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チョットいいこと 62

神戸の地から愛が生まれた
神戸からの手紙
このまま輝き続けたい
今そして明日
日越友好の架け橋ホイアン
募金する気持ち
異国のTVベトナム
チョットひとこと



神戸の地から愛が生まれた

 1月17日、大地が揺れうごいて、人の世もまた揺れた。そのことで見えてきたものがたくさなる。 地震は兵庫県南部地方の人びとに、大きな不幸と災害をもたらしたがそうであればこそ、 震災後に見えてきたものを、たしかに見たことして記憶しつづけたい。

被災者は救助者
 「ド−ンと(地震が)きて、命からがらペシャコの家から這いだして、家族を助け出し、 そのあと、気がついたら着の身着のままで近所の人の救出に走っていた」という人がいる。 まだ余震が頻発し、地域によっては地震直後に発生した火災が猛威をふるっていたころである。 このとき、被害者は救助者でもあった。これは被災地にいたる所で見られた光景であり、 この人たちの自発的な行動が多くの生命を救ったことに疑問の余地はない。
 なぜそのような行動がとれたのかという問いに 「つきあいのあった人の顔が次々にうかんできて、体が自然にうごいた」と答えた人が多かった。 これは日頃のおつきあい、人間関係が大事だという、あたりまえのことを言っているにすぎないように聞こえるが、 その示唆するとことな大きい。わたしたちはふだん、隣人と「顔がみえるつきあい」をしているだろうか。 神戸(被災地)から学ぶことはたくさんあるが、町内会や自治会のありかた、 住民運動など、地域共同社会の新しい共同性がいま問われている。

芽生えた隣人愛
 「崩壊した家から避難して、焚き出しの列に並んた。見ず知らずの人と、だれいうとなく声をかけあったら、 前も後ろもベトナム人だった。これまでも近所に彼らが住んでいたことは知っていたが、 その人たちをとくに覚えることはなかった。なにもかも失って、身ひとつで冷たい土の上に立ったとき、 ああみんな同じなんだなと実感した」という人がいる。 このベトナム人を隣人として正面から見たのは、その時が初めてだった。 「彼らの顔をはっきりと意識したとき、すべてのちがいをこえて交じりあって生きることの信頼が芽生えた」という。
 この二つの話はなにげないようなエピソ−ドだが、ふかい意味をもっていると思う。 整理していえば、「自発性」と「相互扶助」と「共生」ということになるだろうか。 それを自覚的に体現した集団(人びと)が、震災後この地に数多くあらわれた。 物理的にも心理的にもふかい闇に閉ざされていたかに見えた被災地で、 人びとは自ら発光体となって復興への日々を照らし出した。 その光にすいよせられるごとく列島各地から人の力が寄せられた。それは想像力と共感の結晶であった。
 あれから一年あまり。被災地はゆっくりとではあるが、着実にそして確実に新生への道を歩んでいる。 大地が揺れ、大きな痛みをともなって獲得した地平から目をそらしてはならない。 このこ更地から新しい人、新しい共同体、新しい文化が創りだされ ていくであろう。 
(青池 憲司 カトリック新聞)


