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チョットいいこと 63

第十二回難民定住セミナー
言葉の壁乗り越えて
勉強に励み専門資格取得
日本語の本、寄付して
この日本で子どもそだてるのはたいいへんや
日本の公害経験ベトナムに伝授
文化プロムナード
ラブベトナム
チョットひとこと



第十二回難民定住セミナ−

 カトリック国際協力委員会(難民定住委員会)は4月12から14日にかけて「第十二回難民定住セミナ−」を静岡県伊東市で開催した。 テ−マは『家庭』。今日、日本に定住したベトナム人の子どもの多くが中学校や高等学校、大学に進む時期を迎えている。 こうした中で家庭の中でのコミュニケ−ション・ギャップが次第に浮上してきている。 3月には姫路の定住促進センタ−が閉鎖されるなど、日本社会ので、 「難民の問題はもう終わった」とされがちな中で、 参加者はこの問題は決して終わりではなく「文化の異なる人々が理解しあって生きる『共生』への新たな段階に入った」との認識を深めた。 日本語のできない親とベトナム語の苦手な子どもたち。 今回は日本に定住したベトナム人父親2人と中学・高校生7人を招き、それぞれの立場から率直な意見を聞き、問題の発見につとめた。
父さん2人と子ども7人を招いて開かれた難民定住セミナー
〔子どもの言い分〕
 「親はいつも自分の気持ちを少しも理解してくれない。あれをしなさい。これをしなさいばっかり」 「親は私たちにどう生きてほしいのか、私たちに何を求めているのかまるで分からない」 「なぜ日本人と結婚してはいけないのか。親はベトナム人でなければダメと言う。 それに私たちと同世代の男の子は少ない」 「両親に学校での出来事を話したいが、日本語や日本の教育制度をよく理解していないので納得ができない。 そこでつまらないので家をすぐに出ていくことになる」 「毎朝、保育園に妹を送ってから1時間かけて学校に行っている。 自分なりに一生懸命やっているのに、親はもっとベトナム語をもっと勉強しろと言われ、悲しい」 「弟の分と2人分のお弁当を毎日作って登校する。たまにお母さんに作ってもらいたいなと思う」 「お父さんが家の中で家族とコミュニケ−ションを取れない状況を自分はよく理解している。 だから、専門学校を出たら一生懸命働き、親に少しでも楽をさせたい」

〔親の言い分〕
 「言葉の問題は大きい。日本に来て子どもが重い腎臓病になった。 妻が病院に連れ行き医者から厳格な食事制限を守るようにとの指示があったが、妻にはその意味が分からない。 そのため子どもは亡くなった。友達にも子どもの障害といった問題を抱えている人がいる。 よく彼とも話す、何のために日本に来ましたか?と。共通しているのは子どもの幸福のためだということ。 会うたびにお互いに頑張りましょうと励まし合っている」
 「日本に来て最初に勤めた会社が倒産し、2度目の会社で働いている。自分は40歳で日本に来たが日本語はやはり難しい。 家の中では子どもと言葉が通じない。あひるとニワトリの家族みたい。 でも親として善悪の区別だけは示していかねばと思っている」

 家族の幸せを願って祖国を脱出した親たちは、家族を養うための仕事一辺倒で現在まで来てしまい、 日本語や習慣・制度などの習得におくれたこと。また家夫長制度の強いベトナム文化を忠実に守る親と、 幼いころに日本に来るか、または生まれ育ったためむしろ日本文化の方になじみが深い子どもとの間で、 親を敬遠するというこの年代特有の感受性もあって、異文化の違いによるギャップがかなり深いことが浮上した。
 今回のセミナ−では結論的なものは出なかったが、 従来のような日本人が中心になって定住者の生活面における支援方法を考えていくといった時代から、 日本に定住したベトナム人たちが、自分たちの抱える問題を解決するためにセミナ−を開く時代に来ているとの認識が示され、 これを念頭に各自が動いていくことが話合われた。 
(カトリック新聞)


