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チョットいいこと 67

違った人生覚悟し16年。後悔いはない
みんなで作り上げたかわいい国際社会
平和教師
食は平和のメッセンジャ−
母国・日・米と歩むたくましい生描く
苦学5年の内定書
ベトナムと日本の懸け橋になりたい
チョットひとこと



違う人生を覚悟し16年。後悔はない

 教育も帰化も、異国で生きる子どもの将来を思ってのことだった。
 石田建(ベトナム名ブイ・タイ・タック)さん(53)一家は、 日本で16年目を迎えた。姫路市花田町の市営住宅に子どもたちが集まり、 妻マイ(グェン・ティ・ベ)さん(54)自慢のベトナム料理を囲んだ。 「日本の正月は静かでいいね」。建さんの口から、そんな言葉が出る。 5年前に一時帰国した時、テト(ベトナムの正月)の爆竹音に耐えられなかったわが身を思い出したからだ。 「お父さん、すっかり日本人だね」。二男の豊(フォン)さん(24)が笑った。

  建さんは旧南ベトナムの陸軍大尉、国営の商業信金の監査官だった。 1975年の政変後、最教育キャンプに5年半収容された。 開放後、蓄えを全部はたいて小さな木造船をチャ−タ−、祖国を脱出した。 「敵兵の子はまともな教育も受けられない。子どもの未来にかけた」
 脱出時、船主に迫られ「主犯は私だ」と一筆書き、「失敗すれば死刑」を覚悟した。 6日目、漂流中に日本の貨物船に助けられ、香港の難民キャンプを経て81年、 姫路定住促進センタ−に入所した。「自分の人生はベトナムに置いてきた。 これからは、違う人生を生きる」と決意した。センタ−を出て2年後、 入居した市住の六畳間に学習机を4個並べ、3人の子どもと甥の勉強部屋を真っ先につくった。 土曜を除いて毎晩8時から最低2時間、自ら家庭教師になり、子どもたちをびしびし教育した。 「ここは日本。親戚もいないし、金もない。学歴以外に何を頼りにするんだ」建さんは、 日本で難民が幸せをつかむには学歴しかないと思い、子どもたちをさとし続けた。 「石の上にも三年」。日本で覚えたことわざ通りに生きた。 長男の洋光(ディエン)さん(28)、甥の雄太(グエン・タイ・フン)さん(27)は高校に進み、 長男はさらに山口県の国立大島商船高専に進学した。豊さんも5年前に県立姫路工大に合格し、 三男潤(ヴィエット)さん(20)は2年前、国立福井大学に合格した。 学費をねん出するため、建さんは給料の高い会社に転職もした。
 日本への帰化は5年前、子どもの就職の不利になってはと家族全員で決断した。 せめて、ベトナム名を残そうと、中国語表記に変えて申請したが、使えない漢字だからと却下された。 国籍や名前まで捨てるのは、祖国への裏切りのように感じたが割り切るしかなかった。 それもこれも、異国で生きる子どもの将来を思ってのことだった。 その建さんに最近、疲れが見えてきた。仕事から帰るとぐったりし、かつての教育パパぶりが影をひそめた。 「無理して日本に合わせていたのかな」。豊さんは、父親の背中を見て、そう感じるようになった。 「これでいい。私の役目は終った。あとは子どもの成長を見守るだけです」。 異国の地で子どもたちを育てた16年間の軌跡を建さんは後悔していない。

 インドシナ難民を16年間にわたって受け入れた姫路定住促進センタ−が閉鎖された。 当時「黒船の到来」ともいわれ、相次ぐボ−ト・ピ−プルの漂着にニッポンが揺れた。 その縮図となった姫路のセンタ−からは2,640 人が実社会に出た。 波濤を越えて生きる難民と、彼らと接した日本人の姿を追う。
(神戸新聞)


