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チョットいいこと 64

母国語併記の雑誌発刊
生を教えたベトナム訪問
ベトナム進出相次ぐ
ベトナムの国立公園を支援する
私、看護婦になります
親子が触れ合う
FMわいわい
女性記者§発
フ・ドン村の天童
ベトナム孤児院にALTが教室贈る
ユネスコ親善大使に
長期支援に人手を



母国語併記の雑誌発刊
ベトナム人ソン神父ら「在日2世に文化伝えたい」
ソン神父

 阪神大震災直後から、神戸市で被災ベトナム人を支援し続けている横浜教区のファム・ティン・ソン神父(32)らが昨年12月末、 ベトナム語と日本語で母国の文化を紹介する隔月刊雑誌 『テイエン・ヴォンクェエ・フゥオン−故郷の響き声』(A四判、28ペ−ジ)を発行した。
 1970年代後半から難民として来日したベトナム人の中には、現在、子育てに悪戰苦闘している人たちが多く、 ベトナムで育った在日一世と、日本で生まれ育った二世との間には、言葉、料理、生活習慣、 文化のギャップが生まれている。親子でありながら十分に対話ができないという問題は、 深刻な悩みとなっている。
 編集部代表のソン神父は「二つの文化のなかですれ違っていく親と子が、心底理解し合えるように、 そして問題が少しでも少なくなるようにとの思いから雑誌の発行に踏み切りました。 特に、被災ベトナム人と接する中で事の重大さを痛感し、昨年夏から、原稿依頼、資料集めを始めたのです」と説明する。 創刊号には「ベトナム建国史」「ベトナム文化における伝説」をはじめ、日本語教室の情報も掲載。 また、ベトナム語の詩は、故郷への思いを親が子に直接伝えながら説明してもらおうと、 あえて日本語訳はつけないなど、親子の対話への思いが込められている。
 神戸市内には、750 人のベトナム人定住者が生活しているが、昨年の震災で70%が被災した。 ソン神父は毎日、被災者の精神的ケア、行政との交渉の際の通訳、 ラジオ放送FMわいわいのベトナム語担当などに走り回っている。 同誌には被災者の体験談も載っており、 「多くの人たちに定住外国人たちの現状を理解してもらえたら」とスタッフは語っている。 次号は2月発行。希望者には配布する。(?030-261-5093)
(カトリック新聞)


生を教えたベトナム訪問

 私はこの春休み13人の小中学生とともにベトナムを訪れた。 ベトナムのストリ−トチルドレンを保護する施設に文房具や薬品を渡し、 枯れ葉剤によって障害をもってしまった子どもに車いすを渡すというボランティアの旅である。 しかし、この6日間の旅の中で、多くのものを与えてもらったのは、ベトナムの子どもたちではなく、日本の子どもたちであった。
 彼らは元ストリ−トチルドレンや貧しい地区の小中学生と夕食や共同作業など親密な交流を深める中で、 そして道路で物乞いをしている子どもの姿の中で、さらに車いすをもらった障害児の喜ぶすがたを見る中で、 いままでの自分を見つめ直し、自分に欠けるものを発見した。
 ベトナムの子どもは貧しいが子どもは生きるパワ−がある。 貧しい中でも、明るくたくましく生きるベトナムの子どもの姿は日本の子どもがいつしか忘れてしまったことだと。 そして、多くの子どもが、ベトナムに対して「貧しい、汚い、治安が悪い」と思い込んでいた自分を反省した。 ベトナムには生きる力と、人々の豊かな輪があると。中学生の自殺が絶えない日本だが、 このような広い視野をもった教育こそ今まさに求められているのではないだろうか。
静岡市 笠井 英彦 中学校教師 (朝日新聞)


