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チョットいいこと 65

仲間として生きる
"難民の時代"映した16年
仕える人
《日本の心》ベトナムに伝えたい
ベトナムに住んでみて
政治局若手、女性抜てき
相次ぎ司祭叙階
チョットひとこと



仲間として生きる
在住外国人との交流から

 最近、姫路市でも多くの外国人を見かけるようになりました。 戦前から居住しておられる在日韓国、朝鮮の方々をオ−ルドカマ−とすれば、 ニュ−カマ−としてベトナム、ラオス、中南米、 フィリピンを始めとする東南アジア、さらにアフリカから来られた方々が生活しておられます。 来日時期や目的は様々ですが、同じ地域社会に住む仲間として共に生きてゆくことが求められています。
 ベトナム、ラオスの人たちと私との関わりは、1079年、姫路市の郊外、 仁豊野にインドシナ難民のキャンプを設けた時に逆上ります。 その後、キャンプの隣に日本で初めての難民定住センタ−が開設され、 定住支援の取り組みが本格的に行われるよになりました。 (そのセンタ−も96年3月に閉鎖されました)3〜4か月の日本語教育と社会適応訓練を受け、 仕事と住まいを紹介された難民たちは、定住生活を始めました。
 現在、約500 人が姫路市で暮らしています。定住生活には様々な問題があります。 言葉、仕事、健康、子供たちの教育、地域住民との関係など。 私はキャンプ閉鎖後、定住後のケアに少しでも協力したいと考えて、アジア交流センタ−を始めました。 幸い、教会内だけではなく、広く市民の皆様からの応援もあり、少しずつ効果が上がっているように思います。
 地球の裏側にある中南米、中でもペル−、ボリビア、ブラジルの日系人は、 いわゆるバブル経済の頃にやってきました。彼らは日本に永住するわけではありませんが、 日本政府より正式に就労を認められ、日本人と同じ職場で働いています。 しかし、彼らを支援する公的な施設はありません。 ここでも多くの善意の市民ボランティアとして関わっています。 姫路カトリック教会では、月に1度スペイン語とポルトガル語のミサ(拝礼)を行っていますが、 祈りの後は、大阪から招いた神父とともに、実に様々な相談に対応しています。
 フィリピン人たちとのつながりも20年以上になります。 初めはエンタ−テイナ−として働く若い女性が多かったのですが、やがて男性の「労働者」も増えてきました。 日本人と結婚してこの国に住むようになったケ−スも、少なくありません。 毎週行っている英語のミサには、こうしたフィリピンやビルマ、ナイジェリアの方々も来られます。 播磨カトリック教会では、特に国際結婚をしたカップルの相談にあたっています。
 カトリック教会には、国際協力委員会というネットワ−クがあり、 全国の仲間と連携しながらささやかな活動を続けていますが、カトリック以外のネットワ−クもあります。 また宗教のあるなしに関係なく、善意の市民の協力も大きなものがあります。 定住であろうと、一時滞在であろうと、姫路という地域社会で「共生」していくことが、 本当の「国際化」の第一歩ではないでしょうか。外国語ができるかどうかは問題ではありません。 同じ仲間、同じ住民として心を開いて交流したいと、私は在日外国人の一人として考えています。
神父 ハリ−・クワ−ドブリット (HELLO! HIMEJI より)


"難民の時代"映した16年
混迷インドシナ▼日本  流れ続けた人々
昼食をとりながら談笑するベトナム難民たち(姫路定住促進センターで)
 小舟からあふれんばかりの「ボ−ト・ピ−プル」が、相次ぎ日本に漂着した時代があった。 ベトナム戦争集結(1975 年)後、混迷のインドシナから国外に逃れた難民たちだった。 あれから20年、多くの難民を受け入れてきた「姫路定住センタ−」(兵庫県姫路市)が入所者の減少から、 この度業務を終了することになった。わが国の難民政策は、その役目を終えたのだろうか。 関係者の思いはさまざまだ。 (丸山 伸一)

