさんは、南ベトナム解放民族戦線でベトナム戦争を戦った。 「反動」呼ばわりする当局者には、「社会の意識は、 実際の発展に追いつかない」との故ホ−・チ・ミン国家主席の言葉を引いて反論した。 成功の秘密は、収穫物の自由売買や農地の個人貸与を認めるドイモイの先取りに加え、「技師などの人材育成に力を入れ たこと」と、ホアンさんの次女で副農場長のスオンさん(48)は語る。 一昨年訪越したカストロ・キュ−バ国家評議会議長もスオンさんに成功の秘訣を熱心に尋ねたという。 ベトナム戦争後の集団化政策で農地を合作社に接収された農民は生産意欲を失い、 メコンデルタのコメの生産高は低迷していたが、ドイモイで農民は意欲を回復、 生産高は着実に伸びてきた。だが、個人経営のコメ農家の生活は、 米価の低迷から生産高の増加に見合うほどは向上していない。
 0,5ヘクタールの水田で二期作を営むカント−省の農家グエン・バン・マイさん(48)方では、 年間生産高がドイモイ前の倍近くの3,6 トンに伸びたが、その収入も五百万ドン (約五万円)強と以前のほぼ倍どまり。「肥料の値段や税は上がっているのに、コメの値段は上がらない。 子供を働かせて収入を補わなきゃならないから、七人の子供の一人も小学校を終えさせてやれなかったよ」。 デルタの農業に詳しいカント−大学副学長で国会議員のボ−・トン・スアンさんは、 コメ農家の収入の伸び悩みの最大の原因として、政府によるコメ低価格政策のほか、流通面の規制を挙げる。
 農民がいくらコメを自由に売買できるようになっても、コメの売り渡し価格は伸びない。 デルタは交通の便も悪いから、複数の仲買人が介在し、買いたたかれる。 農家の多くは、コメの貯蔵場所がないため現金化を急ぐし、市況の情報収集もままならない。 「輸出の自由化や、日本の農協のような生産者組織を作り農家に価格交渉力を持たせることが急務。 このままでは、デルタの農家は米作の意欲を失ってしまう」と、スアンさんは、政府に、新たなドイモイを迫る。
ベトナム・カント−省 千葉文人)
(読売新聞)


学舎のしらべ
緑豊かな故郷とともにアジアの子らの新たな歴史

 播磨を代表する川のひとつ市川は、姫路の北部では東西に迫る山の間をぬうように流れている。 その流域は広いとはいえないが、肥沃な土壌と潤沢な水に恵まれた豊かな土地だ。 川の西岸にたたずむ小さな小学校は明治から平成へ、人々のなりわいを静かに見つめてきた。
 自然の恵みは豊かな文化をもはぐくむのだろうか。哲学者・和辻哲郎(1889〜1960年)が同校の卒業生であることは、 いまも後輩たちの大きな誇りだ。
 和辻が当時の尋常小学校から巣立ったのは明治31(1898)年。わずか29人の卒業生の一人だった。 砥堀の北寄り、仁豊野の医者の家に生まれた和辻は約1キロの道を歩いて学校に通った。 通学路の風景、教室での出来事。幼い日々の記憶が晩年の著「自叙伝の試み」に細かく記されている。 その第三章「村の子」には登校風景や学校の様子が描写される。
 「小学校に通う子供たちは、朝、村の南端で待ち合わせ、全員が揃うと、 4年生の引率のもとに一列に並んで、市川添いの道を十町ほど歩いて行った。 小学校は村役場と共に自治村のちょうど中央に当たる箇所にあった。 南側の運動場に面して東西に細長い建物で、真中に玄関があり、その突き当たりは狭い教員室、 左は一、二年生の教室、右は三、四年生の教室があった。教室が二つきりであるように、先生も二人だけであった」。 授業中に読みふけり、先生に愛読書「近江聖人」を取り上げられた、ほほえましい出来事。 開通した播但鉄道を走った機関車へのあこがれ、半世紀以上の歳月を越えて、和辻は鮮やかに少年の心をよみがえらせた。 執筆のきっかけになったのは、東京練馬の自宅に故郷から届いた市川の小石だった。 小石を机の上に置いて、記憶をたぐったという。