みんなで作り上げたかわいい国際社会
竹の子学級

 姫路定住促進センタ−近くの市立砥堀小学校から、「竹の子学級」という名の特別クラスが消えた。 16年前、ボ−ト・ピ−プルが仁豊野に入ると同時に生まれ、 いつころからかベトナムやラオスに多い「竹」をもじって、この名が付いた。 子どもたちはこの教室で数カ月間、日本語を学び、年齢に応じて普通学級にも編入した。 修了生、364 人。その最後のベトナム人の児童が昨年12月12日、同校を去った。
 ゴ−・ゴック・トウェン君(13)。大阪・八尾市に住む兄から両親ともに呼び寄せられ、昨年9月から通っていた。 センタ−の閉鎖が決まり、入所者が一人、二人と出ていく中、最後に残った家族だった。 「学校のことは忘れません。ありがとう」。旅立ちの朝、トウェン君は6年のクラスメ−トに囲まれ、別れのあいさつをした。 「また会おうね」「連絡先教えてよ」。短期間だったが、好きなバスケットボ−ルをして遊んだ仲間たちと手を握りあった。
 「帰る前にバスケットボ−ルしよう」。友達が誘い、トウェン君がシュ−トを決めた。 「トウェン君、すご−い!」女の子が声援を送った。 これまでから「竹の子学級」の子どもは数カ月すると転校したが、この日はだれもが特別な思いを持った。

 1979年10月、砥堀小は初めて難民を受け入れた。 ひと月前からボランティアでキャンプを開くハリ−神父が「子どもの面倒を見てもらえないか」と、 当時の校長藤本貞治さん(71)に相談を持ちかけた。 その申し出を受け、編入させた決断に、父母らが「勝手に入れるな。子どもの学力が落ちる」と詰め寄る場面もあったが、 藤本さんは頑として受け付けなかった。 障害児教育に力を注いだ経験と信念が「難民も同じ人間。分かり合うチャンスだ」と貫き通した。
 半年後、定住センタ−からも通い始める。やがて日本語指導の専任教師が配置され「竹の子学級」が定着する。 多い時には36人のクラスに膨れ上がった。文部省から何の指導もない手探りの教室だったが、 教師たちの熱心な指導で軌道に乗った。教材も手作り。 ベトナム語を勉強する教師も増えた。
 教員生活最後の6年間に「竹の子学級」を担当した松尾昌子さん(60)もその一人だった。 特に担任を希望したわけでもなかったが、ベトナムの子どもと接するうち、教育の原点を見る日々が続いた。 砥堀の子どもたちが特にベトナムの子どもを意識することなく、ともに遊び、勉強している。 お仕着せの国際教育ではない。自然な形の触れ合いがあった。
 自分自身も自然な心で接し、時には厳しく、優しい母親に似た気持ちになった。 「手を抜かず真剣にぶつかれば、どの国の子どもでも気持ちは通じ合う」と思う。 今年もベトナムの子どもたちから届いた年賀を一つ一つ、字を追うように読んだ。

 トウェン君のお別れ会。この日を最後に「竹の子学級」がなくなる寂しさ、思いをクラスメ−トが手紙に書いた。 学校にベトナムの子どもたちがいて、何の違和感もなかった、とだれもが感じていた。 小さな国際社会が、みんなの手で自然に出来上がっていた。
(神戸新聞)


平和教師
朝起きて学校に行く、そういう普通の生活を守らなければ

  二学期の終業式を前にした昨年末、 横浜雙葉中・高校の玄関前でベトナム人教師のブイ・ティ・ミン・ヒュ−さん(27)が女生徒に囲まれていた。 「先生、数学の宿題難しいよ。パスしていい」「それはダメ。あなたは数学得意でしょ」「ばれましたか。だって遊びたいんだもん」。 薄化粧した顔から、優しい笑みがこぼれる。教師になって2年。 祖国を離れて12年。毎日学校に行き、生徒と語らう。今の生活が楽しくてしょうがない。

