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チョットいいこと 68

難民定住セミナ−
ボ−ダレス時代見据え問い直される国家と言語
ハノイ 広がる「自由労働市場」
ベトナム難民の司祭誕生
外国の子が学べる学校に
歌が導いた対面
新たな交流の芽膨らむ
ひとこと☆ふたこと
チョットひとこと



難民定住セミナ−

 「日本に生活しているベトナム人と日本人がともに生き、ともに働く社会をつくろう」と、 カトリック難民定住委員会(担当・池長潤大司教)は第13回難民定住セミナ−を2月14日から3日間、日本カトリック会館で開催。 今回は一部のグル−プの犯している窃盗・万引きなどの犯罪について、 ベトナム人を含むNGO(非政府組織)GO(政府組織)の総勢約40人が胸襟を開いて語り合い、 「犯罪を犯した彼らへの法の保護と再教育(ケア)を日本人と対等に行うように」行政に対して カトッリク難民定住委員会から要請文を提出することを最終日に決定した。
 文書には @彼らには言葉の壁があることから、母国語で対応できるようにと、 予算措置を講ずること A逮捕、釈放後の再教育などアフタ−ケアも日本人と平等にすることなどが盛り込まれる予定。
 今回議題として取り上げられた主なねらいは、@一部の人達による犯罪がベトナム人全体へのイメ−ジの低下となり、 同じベトナム人への差別と偏見につながることを防ぐ。A今回の事件を理由に、 日本の治安が悪くなるということで、将来日本が外国人に対して門を閉ざすことがないようにすることなどであった。
 一日目は事件そのものについて語られ、捕まったあとの対応はどうだったか。 家族はどうなっていたか。言葉や文化の違いで生じる問題点として、人権が守られているかが焦点となった。
 二日目は基調講演として皆川一夫さん(外務省領事移住部外国人首席事務官)が個性豊かで自立心に富み、 向学心にあふれ、女性を大切ににする騎士道精神に立脚したベトナム人気質について語ったほか、 1986年の党大会で打ち出された「ドイモイ(刷新)」政策後のベトナムの現状を経済的・社会的に分析した。 その中で、同政策が1991年に本格化すると海外投資も盛んになり、また日本からの輸入品も入っ てきて、日本のオ−トバイは人気商品となっている。特にメイドイン・ジャパンには信用があり、需要が現地にあることも紹介した。 参加者の中には、ベトナムにオ−トバイを送れば何倍の値段にもなる実情が、 日本でのオ−トバイの窃盗・万引きの背景の一つではないかとする向きもあるが、一方で、日本社会の問題を指摘する声も多い。
講師の話に耳を傾ける池永大司教

 ベトナム人の犯罪は日本人社会の鏡
 静岡教会のファム・ディン・ソン神父(横浜教区)は「難民として来日し、自由になったと思ったら、 まさに刑務所とも思えるような収容所で3カ月間外に出られなかった」という。
 カリタス大阪の後藤進神父はベトナムの人達と20年間かかわってきた経験から、 「医者や教師など勤めてきた経験などが日本社会には生かされず、肉体労働の仕事に就かざるをえない人は多い。 日本社会は彼らに心身ともにプレッシャ−を与え、 経済的に恵まれないことや、本国の事情もないこともあって、犯罪にいたっている」と語る。 このような事件はある一部のグル−プの犯罪といわれているが、実際にある事件の被害者の中には真面目で、 家族の介護で生活が苦しくて、生活保護をうけていた人達も巻き込まれていた。 オ−トバイの窃盗や万引きが行われる背景には「定住の人にとって一番最低の国」といわれる日本社会の問題が存在することも、 改めて浮き彫りになった。

 20年目の節目・「支援」から「共働」へ
 政変によって国を逃れてきたベトナムからの人々を受け入れて20年....。 第二世代も誕生する今日、難民として受け入れてきた当初とは異なった新しい局面に直面している。 それには、定住の本来の意味を長いスパンで考える必要がある。 最終日には、今後に向けて @GOとNGOがともに考え実行し助け合っていく場の設置  Aベトナム人が直接困ったときに問題の対応ができるホットラインの開設  B雑誌あるいは新聞などを使ってのベトナム人同士のネットワ−クづくり−などが取り組む課題として提唱された。
(カトリック新聞)