ベトナム進出相次ぐ
日本の自動車メ−カ−

 今後の有望な成長市場とされるベトナムに、日本の自動車メ−カ−が相次いで進出する動きを見せている。 政府から小型バス生産の認可を受けている三菱自動車工業がトラックの生産に乗り出す計画をたてているほか、 スズキは既に商用車の認可を申請している。 トヨタ自動車や本田技研工業も近く生産の認可を申請する方針だ。 七千万人の人口を抱えるベトナムは経済の開放政策を進めており、 「中国に次ぐアジアの有望市場」(大手メ−カ−)への進出競争は、欧米メ−カ−も加わって加熱気味だ。
 三菱自工は昨年5月、日本メ−カ−として初めてベトナムの国営企業などと合弁で「ビナスタ−・モ−タズ」を設立した。 今年3月ごろからホ−チミン市で「デリカミニバス」(10人乗り)の生産を年間1,000 台規模で開始する。 さらに、ハノイ市の国営企業と小型トラック生産を協議中だ。 スズキも、ホ−チミン市郊外に現地企業などと合弁で組み立て工場(年間生産能力4,000 台)を建設し、 小型の商用車を96年春から生産する計画で、すでに政府に事業認可申請を行っている。
 一方トヨタは、ベトナム重工業省傘下のVEAM社などと合弁会社を設立し、 ハノイ市北部で年間数千台程度を生産する方針で、現在事業化調査を行っており、 近く認可を申請する。またベトナムの二輪車市場で九割以上のシェアを持つ本田は、 近く二輪車生産の認可を申請する。
 ベトナムでは現在、国内の四輪車販売台数は年間二万台程度とみられる。 しかし、米国が昨年、ベトナムに対する経済封鎖を解除したことから、 将来性を見込んでフォ−ドなどの米三大自動車メ−カ−(ビッグスリ−)や、 ドイツのメルセデス・ベンツなど欧州勢も相次いで進出の意向を表明した。 ベトナム政府は、産業育成のため自動車メ−カ−を国内で5社に限定する政策を打ち出しており、 日米欧メ−カ−の進出競争は、今一段と激しさを増しそうだ。
(読売新聞)


ベトナムの国立公園を支援する

 大通りにはブタやウシが悠々と歩く。自転車がクラクションを鳴らす。 ベトナムの首都・ハノイは「種々雑多。子どもの頃の日本です」。 昨年十月、初めてベトナムの街角に立った時、懐かしさのような感情がこみあげてきた。 人々は生き生きとした顔をしている。 国立公園を支えようとする若者たちも、やる気十分だ。
 北京でその1年前、日本のナショナルトラスト運動を紹介する機会があった。 が、その話を聞いたハノイ大学の研究者がホテルに訪ねて来た。 市民が力を合わせて自然や文化遺産を守るという考えに共鳴したという。 ベトナムには現在九つの国立公園がありが、戦後の開発ブ−ムの前に崩壊寸前だと訴えた。 「その熱意がすごいんですよね。東京に帰ってファックスを送ると翌日には必ず返事がくる。 二つ、三つの許可を求めても翌日には許可証が届く。ファックスの手紙から気持ちが伝わって来るんです」
  国立公園協会に支援を求め、一緒に活動するうちに昨夏、協会職員に。以来、全力 投球でベトナムに取り組んできた。ハノイで再会した研究者たちは「国立公園協会のような組織を作りたい」と、 すでに動きだしていた。そしてこの2月、日本の支援でベトナム国立公園協会が設立されることになり、式典参加のためハノイを再訪する。
 曾祖父が琉球王朝最後の王、尚泰。戦後、疎開先の千葉県で生まれ、 琉球大学を経てアメリカの環境研究のメッカ、ウィスコンシン大学で12年、 植物学、環境政治学を研究してきた。「沖縄とベトナム、そして環境と不思議な縁を感じます」
親泊 素子(読売新聞)