 生家こそ鎌倉に移築されたが、同じ地所には現在も本家筋の和辻鉄典さんが住んでいる。 開業医の鉄典さんは長年、砥堀小の校医を務めてきた。哲郎は鉄典さんにとって叔父、 故郷の思い出の媒介役として、小石を東京に送ったのも鉄典さんだった。 今は医院も校医も息子・瑞彦さんが引き継いでいる。和辻家と学校のきずなは途切れなく続いている。
 生前、和辻は法事などで帰省すると必ず、昔遊んだ山や川に足を運んだ。 校歌に登場するのも少年・和辻の庭のような場所だ。 一番の「有明」は、学校の東の方角に見える増位山の手前にこんもり盛り上がった里山である。 二番の「蛍橋」は学校の校門前を流れる疎水に架かった小さな橋。 三番の姫路城とともに校歌に歌われているのはすべて、つつましい日常の風景である。
 昭和36(1961)年に作られたこの校歌を作詞した高田正太郎さんは当時、市立琴菱中学校長を最後に退職、 十二年前に亡くなったが、高田さんが小学生の目線でとらえた風景はいまも生きている。 作曲家の岡本敏明(1907 −1977) は戦後、音楽教科書の編集などにも携わった音楽家だが、 広く歌われている代表作「どじょっこ、ふなっこ」はどこか砥堀の田園風景につながるようだ。
 校庭の石碑に残る「成長を欲するものは、まず根を確かにおろさなくてはならぬ」 という和辻の精神と校歌は日常、風土とのかかわりの大切さという点で重なり合う。 この春卒業した児童は、先日授業の一環として開かれた児童フォ−ラムで和辻のことを学んだ。 校区を回りアンケ−ト調査を行ったグル−プや業績を調べたグル−プなど班別に学んだが、 「偉大さがわかった」と口をそろえ、母校への誇りが倍加したようだ。

 砥堀小には近年になってもうひとつ輝かしい歴史が刻まれた。アジアの子供たちの足跡だ。 昨年3月まで同小のすぐ近くにあった姫路定住促進センタ−。 ベトナムラオスなどの難民を16年間にわたって受け入れてきた。 同小に通学したアジアの子供たちは「竹の子学級」で学んだ。ベトナムやラオスの人々は竹になじみが深い。 それにちなんだ命名だった。同小を最後に定年で教壇を去った松尾昌子さんにとって、 アジアの子供たちとの交流は忘れられない思い出だ。
 松尾さんは退職まで6年間「竹の子学級」を担当した。日本語と計算を中心に教えたが、言葉や文化の差は大きく、苦労続き。 しかも、親のセンタ−退所の関係でごく短期間で転校していった子供が多かった。 フランス語に堪能な学力の高い子もいれば、全く学習経験のない子もいました。 ランドセルや学用品をそろえるのもひと苦労。転校すれば、その後どうしているか気になって手紙を出しても、 もうその土地も離れている。心配ばかりがつのって....」
 しかし、転校生からひょっこり舞い込む手紙が松尾さんを感激させる。 先日、教え子のベトナム女性が、日本の大学に進学することを知らせてきた。 「よく忘れずにいてくれたと思って」と、松尾さんは声を弾ませた。
 日本の児童にとっても、アジアの友達との交流は貴重な体験だった。 図工、音楽体育や給食は一緒だった。低学年ほど子供たちはすぐに溶け込み、放課後も遊んだ。 母校がアジアの子供たちの母校になったことを和辻は知らないが、 彼が唱えた大きな世界観は、国際化社会の中で母校が担った大きな役割に受け継がれたようだ。
(神戸新聞)


