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チョットいいこと 66

念願のマイホ−ム
国際家族
21世紀への助走
旅客数急上昇
はじめて"教会"になりました
定住難民の子どもたちの教育に支援を
修道女と感謝ミサ
「現代ベトナム」ク−ルに
望郷
こだま
チョットひとこと



念願のマイホ−ム
笑顔で近所付き合い

 神崎郡神崎町の市川沿いに、二階建ての住宅が十数戸並ぶ。 真ん中の水色の家にカタカナで「ル・スンアン」の表札が掛かる。 あるじは、1981年に姫路の定住センタ−に入所したベトナム人のル・スンアンさん(42)。 5年前、蓄えた一千万円を頭金に購入した念願のマイホ−ムだ。 日本で持ち家を手に入れた数少ない難民の一人だが、それより「日本人以上に日本人らしいベトナム人として知られてる。
 門扉の呼び鈴を押すと、セ−タ−姿のアンさんが出てきた。 髮を七、三に分けた眼鏡の顔が、にっこと笑って迎えてくれた。 「はじめまして、さあ、どうぞ」柔らかい物腰で話す日本語が滑らかで、違和感がない。 「ほんと、日本人のようですね」「いいえ、そんなことは」顔を少し赤らめ、 照れ笑いを浮かべる姿が、また日本的に見える。

 「子どもに十分な教育を受けさせたい」。変政後のベトナムで小学校の教諭をしていたアンさんは80年、 身重の妻と2歳の長女を連れ、小舟に乗り込んだ。 フィリピンのキャンプを経て姫路に着き、神崎町の雇用促進住宅で新生活を始めた。 近くのメッキ工場で働き、妻は内職。アンさんは「残業は会社で一番多い」が自慢だった。
 子どもは娘ばかり3人になり、保育所に預けて妻も働ききに出た。 「もっと広い家で、ゆったりと勉強させたい」と夢が膨らんだ。 質素な生活を心掛け、貯蓄に励む。家族旅行もせず、毎日の団欒だけが家族の楽しみだった。 途中アンさんは仕事中にやけどを負い、5年勤めたメッキ工場を辞め、転職した。 日本に暮らして11年目、一千万円の貯蓄ができた。 ベトナムでは家が数軒建つほどの大金。 やっと手に入れたマイホ−ムに目がくらむ思いだった。 家から3人の子どもを初めて学校に送り出した日には、涙が出るほどうれしかった。
 雇用促進住宅で自治会の副会長をした経験もあり、近所付き合いもすぐにできた。 赤ちゃんが生まれるとベビ−服を贈り、ベトナム風春巻きを家で作るとおすそ分けした。 いつも笑顔で。これがまた近所の人に好感を与える。3年前のことだった。 アンさんは、小学校のPTA体育委員に選ばれ、地区対抗バレ−ボ−ル大会の準備を手伝った。 地元チ−ムが出ると「馬田、頑張れ」とだれよりも先に、地元の名を上げていた。
 初めて体験するソフトボ−ル大会の前には、グラブを買い、娘を相手にひそかに練習した。 試合では出られなかったが、それだけで満足した。日本のすべてを吸収し、自分のものにする。 物腰もスマイルも、15年の生活の中で自然と出来上がった。 長女は高校3年、二女、三女は中学生。昨年6月には本国から両親と妹、弟を呼び寄せた。 数カ月後、勤めていた電気部品工場が不況で生産ダウン、今は別の印刷会社に通う。 大家族と住宅ロ−ンがのしかかるが、笑顔は消えない。
 自宅応接間には、ベトナムの「立身出世物語」を描いた貝殻の壁掛けが掛かる。 「絶対、日本人になりきれないし、苦しいこともある。でも、楽しく生きようと思って」。 平和な国で暮らすアンさんの笑顔が、苦労を乗り越えるごとに大きくなる。
(神戸新聞 姫路版)