私、看護婦になります
花田中学校三年 ファム・ゴック・ヒエン

 私は、1980年7月25日、ベトナムのサイゴンで生まれました。 私が9歳の時、お父さんと弟は船に乗って日本へ行きました。 だから私と妹は、お母さんやおばさんといっしょに暮らしました。 私たちのベトナムでの生活もよかったです。私は、中学に通ってがんばりました。 ベトナムでは、国語、数学、英語、理科、社会と体操の授業がありました。 私は、数学が好きで、特にがんばりました。英語は、毎日文章を覚えてきて、先生と英会話の練習をしました。 お父さんは、日本でがんばって働いてお金と手紙を私たちに送ってくれました。
 私は、13歳のとき、日本に行くことになりました。でもお母さんは、まだベトナムに残っています。 みんなと別れてさびしいけれど、お父さんと会うことがうれしかったです。 ベトナムを離れるのはつらかったけれど、日本の国が楽しみでした。
 そして、平成5年4月16日、私と妹は飛行機に乗って日本に来ました。 日本は初めてだから、私たちは、何もしらなかった。 2週間ぐらいたって、私と妹は、日本語を勉強するために姫路定住促進センタ−に入りました。 6か月がたって、私たちはそこを出て学校に行きました。 妹は、私より先に日本にきていた弟といっしょの花田小学校に入り、 私は12月1日、花田中学校に入りました。私はまだ一年生だし、日本の学校は初めてだから、友達はあまりいませんでした。 でも、私は、がんばって毎日学校へ行きました。
 日がすぎて、私が二年生になる前に、お父さんがなくなりました。 お父さんは、日本に来て、初めの三年間は東京で働きました。 その時、病気になって一年入院しました。お父さんはベトナムにいる時から病気でした。 日本に来て、また病気になったみたいです。それから、姫路に来て皮の仕事をしました。 日本語もわからないし、友達もいないから、とてもさびしかったと思います。
 そして、私たち兄弟は、おばさんと住むことになりました。 おばさんは、お母さんのように私たちを育ててくれます。 私は学校も続けます。二年たって私は、今、三年生になりました。 学校でつらいこともあったけど、そのかわり楽しいこともたくさんあります。 私は、日本語もしゃべるようになったから、友だちと話ができます。 私は勉強がだんだんよくなるし、みんなと遊ぶこともできました。 みんなは、とてもやさしい人でした。いろんなことをおしえてくれました。 わからないことは、友だちがおしえてくれました。おべんとうもいっしょに食べるからおいしいです。
 私のおばさんは、子どもが2人いて、大変だから、私は、家の仕事を手伝います。 私は、中学三年だから、高校を決めなければいけません。そして私は、よく考えて決めました。 今、私は、看護婦になりたいから岡山の看護学校を選んだのです。 私の行く道は、この道だと思います。私が看護婦になりたいと思ったわけがあります。
 妹が自然教室に行って、うでに怪我をして入院したとき、私もいっしょに病院に泊まりました。 妹が手術をしたあとに、看護婦さんが見にきてくれました。 だから、妹は安心しました。看護婦さんは、注射をしたり、血をとったりしていました。 看護婦さんが働いているのを見て、「私もなりたい」と思いました。 それとおばさんがいつも私に、「看護婦になりなさい」と言っていました。 たんにんの先生も私に「看護婦になりなさい」と言ってくれました。 「普通の高校にいって働くよりも、看護婦になったほうが、日本でもベトナナムでも働ける」と言いました。 私は、勉強の方は、もっともっとがんばりたいです。 私は、そのことはむずかしいと思うけど、どうしても看護婦になりたいから、 今がんばっています。
 私はベトナム人として、これから日本でがんばって、看護婦になってどうどうと仕事をしたいのです。 そして、ベトナムにいるお母さんを日本に呼んで、家族みんなで暮らしたいです。私は、看護婦になります。
 (姫路教育委員会発行「1995年度人権文集 生きる(通巻33号)」)


親子が触れ合う
「遊びんピック」開催

 阪神淡路大震災で聖堂を焼失した神戸市長田区のカトリック鷹取教会(神田裕神父)で、 こどもの日の5月5日、親子を対象にした触れ合いの場「遊(あそびんピック」が行われた。 集いは、国際映像文化交流協会が、被災地の神戸の子どもたちに、明るく希望をもって生きていってほしいと願って開いたもの。
 当日は約80人の親子が参加。紙で作られた集会場省特選アニメ『チストみどりのおやゆび』を観賞した後、 戸外に出て、用意された1,2 メ−トルほどの布製のこいのぼりに思い思いのメッセ−ジや色を塗り、 それをあげて楽しいひとときを過ごした。=写真。
 同交流協会代表で横浜教区雪ノ下教会所属の小澤優子さんは「映像の持つコミュニケ−ションの強さを使って、 子どもも大人も一緒に楽しく交流できる場を提供したかった。 どの子どもの顔も明るく輝いていたのが何より」と語っていた。 「遊びんピック」は「いろいろな国の子どもと一緒に遊びましょう」という趣旨で「リンピック」をもじったネ−ミング。
(カトリック新聞)