神戸からの手紙
まだ見ぬベトナムの父と母たちへ
神田 裕神父

 あなたの息子や娘たちのことを、少し書いてみたいと思います。 1月の大きな地震があった日本の神戸、長田というまちで暮らすベトナムの人びとのことです。 地震が起こる前には、神戸市全体で750 人のベトナムの人たちが住んでいました。 それが現在350 人ぐらい。たくさんの人びとが、このまちから姿を消したことになります。
 私が神父を務めている教会は、あの地震でつぶれ、その後の火事で燃えてしまいました。 猛火はまちを焼きつくし、教会の周りだけでも140 人ぐらいのかたが亡くなったといいます。 その夜はおそく、ほとんど放心状態で、私は近くの中学校へ行きました。 そこには地域の人たちが大勢避難していました。校舎に向かって歩いていると、 私に声をかけてくる人がいます。よく見たら教会にきているベトナムの人たちでした。 そう、あなたの息子や娘たちなのです。
 私たちは無事を喜び合いました。そして彼らの輪のなかに私も加わりました。 彼らは家から持ち出した石油スト−ブを囲み、その上で肉やエビを焼いていました。 私は朝から何も食べておらず、また食べる気もしなかったのですが「こういう時は食べなあかん」と無理やりに食べさせられました。 たくましいなあ、みんな....。くたくたになっていた私はホットして、彼らに勇気づけられる思いでした。 ある意味でベトナムの人たちに助けられた―――――今はそんな気がしています。  私のいる教会には、ベトナムの人たちが来日して10年経った記念に建てられたキリスト像があります。 彼らがお金を出し合いベトナムから送ってもらったものです。 このキリスト像は地震の後に、ずいぶん話題になりました。 延々と広がっていた火事が像のところでとまったからです。 マスコミは「キリストが奇跡を起こした」と騒ぎました。 本当はただの偶然なのですが、そのことで教会の存在が知られ、長田にいるベトナムの人びとのことも知られるようになってきました。
 長田のまちにはケミカルシュ−ズの工場がたくさんあります。 ベトナム人たちの多くは、その工場で働いたり、そこから仕事をもらって内職をしたりしています。 少しづつですが、長田というまち、日本という国に、彼らも溶け込んできているようです。
 しかし、それでもやはり日本に住みにくいと思います。 差別という言葉、私は簡単に使いたくないのですが、日本の社会とどこか噛み合わないのです。 一般の日本人の多くは、あまり外国人慣れしていません。 それでいて日本人の考え方、日本人のしきたりというものを絶対的に持っています。 そしてれに外れると良くない人、ダメな人と判断しています。
 外れるものは、たいてい外国人です。別にわざと外れているわけではないのですが彼らが普遍的に行動していても、 日本人には外れているように映ります。それが彼らの個性とか、彼らの文化なんだということを、なかなか理解しようとしません。 お互いの違いを分かり合うためのコミュニケ−ションが、決定的に不足しているのです。 コミュニケ−ションといえばもう一つ、新たな問題が出てきました。 それは、ベトナム人の親子関係の断絶。あなたの息子や娘たちと、あなたの孫たちとの間にギャップが広がっています。
 難民として日本にやってきた親たちの世代は、ベトナム語でしゃべりベトナム式の発想をします。 ところが日本の学校に通っている子供たちは、日本語をしゃべり、日本人のような考え方をするのです。 親たちが「ベトナム人の誇りを持て」と言っても子供たちはその意味が分かりません。 家庭のなかの断絶は、これからますます大きくなって行くように思います。
 日本の社会との軋轢と、家庭のなかでの思わぬ断絶。その二つをかかえ、ベトナムの人々は苦労しています。 日常的に彼らと接している私には、その苦労がよく伝わってきます。 でも私は、それがきれいに、合理的に解決されるものだとは思っていません。 大事なのは解決することじゃない、それぞれの違いを理解し、一緒に生きていくことなんだという思いがあります。
 もちろん互いを理解するためには、コミュニケ−ションを深める必要があり、 そのための場所がいるでしょう。教会は本来そういう場所だと私は考えています。 出会いの場というか、異質なもの同士がふれ合って、互いの違いを認め合い、 そこから人間としての共通点を見いだしていくための空間なのだと思っています。 震災後は特に、そのことを意識して活動してきました。
 あれから1年。「よくベトナ人のケアをしている神父」というふうに紹介されますが、私自身にそんなつもりはありません。 むしろ私の方が彼らに元気づけられています。 昨日も忙しくて昼食を食べずにいると、いつも教会で手伝ってくれるベトナム人の女性が 「神父さん、ダイエットでもしてるの?ごはん食べなかあかんよ」と手作りの料理を勧めてくれました。 「ちゃんと寝てる?食べる時間と寝る時間はしっかり決めとかな」。いつもそんなふうな嬉しい小言です。
 ベトナムにいるお父さん、お母さん。あたながたの息子や娘たちは、この長田のまちで元気です。
(ワンダフル・コウベ)


