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チョットいいこと 69

「緊急」から「日常生活」へ
難民の子供 救済の絵本
一人の勇気が輪になった
インドシナ難民と大震災
私の流した涙を忘れない
アヴェ マリア 
祭りと、ベトナム 社会
チョットひとこと



「緊急」から「日常生活」へ
神戸定住外国人支援センタ−発足

 震災直後、鷹取救援基地の活動は被災ベトナム人が原点だった。 その救援の内容が、「緊急」から「日常生活」へと変化する中で、定住外国人への支援を強化するるため、 これまであった2つの組織を統合し、神戸定住外国人センタ−(神田裕代表)が2月11日、発足した。 鷹取教会での発足の集いで、被災ベトナム人救援会の中村通宏さんが、 被災直後から今日までの活動内容を報告した。
 現在、約540 人のベトナム人のうち、仮設住宅に183 人避難所に10人が残り、 一方、公営住宅に入居できた人は45人しかいない。 これから課題として、安定した仕事に就くこと、ベトナム人自身による組織づくり、 言葉の壁をなくすことなどがあげられた。 外国人の生活相談などをしてきた兵庫県定住外国人生活センタ−(生活復興センタ−)の金宣吉さんは、 在日韓国・朝鮮人とベトナム人が支え合いながら「人と人とのふれあいをプラス思考でとらえ町の財産にしていきたい」と述べた。
 「救援連絡会」と「生活復興センタ−」を一つにした神戸定住外国人センタ−は  @職業、住宅などの相談 A韓国・朝鮮語、ベトナム語など多言語への対応 B民族文化の育成 C関係機関への提言  D調査・研究などを生活の柱にしている。
 代表の神田神父は、震災当日、ベトナム人と共に過ごした思いを大事にしながら「違う国の人たちが共に暮らし、 共に生きられる地域や社会をつくるため、いろいろなかかわりを続けていきたい」と語る。 仮設住宅に住むベトナム人たちは、今後公営住宅に入居し、バラバラになることが予想されるが、 支援側はできるだけ共同作業所で働けるようにしていきたいという。定住センタ−や仲間が集う場所として教会の役割は大きい。
(カトリック新聞)


難民の子供、救済の絵本
作曲家、影絵作家が合作

 都内に住む作曲家と影絵作家が、アメリカの歌手たちのチャリティ−レコ−ド 「ウイ・ア−・ザ・ワ−ルド」をテ−マにした絵本「歌が世界を動かした!」を出版した。 「協力し合うことの大切さをお手本にしよう」というのが狙いで、 絵本の原画展が30日から、新宿3の30のギャラリ−新宿高野で始まった。
 2年前、国連50周年記念事業として難民キャンプの子供たち のためのコンサ−トにかかわり、難民の実情を知ったことから難民の子供たちのこ とが気にかかるようになった。アフリカの飢えた子供たちを救うためにスティ−ビ −・ワンダさんらアメリカの歌手たちが12年前に制作したチャリティ−レコ−ド 「ウイ・ア−・ザ・ワ−ルド」のことを、ふと思い出したのは昨年の秋。「力を合 わせて活動することの、大切な見本」と考えた北村さんは、藤城さんらに呼びかけ、 絵本を作ることになった。  絵本を作成したのは、テレビCMや演劇の劇場音楽を作ってきた作曲家の北村得夫さん(72)と影絵作家の藤城清治さん(72)。 北村さんは、世界の子供を集めて環境問題を話し合う国際会議を主催するなど、 「子供たちが生命の危機にさらされないような社会づくり」の活動を地道に続けてきた。 今回の絵本作りもその一環だ。それらの活動を支える原動力は、戦時中、広島に原爆が投下され、 近くの海軍基地から視察のために訪れた時に見た、焼け焦げた子供たちの姿だった。 「大人のエゴで、子供たちが犠牲になるのは許せない」
 2年前、国連50周年記念事業として難民キャンプの子供たちのためのコンサ−トにかかわり、 難民の実情を知ったことから難民の子供たちのことが気にかかるようになった。 アフリカの飢えた子供たちを救うためにスティ−ビ−・ワンダさんらアメリカの歌手たちが12年前に制作した チャリティ−レコ−ド「ウイ・ア−・ザ・ワ−ルド」のことを、ふと思い出したのは昨年の秋。 「力を合わせて活動することの、大切な見本」と考えた北村さんは、藤城さんらに呼びかけ、 絵本を作ることになった。
 絵本には、乾いた大地にたたずむやせたアフリカの子供たちや、スタジオで録音中の歌手たちなどが、描かれている。 北村さんが文を書き、藤城さんが影絵を使った絵を担当。印税の一部は、国連を通じて難民の子供たちのために使われる。 原画展には15点を展示。2月4日までの毎日午前11時〜午後7時で、入場料は無料。 問い合わせは同ギャラリ−へ。 
(読売新聞)