FMわいわい

 「復興ワンダ−ランド」ペトラ・クラ−クのOLDIES『DOWNTOWN』でリズミカルにスタ−トする。 地元野田北部まちづくり協議会の皆様の番組で始まります。 打ち合わせは00分、本番30分、お好みやさんでの反省会90分....。 第1回の収録のお手伝いをさせていただきました。 出演は校長センセの福田さん、青池監督と私の髪を何時も苦労してくださる林さん、 若手ホ−プと独身の切り札の河合ブラザ−ス、クワガタ牧場のオナ−の小野さんと司会進行の青池監督。 この番組は地域のまちづくり協議会のメンバ−が夢と希望を込めて、まちづくりについて語っていく神戸復興に欠かせない、 またコミュニティ−FM局として本来の地域密着型番組です。 番組の中で、小野さんの「復旧ではなく復興でなくてはならない」熱い言葉が印象的でした。 これからも多くの方々にでていただき放送を通じて豊かなまちづくりができることを願っています。
(たきび)


女性記者§発
甘くなかったベトナム語

 2か月ほど前から2週間に1回、近所に住むベトナム人に基本会話の指導を受けはじめた。 それで「今年はベトナム語をマスタ−するぞ」と早々に宣言してしまった。 ベトナムの言葉を知りたいと思ったのは、精神里親活動を通じて、ダナン郊外に住む子どもと文通をはじめたからだ。
 5歳になる゛わが子゛の手紙には、動物の絵に覚えたての文字が添えられていた。 だから私が最初に覚えたベトナム語は、「CHO (チョ−)犬だった。 ベトナム語の表記はロ−マ字で易しく、語形変化もない。 おまけに、漢字がまじるので、親しみやすい言葉と思っていたが、甘かった。 微妙な音の高低、のどの詰め方などを調節して6つの声調を微妙に使いわけることは、 音楽的要素に欠ける日本語を話す者には何ともやっかいな作業だ。
 「ma=お母さん」は語尾の上げ方を間違えると「ma=おばけ」になってしまう。 使ったことのない口全体の筋肉や唇を総動員させ、鏡の前でパクパクやっている毎日。 同じ里親活動で、タイの子どもを支援しえいる友人は、難解なタイの文字に四苦八苦という。 1年後、友人のタイ語読解力と私のベトナム語会話力、どちらに軍配が上がるか楽しみだ。 もっとも、お互いに三日坊主にならなければの話だが......。
(読売新聞)