このまま輝き続けたい
日星高等学校 三年 チャン・ティ・ダ・タオ

 私は日本に来て今年で六度目の秋を迎えようとしている。母と姉妹3人は13年前ボ−トピ−プルとして、 日本に来たが、私と弟は父と一緒に1989年に飛行機で来た。私は一かて月後に小学校六年に転入した。 まだ、最初に覚えた日本語の「ありがとう」しか言えない状態であったが、みんなの親切に支えられ、 楽しい毎日を過ごすことができた。
 ところがその冬には、私たち家族はやっと慣れ始めた和歌山の田辺市を去り、埼玉県に転居した。 私が差別について気がついたのは中学校一年の時だった。 ベトナム人という上に、更に、その日本人には耳なれなぬベトナムの名前である。 私の名前を使って歌を作って、バカにする友人もいた。私はとても悔しかった。 平和の中に安住していた日本の人たちの中には、私たちの悲しみを理解してくれない人も多かった。 その当時、私は学校へ行くのが辛く、ベトナムに帰りたいと一人で毎日涙を流していた。
   しかし、その苦しみの中でも歳月は流れ、私は知人の紹介で、京都府にある日星高校を知った。 家のある埼玉県から遠く離れて生活するのは寂しいけれど、一からやり直そうと思って寮生活をする決心をした。 不安が胸をしめていたが、「案ずるより生むが易し」と自分に言い聞かせ、日星高校でのスタ−トを切った。 舞鶴市の美しい自然、特に深い緑は、幼い頃のサイゴンでの記憶をよみがえらせ、私の心身を落ち着かせてくれた。 また周囲の友人も親切で、寮生活にも学校生活にも早く慣れた。 先生の中には私が理解しているか否かを気にしながら教えて下さる方もいた。 特設の「日本語」という授業まで準備して下さった。 ハ−ドな学習であるが努力のかいがあって昨年は「日本語能力試験」二級に合格し、現在は一級合格を目指して頑張っている。 新しい表現、発音の悪さに至るまで、先生や友だちがいつも親切に教えてくれる。
 今私は、この日星高校で学びながら、自分の名前にも国籍にも、自信を取り戻した、 というよりも誇りまでも持ちまじめている。「ベトナム難民」という、偏見の中で、 ベトナム人であることを、嬉しく思えるまでにしてくれた多くの親切な日本人と、 そして家族や、日本に定住している同胞に感謝したい。 私は学校の文化祭などでも三回程ベトナムの衣装アオザイに身を包み、舞台でベトナム語の歌と踊りを披露した。 盛大な拍手!それは私を心から受け入れてくれている友人や先生たちの暖かい心、励ましの心だと思う。 私にとって今、日本は、はっきりと自分の第二の故郷になっている。 二国の文化、言語を共有し、二国を故郷に出来る私の人生はとても豊かな気がする。 その上、寮生活を通して他人を大切にすることや、学校のボランティアクラブでの活動を通して、人の苦しみを感じ取れるようにもなった。
 高三の大切な秋、今、私には自分の進むべき道、自分の未来が見えて来ている。 どんなに苦しくても、人間は生まれた以上自分の一生を生き抜かねばならない。 いや自分のものとして生ききれるのだ。中学時代の私はその権利を放棄したかった。 でもこの三年間で、私は自分を輝かせることを知った。そして、特に高校生活の後半は、いつも私が輝いていた。 もう誰とも替わりたくない。それほど輝くことを知った。
 笑われた名前、チャン・ティ・ダ・タオにも単純な民族衣装のアオザイにも、 ベトナムなまりの日本語にも何も恐れない。私が私になりきれた今、私が私をいとおしく思える今、 私は自分の心の中の輝きを大切にかみしめて毎日を送っているこのまま輝き続けたい。
(第6回〔1995年度〕高校生輝きコンク−ル〜私が一番輝く瞬間〜)