ヒュ−さんは15歳だった1983年、兄二人とサイゴン近くの港からボ−トでマレ−シアへ向かった。 生まれる直前の67年12月、旧南ベトナムの国会議員だった父が銃殺され、政変後、母親が子どもの教育を考え、脱出を勧めた。
 船は途中で方角を見失い、運を天に任せてたが、漂流3日後、タンカ−に救助された。 自分は何かに守られていると感じ、たどりついたマレ−シアのキャンプで洗礼を受けた。 日本は富士山と桜しか知らなかった。希望したアメリカ行きが実現せず、カナダと日本に願書を出すと、日本からOKの返事が来た。 84年、姫路の定住センタ−に入り、賢明女子学院に進んだ。
 当初は聴講生として入学した。毎日漢字を30字覚えた。二年に編入後も補修を続け、積極的に日本の学校に溶け込んだ。 兄たちが働いて支え「自分たちの分までヒュ−が勉強している」と母親に手紙で伝えた。 学費援助に先生やカトリック団体も立ち上がり、上智大学数学科に推薦合格した。
 教師を目指したのは、その二回生のころだった。姉が校長をするベトナムの小学校で、 貧しい家庭の子どもたちが働きながら学んでいるこを知り『貧しくても、いい教育を受けさせてあげたい』と決めた。 教育過程を取り直し、94年春に卒業。寄宿先の修道院が経営する横浜雙葉に採用され、中・高校生の数学と宗教を担当する。 ある日の宗教の時間だった。「自由」をテ−マに初めてベトナムのことに触れた。 国を出たいきさつ、父親が暗殺されたことを話すと、生徒はただ黙って耳を傾けた。 朝起きて学校に行く、そうした普通の生活が破壊された悲劇を知らせたかった。 静まりかえった教室で、ヒュ−さんの声に力が入っていた。 「私たちのような人間が二度と生まれないように、みんな考えて」。
 日本で生活を始めた翌年、中学3年だったヒュ−さんは、姫路で開かれた国際青年弁論大会に出場した。 「平和とは、戦争の準備の期間に過ぎない」体験から出たスピ−チは、あまりにも衝撃的だった。 今も、その主張に変わりはない。紛争、核実験、軍拡......。世界の情勢を見るたび、そう思う。 平和を守るための努力、教育の大切さを身に染みて感じる。

 ヒュ−さんは、異国の地で多くの人に支えられたことを喜ぶ。 5年前、ODPでベトナムから母を呼び寄せることもでき、日本での永住を考えている。 今後は帰化して選挙権を取り、国の動きにも責任を持ちたい。 「住んでいる国で自分の意思が言えないままでは、生きている意味がない」人一倍の幸せを感じながら、 何もしないで「平和」も「普通の生活」も守れないことを身を持って知っている。
(神戸新聞)
 ヒュ−さんは1985年の「チョットいいこと」No.1でラッキ−少女ブイ・ティ・ミン・ヒュ−さんを始めとして 1989年のNo.22 で上智大学入学、そしてここでは先生に成長した歴史が見えるような気がします。 昨年(1996年)横浜山手教会で結婚しました。新しい家庭の上に神様の豊かな祝福をお祈りします。 (編集部)