一人の勇気が輪になった
やまの手 下町はいま

 たまたま立ち寄ったベトナムが、「第二の人生」の舞台になった。 「見てしまったからには、ほうってはおけませんでした」。 板橋区の小学校教諭、小山道夫さん(48)は語り始めた。 四年前の夏休み英語研修でニュ−ジ−ランドへ向かう途中、観光を兼ねてベトナムを訪ねた。 最大の都市ホ−チミン(旧サイゴン)。そこで見たのは物ごいする少年や体を売って生きる少女たち。 路上には、身寄りのないストリ−トチルドレンがあふれ返っていた。 言葉を失った。

 一年後、二十三年勤めた教諭を辞め、息子二人を妻に託して、一人でベトナムへ向かった。 飛んだ先は人口三十万の古都フエ市。市内の大学に日本語講師の職を見つけ、何とか生活費はひねり出せた。 がフエはホ−チミンよりひどかった。 路上で暮らす子供はざっと三百人。両親の離婚や病死、口減らしや人身売買....。 さまざまな不遇の果てに、教え子と同じ世代の子供たちが街をさまよっていた。
 腸チフス、マラリア、コレラは、やせ細った彼らを真っ先に襲う。 死と背中合わせに生きる幼い命を前にして、何をすればよいのかが分からなくなった。 その時、慈善団体からの寄付で、市がストリ−トチルドレンを収容する「家」を建設中だと知った。 早速、市長に申し出た。「十人の子供の生活費を出しましょう」。 二万円あれば、子供一人が一年は暮らせる。 「小山だけに任せてはおけない」教師時代の仲間三人が「ベトナムの子供の家を考える会」を東京で立ち上げた。 その寄附金や日本政府の援助もあって先月初め新しい家と職業訓練所が完成。 今四〜十七歳の七十人の子が暮らす。
 こんな話を聞きつけて「私も黙っちゃいられません」と支援の構えをみせるのは、 台東、墨田区の中小企業主ら約五十人で組織する「赤い顔」運動対策委員会の面々。 古き良きニッポン人の心を取り戻そうと昨年発足。七月には「下町平和賞」なる賞を受けた。
 最初の受賞者は、独り身のあばあちゃんを親身に世話して、老人ホ−ムに入れて あげた文京区の主婦。そして二回目の最有力候補が会員の一人、小山さん。「まあ スケ−ルは違うけど、自分を顧みずに人を助ける。これぞ、下町スピリット」。代 表の直井高一郎さん(57)はそう話し、メンバ−と一緒に現地行きの準備を進める。
 「家」の寮母や看護婦の給与は、小山さんの手から離れ、三百人に膨れ上がった「支える会」の好意で賄えるようになった。 七十人の子の一人一人には「親」もいる。成人するまで生活費を送る里親制度だ。 十六歳の男の子の里親は、渋谷区恵比寿に住む私立中二年の金刺岳人君(14)。 この春、現地を訪れて対面した。年二万円の仕送りの一部は、自分のお小遣い。 兄弟のような「親子」は文通もしている。板橋区舟渡の主婦片野美津子さん(28)ら十二人は、 三人の子の親を兼ねる「小山先生」に共感した教え子の母親たちだ。 「貧しくても懸命に生きる子供たちに、逆に教えられています」と片野さんは言う。 どこで知ったのか、「手伝いたい」と現場に来る若い女性が増えた。 「これほど輪が広がるとは正直、思わなかった。変わってきたなと感じます。 二、三十年前の日本人なら当たり前にあった心がようやく戻ってきたんでしょう」。 この一ケ月の帰国中、連日講演に引っ張りだこの小山さんは、 銀縁の眼鏡の奥の目を細めた。
 貧しいくせに、人の世話ばかり焼いて五十歳で他界した浅草生まれの父。 小山さんは池袋育ちだが、「おっせかいは父親譲り」。 その二男もまた外語大でベトナム語を学び、もうじきハノイ大学に留学する。
(読売新聞)