 今そして明日

「1月16日までは、地震がこない地域だと言われていましたが。
 1月17日朝......私は、このとき何か音がしましたので目が覚めました。 そして、起きてみたら、上下に強い揺れが襲ってきたのです。 すごくきつい揺れに対して私は何もできなかった。私はもう何も考えず外に逃げようと必死でした。 外に出たとき私たちの家族は無事だったけど、他の人たちのこともすごく心配で、みんなぶじかなあと思いました。 そして私たちは兄の車の中で明るくなるのをまっていました。 車の中で待っている時に、外にいたおじさんがマイクで、神戸にある鷹取中学校に逃げてくださいと言っていたので、 わたしたちは兄の車ですぐに行きました。何の情報もなく心の中は不安でいっぱいだった。 ずいぶん後で長田は震度7だったと知りました。 数時間後兄や父やおじさんたちが、つぶれている家の中に入って食べ物などをもって来てくれて、小さい子供たちに食べさせました。 この時の日本人の目は、すごく冷たく見えた。 例えば、私たちがご飯を食べていると近くの日本人は、私たちが盗んできたと言ったりしました。 すごくみんなの視線がいやだった。私たちは、また地震が来ると思って、学校の中に入らず、外で一週間ぐらい寝たりしていました。 そして突然すごくやさしい先生が、もう地震はこないと言ってくて、教室を開けてくれました。 私たちの教室は技術室で、みんなベトナムの人たちです。この教室にいる人たちと協力しながら今も頑張っています。 私たちが外でくらしていた時の生活状態は、すごく寒かったのでみんな焚き火をしたりして毛布をかぶって寝ました。 また、水が出ていなかったので父がバイクで水をとりに行ったり、母たちは食べ物を探して料理をしたりしていました。
 子供はそこら辺りで遊んだりして、私は友だちと連絡をとって、無事でいるということを知らせたりしていました。 私の出身学校では、全校生徒あわせて7人亡くなりました。この4人の中には、私の親友もいました。 私は、この親友と一緒に卒業式を迎えようとしたのに、それが実現できなくてすごく悲しかったです。 毎日毎日すごく苦労しました。校舎に入ってからは、日本人の人たちと仲良くなり、いろんなことを教えてくれたり、 お互いに協力しあっています。私はこのとき思いました 「その前はすごく冷たい目でみられたのに。今は、なぜこんなにやさしいのだろう?」やっぱりあの時は、 みんな気が動転していて自分たちも必死で生き延びようとして他人のことを考える余裕がなかったと思います。 それに私たちだけ食べるものがあって向こうの人は何もなかったから、ひがんであんなことをしたんだろうなあと私は思いました。 こんなふうにみんなが変わっていくのを感じたのは、私がボランティアをしたからです。
 春休みの間、たくさんの人と触れ合っていろんな人を見てきました。 私がしたボランティアは、受け付けです。受け付けでは、日本語がわからないベトナムの人たちの通訳をしたり、 部屋を案内したり、郵便物を届けたりして、できるだけ困っている人たちの力になろうと努力しました。 私はこのボランティアをしてきて、気がつきました。例えば、私が今避難している所で、このようなことがありました。 おじさんたちの一部が、最初すぐに何でも私たち、ベトナム人の責任にしたこともありました。 けれどみんながそうではなかったし、そのうちに私たちに気をつかってくれたり、 わからないことがあると親切に教えてれたりするようになりました。
 私の父と母は日本に来て長いけれど、あまり日本語が分かりません。けれども日本の国に慣れようと努力しています。 この努力を日本の人達に伝えたい、そしてわかってほしいと思います。 この度の地震で感じましたが、お互いの悪いところも含めて日本の人たちとベトナムの人たちが理解し合えるようになるといいと思いました。 父や母は、あまり日本の料理が食べられないので自分で作っています。 私たちは母が作っているところを見ていると私もこんなおいしい料理を作りたいと何時も思います。 だから私は、ここの学校で食べ物について勉強しようと思いました。
 将来は、今日本で食べているものを自分の国の人に伝えてあげたいです。 私の国で食べているものを、今度は日本の人たちに食べてもらいたいです。 簡単なことかも知れませんが、食べ物の交流にこそが真の国際理解につながると思います。 今度の地震で大切さを身にしみて感じたからこその思いです。
 私たちみたいな言葉が分からなかったり、週間がぜんぜん違っている人でも、 天災のような緊急事態が起こったときに困らないように、日本の国とベトナムの国が理解し合える日を夢みて、 これから日本の国とベトナムの国の架け橋として頑張っていきたいと思います。
(ブー・ティ・タン・スアン 高1)