食は平和のメッセンジャ−
ベトナム人ソン神父からの提言
ソン神父
 18歳の時、小舟で祖国を脱出。日本で就職後、 2年前に横浜教区司祭として叙階され現在静岡教会で働くファム・ディン・ソン神父(33)が「国際化」への提言を寄せてくれた。
 「国際化」という言葉を聞いたのは、今から15年前でした。 そして今日、日本社会が果して国際社会へと少しでも変化したでしょうか? 難民定住促進センタ−で3カ月日本語を勉強した後、センタ−を通してある地方の会社で働きました。 当初は言葉も分からず、身振り手振りで懸命にやりとりしていました。 月に一度必ずベトナム料理のパ−ティ−を開いて職場の皆を招いて、歌ったり、踊ったりして本当に楽しかった。
 しかし、それもわずかの間でした。異文化の中に生活している私たちは、どうしても日本の中で浮いてしまいます。 たとえば日本に来たばかりの時、ベトナム・ファッションで髪を長くのばし、ラッパズボン・スタイルをしていました。 そしたら会社の人が「こんなに暑いのにねえ」「森の中から出てきたから平気なんでしょう」。 またある時、一人の女子高校生と知り合って家の前で話ししていたら、翌日会社の部長に呼ばれて警告されました。 「おまえらは日本の女性と話しではいけない。皆がおまえらを恐れているのだから、 もしまたこんなことをしたら、アパ−トから追い出されるぞ」と。
 私は昨年、阪神淡路大震災の救援活動で、神戸に約1年生活しました。 神戸は昔から外国人の多い町ですから差別などあまりないだろうと思っていました。 しかし、これは思い込みでした。毎日のように、差別、軽蔑されているとう話を聞かされ、 事実、私自身もたびたびそうした現場に居合わせました。
 救援活動では、学校や公園でベトナム料理の焚き出しをしました。 神戸の町にはベトナム料理店がないのでほとんどの日本人が初めて接するベトナム料理です。 計画した時、人が来るかな、皆食べてくれるかなと心配しました。 確かに最初は食べるよりも見ている人が多かった。 でも食べている人を見て、一人また一人とだんだん食べる人が増えてきました。 各テ−ブルを回ってみると、 「ええっベトナム人ってはしで食べるの?」とサ−ビスしているベトナム人のお母さんに聞いている人がいます。 「これ、おいしいなぁ!どうやって作るの。作り方教えてや」「もう一杯お代わりできるかな」などと言いながら、 日本人のお母さんたちが仮設の台所にまで入って、ベトナム女性から作り方を教わっています。 こうした光景を見て「国際化とは何か」を問い直す必要を感じました。 これまで「国際化」と言うとき、たいてい知識人がああだ、こうだと学問的に語ったような気がします。 また外国語に堪能な人が中心になって「国際化」を定義づけているような気もします。
 国際化」って何でしょう?やっぱり文化の交流でしょう。お互いの文化を他人に知ってほしいから交流する。 それでは何を交流すればいいのか。文化っていろいろあります。いっぺんにやっても消化できません。 分野によって人の好みもあります。文化を考える上で絶対欠かせないのは「食べ物(料理)だと思います。 食べ物(料理)あってこそ人の輪ができ、それが広がっていきます。国際化の土台に「食文化」を置いていかねばなりません。
 「食文化」は国際化を広げるための最初のステップです。 なぜなら料理(食事)を通して、一人ひとりが互いに人間として信頼し合っていくためのきっかけになると思うからです。
(カトリック新聞)


母国・日・米と歩むたくましい生描く
我孫子の小松さん手助け

 ベトナム人女性の明子さん(55)が、ベトナム、日本、米国と、険しい道のりを歩んできたその半生を、 我孫子市中峠の小松純子さん(58)の助けを借りて、本にまとめ、出版した。 題名は「アキコ」(近代文芸社刊、千五百円)。二人にとって、原稿や、翻訳、監修などは初めてで、完成までに2年かかった。 小松さんは「サクセススト−リ−でないが、彼女のたくましさは、読む人に勇気を与えてくれる」と話している。
 明子さんの姓は、岡本。ベトナム名はキムロングという。明子さんは第二次世界大戦中、ベトナム中部の村で生まれた。 裕福な家庭だったが、戦後、政治状況の激変で家財を失い、明子さんも鼻がつぶれる病気にかかった。 サイゴンに出てメイドの仕事に就いても生活は苦しく、自殺を図ったこともあった。
 転機が訪れたのは1969年(昭和44年)。外交官のメ−ドとして来日し、滞在中に慈恵医大で鼻の手術を受けた。 一度ベトナムに戻ったが、再び来日し治療を続けている時、日本人の男性と出会い、結婚した。 ところが、夫がアメリカで事業を始めるため、78年に渡米。 現在はロスアンゼルス郊外のセリトスという町で、借金を抱えながらも、車のリ−ス業を営んでいる、という。
 明子さんは「日本でお世話になった人に感謝するため、本を書きたい。 お世話になった人も年をとってきており、今書かないとだめだ」と執筆を考えたという。 しかし明子さんは日本語を話せても、書くことができない。 93年、知人から英五の堪能な小松さんを紹介され、二人の共同作業が始まった。 原稿はファックスで小松さんの手元へ送られてきた。書いてはすぐ送ってくるため、内容が前後するなど混乱もあった。 明子さんの英語は独学だったため、文章の意味を確認するため、国際電話でやりとりしたり、何回か直接会ったりもした。 「ベトナムに関する知識が乏しい」という小松さんの意見から、二人でベトナムも訪れた。
 やっと出版にこぎつけた小松さんは「明子さんと、どこかですれ違った人がこれをきっかけに、 日本に住む外国人女性で、日本語は話せるが書くことができないという人の、人生や思いを翻訳してみたい」と意欲を見せている。
(朝日新聞)