 「センタ−が本当に必要とされていたのは最初の10年、 だから仕方がないことです」業務課長の後藤生光さん(54)は、プレハブ造りの宿舎や教室を案内しながら、 さばさばとした口調で言った。
 入所者数は確かに減った。わが国で初めて、ここ姫路にセンタ−が設立されたのは'79 年12月。 当時300人の難民がいたが、現在では25人にまで減少した。 日本語教育、職業訓練、就職あっせんなど、定住に必要な6か月の指導が終わる11月にはすべての入所者がセンタ−を去る予定だ。
 だが「一番変わったのは、入所者の考え方だ」と後藤さんは言う。 「最初の5年間は真剣だった。政治的理由で国を脱出した人がほとんどだから、みんな信念を持っていた」 祖国の政情が少しずつ安定し、出国者の一時帰国が許されるようになると、 現地では「日本に行けば稼げる、遊んで暮らせる」といううわさが広まった。 教育期間が終了しても職につかず、15万円の定住準備金をもらって帰国してしまうケ−スも出てきた。
 また、ベトナム人に限り、家族を日本に呼び寄せることが可能になったが、この 制度で来日した親族の中には「どうせ息子の世話になるんだから」といった思いから、 日本語の勉強に身が入らない人も多いという。「新しい道を選んだのだから、 頑張らんかい、と言いたい気持ちです。彼らのためにしていることが、逆に彼らを無気力にしているのではないか、とも悩みました」

 入所者に対する後藤さんの思いは、その経歴と無縁ではない。農家生まれ。 大学卒業後、郷里の大分で高校教師をしていたが、68年、青年海外協力隊に志願してラオスの農村に入った。 現地の女性と結婚し、子どもも生まれた。 ベトナム戦争後、ラオス国内も混乱したが、ビエンチャンの日本大使館にさらに5年間勤め、80年夏、日本に戻った。 この間、ラオスの人々が国を捨て、難民になっていく姿をつぶさに見てきた。 「メコン川を泳ぎ切れればタイ。白いプラスチックのタンクにつかまって向こう岸を目指す。 それを、こちら(ラオス)側から兵士が撃つんです。 川面を水柱が走ってポ−ンとタンクが宙に跳ね上がる。 『あっ、やられたな』って」
 大使館に勤める現地人職員が、帰宅の際に「またあした」と言いながら涙を流す。 すると決まって翌朝、彼らは出勤して来なかった。夜中に国境を越えたのだ。 その中の何人かは、難民キャンプを経由して、姫路のセンタ−にやってきた。 後藤さんは、奇跡的な「再会」に言葉をなくしたという。

 センタ−閉鎖後、後藤さんはラオスへ「帰る」つもりだ。 小さな日本語学校を開き、日本からUタ−ンしてくる元難民のラオス人に、勤め口などを紹介する窓口を作るのが夢という。 「あの国が好きなんです。物心ついたころの自分に帰れる。 つまり、二回目の人生を与えてくれる国なんです」後藤さんにしかできない「草の根援助」の第一歩が始まる。

 インドシナ難民
 '75 年、ベトナム戦争が集結すると、富裕層や共産主義に反発するベトナム人ら十数万人が国外に脱出した。 同じころ、カンボジアも「クメ−ル・ル−ジュ」(ポルポト派)に、 ラオスも左派愛国戦線「パテト・ラオ」に抑圧され、大量の難民が生まれた。 日本政府は'79 年難民定住の受け入れを決め、これまでに約九千八百人が定住しているが、 流出難民が減少したことから、日本など関係各国は昨年春、 今後は「ボ−ト・ピ−プル」を難民として受け入れないことを申し合わせている。

 異国で働く悩み《心のケア》今後も必要
 「センタ−はなくなっても、定住難民の心のケアをする受け皿は必要」。 そう言うのは、姫路定住促進センタ−で難民相談員を努める福本智子さん(48)だ。 結婚。離婚、健康問題に始まり、子どものいじめ、ゴミの出し方、近所とのトラブルなど、ありとあらゆる相談が持ち込まれる。
 最も深刻なのは「精神的な悩みの解決策がない」こと。 異国で働くストレスから酒を飲む。それが原因で会社をクビになり、妻子からも見捨てられる。 やがてアルコ−ル中毒で病院へ そんなケ−スも少なくない。
 一月の阪神大震災。神戸市長田区の公園には、なおベトナム人がテント生活をしている。 毎土曜日、彼らを見回り、声をかけてやるのも福本さんの仕事だ。 「政府は『(難民)を受け入れる』という約束は守った。でも、その後のフォロ−は........」と、福本さんはため息をつく。