フ・ドン村の天童
この民衆古説はLinh Nam Trich Quai 書からの引用

 雄王時代に、王は自国の繁栄を中心にして政治を行った。 北方や他の人々の意見を聞いたところ、ある家臣のひとりは"竜神の助力を求めてはどうか"と進言した。 王は早速祭壇を造り、供え物を用意して、3日連続祈り続けた。 3日目になると、天候が変わり、大雨と大風になり、城下町に身長9メ−トル、 顔が黄色で髪の毛の白い老人が現れ、歌ったり踊ったりした。 老人を見た者たちは奇妙に思い、王に報告した。 
 王は自ら出迎えて、城内に迎え入れた。老人は何も言わず、出されたご馳走も口にしなかった。 それを見て王は早速訪ねた。゛近頃、アン朝がわが国を狙っていると言う噂を聞いたのですが、 戦いになったらどちらが勝つか負けるか是非意見を聞かせてください゛ 老人はしばらく沈黙した後、占いを始めた。 そして王に言った。゛3年後に北方の侵略は必ず始まる。これに対して武器を調達し、 兵士の訓練を強化し、一方国内の人材を集め、才能に応じて役職につかせ、ほうびなどを与えるように。 そうすれば必ず国を守れるであろう゛そう告げた後、老人は雲に乗って天に帰った。
 王は老人に言われた通り、全国に使者を送り人材集めに力を注いだ。 そして3年後、アン朝の侵略が始まった。 同じころ、バック・ニン省、ティエン・ズゥ市、フ・ドン村に住む高年齢の夫婦の家に、 3年前の1月7日に男の赤ちゃんが生まれた。しかし、3歳になってもこの男の子はただ寝てばかりで、 言葉を一言も話すことができなかった。王の使者が村に訪ねた時、お母さんが子守をしながら冗談を言った。
  "男の子なんだから、こういう時に立ち上がって国を守り、ほうびをいっぱいもらって、 親孝行すればいいじゃないの゛すると" それじゃ、 使者を呼んで来てください゛と突然言葉を口にした。 びっくりした母親は近所の人たちにこの事を話した。奇妙な話と思いながらも使者は男の子に会うことにした。
 "子どもの君は何の用で私に合いたいと言うのか"と使者が尋ねると、 寝てばかりいたこの男の子が起き上がり、"高さ18メ−トルの鉄の馬、 長さ7 メ−トルの鉄の剣そして大きさに応じた兜とむちを用意してくれるように王にお伝えください。 そうしたら私が敵を追い出して国を守って見せます"。 使者がそのことを王に報告した。すると家臣の一人が"子ども一人でどうやって敵を追い出すというのだろう"と言った。 王は"これは竜神が送ってくれた天将かもしてらい。ともかく要求されたものを用意することにしよう"といった。 王の意向を伝えるために使者がまた男の子の所を訪ねてた。 使者が帰った後、お母さんは心配で心配でしかたがなかった。 それに対して男の子はただ微笑んでお母さんに"お母さんいっぱい食べ物を用意してくれるだけでいい。 戦いのことは心配しなくても大丈夫ですから"と言った。
 男の子はお母さんが用意してくれた食事を黙々と食べた。 とうとうお母さんが用意したものだけではたりなくなり、近所の人たちも一緒になって男の子に食べ物を調達した。 男の子は見る見るうちに大きくなり、身長が10メ−トルにもなった。 やがて、王が用意したものを届けさせたところ、丁度、アン朝の軍隊がヴ・ニン省のチャウ・ソン山の麓まで進軍してきた。
 男の子は立ち上がり、剣を手にし、"我は天将だ"と言って、兜をかぶり、馬に乗 った。そうすると馬が風のように戦場に向かい、先陣を切って敵を蹴散らした。 天将の出現によって敵は戦意を失い、逃げるものもいれば、降参するものもいっぱいいた。 アン王も戦いの中で死んだ。天将はキム・ホア郡、ソック・ソンの地まで敵を追撃した後、 馬に乗ったまま天に帰った。その日は4月9日であった。山頂にその跡が残っている。
 雄王はその恩を感じ、天将をフ・ドン天王に昇格させた。村にある古い家に神社を造り、 両親には土地などのほうびを与えた。のちのち年代が変わり、李朝になっても天将の功労は忘れられることなく、 李朝王が昇王に昇格させ、フ・ドン村にあるキェン・ソン寺の隣に神社を造り、 ヴェ・リン山に像をたて、年2回、春と秋に祭りが行なわれる。
(故郷の響き声から)


ベトナム孤児院へALTが教室贈る

 全国の公立中学校や高校などで外国語指導助手(ALT)をしている外国人32人が、 22日、ベトナムの孤児院でのボランティア活動のため出発する。 衣服や筆記用具のほか、満足な教育施設のない子どもたちのために「教室」もプレゼントする。 活動の中心となっているのは、宇都宮市教委のALT マリ−・デイビスさん(26。米国)昨年12月、 ALT 仲間とベトナムの孤児院や病院を訪問したデイビスさんは、 ベトナム戦争の孤児や生活の貧しい人々が、子どもを孤児院に預けている事実を知った。
 満足な食べ物や学校施設もなく生活する孤児たち。約3週間、英語を教えたり、 パ−ティ−を開いたりして子どもたちと過ごしたデイビスさんは「彼らの寂しさがよく理解できた」。 デイビスさんはこの活動を続けようと、今秋、全国の仲間に参加を呼びかけた。 この結果、宮城、京都、福岡など9府県から米、英、豪など32人の参加が決まった。
 一行は22日にホ−チミン市に入り、約三百キロメ−トル北東にあるニャンチャン市の孤児院を訪れる。 約30人の孤児に日本の子どもたちが持ち寄った衣服や筆記用具をプレゼント。 このほか、英語を教えたり、クリスマスパ−ティ−を開くなど、来年1月5日まで交流を深める。 さらに同僚の教師らから募った寄附金約60万円でプレハブ教室を建てる予定だ。
(読売新聞)