インドシナ難民と大震災
ハリ−・クワ−ドブリット

 ご紹介いただきましたハリ−神父です。クワ−ドブリットが苗字ですが、 普段はハリ−神父といわれておりまして、クワ−ドブリットはあまり使われておりません。 よろしくお願いします。
 最初インドシナ難民が日本に来たのが20年前(1975)ですが、 私が初めてインドシナ難民に出会ったのは16年前です。 「教会関係で世話のできる場所や人はいないか」と頼まれ、 私どもの修道会(淳心会)でお世話したのが最初です。 兵庫県の姫路市において一時滞在のキャンプを開設し、私が所長として、 船で脱出してきた難民をお世話したわけです。 このキャンプの定員は100 人程でしたが、ある時には130 人も入っていたこともありました。 そのキャンプとほとんど同時に政府による定住促進センタ−が始まり、 そちらの仕事もあわせて行いました。先程植本先生がいわれました交流センタ−はキャンプを8年で閉鎖してから、 アフタ−ケアとして始めたのです。私も以前は、交流センタ−に住んでいましたが、 現在は姫路教会に移りました。ですから実際のアフタ−ケアはセンタ−とう建物ではなく、 私がいろいろな所を回ってケアするのです。
 文化という言葉が使われていますが、"ベトナム人の文化"というのは、 日本においては"ベトナム難民の文化"といえると思います。 私はこのような話を内閣官房主催の集まりでしたことがあります。 私はそのつもりはなかったのですが、非常に批判的な内容として受け取られました。 日本政府が十分に難民を世話しなかったなどと言いたくはないのですが、でも真実を話さなくてはいけません。 日本は国として、難民支援のためにお金を外国に送りましたが、当時難民自体は受け入れたくなかったのです。 (それは15年前、20年前の話しですけれど)。 今では、段々と整備されてきて、難民事業本部を作り、定住センタ−を3カ所作り、リセプションセンタ−をつくり、 アフタ−ケアとして就職斡旋など行っています。インドシナ難民、特にベトナム人は、日本に向かって国を出たわけではないのです。 最初の難民は、ベトナム戦争終了時にアメリカ軍と一緒にアメリカに渡ったのです。 その家族や知り合いを頼って、彼らは皆アメリカに行きたくて国を出たのです。 アメリカに難民が多く集中するようになり、アメリカも日本に対して、もう少し難民を受け入れるようにと要請したのです。
 難民の船を救助した場合、救助した船の国に難民を運ぶことになっていたのですが、 アメリアの船が多く運びきれなくなったのです。 ノルウェ−は、最後まで忠実に、彼らがピックアップした難民はノルウェ−に運びました。 私のキャンプにはノルウェ−の船に救助され、ノルウェ−に行った人が多数いました。 本当は彼らはアメリカに行きたかったのですが、受け入れてもらえず最終的にノルウェ−が受け入れ、その後、日本に来たのです。 ノルウェ−は難民を受け入れておりましたが、日本はあまり受け入れたくなかったのです。