国際家族
戸籍上は他人でも絆は実の親子同然

 「将来、この子はどの国に行って頑張るかな」岡山県備前市の開業医下野国夫さん(51)は、 ベトナム人の里子ブィ・ティ・ミン(日本名下野きみ)さん(30)に抱かれた1歳半の長男龍也ちゃんに話し掛けた。 「気が早いね」。キムさんと妻陽子さん(48)が顔を見合わせた。
 元旦。下野家には今年も6人の「子どもたち」が勢ぞろいした。 4人は実子で2人は看護婦姉妹のキムさんとフン(下野ふみ)さん(29)。 下野さん夫婦が13年前、姫路定住促進センタ−から迎え、わが子同然に育てた。 戸籍上は他人でも、絆は実の親子と変わらない。 龍也ちゃんを初孫と思う。「難民の親を持つ子どもとしていつかはどこかの国で人を助ける仕事に就いてほしい」。 夫婦は、優しいまなざしで見つめる。

 下野さんは駆け出しのころ、貨物船医として東南アジアを回り、最下層の人々の暮らしを見た。 その時の体験が、里子受け入れに大きく影響した。 自分にできる身近な国際貢献だった。1983年8月、 重度のぜんそく患者だったカンボジア難民のチョン・ソティ(下野玄明)さん(23)を神奈川県の大和定住促進センタ−から預かり、 その年の暮れにキムさんフンさん姉妹を迎えた。 やがてベトナム難民のレ・ホアン・リンさん(21)が加わる。 中国人の留学生を含め、子ども9人の大家族になった。
 下野さんは分け隔てなく子どもに接し、頑固おやじに徹した。外が明るいうちは勉強禁止。 「里子はいずれ祖国に戻る。その時役立つように」と全員で畑仕事や、 ヤギ、乳牛、鶏などの世話をした。一緒に泥だらけになることで、心の国境がなくなった。 ある日のこと。キムさんは水も食料もない中で2週間漂流した恐怖を話した。 ソティさんは空襲で逃げ惑い、兄と自分以外の一家族全員が殺されたと打ちあけた。 夕食をしながらの会話は止まらない。
 「悲劇を繰り返してはだめ。飢えや病気などで苦しむ人がいれば、自分たちが助けに行く」。 一人ひとりが約束し、下野さんは地球儀に名前を書き込んだ。 「きみはベトナム、ふみはソマリア、玄明はカンボジア......」。 将来は、給料の一割は国際貢献のために使おう。 「この二つの約束を果してくれれば、世界が少し変わるかもしれない」下野さんは願った。

 その後、ソティさんは兄とニュジ−ランドに移住、リンさんは東京の親類に引き取られた。 里子は姉妹だけになったが、看護婦になった2人が約束を一つ果してくれた。 3年前、10年ぶりに帰国し、蓄えたお金でふるさとの診療所と学校を改修した。 2人とも結婚、出産で自らの海外行きは遠のいたが、下野さん夫婦はうれしかった。 「もう一つの約束は子どもの守らせるから」と2人。フンさんは「私も里子をもらおうかな」と笑う。
 里子たちと共に育った4人の子どもは医師を志し、長男は今春、医大を卒業する。 「いつかは外国で医療活動を」と考える。難民との共同生活で、ボランティアの心が生まれ、 だれもが地球規模でものを見つめるようになった。
(神戸新聞)


21世紀への助走
米・越、一つのモデル

 もう一つの「戦後」がある。
 世界で価値観の分裂と対立を引き起したベトナム戦争が終結(75年4月)して、20年。 かつて爆撃で地形すら変わった国はいな、経済成長への自信がみなぎる。 目をみはらせるのは血を流し合った"敵"アメリカの浸透ぶりだ。
 ベトナム中部のソンミ郊外。フォンちゃん(6つ)は母親のボ−・ティ・リエンさん(37)に促され 「シ−・ユ−・アゲイン」としっかりした発音でさよならを言った。 93年にベトナムを訪問した外国人の第一位は観光客を中心としたアメリカ人だ。 フォンちゃんにも、英語は遠い言語ではない。68年3月、米軍部隊が村を襲い、乳児まで500 人余りを殺した。 11歳だったリエンさんは、射殺された祖母の背後で出来事を見た。 その人が「アメリカと経済交流がもっと盛んになればいい」と、いま物静かに語る。 脱「戦後」を感じさせる光景は、街にもある。
 ホ−チミン市の土産物店で空き缶で作った戦闘機を売っていた。 アメリカ文明を象徴するコカ・コ−ラの赤い模様をまとっていた。ハノイの東、 貿易港ハイフォンに昨年開業したベトナム初のカジノは、夜ともなれば外国人でにぎわう。 リンカ−ン、ワシントンらの顔(ドル紙幣)が飛び交い、ホ−・チ・ミンの肖像(ドン紙幣)はかすみがちだ。