言葉の壁を乗り越えて
姫路の花田中でベトナム人3人巣立ち

友人に祝福され、卒業を喜ぶ(右3人目から)ブウ君、ヒエンさん、ホンさん

 公立中学校の卒業式が行われた13日、姫路市立花田中学校で卒業生に交じって3人のベトナム人が、待望の卒業証書を手にした。 言葉と文化の壁を乗り越えて、1人は看護婦に、2人は高校へ進学。 「親切にしてくれた先生方、友人のおかげで、卒業することができた。感謝します」と喜びをかみしめた。
 卒業したのはグエン・タン・ブウ君(18)ファム・ゴック・ヒエンさん(15)レ・トウ・ホンさん(15)。 ヒエンさんは3年前の4月、父親を追って来日。同市仁豊野の姫路定住促進センタ−で約半年間、 日本語の基礎を学んだ後、同校に入学した。数か月後、父親が病死する不幸に見舞われたが、おばの支援で通学した。 看護科を目指したのは、妹がけがで入院した時、一生懸命に世話をしてくれた看護婦の姿に心を打たれたため。 教科書の漢字が読めないため、夜遅くまで、教科書のすべての漢字に読み仮名をつけ猛勉強した。 その努力が実り、先月、私立岡山高校衛生看護科に合格した。 「合格した時は、うれしくて空を飛んだような気分でした」とヒエンさん。 「親切にしてくれた友人と別れるのはつらいけど、高校でも新しい友達をつくりたい。 看護婦になったら、祖国の母を日本に呼びたい」と、声を弾ませた。
 またホンさんは兵庫県播磨高校に進学が決まり、ブウ君は私立市川高校に合格、 15日に公立高校を受験する。卒業式は午前10時に始まり、 八杉正寛校長が「志を立て、社会のために何ができるかを考えて、生きてほしい」と激励。 答辞で大谷達郎君が「いじめは絶対にいけないという先生方の指導は一生忘れず、頑張ります」と感謝の言葉を述べた。 姫路・西播では71校で卒業式は行われ約一万千人が卒業した。
(神戸新聞)


勉強に励み専門資格取得

   言葉の壁から一時は高校進学をあきらめたベトナム人少年ブゥドック・ユン君(17) 姫路市仁豊野=が定時制の県立白鷺工業高電気科(是安啓至校長、172 人)=同市伊転居=に合格、 9日勤務先の社長とともに入学式に出席した。 「しっかり勉強して専門の資格を取りたい」と張り切っている。
 ユン君は10歳から日本に移住し、全く日本語を理解しないまま、小学校5年に編入した。 先生が話す内容が理解できるようなったのは中学3年になってからだった。 しかしテストの問題が読めない状態で、担任と話し合った末、進学を断念した。 6年に卒業した後は、かわら制作の工場へ就職。先輩たちからかわら作りを習ううちに、機械や電気の仕組みなど。 知りたいことが増えていった。「高校に行きたい」と考え始めたのは昨年8月。 「やっぱり無理かな....」。自分から言いだせなず悩んでいたユン君に広瀬美佳社長から「定時制高校に行ってみたら」と声をかけられ、 受験を決めたという。
 文部省の調査によると、日系人、インドシナ難民、中国帰国子女の呼び寄せ家族など、 日本語が不自由な小・中・高校生は現在も増加傾向にあり、その数は一万千人を超える。 しかし、高校在籍者となると二百六十四人と激減。 中学校時代の担任高木志郎教諭は「ユン君のような年齢で編入すると、学校が嫌になって途中でやめる子も多いと聞きます。 ユン君は無遅刻無欠席で頑張る子だった」と話す。 入学後は午前8時から午後3時まで工場で働き、夕方から授業を受ける生活が始まる。 ユン君は「仕事と勉強は大変だけど4年間卒業するまで頑張りたい」と話している。
(産経新聞)