 私のキャンプにいた難民の話しですが、男の人は「独身」が多いのです。 JVA(Joint Volunteer Agency)の面接で独身だというのです。 彼らは奥さんがいても独身だといって、定住を希望するのです。そして定住後奥さんを呼び寄せるつもりなのです。 例えば、定住センタ−に入っていたあるベトナム人が「私の奥さんがフランスにいるのでフランスに行きたい」というのです。 国連で調べてみると、その事実はない。彼は嘘をついているということになりました。 でも実際は違うのです。最初彼はアメリカへ行くことを希望していましたからフランスにいる妻のことを申告しなかったのです。 アメリカには行けないと決まった後、それではフランスにと考えて初めて妻のことを話しました。 しかし、最初の調査でそのことを話していませんから、記録にはありません。難民たちは初めに「嘘」をつくのです。 そうしないと自分の行きたい国に行けないと思っているのです。 行政や難民担当者はそれを「嘘つき」と決めつけるのです。 難民になりますとすべてを失って、自分が存在すること生き残ることしか考えないのです。
 フランスに姉がいるある女性ですが、アメリカに行きたかったのです。 JVAの面接でアメリカを希望したのです。私がフランスにお姉さんがいることを話してしまったため、 結局フランスに行くことになりました。後でその女性は私に対して怒ったのです。 彼女はフランスに行きたくなかったのです。なぜなら、彼女らは、共産主義から逃れ難民になったのに当時のフランスには、 共産主義者の大臣が何人かいたのです。 彼女らの考えではフランスは共産主義の国だと思っていたためフランスには行きたくなかったのです。そのようなケ−スもあるのです。
 アメリカに行けなかった人たちは、自分のアイデンティティを失ったような感じをもつのです。 アメリカに行けないなら何で国を出たのだろうかと思うのです。 彼らは英語を勉強してくるのですが、日本に来たら言葉が通じないのです。 日本に来たら日本語を勉強しなければならないことなど、30代、40代の人にとっては難しいことです。 彼らはアメリカに行けないことにより失望するのです。 アメリカにはベトナムタウンやチャイナタウンなどがあり、親戚や知人がいるのです。 彼らは本当にアメリカに行きたいのです。日本にはベトナム人は当時ほとんどいないため、 どうしてここへきたのか、どうして脱出したのかと悩むわけです。 私の知っている日本国籍をすでにとっているベトナム人の家族もやはりアメリカに行きたがっています。 子供をアメリカの学校にやりたいというのでどうしてかと尋ねると、後で親もアメリカに行きたいというのです。 帰化してもまだアメリカに行く夢をもっています。親戚から離れたために自分のアイデンティティを失ったのです。
 さらに大勢の人たちは、文明社会にぶつかりました。彼らは、ベトナムの田舎に育った人や漁師などが多いのです。 私の知っているベトナムで漁師をしていた人が定住センタ−で漁師になることを望んだのですが、 いろいろ調べましたが日本には漁業組合があり、簡単に漁師になることもできなのです。 漁をする所もないのです。日本では陸ばかりではなく、海も所有が決まっており無理なのです。 彼らはベトナムと同じように1ケ月のうち2週間漁をして、あとはそれを売って暮らしていたのですが、日本ではそれは無理です。 日本の忙しい社会では、彼らが暮らすのは難しいと思います。 特にベトナムやラオスで高い地位にいた人たちは、工場などで働くこともできない。 そういう人たちはいろいろ不満をもち転職するのです。(つづく)
「災害後の精神医療をめぐって」シンポジウム から