 ブィ・ティ・ミン・ヒュ−さん(27)は84年に姫路のセンタ−にやってきた。 南ベトナムの国会議員だった父は、彼女が生まれる前に暗殺された。 戦争が終わると、今度は長兄が刑務所に。「将来を考え」国外脱出を決めた。
 上智大学を卒業した彼女は、昨春、横浜市内の高校の数学教師となった。 「センタ−の生活は、自由で天国のようでした。やさしく、わかるまで日本語を教えてくれた。 思いっきり勉強した、という思い出があります」。そして、こうも言った。 「定住したベトナム男性が一時帰国で見つけた奥さんを日本に連れ帰った場合、 だれが日本語を教えてくれるのか。(センタ−が閉鎖で)すべてが終わりというのでは冷たい」
(読売新聞)


仕える人
石川能也神父をあかつきの村に訪ねて

 今回は、群馬県赤城南麓の「あかつきに村」(ベトナム難民定住センタ−)の神父さん、 兼いやじさん兼、よろず相談係り、整理清掃係り、廃品集配係り、等々となんでもニコニコと、 こなしている石川能也神父の生活を紹介しよう。
 皆さんご存知のように、神父さんの中には一生修道院の中で祈りや労働に従事し神に仕えている人、 教区司祭でなくても修道司祭でも教会の主任として信徒の世話や、宣教に当たっている人、 学校で教えている人、病院の医師、神学物、本をたくさん書いている人、さまざまな人がいる。
 神様は、ご自分のすべてを捧げて司祭の道を歩む人に、その人が司祭になる以前から与えられている、 いろいろな特長や性格を上手に使い、生かして神の国のため働かせている。 この「あかつきの村」の村長こと石川神父も、貧しい人、特にベトナム難民に仕える神父なのである。 1969年(昭和44年)に、前橋教会で叙階された神父は昨年の7月銀祝を迎えた。 神父になった始めの頃から、知恵おくれや、障害を持つため社会からはみ出している貧しい人々を助けるため一緒に、 こんぶ売りなどをし、資金を集め、どうにか共同してして生きて行ける施設を茨城県に作った。 が、その後、その施設を他の人にまかせ、ふらっと生まれ故郷、群馬県赤城南麓にやって来た 。松林と雑木のおいしげる三千坪ほどの教区の荒れ地に、4〜5人の仲間の協 力を得て、林の入り口に雨露をしのげるだけの小さな小屋を作り、廃品回収業をして、資金を集め、その他に、 世間からはみ出し、見捨てられている人を集め、「あかつきの村」を作った。 その後、ベトナム難民の問題が起こり、何人かずつ預かり、ついに定住センタ−として、二階建ての家も完成した。
 石川神父の廃品回収業は、だんだん有名になり、東京、横浜方面にまで回収の足をのばした。 いろいろな教会や、個人が使われなくなった品物を集めておいてくれトラックで回収してまわるのである。 集まった品物は何人かのボランティアが種わけして、売れそうなものを並べて、バザ−を開いた。 現在、このバザ−は週3回開かれ、ベトナム難民の生活を支えている 。廃品といっても、新しい物も多くあり、全国から宅急便でぞくぞく送られ、 大きな倉庫も建ち、内には山のようにつまれることもある。
 現在、この「あかつきの村」に常住している人は、50人、施設の地所内に、 パリ−ミッション会のシスタ−の修道院があり、2人のシスタ−がベトナム人の生活の面倒を見ている。 また、近くには、マリアの宣教者フランシスコ会の修道院も建てられ、 2〜3人のシスタ−がバザ−の手伝いや、廃品の整理をしている。
 ボランティアは、信徒、信者でない人を問わず善意の人の集まりで、 「くずの会」と言われ、60名近い会員が働いている。 いつの間にか、こんなにたくさんの仕事をこなす事になった石川神父は「あかつきの村」にいることは少ない。 一緒に働くシスタ−でも、なかなかつかまらないという忙しさだ。
 私たちも、4、5回電話や訪問をしてやっと会っていただけた。 忙しい仕事をこなしているわりには、石川神父はゆたりと落ちついた暖かさがある。 いつでも、何でも神様におまかせ、呼ばれればどこにでもとんでいって世話をする。 本当に仕える人である。言い忘れてはならないことがある。 この忙しい神父さんや、シスタ−たちを支えている力は、毎日のミサと黙想、多くの人の祈りである。
 村の片隅に、むしろ敷きの質素な聖堂があり、早朝神父は、必ず座禅をくんで黙想し、美しいミサを捧げる。 そして、キリストは神父や、シスタ−の心の中に生き、 50人のめまぐるしく、にぎやかな朝食の後、「あかつきの村」の一日を始めるのである。 会員の皆さんも、こんな生き方をしている神父さんや、シスタ−たちのためお祈りください。