ボ−ダ−レス時代見据え問い直される国家と言語

堂垣 園江「風のほとりで」(群像)
李  恢成「死者と生者の市」(文芸春秋刊)

 ボ−ダ−レスの時代を迎えて、現代文学にとっては祖国と時代、 自己を問いなおす視点がますます重要になっているようだ。 今月は東大文学部教授の藤井省三さんと、国家と言語の問題について考えた。
 
 主人公はポ−ランドからカナダにやってきた移民の姉妹。 その隣人はソマリアからの難民一家。 今春、群像新人文学賞・優秀作を受賞したカナダ在住の堂垣さん(36)の二作目「風のほとりで」(群像)は 80年以降の混迷の国際情勢を映し出した異色の短編だ。歴史的事実を背景に、人物の陰影は極めて濃い。
 「姉は、ワルシャワの学生デモで瀕死の恋人を見殺しにしたトラウマから、異国でもうなされ続ける。 妹は異文化と多民族がぶつかる新たな場所で、前向きに同化しようとする。その切羽詰まった暮らし向きと、 家族を故郷に残したやりきれなさが、きめ細かく描れています。 作者はポ−ランド人姉妹の視点から書いているが、そこがすごい。 日本の60年安保闘争を記憶している人かと思ったほど」
 〈独立学生連盟の旗を握らされた時〉、 〈二十歳そこそこで自分達は、生きてゆく意味や手段を真剣に、考えなければならなかった〉。 ベビ−シッタ−を依頼してきた東洋人(おそらく日本人)の無邪気さにあきれながら、姉はこう回想する。
 「経済力を盾にした東洋人に仕える一方で、ソマリアから虐殺を逃れてきた黒人の家族に対しては、 ヨ−ロッパの歴史を背負う白人としての優越感をなかなか取り払えない。 日々の具体的な場面を迎える度に、姉妹は何か大きな断絶に気づき、 それは内面に幾重にも折り畳まれていく。深い洞察にあふれた佳作ですね」。
 祖国を亡くした異国での生活は、かくも人を成熟させるのか。 在日朝鮮人作家李恢成氏の新刊「死者と生者の市」(文芸春秋刊)からも同様の感銘を受けた。 23年ぶりに韓国に帰国した〈亡命者〉である作家は、そこでさまざまに祖国を愛する人々と出会ううち、 ある寛容の精神にたどり着く・<どんな国籍を持つにせよ、人間とは多重性を帯びた存在であり、 そうであるかぎり、どんな生き方をするかの選択こそが人間としての最後の問題>だと。
 「李恢成氏は祖国の"北"から拒否され、"南"の韓国にも帰れない。 自己表現に日本語を使うしかないが、日本にも帰化しない。 こうした無国籍、国境線上に居続ける困難を選んだ、典型的なエミグラント(難民)作家。 その感情と論理が率直に表白されていて、興味深かった」
 「エッセ−集『時代と人間の運命』(同時代社)の中で李氏は在日作家にとって日本語とは、 過去に<押しつけられた言語>であり、自分の日本語による表現は日本語に対して異化作用を持つ、と述べています。 けれども考えてみれば現在の日本語そのものが、明治期の近代国家設立時に作られた"国"語。 政治学者B・アダ−ンが言うように、その国語が人々に"国"を想像させ、日本を構築してきた。 官界の腐敗などから現在、国の再構築が迫られているとすれば、 そこで在日作家や堂垣さんのように越境した在外日本人の作品、それから中国や台湾など、 漢字を共用する周縁的な外国文学がもたらす異化作用の意義は、ますます大きくなると思います」
 現代中国文学についていえば、もはや周縁では片付けられない。 藤井氏が翻訳した莫言の近作「酒国」(岩波書店刊)を読むと世界文学の最前衛と思われるほどのインパクトを受ける。
 「フォ−クナ−や南米のマルケスの影響が見られた莫言ですが、 確かにそれらを発展的に取り入れ、越えてきた感じがあります。 極貧の農村で育ち、文化大革命以降に都市に学んだこの世代は、 80年代前半の5年間に同時代の欧米の文学理論、哲学まで読んでいる。 ところが中国では相変わらず文学者は厳しく発言を規制されていて、小説の中で巧妙に現実社会の矛盾を映し出すしかない」 その作品を最も的確に受け止めて批評するのが、80年代後半以降、国外に亡命したり難民となった文学者だと藤井氏は解説する。 とくにニュ−ヨ−クで発行される「今天」「傾向」の2つの文芸誌が注目されるという。
 「もともと魯迅以降の中国近代文学は、留学生の文学と呼ばれますが、 89年の天安門事件以降、重要な文学の約半数が国外に流出した。 ところが日本は受け皿として機能しれおらず、彼らの支援活動についても、 作家、研究者らはあまり積極的ではないのが実情です」「そんななかで大江健三郎氏がノ−ベル賞受賞講演において、 言論弾圧に苦しむ知識人作家として鄭義と莫言を挙げ、 抗議を表したことは大きな励ましになりましたね。 現在、アメリカのプリンストンに大江氏と鄭義が滞在中なので、 そこから新たな文学の局面が切り開かれるのでは、と期待されます。 どの国に在っても、言語が作り出した文化状況を考察する視点が、現代作家にますます求められるといえるでしょう」
(読売新聞)