私の流した涙を忘れない
ベトナムから来日して日本で経験したこと

文部大臣小を受賞したハーさん
 ルゥ・ティ・ニュ・ハ−

 ボ−トピ−プルとしてベトナムから来日したカトリック信者のルゥ・ティ・ニュ・ハ−さん(26)が、 1996年度「定時制・通信弁論大会」で発表した「私の流した涙を忘れない」が、 東京大会で都知事賞、全国大会で文部大臣賞をそれぞれ受賞した。(いずれも一位)。 現在、東京の白鴎高校定時制4年のハ−さんは、4月から上智社会福祉専門学校への入学が決まっている。 孤独と不安に揺れた心情を飾ることなく吐露したその内容は、人として大切なものを私たちに訴えている。弁論の内容を紹介する。

 私は、2歳下の妹と2人だけでベトナムから日本にきました。 1989年、今から7年前、19歳の時でした。父は、戦争中私が2歳の時、すでに亡くなっていて、 私たちの将来を案じた母が、親類のいるアメリカへ行くよう船に乗せてくれたのですが、 その船が難破してしまい、助けてくれた船が送ってくれたのが日本だったのです。
 2年間、千葉県小湊の難民キャンプで、アメリカへ行くチャンスを待ちましたがとうとうそれは実現しませんでした。 結局、日本で暮らすことになり、品川の国際救援センタ−で4カ月、日本語を習いました。 それから就職し、夜間中学の3年に編入して1年間勉強した後、白鴎高校定時制に入学したのです。 やっと聞き取れるようになったばかりの日本語の力で、高校の勉強についていけるかどうかが心配でした。 入学後まもなく、その心配が現実になりました。
 忘れもしません。最初の国語の時間、古文の授業でした。 古文という言葉も初耳だし、配られたプリントを見ても全く分かりません。 今も日本語を満足に読んだり書いたりできないのに、かなづかいも違う昔の言葉など、 どんなに説明を聞いても理解できず、完全なパニック状態でした。
 その日学校が終わってまっすぐ中学校へ行きました。私の方からまだ何も言わないのに、 先生方は心配そうに「何かあったのか」と聞かれました。 聞かれたとたん、涙があふれて何も言えず、カバンからプリントを出して渡しました。 その時はもう涙が止まらなくなり、子供のように泣きじゃくり、せっかくの先生方の説明も耳に入らないほどでした。 古文がわからばかったこと以上に、そのことを素直に先生に言えなかった自分が悔しく情けなかったのです。 とてもついていけない、いっそのこと学校をやめようかと何度も思いました。 でも、そんなことをしたら高校進学を控えている妹にまで自信をなくさせることになる。 母代わりの私がしっかりしなくては、と自分を励まし、歯をくいしばって頑張りました。 幸い、翌年からは別の先生に特別に日本語を教えてもらえるようになりました。
 他の教科の先生方や友達からも、ずいぶん親切にしてもらいました。 先生方やクラスの皆とも話せるようになり、勉強も楽しくなりました。 テストで満足できる成績がとれて先生からほめられた時など、うれしくて飛び上がりそうになったほどです。 白鴎高校にはたくさんの行事があり、スキ−教室や遠足など、いっぱい思い出ができました。 特に東京以外の日本を楽しく旅した修学旅行の体験は、私の宝物です。
 でもつらかったこともあります。文化祭などで、友達のお母さんや家族の人が参加しているいるのを見ると、 ベトナムに残っている別れた母のことが思い出され、 寂しくてたまりませんでした。何度泣いたかしれません。 離れて一層強く、母への恋しさ、祖国への懐かしさを感じます。
 卒業を間近に控え、今は上智社会福祉専門学校の保育科を目指しています。 母に会いにベトナムへ帰ることも我慢して必死に貯金もしました。 日本に来たのは偶然でしたが、日本でいろいろなことを体験し、成長できたことを嬉しく思っています。 日本で自由と平和の本当の値打ちもつくづく分かるようになりました。 保母となってベトナムで働くこと、日本で学んだことを祖国で生かすこと、それが今の私の夢です。
 悔しくて、また寂しくてよく一人で泣きました。うれしくても泣きました。 その流した涙の中から、私の夢が花開くのだと、固く信じています。
(カトリック新聞)


アヴェマリア

 早春とはいえ、肌寒い日が続いております。
 遅くなりましたが、このたび聖母短期大学を無事卒業いたしましたのでご報告申しあげます。 顧みれば、看護婦にあこがれて3年間十分勉強させていただきました。 また聖母ではたくさんのことを学ばせていただきました。 聖母短期大学に入学できましたことを本当に心から感謝しております。
 在学中、物心ともにご援助いただきました「あかつきの村」関係の皆様にも厚く御礼申しあげます。
 就職は聖母病院の二階病棟で働くことになりました。 これから社会人になるわけですから不安もありますが、勉強してきたことを活かして精一杯看護をしていきたいと思います。 これからもよろしくお願い申しあげます。本当にありがとうございました。
 1997年3月20  チャン・ティ・マイ・フォン
 (国家試験も無事合格しました。フォンちゃんおめでとう)