長期支援に人手を
 カトリック鷹取教会活動報告し展望

 震災以来、被災ベトナム人や地域の救援基地となっている神戸氏カトリック鷹取教会(神田裕神父)が30日、 救援活動の経過や今後の展望について中間報告が行われた。 同教会は震災で建物のほとんどを焼失したが、8月末までに約延べ4千人のボランティアが集まり、 物資や情報の提供、生活支援などを通じて地域や同教会の信者に多いベトナム人被災者らを支えてきた。
 報告会では、「被災ベトナム人救援連絡会議」代表の神田神父が避難所後のベトナム人被災者らの生活情況を、 現在教会内に建設中の紙製の集会所、テント村など建てている建築家の坂茂さんが「紙のログハウス」の建設情況を説明した。 ボランティアリ−ダ−の和田耕一さんは「引っ越し手伝いや仮設住宅の環境改善など、 地域へ向けたボランティアが必要になってきている」と活動の広がりを説明。 「長期的な支援のためには、まだまだ人手や資金が足りない」と協力を呼びかけた。
 最後に、教会や地域の復興足跡を追っている映画監督の青池憲司さんが、 「とりあえず地域の動きをまとめ9月中に教会の集会所で上映したい。 10月には映画祭に出品する」と話した。
(神戸新聞)


チョットひとこと

 背の高い人と低い人、太った人と痩せた人、丸顔の人と顔の長い人、黒い人と白い人、ゆったりした人、老人と子ども。 男と女、財産、学歴、環境、国籍、民族、生活習慣、人によって違うのは不思議なことである。同じ人は誰一人いない。

 窓から隣のフランス人学校を眺めていると、運動場に、ヨ−ロッパ人、アジア人、 アフリカ人大勢の子どもたちが遊びまわっている。みんな違う個性と人格を持ち、 笑ったり、泣いたり、怒ったりしている。同じ顔をしているのは非現実で、違っているのが現実か。 しかし、人間は、自分の仲間として、できるだけ似ている人を求め、できるだけ気の合った人を探す。 特に私たち日本人には、議論することが苦手で、以心伝心、察してくれるような友だちが大切にされるようである。 こんな仲間意識が、赤の他人を認めたり、対立した議論をしながら仲良くなるということをむずかしくしているのかも知れない。 それが高じると、違った人を村八分にしたり、いつもお客様にして絶対に自分の仲間にしないという傾向さえ出てくる。 この『仲間』という言葉も恐れを抱かせる言葉である。仲間はずれ、いじめ、無関心、拒否、抹殺、孤独などが生まれてくる。
 他民族、他国籍の人々が生きにくくしているのはこの日本人の無意識の世界がも知れない。 違った人々と一緒に生きることを人間は拒絶しているでのあろう。 日本人の社会の傾向は、他者との出会いを困難にしている。 私たちは神という最も違った者と出会うことができず、自分に似たもの、自分に都合のよいものにしかなじもうとしない。 だから技術経済、方法と手段では違った人々を利用して生きる術を知っていても、本当の出会いはできなくなるのかもしれない。
 日本の国に来ているベトナム人、フィリピン人、中近東の人々 、と共に生きることが私たち日本人にとってチャレンジとなるであろう。 自分たちが保護者面をしたり、相手をお客様にすることなく、一人の人格として相手になることができるだろうか。 「いい人だから」という言葉に注意したい。
(H.K)

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