係より
 石川神父さんの写真、ベトナムの人たちにとって力強い心の支えを感じます。 神父さんは誰が大きな失敗しても決して怒ることがないと聞きます。 あまり怒ることが多すぎて、神様の方にまわしていたのではないでしょうか。 年齢を重ねるごとに怒ることが多くなります。 若い者の考えが理解できなかったり、自分が正しいという思い込みが強くなったり、 今まで出来たことが出来なくなった自分にいら立ってたり、教会にも行けなくなり、祈りも忘れてしまう。 こんな時、石川神父さんのように、ありのままの自分を神様にまかせましょう。 そして、神が召し出した司祭たちをまもるために、また、多くの若者が神の呼び声を聞いて答えるために、 私たちの小さないのりを神様に差し出し受け取ってもらいましょう。
(OREMUS 祈りましょう )


《日本の心》ベトナムに伝えたい
 各地に伝わる民族芸能を演じる歌舞団「荒馬座」(板橋区清水町)が来月ベトナムで公演を行う。 「日本の伝統文化を知ってもらいたい」。歌舞団にとって創立30年目にして初めての単独海外公演。 団員たちはいま、渡航費用などの工面に懸命だ。
青森県今別町の「荒馬踊り」は荒馬座を代表する出し物。ベトナムでの反響は?
 荒馬座は1966年(昭和41年)板橋区の音楽好きの仲間が集まってつくった。 それぞれサラリ−マンや公務員、学生だったりしたが、みんな勤め先や学校を辞め、 1年間秋田県に民俗芸能の研修に行っての旗揚げだった。 時代高度成長の真っただ中。 東京への人口集中が進み、地方に残る民俗芸能も衰退していた。 「全国から人が集まる東京で、日本人の心を守り育てていこう」
 代表の狩野猛さん(50)たちは「神田ばやし」「しし舞」「秩父屋台ばやし」など各地の民俗芸能を学び、 自分たちでアレンジして演じてきた。 首都圏の小、中学校や養護学校で、毎年ほぼ250 回の公演を続けている。
 67年からは、教師や保母を対象にした太鼓と民舞の講座も開いた。 狩野さんは「学校は西洋音楽が中心なので子どもたちが日本の芸能に触れる機会を増やしたかった」と言う。
 荒馬座は、伝統が失われていく首都圏での活動にこだわってきた。だが、今回、 一昨年夏に狩野さんが友人に誘われて旅行したのがきっかけで、ベトナムで公演す ることになった。その旅行の時、狩野さんは2週間、車でベトナムの山岳地帯千六 百キロを回った。水田では若い女性が手で草を取り、ワラ束を担いでいた。懐かし い光景だった。「こういう労働の中から芸能が生まれたんだ」と感銘を受けた。  しかし、経済成長が著しいベトナムでは急速に文化も変化していた。 地元の民族楽団をの人が「若い人はアメリカの音楽の方がよくて、伝統に興味を持たない」と嘆いていた。 荒馬座を始めたころの日本を見る思いだった。 狩野さんは「日本にも伝統を忘れない人間がいることを知ってもらいたい」と考えた。 向こうの民族楽団を通して公演話は進み、ベトナム文化情報省による招待が決まった。
 座員27人は来月6から15日間、ハノイや山岳地帯の9都市で13回上演する。 しかし、手続きなどは文化情報省がやってくれるが、渡航や会場にかかる費用はこちら負担だ。 国際交流基金などの助成や約200 人の支援協力が得られたが、必要な費用にはまだ一千万足りない。 狩野さんは「あきらめようとも思ったが、なんとかベトナムの人に日本の民俗芸能を見てもらいたい」と話し、 座員は「協力」を呼びかけ回っている。問い合わせは荒馬座(?3962−5942)へ。
(読売新聞)