ハノイ
広がる「自由労働市場」

 『ハノイ19日=小菅幸一』地方ではかつかつの生活がやっとで、家族を田舎に残し、日銭稼ぎの仕事がある大都市に流れ込む。 中国ほど大規模ではないが、ベトナムで同じような現象が強まってきた。 特に首都ハノイでは、朝から街路にたたずんで仕事を待つ『自由労働市場』が広がっている。 社会主義を目指しつつ、ドイモイ(刷新)路線による経済活動の自由化を勧めるなか 、都市開発、中央と都市開発、中央と地方の格差拡大などがもたらした新たな傾向だ。 ハノイ市街の南端ハイバ−チュンは地方からのこうした労働者が多く集まる地区のひとつだ。 グエン・バン・ヒエウさん(28)は約百五十キロ南のタインホア省から来た。 この地区に移り住んで1年を越える。昼食は軽食や茶、ビ−ルなどを出す5平方米足らずの露店が彼と同郷者1人の寝床となる。 ヤシの葉や竹だけの壁。風雨も満足にしのげないが、店の所有者は夜は自宅に帰るから、「家賃」はいらない。
 近くのダイコベト通りの交差点に朝から立つと、月に二十日は仕事の声がかかる。 日用品や建築資材の運搬、建設現場でのれんが積み、民家の修理、民間や国営企業の雑用などさまざまだ。 日に三万ドン(百ドンは約1円)から5万ドンの稼ぎになり、半分は郷里の家族の生活費と蓄えに回す。 多くの同郷者が集まっており、リ−ダ−役を決めて、求人があると、仕事仲間内で回していく。 ドイモイにのって、ハノイでもホテルや事務所ビルなどの建設ラッシュが続き、それなりの仕事の口もかかる。
 ヒエウさんは郷里では漁師だった。妻、七歳、三歳の子供がいる。 漁業だけで暮らせるのはほんの一握りに過ぎず、ヒエウさんは、他の多くの漁師と同様に、子を学校に満足に通わせられない。 カネをため、郷里で自営の仕事を始め、子供に高等教育を受けさせるのが夢だ。 同じ村の青年の三割は都市部へ出稼ぎを考えざるをえず、六十人くらいはハノイに来てるという。
 国営ベトナム通信などによると、ハノイには周辺のナムハ、タインホア、ハタイなど各省から、こうした出稼ぎ者が流入し、 住民登録もしていない。四年前の約九千人から、現在は二万五千人前後に増えていると推定する。 ホ−チミンでは地方から約七万人が流れ込んでいるといわれる。
(朝日新聞)