海を越えて

 1945年、太平洋戦争が終わりました。その後ベトナムに平和が来るはずでしたが、 フランスが続けて支配して、また戦争になりました。
 1954年、フランスが去りました。ベトナムは北と南に分けられてしまいました。 南ベトナムは自由民主主義の国と北は共産主義の国となりました。北では宗教の自由が奪われました。 フランス人が広めた、キリスト教は大変弾圧が厳しくキリスト教徒は信仰を奪われました。 強い信仰を持っている信者の多くは、南ベトナムに逃げました。 それからアメリカとソ連の介入により、私の国は続けて戦争になりました。 生まれてから青年時代まで、私は戦争の中で生きてきました。 毎日弾丸の音が聞こえるし、戦争のニュ−スに怪我をした人々の人数や、死亡した人々の人数や火事で焼けた家を見ました。
 私は国の戦乱の中で成長しました。私はホ−チミンに住んでいましたが田舎の人の苦しみや貧しさの中で大きくなりました。 私は戦争で中部から南に逃げている人を見ました。そして両側の道に遺体や地雷の後があり、おそろしい状態でした。 結果として、民衆は北から南に、中部から南にも移動しました。
 1975年ベトナムは統一され共産主義がさらに広く強くなりました。 それによってベトナム人はとても苦しくなりました。子供は旧政府の公務員の父が殺されたことを聞いて泣いて、 妻は共産主義になったた夫を持ち悲しみました。民衆は財産や土地がとられたため、激怒、号泣しました。 また宗教の自由が奪われました。仏教徒に対しても同じで、 有名な『おぼうさん』が何人も焼身自殺し政府に信仰の自由をお願いしました。 弾圧された民衆は出国しました。ベトナムは深い森と海で囲まれています。 私の出国する道は海を渡ることしかありませんでした。ボ−トピ−プルになれば海で死ぬかもしれません。 そして家家族とは永久に別れなければなりません。
 ある晩、私は年とった母と妹に涙を流しながら別れを告げました。 父の遺体は中国と北ベトナムのさかいに埋葬してあります。 カンボジアとのさかいの森に拘留されている兄の方を向き、泣きながら、もう会う日はないだろうと思いました。 そして他の72人と一緒に小さい船に乗り出航しました。 飲み水がないし、食べ物もないし、船はエンジンが故障し流されてしまいました。 昼間は波が静かで、船は安全でした。しかし、夜は海が荒れて、船が激しく揺れてひっくり返りそうになりました。 船に乗っていた73の人々はいつも船が沈んで死ぬだろうと思っていました。 私はこの間、母が安全を祈ってくれている姿を思い、とても悲しかったです。 私が乗っている船がもし沈んだら、母はとても悲しむでしょう。私は神様に無事に上陸できるように祈りました。 母のため私は生き続けたいと思いました。
 10日間、船が風で流され、いつも、台風や大波が船を襲い、その間に他の国の船が冷たい目で見ながら通り過ぎて行きました。 何回も助けを求めましたが無理でした。多分どこの国も私たちを助けたくないと思っていたのでしょう。 もし助けたらその船の国が私たちボ−ト・ピ−プルの世話をしなくてはいけません。 だから私たちの船を助けてくれなかったのでしょう。
 13日目の朝に雨雲が太陽を隠し、大雨が降りそうな空になってきました。 皆すごく心配になり、一緒に一生懸命お祈りをし、親族たちと黙って永遠の別れを告げました。 もうすぐ死ぬかもしれないけれど、生きたいと希望しました。 その時、私は神様が守ってくださるはずだと信じていました。 当日の午後、失望しそうになった時に日本のタンカ−に見つけてもらいました。 私たちは動揺して、泣いたり、叫んだりしました。私だけは空に顔をあげて「父よ、私たちを救ってください」と祈っていました。 だんだんとボ−トをおろしてくれました。日本のタンカ−が約3時間かかって助けてくれました。 日本のタンカ−に助けてもらい感動して泣いたり、跪いて顔をさげたりして感謝しました。
 本当は日本の政府が難民の船を助けないはずなのに、助けてくださいました。 どうして助けてくれたのでしょうか?船長が私たちの船が風で台風の目に流されているのを危険に思い助けてあげたのだよ、と言いました。 神様によって、いま私は生きていますのでいつも心から神様や船長や船乗りに感謝しています。 そして日本の船に助けてもらったので、日本の国とベトナムの人のかけ橋として一生懸命やっていこうと心に決めました。
グエ・ティ・ホン・バン