日本語の本、寄付して
ベトナムの日本語学校教材不足に悩む

 ベトナムに日本語の本を送って下さい。 日本人の支援で先月再開したベトナム・ホ−チミン市の「さくら日本語学校」が、教科書に使う日本語の本を求めている。
 同校は目黒在住の在日ベトナム人、グエン・ビン・トロンさんが89年、ベトナムで 最初の日本語学校を開校したが、教員がそろわないなどの理由で、この2〜3年は生徒がほとんど集まらず、 事実上閉校の状態になったため、グエンさんが知り合いの日本人の日本語教師や建築家に呼びかけ、 校舎を建て直したり授業カリキュラムを整備したりして、先月再開校にこぎつけた。
 「グエンさんの頼みで同校の教育部長となった「新宿区高田馬場」講師、 春日由里さんによると、ベトナムで日本語は英語に次いで人気のある語学で、 「さくら日本語学校」は生徒約380 人のほか200 人近い入学希望者が待機している。
 しかし、円高のためベトナム人学生たちは高価な日本語の本を買うことができない。 同校では日本人教師が教材をコピ−して配っているが、教材は不足しているという。 教材は、日本を紹介する本や、小説、小・中学生の教科書が望ましい。 辞書も不足しており、国語辞典や英和辞典も大歓迎だ。
 春日さんは「本の輸送費も大変なので、ベトナムに旅行する人は手荷物として本を少しでも運んでくれればありがたい」と話している。 また、同校は26日、「新宿日本語学校」で活動報告会を開く。問い合わせは「新宿日本語学校」(5273-0044 )の春日さんへ。
(読売新聞)


この日本で、子どもそだてるのはたいへんや
神戸に来るまで
 トラン・ティ・バンといいます。「バン」が名前で「トラン・ティ」が名字です。 その中の「ティ」というのが女性を表します。日本に来たのは1982年。日本に来て13年になります。 ベトナムで結婚し、主人と長男と3人で来ました。ボ−ト・ピ−プルとして3週間ほど船に乗って、 日本の千葉県にたどりつきました。そこで10日間ほど体を休めて、姫路の難民定住センタ−に行き、 いろんな手続きをして免許(在留資格)を3か月取りました。私はそのセンタ−の35期生です。
 南ベトナムの「ボンタオ」という所、サイゴン、今はホ−チミン市といっていますが、その近くです。 本当はアメリカに行きたかったけれどダメだった。主人の妹2人はアメリカにいます。 船に乗ってアメリカに行くことは無理だから、どこかの国に行き、そこからアメリカに行こうと思った。 船はどこに行くかわからない。途中、船の機械が故障し、ガソリンもなく、そのまま漂流しました。 3週間ぐらい海の上をそのまま、食べる物もなし。国を出るときは食料や水は1週間分ぐらい積んで、 船には89人乗っていた。途中、他の船に見つかれば又ベトナムに連れ戻される。 その89人は今バラバラになっている。アメリカに行った者、カナダ、イギリス、オ−ストラリアに行った人もいる。 それらの国に身内がいれば行くこともできる。私は、アメリカにいるけれど結婚してしまっているので、 それに当てはまらず行くことが出来なかった。地震が来てからアメリカの行きたくなった。 地震が来るまではそんな思わなかった。ベトナムは地震がないから。
 姫路定住センタ−から仕事を紹介されて名古屋に行きました。 やっぱりゴム関係の仕事でした。1年ほどいましたが、毎日9時間働いても給料があまり良くなく、 2番目の子どもでき、3か月くらいで神戸に引っ越しました。 ここは8時間働いて名古屋より給料が良かった。年々上がってきて、日給から月給になってきた。今、神戸に11年住んでいます。

子どもたちのこと
 神戸にはずっと長田区細田町のアパ−トに住んでいます。3番目と4番目の子どもが生まれました。 3番目の子どもが生まれたときに、半年入院していた。その間子どもたちは塩屋にある「少年の町」に7か月あずけました。 妊娠しても子どもが生まれる1時間前まで仕事をしていた。医者さんは「無理しとった」と言われました。 日本の人は妊娠している間、休憩している人多いけど。いろんなこと心配でした。 その間2人の子どもと働くお父さん1人やし、お父さんその時の給料17万円。 私、仕事もできなくてずっと内職あひていた。家賃5万円払って食べて、お金残らへん。 福祉事務所も何ももらわない。
 今、子どもたちは、みな日本の学校に行っています。子ども大きくなって、お金いろいろいる。 日本に来たとき3歳の長男が今、16歳、高校1年になっている。 子どもと話すときはほとんど日本語で話すけれど、時々ベトナム語教えています。 なかなか覚えない。長男は少し喋れるけれど、深く分からない。 かくこともできるけれど、今は使わないからほとんど忘れている。