 「富める国から貧しい国にお金を吸い上げる私はロビンフッド」と経営者のベトナム人トム・ディエプ氏はおどけるが 難民として国を出た彼自身、アメリカで商売を学んだ知米派である。
 日本人が戸惑うのはアジアで「謝罪」を繰り返す日本が50年前の戦争をまだ清算できないでいるのに、 アメリカが20年前の戦争の傷をあたかもいやしたかのような印象を与えることだ。 ベトナムから見て、巨大で開かれたアメリカ市場は、 将来の輸出先として「成長の大事なパ−トナ−」(ファン・バン・ドゥオンベトナム商工会議所副会頭)だ。 地政学的な観点から、中国という政治的にも経済的にも巨大な隣人をけん制してくれる存在でもある。

 戦略ない日本に不満
 米越関係改善へのアメリカの積極的な姿勢は、「市場を開き、 平和と繁栄に貢献していく未来志向こそが、不幸な過去を清算する有力な道である」 (マレ−シアのマラヤ大学のモハメド・アリフ経済学部長)ことを示している。 マレ−シアのマハティ−ル首相は村山首相との会談で、「50年前のことを日本が謝り続けるのは理解できない」と語った。 同じ時期、同様のセリフが別の政治家から語られていた。 台湾の李登輝総統が日本の著名な中国研究家に、「将来への構想を持たずに謝るのはだめだ」と、 アジアに確固とした戦略のない日本を批判したのだ。
 イデオロギ−対立の時代が去り、民族の歴史に根ざした価値観の違いなどからアジアで、 冷戦時代とは別の緊張が生じる可能性を指摘したのはジェ−ムズ・ベ−カ−元米国長官だ。 マハルティ−首相らの発言は、ベ−カ−発言や東西文明対立を予言した サミュエル・ハンチントン米ハ−バ−ド大教授の「文明の衝突」がアジアの精神風土のもとで欧米流の近代化を果たし、 アメリカ、アジアどちらの文明も理解できる日本が、 国連などで国力にふさわしい役割を果たすよう求めることがあったとといえる。
 ポ−ル・グル−マン米スタンフォ−ド大教授が「今後、四半世紀に戦争が戦争が起きるとすれば米中戦争だ」と警報を発するなど、 文明の衝突への懸念は消えない。 ギャレス・エバンス豪外相は「遺憾の表明が問題の本質ではなく、アジアで信頼感を醸成することは大事だ」と語る。 日本が過去の歴史をしっかり見据えながら、未来志向でアジアの繁栄や安定に貢献しないと、 エバンス氏の言う信頼感は得られない。日本と日本人に、脱「戦後」に向けて歩きだす意思が問われている。 (竹内政明)

 21世紀(2001 年)との遭遇は、もはや未来物語ではない。 …89年のバブル景気絶頂から7年たつ今も続く後遺症の教訓を考えれば5年後の21世紀は現在の延長線上にある。 日本の将来をかけた助走が始まった。戦後から満50年を経た現在は、 脱「戦後」への転換点でもある。
読売新聞)


旅客数急上昇
座席使用率3か月で倍に

 昨年11月16日に就航した日本航空のベトナム路線が急速に旅客数を伸ばしている。 関西空港とホ−チミン市を週2便で結んでいるが、2月の座席利用率は84%と、昨年11月のほぼ2倍に達した。 ドイモイ(刷新)政策のもと、経済復興を目指すベトナムに対し、 企業進出や商談などのビジネス需要がおう盛なのに加え、観光地としての魅力がクロ−ズアップされている。 旅行各社は4月からパック商品を本格的に売り出す予定で、 両国間の往来はさらに活発化しそうだ。
 両国間の提起路線開設は、75年以来19年ぶりで、日航によると、 関空発の座席利用率は昨年11月に43%,同12月は61%、今年1月には69%と、 月を追うごとに高まっている。路線再開から3か月半で、約4,400 人を直行便でベトナムに運んだ。 ベトナムは、安い人権費、勤勉な国民性といった労働力のほか、 自動車や家電など将来性のある消費市場に熱い視線が向けられ、日本からの投資が活発になっている。 観光についても、フランス統治時代から町並みや古都の遺跡、 ベトナム料理など魅力があふれ、今後に期待が集まっている。
 こうした中で、直行便就航を機に、パック旅行の設定が本格化している。 ジャルパックは、ホ−チミン市滞在の5〜6日間の旅(156,000 円から)のほか、 古都フエやカンボジアのアンコ−ルワットを周遊するツア−など計4コ−ス設定した。 JTB(日本交通公社)や日本旅行なども4月から大々的にベトナムツア−を売り出す。 日航は来年度上期から。個人向けの割引運賃(JAL悟空)の設定都市にホ−チミンを加えた。 94,000〜144,000 円と、普通運賃(216,600円)に比べて手軽にいけるようにする。
(読売新聞)