ベトナムに住んでみて

 ベトナムに来て早や3か月、昔「サイゴン」と呼ばれ、 現在ホ−チミン市の名で知られている人口400 万の大都市で生活している。すこし住んだくらいでは、 正直な話、この国について、未だ何も分かっていない。驚くことが多い日々である。
 先日、日本の首相が首都ハノイを訪れ、そのニュ−スが全国に報道された。 この国は1986年のドイモイ(刷新)政策発表後、自由世界に窓を開き、経済復興路線をひたすら走り続けている。 日本のバックアップでこの国のGNP(現在220ドル)に一段とエネルギ−の拍車がかかるに違いない。 いつまでもアジアの最貧国でいられないのは、民族のプライドが高いからだろうか。
 世界最強の軍隊を武力で追い出し、しかもあの戦争相手のアメリカは20年を経た今日、 経済封鎖をといて、国の復興に手を貸すという。世界の国々の熱い視線がこの国に注がれるのも当然のことである。 ベトナムは今、経済復興の熱に浮かされているように見える。
 ホ−チミン市の道路をすざましいエンジンの音を轟かせて「ホンダ」のモ−タ−バイクが洪水のように流れている。 よく見ると2人乗りのところ更に子どもや若者が2〜3人しがみついている。 その間を右往左往しながら動いているのが自転車とシクロと呼ばれる、 座席付き自転車、ベトナムの足である。それと対照的に、なんと対照的に、なんと歩行者の少ないことか。 都心に近い街路樹の下、わずか2ブロックの間を歩く人間がいないのに驚いた。 誰かいるとすれば時たま見かける外国人観光客くらいである。 この現象は一体何が現象なのだろう。ところでよく悩まされるのは子どもの押し売り。 街中にでると6〜7歳くらいの女の子が一組200 円で絵はがきを売りつけてくる。 だいたい70円の品物なので「まけて」と言うが、なかなか納得しない。 逃げても執拗に追いかけてくる。また、その根性に負けて買おうものなら、 そこを目がけて多の「恐るべき子どもたち」の総攻撃にあうのである。
 この国の不幸は数多い身体障害者、職のない浮浪者であろう。 宝くじを売り歩く男性や靴磨きの少年たちはとにかく仕事を持っているが、 中には、ただ、ただ人の慈悲にすがり、銭を乞い求めてさまよう人がたくさんいるようだ。 時々、両足がなく、車のついた板に這いつくばって、手で道路上を漕ぎ回っている「乞食」を見かけるが、 それこそ胸が痛い光景である。ベトナムはアメリカとの戦争ばかりではなく、 最近まで隣国の中国やカンボジアとも血生臭い戦闘を交えている、弾や地雷にやられた人たち、 普通の国なら英雄となるべき人が、国の補償も受けられず路頭に迷うのは、政治が貧困だからなのか? この国の福祉は一体どうなっているのかと叫びたくなる。 市の玄関であるタンソニット国際空港も2年前と比較すると格段よくなった。 そして、目につくには市内に近代的な高層建築の増えたことだ。 サイゴン湖畔の一等地は近く高級ホテルのラッシュとなる。 外資によって多くの工場が都市近郊に誘致され、この国の経済は近い将来、 日本のような高度成長を遂げるかもしれない。 ただ心配なのはこのままでは貧富の差が益々ひらき、そのアンバランスが社会の歪みとなって、 人心を荒廃させていくことになる。ベトナムは今その分岐点に立っているようである。
 10月に、ビザのことでカンボジアのプノンペンに行き、そこで2名の信徒宣教者に会うことができ、 市内を案内してもらったが、とても良い勉強、体験の機会となった。 ベトナムはカンボジアのようなことが起こるとは思わないが、やはり多くの民衆は貧困に苦しんでいる様子である。 毎日曜日にいく最寄りのカトリック教会は主日には聖歌隊が活躍しているばかりでなく、 教会学校も盛んで、毎日曜日の9時にはそのためにミサがあり、 500 名程の小・中・高校生の年齢の子どもたちが大聖堂を埋め尽くす。(午後のミサと2回に分けている) 聖体拜領をする者も多いので驚いている。 話を聞くと教会の信者ボランティアが30名程いて子どもたちの要理を担当しているという。 
(いずめ けんじ)(ミッション)