いじめ「勉強のため」耐えた 今は障害者の自立助けたい

  1982年6月のある晩、54人をすし詰めにした木製の粗末な舟はこっそりとベトナムの小さな港を出た。 舟には1週間分の食料だけ。出航して3日目に運よく日本の商船に助けられ、大分県の難民キャンプにたどり着いた。 わずか11歳。外国で勉強したい一心からの命がけの「留学」だった。

 父はベトナム戦争で、南ベトナムの兵士として戦死した。 75年に戦争は終わったが、負けた南ベトナム出身者には目に見えない差別が続いた。 学校でいくら頑張っても成績を実力より低く評価され、進級できない。 母は商売をやりたくてもうまくいかない。そして「開発」を理由に都市から田舎に移住させられた。 農業を始めたけれど、畑には人と牛しかいない。周りの大人から「外国」では「トラクタ−」を使っている話を聞き、 外国で勉強したいと思うようになった。

 82年1月に難民キャンプが閉鎖され、前橋西大室町の難民施設「あかつきの村」へ。 市内の中学校3年に編入した。日本に来て4年目、やっと勉強ができる。 強じんな意思は、執拗ないじめもはね返した。

  授業はやっぱり大変で、字がわからない。泣いたこともありましたが、 その都度「勉強したくて命がけでベトナムを出たのだから、その分頑張らないと」と言いきかせて....。 いじめは「避けられないのかな」と思うくらいありましたよ。「ベトナムに帰れ」と自転車に針を刺してパンクさせる。 上履きの中につばをはかれる。一番つらいのは体育の時間。 二人組を作るとき、だれも自分のところに来てくれないんですよ。
 いじめようとする子はほかの子をつかっていじめるんです。先生もわかっていると思うけど、どうしようもないんです。 あまりがまんするといじめられるけれど、反抗するといじめなくなる。 でもけんかはしませんでした。「勉強するためにきたんだ。けんかするためにきたんじゃない」と言い聞かせました。 そう思うことができたのも「あかつきの村」の石川能也神父をはじめ、 ボランティアの人たちの励ましが支えになったからです。

 さまざまな壁を乗り越えられたのも子どもだったからこそかもしれない。 「あかつきの村」には、現在ベトナム人や、ボランティアの日本人たち約50人が共同生活をしているが、 壁にぶち当たった10人のベトナム人が精神障害をもっています。
 彼らはベトナム戦争の時、軍から何度も脱出しようとして、失敗し捕まっては拷問を受けたんです。 さらに日本へ命からがらやって来ました。結婚したい、いい会社で働きたい、だけど言葉ができず自立できない....。 ショックが重なり、病気にになってしまたんです。去年は村の2人が障害者を帰国させました。 でも帰りたくない人もいて、神父さんが村内に「精神障害者グル−プホ−ム」を造る計画を立てたのです。

 障害者5〜6人と健常者が一緒に生活して、 障害者の自立をを助けようとするのが「グル−プホ−ム」村での計画の責任者となった。 日本の大学で経済学を学んで日本語も堪能。しかし経済成長著しく、 世界から熱い視線を受ける故郷にはあまり未練はなさそうだ。現在日本国籍を申請している。
 最近日本に来たベトナム人が「考え方が日本的だ」と僕のこと、驚くんですよ。 10年以上日本に住んでいるし、自分でも日本が自分を育ててくれた」と思っています。 何度か帰国しましたが、今のベトナム人とは合わない気がして、不安になるんです。 バイクが町をびゅんびゅん走る。商売する人はみんな口がうまいし....。 一緒にやったら負けてしまうのではないかと思います。 もちろんベトナムも愛していますが、今は日本にいるベトナムの人の将来が心配。 障害者が働ける環境づくりにとり組んでいきたい。 日本人にもベトナムや難民のことをもっと知ってもらいたいです。
(東京新聞)