はじめて"教会"になりましたす

 震災後の火災で会堂が消失したものの、ベトナム人を含む外国人援助や神戸市長田区鷹取の地域復興に向けて活動している、 カトリック鷹取教会司祭の神田裕さんが、 昨年11月14日東京・河田町のイエズス会社会司牧センタ−の連続セミナ−「現場に生きる−社会の最前線からの報告」に招かれ講演した。
 この講演で、神田さんは、1月17日の震災当夜、 教会信徒のベトナム人から前の晩の誕生会で残ったエビなどを分けてもらった光景から話し始めた。 そのユ−トピアのような光景をすでに快く思わなかった日本人もおり、震災後もベトナムの人々は何かと非難を浴びせられたが、 神田さんは共同体の少数者とどのように困難を乗り越えていくかを課題とし、 被災外国人救済援助活動などで援助を行ってきた。
 その援助は身の回りの支援から、行政文書の翻訳、外国人救済ネットによる外国籍の犠牲者に対する弔尉金まで多岐にわたっているが、 日本人とベトナム人が共生するためには「知ってもらうこと」が大切と努力してきた。 長田区の南駒栄公演のテント村では、ボランティアが解散した95年3月以降、 3カ月後には互いの名を呼あうほどにかかわりが深まったという。
 長田区は在日外国人が多い土地柄、神田さんは「内なる国際化を進めていきたい」と語っている。 また震災後のボランティア活動で、新ためて教会が地域とかかわりまた地域を結ぶ役割を担っていると実感している。 教会を町造りの協議会に用いたり、夏まつりを企画、だんじりを作って町をねり歩いたりする中で神田さんは、 被災後最初の礼拝で自ら語った「教会はつぶれて燃えたけれど、初めて"教会"になりました」との言葉をかみしめている。
 そうした地域との信頼関係の中で、地域復興まで会堂は建てないとの方針が生まれた。 百人単位で使える紙製の地域コミュニティ−センタ−が出来たとき、 ある新聞でそれが「礼拝堂」と掲載された折りには大変な思いを味わった。 ある女性の提案で始まった仮設住宅の高齢者との往復ハガキ文通に言及し「今後アイデアを出してくれるのはみなさん」と話を締めくくった。
 (キリスト教新聞)


定住難民の子どもたちの教育にご支援を
定住難民担当 ハリ−・クワ−ドブリット神父

 カリタス大阪は、もう20年ちかくにわたって、みなさまからの善意を、インドシナ難民へお届けしてきました。 難民が来日した当初、食べ物、着るもの、そして毛布や布団を届け、 人間らしい生活が出来るよう援助することがまず必要でした。 こうした援助に対して難民たちから、そしてカリタス大阪からも厚く感謝申しあげます。
 住まいと仕事を得てからも、かれらのくらしは大変でした。 多くの場合、祖国を出る時の経済的負担が残っていますし、国に残した家族や親族への仕送りもあります。 そのため大人たちは、日本語の学習も十分出来ず、職業を選ぶゆとりもなく、必死で働き続けました。 子どもたち、特に日本で生まれた子どもたちは、地域や学校などですぐに日本語を身につけてゆきました。 彼らはまさに「希望の星」です。この子どもたちの教育が、今一番大切な課題です。 この国に定住し、本当の意味での社会の一員として、適職を見つけ、安定した生活基盤を作れりかどうかは、 その教育にかかっているといってよいでしょう。今までいただいた奨学金など教育支援にも心からお礼申しあげます。 この支援は、これからますます増えることはあっても、減ることはないのです。 これまでにもまして、みなさまのご援助をお願いいたします。
(カリタス大阪ニュ−ス)