法的地位のこと
 在留期間は、お父さんも私も、子どもたちも同じ3年です。日本に帰化するときは日本人の名前にしなくてはいけない。 帰化むずかしい。出入国事務所へ行って、いろんな手続きいるし、時間かかるねん。 ベトナムの結婚証明書もいるし、親子兄弟の証明書もいるし、ややこしい。 帰化でなくても、永住権とることも難しい。永住権ということはベトナムの国籍はそのままで、在留期間の更新はいらなくなることです。  今、日本にいる在日朝鮮人はいろんなことがあり、やっと4年前に「特別永住」という形で最終的に一本化されたと聞いています。 でも韓国人、選挙に投票できないでしょう。韓国人ずっと長い間日本にいる。 ずっと税金払って一生懸命働いても、日本きついね。ベトナム人アメリカに5年ぐらいいたら国籍できるねん。 アメリカで生まれた子どもはみなアメリカ国籍や。心せまいな日本は。
 今、帰化するよりまず永住権もらいたいことやね。家買うときに永住権がないと出来ないとか、 銀行出お金借りるときにそれがないとダメだとかある。知り合いのベトナム人家買ってな、 やはり全部日本人の社長さんの名前で手続きした。日本で暮らし気ががりなことは一生懸命何年か働いて、 ちょっと重い病気になったらお金全部なくなる。それが一番心配です。国民保険は初めは使えなかったです。
  ―――――1982年に日本は難民条約を批准しました。 その条文には難民を内国人として 社会保障に関しても同じ待遇にしなければならないと決められている、 1986年から 外国人も国民保険に入れることになった。ベトナム人が難民として入ってきたおかげで、 在日朝鮮人も国民健康保険や国民年金、児童手当等やっともらえるようになた。 いわゆる戦後保障という観点でそれらが保障されたのではないのです。 難民条約を批准したため、同じ外国人である在日朝鮮人にしないわけにはいかなくなったというのが実情です。(方)――――

 だから、初めの頃に来たベトナム難民はそういう保障もなかったんやね。

うすれるベトナムの習慣
 子どもたちは日本の学校へ入って、家も生活も大変だから子どもたちにゆっくりベトナム語を教える余裕もないしね。 子どもたちはベトナム語が解らなくなるし、日本語中心の生活になっていくし。 たいへん。ベトナムの習慣のお正月などはしています。ベトナムのおもちなどとか作りますに。 日本のお正月さびしい。みんな家の中。ベトナムはもっとにぎやか。 子どももきれいな服を着ておじいさんおばあさんの所へ行って、一緒に御馳走食べて。にぎやかで楽しい。爆竹もして。
 日本での料理は、今は地震で弁当ばかりやけど、お父さんと私はベトナム料理、子どもたちはほとんど日本料理、 チャ−ハン、カレ−オムライス。いろんなベトナム料理しても子どもたち味あわない。 たいへんね料理の時、時間かかる。2種類作らねばならない。お父さん日本料理全然食べない。 日本の味甘いし、うす味。日本の料理なんでも甘いな。

日本社会の中で
 私の長男日本の高校に行きましたが、 入学1週間くらいして日本の生徒が「あなた日本人ですか、 ベトナム人ですか」と聞きました。名前はカタカナだからすぐにベトナム人と解るでしょう。 その人「ベトナムに帰れ」言うた。私の長男怒ってケンカしたな。 先生が、お母さんと本人と2人職員室へ来て下さいと。 日本人が悪いことしたと、その生徒結局「すいません」と言うとった。これから言わないと。
 日本人ベトナム人見たら嫌いやな。避難した後、学校に洗濯に行ったとき、日本の女の人「あんたベトナム人か」 「はい、私ベトナム人です」「顔見たら分かるわ。キタナイ」言うとった。 私悲しいや。あの言葉聞いたらなあ。心苦しい。何で日本人そんなこと言うのかな。 60歳くらいの人やった。いっしょに洗濯してな。何でやなあ。
 小学校に行っている子どもは仲良しみたい。神楽小学校だけど、韓国人多い。 ゴム会社多いから韓国人多い。学校もそういうことに気を使いながらしているのかなと思うけれど。 学校の中に外国人いたら、その外国人のことを勉強することは、その国のことを勉強することだから、 生きた勉強、いいことと思うけれどね。
 本国に帰りたいと今は考えていない。しかし、一番上の兄ちゃんは帰りたいと言っている。 私、帰化してから帰りたい。お父さんは行きたくないといっている。 やはり昔、軍人で戦争したから。今ベトナムには関西空港から直行便で3時間で行ける。 それ考えると複雑な気持ちやね。船でベトナムを出るとき生きるか死ぬか解らなくて、 死ぬ覚悟して何週間もかかったところを、たった3時間で行けるのやから。
 今一番欲しいのは家だけ。それ以外何もいらない。お金もいらない。それと健康が欲しい。日本いいところなあ。 しかし地震になってからちょっとなあ。ベトナムにいたときは日本人こわい人、背が低いかと思った。 家きれいとか、食べ物おいしそうとか着物きれいなあ、日本の人、子ども少ないなあ。 ベトナム人はほとんど子ども5人以上。日本人も昔多かったそうですが。 私、子ども4人いてこれから日本で育てるのたいへんや。
(ラン・ティ・バン)〔聞き取り 方政雄・山中勇〕