政治局若手、女性抜てき
ベトナム党新体制決定

 ベトナム共産党は第8回同党大会3日目の30日、新指導部体制の選出を行った。 改革・開放路線「ドイモイ(刷新)を巡る推進派と慎重派の対立に配慮、 党内安定を図るため、ド・ムオイ書記長(79)とレ・ドク・アイン大統領(75)、 ボ−・バン・キエト首相(73)の三首脳が決まった一方、政治局員には、史上初の女性や異例の若手が起用され、 次期指導部育成に向けた世代交代をアピ−ルするため、大幅な入れ替え人事が行われた。 大会最終日の1日に正式に発表される。
 ムオイ書記長は同日午前、党大会の休憩時間に記者団の質問に答え、 自身の進退に関して「(79 歳と高齢なので)引退を申し出たが、人民と党が続けて働くことを要求した」と言明。 同日午後の党指導部の正式手続きを前に、留任が既に合意済みであることを確認した。 書記長はまた、「三首脳が留任することになったのは、なぜか」との質問に対しても、 「党と人民が、我々に与えた任務だから」と延べ、三首脳の継続を確認した。
 共産党筋などによると、ムオイ氏は当初、高齢を理由に勇退の意向を示したが、 後任候補をめぐる改革推進派と慎重派の調整がつかず中間派のムイオ氏の続投で両派の妥協が成立。 高齢を理由に秋の国会でかたまりかけていたアイン大統領(党内序列2位)とキエト首相(同3位)もムオイ書記長留任を受け、 改革派のキエト主首が巻き返しに出て3首脳そろっての留任に落ち着いた。 一方、新政治局を廃止し、政治局に常務委員会を新設する組織合理化に伴い、現在の定員17人を19人に拡大。 共産党筋などによると、起用が予定されていたグエン・ディン・トゥ書記が急死したため、1人は空席とし、18人を選出した。
 うち8人は新人で、初の女性政治局員としてグエン・ティ・スアン・ミ−党監査委員会副会長(58)が起用されたほか 「若手改革派のホ−プ」とされるチュオン・タン・サン・ホ−チミン市党委員会書記長(47)と改革慎重派と見られる グエン・タン・ズン内務次官(47)も抜てきされ、ここでも双方のバランスが配慮された。 中央委員は定員を10人増やして170 人としたうえ四割程度を入れ替えた。 なお、ムオイ書記長は記者団に対し、書記長自身の続投期間について 「どのくらい続けるかわからない」と任期途中の交代もありうることを示唆「若い書記長を望む」とも語り、 後継者にいずれは若手を起用したいとの意向を表明した。
(読売新聞)


相次ぎ司祭叙階式

 ベトナムでは5月に10人の新司祭が誕生した。 ハイフォン教区では23日グエン・トゥン・クオン大司教がハノイの東百キロにある同教区カテドラルで5人を叙階、 ファンティエト教区では、2日ヒュン・バン・ギ−司教が3人を叙階。 同国中部のニャ−トラン市内のフランシスコ会が担当する小教区でグエン・バン・ホア司教が2人の同会新司祭を叙階した。 ベトナムの同会では1990年以来14人が叙階されたことになる。
(カトリック新聞)


チョットひとこと

 人が自分の国を失ったり、自分の国を捨てた時に『難民』といわれた。 それは悲劇である時と自分の自分の自由な意思の表現として尊敬される時があった。 しかし、現在の難民の多くの場合に、生命の危険の悲惨さがつきまとっている。 飢えと劣悪な環境、多くの人から難民と呼ばれることの屈辱さえ味わっている。 自由と人間の尊厳を守る孤独な戦いを巨大な権力に対して行う人々のことを難民と呼んでいたが、 今や、人々から憐れまれる人、自分の場所を失って他者の憐憫によっている場所を与えられている人として見られている。
 私たちがインドシナ難民と言ったりしている時、本人たちがどんなに苦しみ、 ある時には彼らの誇りが傷つけられているか、わかっているだろうか。 日本人は日本の国に生きる権利があり、外国人にはその権利がなく、 もし外国人が自分の国を失ったり経済的な理由で出てきて、彼らがお願いすると、 日本人は可愛そうな人々を憐れんで日本の国に住まわせてあげるのであると思い込んでいる。 あるいは利用価値がある人々を使い捨て品物のように受け入れる。 日本人に迷惑がかかっているような被害妄想が起こると、直に外国人を排斥していく。 私たちは憐れみの対象としている時には親切でいるが、 外国人と本当の人間として出会うことがむずかしいのかもしれない。
 しかし、この日本の国に来て。定住する意思を示している人々との関係は日本人にとって貴重な体験となるであろう。 もうすでに強制的に連行多くの朝鮮半島の人々との関係があったのにもかかわらず、 責任逃れのできない苦しみと圧迫を加えてなお彼らから生命と人間の誇りでまで奪った日本人であったことをしっかりと思い出す必要がある。 今ここに、日本に来ている人々と共に生きることがどんなことであり、 相互に喜びを見いだすことができたなら、人間として生きることになるであろう。
 今この世界に3000万人以上の難民がルアンダやボスニア・ヘルツェゴビナなどに存在していることを、 身近かにいる人々との体験を通して、世界的な視野で見つめて、行動してみたいと思う。
(H.K)

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