修道女と感謝ミサ
元ベトナム難民とその家族

家族を伴って調布を訪れたベトナムの人々
 「ここ調布の修道院で私たちは7カ月という短い期間でしたが、 人生の中で最も平和で愛と安らぎに包まれた月日を過ごすことができました。 シスタ−方、本当にありがとう」。1977年、共産政権となったベトナムから信教の自由を求めて脱出し、 日本のタンカ−によって救われた当時の難民の一部が7月、定住している米国から来日。 7月8日東京・調布のコングレガシオン・ド・ノ−トルダム修道院で19年ぶりに懐かしいシスタ−たちと感謝のミサに参加した。
 彼らが7トン足らずの漁船で祖国を脱出した時、乗船したのは老婦人5人、妊娠中の4人を含め女性20人、 子ども28人、幼児5人、男性24人の計72人。南シナ海を漂流すること4日。 ついに、付近を航行していた日本の石油タンカ−「高松丸」(越亨船長)に救助された。 このとき「高松丸」の乗員は突然増えた77のため、8日間にわたって自分たちの食料を節約し、彼らに分け与えたという。
 難民たちは函館で、3つのグル−プに分かれ、それぞれ藤沢、鎌倉、調布にあるカトリックの女子修道院へ向かった。 調布のコングレガシオン・ド・ノ−トルダムに受け入れられたのは米国定住希望の31人。 カナダ人のシスタ−パ−マが責任者となり、米国で役に立つとうにと英語の勉強や洋裁の技術指導をはじめ、 時にはミニ旅行を企画するなど、文字通り親代わりとなって接した。彼らが出国したあともシスタ−は文通を続け、 休暇で帰国するたびに米国を回り、定住した彼らの状況に絶えず心を配り続けてきた。
 今回来日したのはこの中の7人である。当時の少年はたくましい青年に成長し、 青年だった人たちは配偶者と子どもを同伴し、孫を連れて来た人もいて総勢17人。 7月8日、グエン・フュ・ヒエン神父によるミサには当時の船長で難民救助の決断を下した越さんや、 彼らの衛生・生活面で心をくだいた通信士の福田千之介さん、 日本滞在中、通訳として献身的に奉仕したダン・タン・ファットさんも参加した。 ミサの後の昼食会で、実に19年ぶりの再会を喜びながら、かつて青年だったニャ・グエンさんは英語で次のように挨拶した。

 大いなる愛を実感
 「私は今、疲れ切った77人が南シナ海を小さな漁船で漂っていたあの日々のことを、 昨日のことのように鮮明に思い出しています。 越船長、私たちが今日ここにいるのはあなたとあなたの部下の方々のお陰なのです。 そして31人は、幸運にもここ調布のノ−トルダム修道院に迎え入れられました。 シスタ−方はいつも愛と幸せに満ちていました。私たちは時々、それを思い出してホットするのです。 この家(ノ−トルダム修道院)は本当に私たちの『ふるさと』であり、地上における天国なのです。 シスタ−方の愛とお世話は、血縁という伝統的な家族の結びつきを超えたものが確かにこの世界に存在することを、 私たちに分からせてくださいました」。
 これに対するシスタ−パ−マの言葉も、一同に深い感銘を与えた。 「皆様との出合いは私の修道生活中、最も大きな喜びであり、恵みでした。 私たちは心からお世話いたしましたが、皆様から受けたものの素晴らしさに比べられるものは何一つありません」 
(カトリック新聞)