日本の公害経験ベトナムに伝授

 四日市ぜんそくや水俣病など、日本が高度経済成長時代に体験した公害コスト面から分析し、 環境へ配慮を訴えた本が、ベトナムで近く出版される。 都内の出版社が版権を無償供与したもので、一昨年には中国でも同様に刊行された。 急速な工業化で環境汚染が深刻になりつつあるアジア諸国に対し、日本ならではのひと味違った国際協力といえそうだ。
 この本は「日本の公害経験」。環境庁の職員有志でつくる「地球環境経済研究会」が1991年夏のエコ・アジア会議に提出したリポ−トに、 識者らの批評文を加え、同年暮れ、東京・千代田区の「合同出版」(上野良治社長)から刊行された。 同書では、石油コンビナ−トの煤煙による三重・四日市ぜんそく、 化学工場の排泄水が海を有機水銀で汚染して発生した 熊本・水俣病、鉱業所の排水が富山・神通川流域の土壌をカドミウムなどで汚染して起きたイタイイタイ病の3つを取り上げ、 被害実態報告。公害対策をしない場合の被害額と被害防止の対策費を比べている。
 例えば四日市では大気汚染対策費は年間148 億円近くに上るが、 適切な対策がなかった場合の被害額は210 億円と推計。環境に配慮しない産業化が結局は経済的に大きな損失となることを訴えている。 今回、ベトナム語版を作るのは、ベトナムとミヤンマ−で環境問題に取り組む民間団体(NGO ) のブリッジ・エ−シア・ジャパン」(BAJ)。日本語版を完訳して広く配付したいと申し込んだ。
 合同出版も国際協力になるからと、版権の無償供与を快諾。BAJの新石正弘事務局長(50)はベトナムの産業都市では、 重工業を集中させたうえに、古い機械も使っているため、環境汚染は深刻。 だが、お題目を言っても分かってもらえない。経済コストから言う方が説得力を持つ」と話す。 同書が海外で出版されるのは、一昨年の中国に次いで2か国目。この時も版権は無償供与にした。
 (読売新聞)


文化プロムナ−ド
国語体系化の〃父〃復権

 ベトナムで、17世紀にベトナム語『クオック・グ−(国語)』 の体系化に尽力したフランス人宣教師アレクサンドル・ドゥ・ロ−ドの復権が進んでいる。 過去のフランス植民地支配を想起させる、として長年排除してきた同師の業績を、政府が再評価に動いた。 ホ−チミン市の統一会堂(旧南ベトナム政府大統領官邸)近くの通りに同師の名前がこのほど再び冠され、 ハノイの国立図書館の庭には同師をしのぶ石碑が今年の中ごろ再建立されることになった。 「ドイモイ(刷新)」政策の対外開放路線が、外国人の文化貢献の再評価につながった形だ。 今回の動きは、歴史研究グル−プの提案がきっかけで、カトリック系の新聞を中心に盛り上がった。 昨年12月には政府の共催で歴史学者らがロ−ドに関する会議を開催。 ベトナム語のロ−マ字化に最初の人物でなないものの、 同師が「体系的なロ−マ字化に先駆的で重要な役割を果たした」との基本認識で一致、石碑再建などを決めた。
 提案者の一人、歴史専門誌「スア&ナイ(昔と今)」編集長ズオン・チュン・クオック氏によるとロ−ドは仏アビヌョンの生まれで、 17世紀前半に8年にわたりベトナムに滞在。布教活動のため当時漢字を使用していたベトナム語をロ−マ字化した辞典を編纂した。
 1941年には、植民地支配していたフランスの意向で石碑が建立されたが、石碑は仏軍撤退後の58年ごろに撤去された。 また同師の名を冠した通りの名前も、75年のサイゴン陥落後に抗仏闘争で命を落としたベトナム人の名前に改名されていた。 ロ−ドの復権は「ドイモイがベトナム人の意識にも変化をもたらし、 外国文化のベトナム文化への貢献を評価するようになったことの表れだ」とクオック氏。 同氏はまた、「フランス語圏サミットが97年にベトナムで開かれるのを控え、意義深い」とも話している。
(ハノイ・千葉 文人 読売新聞)