ベトナム難民の司祭誕生

 9月21日は本当に嬉しい日であった。 私が「日本のお母さん」と自認している私の「息子」が ステンドグラスの美しい下井草教会で松永久次郎司教さまの司式によって叙階のお恵みを頂いた。 その「息子」はミカエル・グエン・ミン・ラップはボ−ト・ピ−プルとして13年前に来日した。 難民定住センタ−で日本語を修得した。
 その頃私は彼と知り合い彼の希望である進学について話し合った。 たまたま私がソ−シャルワ−カ−であることを知り、彼も将来は社会福祉の専門家になりたいと希望した。 それで私は上智大学社会福祉専門学校(夜間)へ彼が入学できるようにお手伝いさせて頂いた。 最初は昼間働きながら通学していたが1987年サレジオ志願院に入会した。 サレジオ会のご援助で学業を続け同校を卒業した。 1989年3月初誓願立願。その時私は親代わりとなってその式に立ち会った。 彼の在俗の服を受け取った時の私の感激を今も忘れることはできない。
 彼は更に上智大学神学部に進学し1995年3月同校を卒業した。同時に終生誓願。 この時も誓願式に出席させて頂いた。彼は上智大学での成績が優秀であったので、 その時すでにロ−マのサレジオ大学院に留学することが決まっており、間もなくロ−マへ出発した。 私は「今度日本へ帰ってくる時は神父様ネ!!」と言って彼を送り出した。 それから1年余り経ち本当に約束通り受階のために日本に帰ってきた。 彼は現在もサレジオ大学院に在籍しているので再びロ−マへ戻った。 これからの彼の宣教地や神父としての将来の道のすべてを神のみ手に委ねて....。
 神のみ恵みは素晴らしく、当日はラップ神父の他に 日本人のもう一人の司祭と三人の助祭が誕生したがそれを祝うかのように前日の天気予報が外れて晴天となった。 大勢の在日ベトナム人も参列してミサ中にベトナム語による聖歌も捧げられた。 私はベトナムにいる彼のお父さん(お母さんはすでに帰天)に彼の晴れ姿を見せてあげたかった。
 私はこの日もう一つの忘れ得ぬ光景を見た。それは叙階式も滞りなく終わってラップ神父が教会のお祝いを受けていた。 人波も一区切り途絶えた時、白いス−タンを着たサレジオ会の老神父 (80歳前後と思われる)がラップ神父の前に跪いて手に接吻し彼の祝福を願った。 この光景はまさにイエズス様が弟子たちの足を洗われた光景を連想させた。 この老神父は人間的にも、霊的にも神父として大先輩であるにもかかわらず、 白いス−タンが泥に汚れるのも省みることなく生まれたての未熟な新神父を尊敬の眼差しで見上げてから頭を垂れて祝福を受けられた。 この老神父の謙遜な姿を忘れることができない。 私はこの老神父に倣って彼のために祈り続けたい。
岩城 典子


各国の子が学べる学校に
教育のあり方探る

 在日韓国・朝鮮人など外国籍の子供たちの学校教育について考える「在日外国人教育講座」が11月2日高砂で、16日に姫路で開かれる。 アジア各国などからの労働者の増加で、その子弟を受け入れる学校現場には戸惑いも広がっているといい、 教員と保護者ら連携で多様な民族の子供たちがともに学べる教育のあり方を探る。
 兵庫県内には、韓国・朝鮮人をはじめ約百十ケ国九万八千人の外国人が在住しており、 そのうち学校に通う子供は九千人以上に上るという。 公務員の国籍条項問題など就職差別が根強いほか、 近年の中国、ベトナム、ブラジル人などの増加は学校現場にも理解不足や言葉の問題などさまざまな波紋を広げている。
 今回の教育講座は、外国人教育のネットワ−ク化を目指して来年二月に発足予定の「兵庫県在日外国人教育研究協議会」 (代表・安保則夫関西学院大学教授)が中心となって県内各地で初めて計画。 教育実践の交流などを目的に、すでに阪神間、淡路のほか十月十二日には加東郡社町でも開かれている。
 二日午後二時から高砂市勤労会館で開かれる東播磨地区講座(参加者大人五百円高校生以下無料)では、 高砂出身で社町立社中学校教員の李明幸さんが「在日教員として今思うこと」と題して、 教員採用を機に本名を名乗ることにした経験などを講演。 また西宮市立学文中学校教員の上田忠司さんが、在日朝鮮人の生徒や保護者の会をつくるなど学校現場での取り組みを報告する。
 また、十六日午後二時から姫路市自治福祉会館で開かれる西播磨地区講座(資料代五百円)では、 元西播磨朝鮮初中学校長の金椿権さんが「朝鮮人をとりまく今日的教育課題」と題して、 またアジア定住センタ−でも活躍した姫路カトリック教会のハリ−・クワドブリットさんが 「インドシナの子供たちと関わって」と題して報告する。主催者は「外国人は増えているのに、 学校は日本人を前提とした教育内容にとどまっているのが現状。 他民族を真の意味で受け入れられる学校のあり方について、 保護者や生徒とともに考えたい」としている。
 (神戸新聞)