祭りとベトナム社会
復活した大祭、様代わり

 ベトナム北部のテト(旧正月)には、あちこちの村で祭りがある。 なかでも一番多いのは、祖国英雄の伝説をもとにした村の守り神の祭りである。 そこには中国に侵されつづけてきたこの国の長い歴史がにじんでいる。
 ハタイ省のラ−大祭も、豊作のあとの「遊びの月=旧正月」におこなわれてきた伝統祝祭のひとつである。 第二次世界大戦以前と比較すると期間が縮まって3日間になったが、 それでも、祭りの仕組みは今も昔と基本的にかわっていない。 第一日目には、虎の皮の敷物を敷いた神輿に神を奉じ、 神が日常の住まいとしている「管」から村の廟である「亭」へと行列を組む。第二日目には「亭」で儀礼がある。 そして、村に屋台が出、劇団が小屋をつくり、民謡がうたわれ、いろいろな遊びごとがある。 そして三日目には伝説英雄物語をもとにした虎退治の歴史劇があって、神を「管」へと送り返す行列を組む。
 古老の記憶するもっと古い大祭は1942年のもので、1945年の独立宣言後も、 1952年に大きな祭りがあったという。対仏戦争勝利ののち、北ベトナムがハノイを首都とした1954年にも大祭があったが、 これが社会主義ではじめての祭りだった。しかし、その後の長い戦争によって、祭りはずっと中断されてしまった。 ようやく大祭が復活したのは1990年のことであった。 人びとは忘れかけていた伝統儀礼を復活させ、乏しい生活の中から、20万円にも相当する金を出し合って、 祭具や衣装を新たに調達した(ハノイの肉うどんが一杯50円という世界の話である)。 高齢者たちが先立ちになって、歴史劇を思い出し、復元した。こうして、ラ−の大祭は息を吹き返した。
 しかし、よくみると、仕組みこそわからないものの、この祭りには昔と変わった点がいくつかないわけではない。 まず、それまでの豊作の年行ってきた大祭が定間隔の開催にかかわっている。 これで祭りと農業のつながりがすこし薄れたかわりに、 大祭がひろく村外にも知られ、待たれるようになった。 かつての祭りでは、権力をふるう家が十軒あり、その手先である里長が権威をふりまわす威圧的なものだったという。 また博打がさかんで、爆竹と花火が賑やかだったともいう。 どさ回りの劇団、あひる追い、相撲、将棋、博打、獅子舞などがあちこちで行われ、 屋台が村の道をうずめていたという。 現在では爆竹が禁止され、博打など不健全な遊びはすべすべてご法度になっているから、その分祭りは静かで穏やかである。 そして若い男男たちにはこの点がちょっと物足りないらしい。
 夜の祭りだったラ−大祭が昼に移行したため、夜通しの大騒ぎもなくなった。 支配層中心の祭礼組織を軸にする村人のつながりも薄れている。 それにかわって、老人会と祖国戦線に支えられた祭礼委員会が活躍している。 男性だけだった祭りに女性が参加し、行列に加わるようになったのは1990年代からである。 以来、祭りの行列は色とりどりの衣装を着込んだ若い女性の集団を中心に華やいだものになった。 その反面かつては主役の座にあった男子青年たちの役割は小さくなっているようだ。
 ラ−大祭をはじめ、北部ベトナムのテトでおこなわれる村祭りには、じつに困ったことがひとつだけある。 一期作で行われていた昔には農閑期で遊びの時期だったテトの季節が、逆に農繁期とぶつかるようになってしまったからである。 ベトナム北部の米づくりは、いまやどこも二期作である。 二月が第一回の田植えどきになり、五月が収穫どきになった。 テトの時期はちょうど第一回の田植え時期にぶつかってしまったのである。 かくて、祭りの行列のすぐわきで、若者たちが苗を束ね、田をつくるという奇妙な光景がみられることになったが、 これもこの国の新しいエネルギ−のあらわれなのだろう。
松平 誠 女子栄養大学教授・生活文化論
(読売新聞)


チョットひとこと

 「未知の世界」
 地雷による大怪我の後遺症に悩む人が、寒くなると足の傷がうずくと言っているのを聞いたとき、 私たちはその痛みを少しでも和らげることができたらと思います。 一人一人方法は違っても。皆が医師ではない、専門家ではないでしょう。 しかし、人間としてまずは共感できる存在として、遠くからでも近くからでも「何か」ができるのではないでしょうか。
 昔から、日本では手当てという言葉がよく使われてきました。本来、適切な処置を することでしょうが、痛いところにしばらく手を当てているだけでも少し楽になることがあります。 寒くなって痛みを感じる時に、その原因が地雷であれば突然の恐怖に襲われた心の痛みも同時によみがえってくることでしょう。 そのような時に一緒にいるだけでも、語りかけられることを暖かい心で受けとめることも手当てであるかもしれません。
 故郷を後にして未知の国へきた人たちの中で、本当は他の国へ行きたかったのに日本に着いてしまった人たちもいます。 私たちは、このように自分が意図しなかったところに行かざるを得ない経験をする場合があります。 その原因は、戦争であったり、災害であったり、また、生きるための仕事をするためであったりするかも知れません。 その状況についてまったく知らない、言葉も通じない未知の世界に行かなければならなくなった時に、 先ずは生きるためにどんな思いを、どんな苦労をするでしょうか。
 私たちは、人間です。兄弟姉妹です。私たちは、皆が恐怖からも不快さからも解放されて、 自由に、快適な環境で生活することを願っています。もちろん目的を達成するためにはいつも何か無理をし、 苦しい思いもしなければならないでしょう。しかしそれは自分が選んだ目的ですから、心は解放されています。 目的が達成された時には言葉の難しさに悩まされたことも、挫折しそうになったことも、 すべて嬉し涙によって洗われ、辛い経験も喜びも人生の宝として自分の歴史に刻まれることでしょう。
 未知の空間がどのような広がりをもっているのか、近い将来に何が起こるかも知らない私たちです。 未知の世界に向かって歩んでいくために、絶対的に頼れるものを求めながら、明るく共に生きていきたいと思います。

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