「現代ベトナム」ク−ルに
合作の映画・「シクロ」公開 ユン監督が来日

「現代ベトナムの鼓動を伝えたかった」というトラン・アン・ユン監督
 昨年のベネチア国際映画祭でグランプリを受賞した仏・香港ベトナム合作映画「シクロ」が、 3日から東京・渋谷のシネマライズで公開され。 ベトナム出身のトラン・アン・ユン監督が来日した。 ホ−チミン市。自転車で人力車をひく仕事をするシクロ(レ・ヴァン・ロック)は商売道具の自転車を盗まれる。 シクロを犯罪世界に引き込む詩人と呼ばれるやくざ(トニ−・レオン)、 その詩人の下で売春まがいの仕事をするシクロの姉(トラン・ヌ−・イェン・ケ−)。 微妙にからまりあう3人の姿を通し、社会主義政権下で市場経済が導入された混とんとしたベトナム社会が描かれる。 「肉体を使い都市内を移動する仕事に焦点を定め、現代ベトナムの鼓動をク−ルにとらえたかった」とユン監督は語る。
 12歳でベトナム戦争から逃れてフランスに亡命。前作「青いパパイヤの香り」では、故国への愛着を美しい映像でつづったが、 実際はすべてフランスで撮影していた。 だが、今回は準備と撮影のため、計1年以上ベトナムに滞在した。 「これほど長く故郷に滞在したのは、離れて以来初めて。 次の作品はベトナムが舞台ではないが、ベトナムにこだわることによって私の映画作りの概念は大きく変わった。 まだ映画化したい企画はたくさんあり、 今後もこだわり続けることになるだろう」33歳の今年、カンヌ映画祭の審査員も経験した才人はにこやかに話した。
(読売新聞)


望郷

 私の会社には私のほかにもう一人ベトナム人がいます。 ベトナム人ですから話したいと思いますが、元留学生で私と理想がちがいます。 それで話があわないので話さなくなりました。 そのベトナム人に子どもが生まれました。会社では彼のためにお金を集めてお祝いしました。私の心はとても複雑でした。
 もし、この子がベトナムで生まれたら、お母さんの乳の心配だけで大変だろうと思ったからです。 それなのに、この子は一万円以上もするアルバムや着られないほどの可愛い洋服をたくさんもらいました。 ベトナムでは、このアルバム一冊のお金でミルクをあげたら一年分ぐらいあるのに..... 。 同じベトナム人なのに日本に生まれただけで、と思ったら、胸がとても痛くて買い物も一人でいけませんでした。 そしてお祝いのパ−ティ−にも出られませんでした。
(タン・トィイ)


こだま

 今回のセミナ−でパネラ−として参加していた中・高校生の女の子からお便り頂きました。 友人?になったような感じで("お姉さん"としたわれている様で)とても嬉しく思っています。 可愛いですね。(妹が増えたような気分です)
(鏡 和佳)


チョットひとこと

 神様は多くの恵みを与えてくださいました。セミナーに参加させていただき、 私たちも日本という社会をいつもとは違う観点から、 私なりにかいま見ることができたように思います。 そして、“外国人と共に生きてゆくためにはどうしたらいいのか” という問が私のなかに生まれました。
 私の所属する教会にも多くのベトナム人の方がいらっしゃいます。 私はこの教会に2年前初めて来たとき、外国人の多い事にちょっと驚きました。 教会に来ているベトナム人達はこの町に定住し、 ベトナム人同士連絡を取り合って上手く教会の中にとけ込んでいるようです。 その陰には、彼らを受け入れるために、長い間努力された方々の存在があるからだと知りました。
 しかしながら、教会内でベトナム人とに関わり、 交流のある方というのは本当にごく一部で、殆どの信者は二、三人のベトナム人の名前を知っている程度か、 或いは“顔は見たことがある”というぐらいなのです。
 私はこのセミナーに参加してから、この現状について気になり始めました。 多くのベトナム人と共に、御ミサにあずかるというチャンスに恵まれながら、 私を含む殆どの日本人はベトナム人をあまり知らないという現実…。 本当の意味での「受け入れる」そして「共存」とは、ひとりひとりの日本人が心を開き 彼らと向かい合いお互いに「知る」ことから始まるのではないでしょうか。 それが、共に手を携えて生きていくための第一歩なのではないかと、つよく感じています。
 このセミナーに参加し、みなさんのお話を聞かなければ、 日本に住む外国人の抱えている問題や自分のいる社会について、 そして自分の周りにことについて、何も気づかず、 何の問題意識も持たずにいたことでしょう。 何も知らないでいた私にとって、非常に貴重な体験でありました。 そしてなにより、このセミナーでベトナム人の友達、 自分の妹のように可愛い「友人」ができたことが、 私の大切な宝物となりました。
(W.K)

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