歌が導いた対面
米越混血歌手タオさん

 ベトナムでは1960年代から70年代のかけ、ベトナム戦争に従軍した米兵との間に多数の混血児が生まれた。 混血児の多くは80年代から米国に移住して行ったが、母国に残ってポップス界のスタ−となった女性がいる。 そのフォン・タオさん(28)が最近、米国人の父親と奇跡的な対面を果たした。(ホ−チミン市で千葉文人)
 11月25日午前1時すぎ、ホ−チミン市(旧サイゴン)のタンソンニャット国際空港。 75年の南ベトナム陥落直前、米国人が次々に逃れていったその空港で、 タオさんは父ジェ−ムズ・ヨ−ダ氏(57)と初めて抱き合った。 「父をつらくさせるから、泣いてちゃいけない」。 会う前には自分にそう言い聞かせていたが、涙があふれた。
 同氏は「デップ・ラム(とてもきれいだよ)」と、練習してきたベトナム語で語り掛けた。 「28本のバラよ。28年間離れ離れだったから」。タオさんも不慣れな英語でそう言って花束を渡した。 タオさんはベトナム戦争さなかの68年、旧サイゴン南西ドンタップ省の田舎町で生まれた。 当時、米政府機関の事務員だった母グエン・ティ・ホアさん(58)が米軍実践技術教官のヨ−ダ氏と結ばれ、 身ごもった。しかし、2人とも妊娠の事実をしらないまま、同氏は間もなく約2年半の任務を終えた。 同氏はともに米国に行くように求めたが、ホアさんは両親の反対から断念した。
 ホアさんは出産後、一度はベトナム人男性と結婚する。しかし、相手の両親は結婚に反対し続け、結局、離婚した。 混血児がいるのが理由だった。ベトナム政府は76年の統一後、米越混血児を「敵国の子」とみなした。 いたたまれず、家を出て路上生活する子供も多かった。 米国が87年、混血児とその家族を受け入れ始めると、 混血児は豊かな国への"切符"として人身売買さえ行われた。 タオさん自身、幼いころは、「コン・ライ混血児」とさげすまれた。
 そのタオさんの心の傷をいやしたのが歌だった。 19歳の時に地元の歌唱コンテストで最優秀賞を獲得したのを機にホ−チミン市に出て貧しい生活の中で歌手修業を続けた。 「歌手になれば、普通の人間としてみてもらえると思った」タオさんはやがて、音楽と人生のパ−トナ−に巡り合う。 歌手ゴック・レ−氏(35)で、同氏は「タオは初めは心を閉ざし、ビクビクしていた。 でも、温かく感情豊で、どの歌手とも違う歌声にひかれた」と振り返る。 2人はデュエット生活を続け、徐々に全国に知られていった。 タオさんもこの間、母親から幾度も米国移住を勧められた。 しかし、「物質的には豊かな生活になると思う。でも、それだけのことだわ。生まれた国で歌い続けたい」と断り続けた。
 そして、この歌手活動が父親を探し当てるきっかけになる。ある米国ジャ−ナリストが92年、 「混血の歌手」の取材に訪れ、父親探しを依頼したところ、昨年2月、バ−ジニア州在住のヨ−ダ氏にたどり着いたのだった。 タオさんとレ−氏は今年2月には、初のオリジナル・カセットテ−プ「カフェ・モット・ミン(ひとりぼっちのコ−ヒ−)」を発表した。 約2万5千本が売れた。複製テ−プが出回るベトナムで、国産ポップスのテ−プは「千本売れたら上出来」(地元記者)。 2人は一気にスタ−ダムに駆け上がった。
 ベトナム政府の統計では、米国に移住した混血児と家族は、合わせて8万7千7百10人(うち混血児本人は推定約2万5千人)に上る。 しかし、ある米国のボランティア団体によると、移住した混血児でも父親を見つけることができたのは3%に満たない。 歌手という職業、人生のパ−トナ−、そして父親という3つを与えてくれた歌 。 タオさんは今、「混血児だから、多くを期待してはいけないと思って生きてきた。 でも、母国に残ってよかった。すべてが歌のおかげよ」と、静かに幸せをかみしめている。
(神戸新聞)