子供らと一時帰国
現地で活躍中の小山さん

 ベトナムで路上生活する子どもたちを救おうと、 4年前から同国フエ市で活動している板橋区の元小学校教諭小山道夫さん(49)がこのほど、 現地の子どもたちを連れて一時帰国した。 日本での滞在は1ケ月だが、この間、全国を巡って講演会や交流会を行う。
 小山さんは5年前、たまたま立ち寄ったベトナムでストリ−トチルドレン(路上生活の子どもたち)の悲惨な暮らしぶりを目の当たりにした。 1年後、23年務めた教職を辞め、妻子を残して単身フエ市に飛んだ。 身寄りのない子どもたちを自費で学校に通わせるなどの活動を始めるためだ。 その後、支援の輪が広がり、子どもたちに仕送りする「里親」が誕生し、現地での活動ための募金も寄せられるようになった。 政府のバックアップもあって、フエ市には「子どもの家」が建てられ、今は、18歳以下の子どもたち80人が暮らしている。
 今回の一時帰国は、「ベトナムと日本の子どもたちとの交流を通して、お互いの国の実情を知ってもらいたい」との思いからだ。 来日したのは、高校に通う16歳の女生徒と小山さんが建設した職業訓練センタ−で刺しゅうを学ぶ17歳の女性、 大学で日本語を学び観光会社で働く27歳の男性、「子共の家」の寮長の4人。 小山さんと一緒に、秋田から高知まで、小学校や大学などを巡りながら交流を深めることにしている。
 15日には、新宿の四ツ谷区民センタ−で「ベトナムの友達をかこむ会」を、午後1時から開く。 当日は、4人の話や現地の生活ぶりを紹介するスライド上映などを予定している。 そして、来日にはもう一つの目的もあった。
 小山さんは、人に感動をあたえた"無名の善き市民"に贈られるシチズン時計(本社・新宿)主催のシチズン・オブ・ザ・イヤ−」を受賞し、 10日、その受賞式に子どもたちと一緒に臨んだ。 小山さんは「4年前、フエ市内に300 人もいたストリ−トチルドレンはほぼ収容して激減した。 が、今度は巣立つ子どもたちをどう自立させるかが大きな課題。まだまだ現地でやることはたくさんある」と話している。
交流会などの問い合わせは、「ベトナムの子どもの家を支える会」日本事務局(?03-3858-9555)へ。
(読売新聞)