苦学5年の内定書
ベトナム難民の父追って来日のグエンさん

 「就職内定」が解禁された一日、5年前にベトナム難民の父と兄を追って来日した上智大の女子学生、 グエン・バ−・ツェットガ−さん(24)も、東京・日比谷の旭化成工業本社で内定証書を受け取った。 グエンさんは約百人の仲間と内定を喜んだが、この日までの道のりは、だれより険しかった。
 グエンさんは南部のビンロン市出身。南ベトナム政府軍大尉だった父は、ベトナム戦争が終わると拘束され、 再教育キャンプに収容された。母と兄とグエンさんの3人は、母方の実家で父の帰りを待った。 7年後、やっと父は釈放。だが、監視付きで就職もできず、暮らしは苦しかった。
 82年6付、父と兄は「実家に行く」と出かけたまま音信が途絶えた。 2か月後に、父から「無事日本に着いた」と便りがあり2人が木造船で難民として脱出したことを知った。 「いつかは日本に行って、家族4人で暮らそう」。グエンさんと誓った母は、翌年夏、風邪がもとで死んだ。 満足に薬もやれなかったのが悔しかった。グエンさんは高校を卒業して、91年3月に来日。 千葉県市川市に住む父と兄は、定職も持ちグエンさんを迎えてくれた。
 「日本では化学を勉強しよう」と決心していたグエンさん。 神奈川県内の定住促進センタ−で日本語の基礎を学び、家族と同居後は、 午前中は日本語学校、午後はピザ店でアルバイト、夜は夜間中学で日本語の勉強、とハ−ドな日々を過ごした。 来日2年で上智大学理工学部に合格。最初は講義をすべて録音し、帰宅後再生して復習する毎日だった。 週2、3日はベトナム料理店でウエ−トレスのアルバイトも続けた。
 今年春からの就職活動で、国籍や性別にこだわらない「ボ−ダ−レス採用」を実施している旭化成を知り、すぐに応募した。 同社の採用予定は約百人で、うち約一割が外国人留学生らの枠。その小さな枠に約三百人が応募したが、 「こんなに真剣に勉強している学生は見たことがない」という担当者の太鼓判でグエンさんの内定が決まった。
(読売新聞)


ベトナムと日本の懸け橋になりたい

 僕の故郷ベトナムは、昔、悲惨な戦争が起こり、多くの人々が辛い思いをしました。 僕たちも戦争のために国を諦め、1990年3月25日に故郷を後にしました。 僕の家族と数人で船に乗り、5日目にタイに流れ着くまでには、まさに生と死の境目をさまよっているような状態でした。 船は小さく、何度も死の恐怖が襲って来るのでした。 僕たちはタイから、マレ−シアの難民センタ−に移りました。 マレ−シアでの生活はたった3週間でしたが、そこには恐ろしい動物が沢山いたり、 食事が十分にはとれなかったりと大変な苦労をし、まるで3世紀もの長い時間のように感じられました。 その後、インドネシアの難民センタ−に移り、そこで父がUNHCRの弁護士による厳しい審査に合格し、 僕たちの来日が決定したのです。既に、故郷を出てから3年の歳月が流れていました。 1993年5月13日、国際救援センタ−の方々の温かい心に迎えられて、日本での生活がスタ−トしたのです。
 ベトナムを出た頃の僕たちの境遇を思えば、今の生活はまるで夢のようです。 でも、日本では、今までとは違った意味で悩み多き日々でした。 それは言葉による大きな壁が僕たちの前にあったからです。 2つの国の風俗、習慣の違いにも僕は驚き戸惑うことばかりでした。でも、日本人と話をしたい、気持ちを伝えた一 心で真剣に勉強に取り組みました。救援センタ−の4か月間の日本語の勉強を終えて、僕は東京のある中学校に編入しました。 そこは、ベトナムとは全く違う世界で、ベトナムでは当然のことが、日本では違っている。 日本で当然のこともベトナムでは不思議なことでした。
 僕はそのことに気付いた時、風俗と習慣の違いに戸惑う人の気持ちがよくわかりました。 そして、僕たちも日本人と同じ気持ちを持っている。国は違っても、心は同じだと気付いたのです。 今僕は、父の仕事の関係で群馬県太田市に住み、近くの旭中学校に通っています。 新しい学校、先生、生徒、そして難しい日本語の中で不安で一杯でした。 でも、日本人の生徒は僕に優しく接し、先生方も僕に熱心に教えてくださり、僕の気持ちも徐々に落ち着いていきました。
 外国人について一番辛いことは、言葉が通じないことです。言葉はお互いの気持ちを理解し合う大切な手段です。 僕が今ここにいるのは僕を励ましてくれた多くの人たちのおかげです。 だから将来、故郷ベトナムと日本の懸け橋(通訳)として貢献していきたいです。 僕が懸命に勉強してこの夢を実現できた時、今までの僕を応援してくれた人たちへの恩返しができると思っています。
(ファム・バン・トリュウ)