新たな交流の芽膨らむ
相互理解へまず言葉

 姫路市でインドシナ難民の日本受け入れの拠点として活動してきた「姫路定住促進センタ−」が閉所してから1年。 市内では、日越の交流を深める新たな活動が始まっている。 ベトナム語を学ぼうとする日本人と、ベトナム人を中心とする定住外国人に日本語を指導するボランティアを対象とした2つの語学教室。 相互理解は"言葉の架け橋"から。草の根の交流として期待されている。
 ベトナム語教室の講師は、賢明女子短大生のプ−・ティ−・タン・ユンさん(21)。 家族呼び寄せ制度で9年前、母親と兄弟5人で来日した。教師になることが夢で、 日本語を猛勉強し、今ではほぼ完璧に話すことができる。
 同教室は、「ベトナムで日本語の先生になりたい」「新しい語学に挑戦したい」という学生や社会人の声が、 元難民相談員の福本智子さんに寄せられたことがきっかけ。ベトナム語は発音や呼称が難しく、国内にはまだ指導者は少ない。 このため福本さんがユンさんに講師を依頼し、昨年末から福本さんの自宅で始まった。
 講義は、毎週土曜日の午後6時から、開講後1カ月ほどだが、ユンさんの熱心な指導で、 既に全員が自己紹介やあいさつ程度の会話ができるまでに上達している。 ユンさんは「ベトナムの言語文化に興味を持ってほしい。将来、日越をつなぐ、教育に携わりたい。 この教室はその第一歩です」と、夢を膨らませている。
 一方、姫路獨教大学では11日から定住外国人に日本語を指導するボランティアの養成講座が始まった。 定住センタ−閉所後も、姫路市とその近郊にはベトナム人とラオス人計約7百人が生活している。 だが、日本語が十分に話せない人が多く、定住外国人を日常的に支援するボランティアの育成の必要性が高まっており、 同講座が開かれることとなった。
 主催者は昨年6月から、ベトナム人に日本語を教えている同大の古藤友子・日本語学科助教授ら。 講座には学生や主婦ら49人が集まり、小学校ではベトナム人を受け持つ教師らもいる。 講座は2月中旬まで毎週開かれる。古藤助教授は「ベトナム語しか話せなかった母親が、 娘と日本語で会話できるようになるなど、言葉を学ぶ意義は大きい。息長く支援を続けていきたい」と話している。
(神戸新聞)


ひとこと☆ふたこと

 私の国ではサッカ−が人気があります。世界では6年に1回サッカ−の試合があるので、 その時、国内はとても賑やかです。皆グル−プになって、テレビを見ながら話したり、どっちが勝つかかけています。 私の家でも家族でよくかけていました。私は勝ち負けをかけました。 勝ったとき、ほしいものを母に買ってもらって、負けた時は母が私にやらせたいことをやらないといけませんでした。 私は本当に泣くぐらいでした。今ふりかえってみるとなつかしくて胸がいっぱいになります。 
(ニュ−ハ)


チョットひとこと

 「出会い」と「豊さ」
 20世紀後半になって、難民の定住化という言葉も自然な響きをもつようになった。 そもそも「難民」という言葉を持たず、知らずという立場にあった日本にいつごろからこの言葉が辞書にも載るようになったのだろうか。

 最も古いものが1943年に出版された国語辞典(注)であるというのだから、 いかに国籍、国境問題、民族問題に対して目が開かれていなかったかが思い知らされるのである。
 1980年代以降は、現実に対応することによって問題も多くはなかったが、 回りの枠を取り除いた「出会い」、人間としての触れ合いが私たちに本当の「豊さ」が何であるかを体験させた。

 戦いは「傷」しか残さない。互いを受け入れることには「癒し」がある。 アイデンティティ−をしっかりと持ちながら、相互に違いを理解し、難問を乗り越え、 よりよい社会を皆で一緒につくっていきたいと思うこの頃である。 発展的に「難民」という言葉を用いなくてもよい世界が実現することを願いつつ。

 (注)「定住化する外国人」駒井 洋編  1995年10月31日発行 明石書店 p.111

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