同世代のベトナム難民に「前向きな生き方」学ぶ
市立伊勢崎高インタ−アクトクラブ

 市立伊勢崎高のインタ−アクトクラブのメンバ−3人が、前橋市西大室町の難民施設「あかつきの村」を訪ね、 同世代のベトナム難民2人と意見交換した。 日本で生活する悩みや不安、故郷への思いなどを聞いたが「難民」という言葉に暗い印象を持っていた同クラブの3人は、 前向きに人生をとらえている異国の仲間の姿勢に、考えを新たにしたようだ。今回の訪問の成果をまとめ、 6月14日から伊勢崎市昭和町の市民文化会館である写真パネル展で発表する予定だ。
 同クラブは93年11月、高校生の社会奉仕と国際交流を目的に同好会として設立された。 会員は現在、男子生徒2人を含め19人。これまで、前橋市内の障害者施設でボランティア活動をしたり、 障害者でも安心して泊まれる宿泊施設のガイドブックを作ったりしてきた。 また、使用済みテレホンカ−ドの回収などもしている。難民問題にも1994年に取り組んだことがある。 同校にベトナム難民が通っていたことから計画され、校内で研究発表や写真展示をした。
 顧問の金沢光洋教諭(38)はクラブの方針について「社会的弱者の視点を大切にしている。 最初はこちらが様々なテ−マを提示していくが、生徒自身が積極的に社会とかかわていくのが理想」と話す。 同クラブ会長の今井理恵さん(18)ら3人の生徒と金沢教諭が25日「あかつきの村」を訪問した。
 同村は79年、カトリックの神父でもある石川能也代表(60)が民間の難民施設として設立した。 現在、ベトナム人14人、アフガンイタン3人、イラク人1人が共同生活をしている。 週に3日、古着や食器、家具などのリサイクル品を販売するバザ−を開いて、運営資金をまかなっている。 これまでに約300 人が、日本語や日本の生活習慣を学び、独立していった。 インタ−アクトクラブの3人と交流し たのは、ベトナム難民のトラン・ドゥック・ハン君(18)とホアン・クオック・アン君(17)。 二人とも現在は伊勢崎市内に住んでいる。
 ハン君は来日して5年、自動販売機を製造する会社で働きながら、県立伊勢崎工高定時制に通っている。 アン君は10年前に来日してから昨年まで、同村で生活していた。現在は県立前橋工高機械科に学び、すし店でアルバイトをしている。 今井さんらからハン君らへの質問は、学校でのいじめや差別の有無、毎日の生活での楽しみ、将来の夢など多岐にわたった。 二人は「いじめにあったことはない。
 日本に何でいじめがあるのかわからない。ベトナムでは仲間同士でお互いに守りあっている。 自殺するなんて考えられない」「街でベトナム語で話したりすると、ジロジロ見られたりする時に、差別を感じることはある」 「学校で友達といる時が一番楽しい」などと笑みを浮かべながらはなした。
 同村の石川代表は「ベトナムの子どもたちは生きていくのに必死で、自殺など考えている余裕もない。 たくましさはあるが、逆に大人を全く信用しなくなるなど。心の傷が残ることもある」と説明した。 話題がベトナムのことになると、二人は「故郷のことは何時も思い出す。 一度ベトナムに帰国した時、日本に帰るのはすごく寂しかった」「自分の国を誇りに思う。 日本でベトナム人が罪を犯すと、ベトナム全員が悪いと思われるのは悔しい」などと、複雑な思いものぞかせた。  二人の話を聞いた今井さんは「難民というイメ−ジがあったが、二人に会ってとても明るく生活している感じがした。 クラブの仲間にも自分が感じたことを伝え、今回の企画に役立てたい」と振り返った。 石川さんは「日本人はまだまだ外国人、特にアジアの人達に対して無理解な人が多い。 若い世代の交流から日本とベトナムの相互理解が進んでほしい」と話している。 写真パネル展示は6月14日と15日、伊勢崎市民文化会館の入り口ホ−ルで。 各地の難民施設の様子などを撮影した写真20点が展示される。 また、同会館で6月15日午後1時から石川さんが「インドシナ難民の今」、 国連難民高等弁務官事務所の斉藤千香子さんが「難民も同じ地球人」と題してそれぞて講演する。入場料は無料。
(朝日新聞)


チョットひとこと

 −−−〔ベトナムのこころ〕皆川一夫 著  株式会社 めこん1997−−

 阪神大震災で大変な被害を受けた神戸にはたくさんのベトナム人が住んでいた。 私の住んでいる長田区にはその殆どが住んでおり、その半分が鷹取教会にいた。
 6年前に赴任した時に初めて彼らに出会った。「ベトナムかァ」と思ったのが最初の印象だった。 ベトナム戦争や難民、ボ−トピ−プルなど、事件としての情報しか知らず、 堅い暗いイメ−ジや哀れさのみが頭の中を支配していたせいであろう、いい印象ではなかった。
 それから付き合いが始まった。最初のイメ−ジは一度にどこかにへ吹き飛んでしまった。 哀れさなんて微塵も出さない。愉快で逞しくいつも前向きな生きる姿勢は震災後の私たちにどれほど勇気を与えてくれたことか。
 彼らが側にいると不思議な魅力に引き込まれる。私たちの知らない未知の世 界へズンズンと引っ張り込まれる。 顔つきや体つきは私たちとよく似ているの に何が違うのだろう。

 著者皆川一夫氏は外務省に入り四半世紀の間ベトナムへ何回か派遣され、その魅力、魔力に取り付かれた一人だ。 今ベトナム人と結婚されている生っ粋のベトナム通だ。 その彼が言う。「ベトナムは龍宮城」だと。一度触れれば離れなれなくなる。
 素敵な笑顔がいつも私たちの周りにある。心が軽ろやかにそして豊になれる。 「しなやかでしたたか」な「ベトナムのこころ」は生き方を教えてくれる。 この本を読んでその秘密を探ってみませんか。 そして、実際にベトナム人と友だちになってその素敵な魅力を体験してみませんか。
カトリック鷹取教会
神田 裕

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