ラブベトナム

 2月19日はベトナムの旧正月、テトのお祭りがあった。被災から1年、ベトナムの人たちもそれなりのペ−スを取りもどしはじめている。 と言ってもまだまだ公園暮らし。本職にもどって仕事をし....というわけにはいかない。
 毎週ミサにやって来られるが、みんなとてもおシャレになった。 もともとおシャレな人たちだ。女の人がとてもきれいになった。 オッサンやニイちゃんもキメちゃってる奴が多い。「いいなあ....」と思う。 公園のコンパネハウスの中もキラキラとおかざりしちゃってそれなりにスゴイ。 オシャレは生活の中の余裕。春が来るんだ....もうすぐ。

神父ひとりある記
 毎週土曜日午後11時FMわいわいからおなじみの口調、おなじみの声が聞こえてくる。 「神ちゃんの部屋・ミッドナイトね」というと艷っポイ名前の番組なのだ。 もちろん神田神父。第2回目の放送はゲストに『ミッチャン』なる女性が登場。 この声と語り口が「ミッドナイトね」的でピッタリ。この『ミッチャン』なる女性、 セクシ−ボイスの主は当分シ−クレットにしておくが、 このミッチャンと1月26日に放映されたTVでの話、聞いてるうち、 なんかミサでのお説教みたいな気分になっちゃたけど、 映画が終わって登場してくるおじさんの解説を鋭く批判。 スルドイ、スルドイ....。モノの見方というものを一方的一面的で見てしまう恐ろしさ、 形づけてしまう暴力、そんなことを考えさせられる時間だった。 なんだかんだ、神田はやっぱり神父やなあ。
(たきび)
友の会 寮生募集
 友の家は13年前からベトナム難民の方の自立を助けるための小さな寮をしています。今年度2人卒寮します。
  1996年5月より 1人
  1996年9月より 1人 募集します。

 お問い合わせ 申し込み
 〒116 東京都荒川区南千住6−32−10 「友の家」
 03−3801−2488 Sr. 藤井みどりまでご連絡ください。


チョットひとこと

 春の声をきけば、卒業、入学と若い人たちの嬉しいニュ−スが入ってきます。  今年もベトナムの青少年たちが日本の各地で希望の春を迎えています。 一人でも多くの人たちの幸福を願ってやみません。

 まっ青な空、コバルトブル−の海、咲きほこる桜の花。4月の伊豆で第十二回難民セミナ−が開かれました。 テ−マは『家庭』。特にベトナムの人たちの親子をめぐる問題を分かち合いました。 テ−マの大きさにもかかわらず熱心な話し合いが進められました。
 家族を支えるために苦闘するお父さんの話。日本語ができないために子どもを亡くしてしまった。 ーーー重い腎臓病だったが、医師のいう食事療法の説明が十分理解できず、それが原因になったのではないか......。 まさに「ことば」の問題は「いのち」の問題ではないでしょうか。
 「親たちは自分を理解してくれない」「親はダサイ」「日本の社会は暗い」「学校生活は超ストレスがたまる」。 若い人たちは何時も大胆に本質を言いあてるようでです。東京、神奈川、兵庫から参加してくれた若者たちの発言です。

 日本定住といえば、ベトナム人の大先輩にあたる在日韓国人の状況も垣間みせていただいた。 姫路の定住促進センタ−が閉鎖され、日本はインドシナ難民を受け入れることを停止したことなどにより 「難民問題は終わった」とされてしまったような現在、日本人、 日本社会は新たな動きを共につくり始めていく段階に入っているのではないでしょうか。 
(K.K)

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