公立保育園の正保母に採用されたベトナム難民

 働き初めて半月足らずなのに、「ファンせんせ−」と園児たちが抱きついてくる。 「みんないい子で、かわいくて」。子供たちの笑顔よりもっと大きな笑顔が輝く。
 来日して17年。神奈川県大和市の保母中途採用試験に合格、念願かなってこの秋から保母として働き出した。 「異例」と騒ぐ周囲に本人が帰って驚いた。 「自分が普通の人とは違う見方をされていることに改めて気がつきました」。
  ボ−ト・ピ−プルとして、両親、兄弟姉妹4人とともに千葉県内の定住促進施設に入り、 小学校だけでも同県、都内、神奈川県....と変わった。 「でも、不思議とすぐに友達ができて、日本語を教えてくれたり、遊びに誘ったりしてくれて、 余りつらくありませんでした」。進路として保母を考え始めたのは中学生時代。 妹や弟の面倒を見るのが好きだったし、責任ある仕事がしたかったからだ。 昨年春、横浜市内の保母養成専門学校を卒業、昨年、今年と3か所で保母採用試験を受けたが不合格。 「前例がない」とか「人柄は認めるが今回は....」などと言われ、いや応なく国籍の壁を意識した。 菓子店でアルバイトをしながら、それでも「夢はいつかかなう」と信じていたからだ。 「私って、あまり深く考えないタイプ。プラス志向なんです」テレビで母国の風景を見ると、 頭の片隅に残る原体験がよみがえり「懐かしいな」と思う。 だが、今はそれ以上に子供たちのことで頭がいっぱいだ。 「ベトナムと日本。私には、両方ともふるさとなのですから」
(読売新聞)


チョットひとこと

 新年おめでとうございます。1996年も過ぎ去りました。 悲しかったこと、苦しかたこと、難しかったこと、 人生の出発点に立たされたことなど......でも過ぎ去っみれば楽しかった思い出の中に生きることができたこの一年を感謝しています。
 年が改まったとはいえ別に大きな変化はありませんが、二度ともどることのないこの年を大切にして行きたいと思っています。 現在ベトナムは新しい市場の上からまた、観光の面からも世界中から熱い注目を受けています。 時代の変化は早く、命からがら難民として母国をあとにしてきた人達も簡単に帰国できる時代となりました。感無量なものがあります。

 「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神です。 何事も不平や、理屈を言わずに行いなさい。そうすればとがめられることのない清い者となり、 よこしまな曲がった時代の中で非のうちどころのない神の子として世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。 こうしてわたしは自分が走ったことが無駄でなく、 労苦したことも無駄ではなかったことをキリストの日にほこることができるでしょう」(パウロ・フィリピの信徒への手紙2:13〜16)

 今年もまた、いろいろなことがおこることでしょう。 期待しないハプニングがあるかも知れませんが、この言葉を念頭におき、 神の子としてこの世に星のように生きられることを希望しています。
(事務局)

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