日越友好の架け橋ホイアン
日本人町の傷痕残す
 ベトナム南部ダナン近郊のホイアンで、3年前から日本の技術者や研究者が、 現地の人たちと、歴史的町並みの研究と保存に取り組んでいる。 保存の主な対象となる木造家屋の修復は現在、緊急修理を含め二十数軒が完了したが、 まだその十倍以上の傷んだ家屋が修復を待っている。
 この朽ちかけた美しい町並みは「日本橋通り」の名称もあり、周辺には日本人の墓や角屋七郎平衛他の名を記した石碑も残る。 ホイアンは十七世紀前半に日本人町があり、その傷痕を今に伝えているのは世界でもここだけである。 約四百年近く前、江戸時代の初期に徳川幕府が御朱印船貿易を許可したが、 その三百を越える御朱印状のうち約四分の一の行く先がホイアンである。 名古屋市の情妙寺にある絵巻物にはホイアンの日本人町の情景が鮮やかに描かれている。
 ホイアンの南側を流れるツーボン川の後退に伴って形成された町並みは、平屋、二階建て、フランス風の三区域に分けられる。 白漆喰の戸境壁と柱、横板落とし窓、扉に特徴付けられる平屋。 木のバルコニーが特徴的な二階建ての建物。 フランス風は木造の建物前面に石造の連続アーチが設けられている。 町並みを歩けば、ここ二百年の建築の歴史が迫体験できる。
 ベトナム政府はベトナム戦争後直ちに、この町並みを重要文化財に指定するとともに、修復と保存に着手。 ブーテンホアン越日友好教会会長を中心として国家委員会を組織し、作業を進めてきた。 四年前、ベトナム政府は木造建築に関して高い技術を誇る日本政府に協力依頼。 文化庁は建造物課の斉藤英俊氏(現東京芸大教授)を現地に派遣、技術指導を開始した。 と同時に視察団として東大教授の古田元夫(ベトナム現代史)、 千葉大助教授の福川裕一(都市計画)、昭和女子大教授の桜井清彦(考古学)同大副学長松本昭(美術史)らの各氏と筆者が現地を訪問した。
 視察団が多彩な顔ぶれとなったのは、戦災を免れた木造の町並みがあるだけでなく ホイアンが「海のシルクロード」の貿易港として予想もつかない秘宝の玉手箱だったからである。 以来三年間、ハノイ建築大、東京芸大、千葉大、東海大、昭和女子大などが共同で現地調査を繰り返した。

住民の理解得る苦労
 その間進められた町並み保存では苦労も絶えなかった。 直接作業に携わる現地の工務店ごく普通の大工であり左官である。 傷んでいれば新材に取り替え色があせればペンキを塗るのが彼らの常識だが、それでは文化財の保存にはならない。 何とか無理をしてもらわなければならない。また、住民にサファード(家の前面)を伝統的な形式に戻そうと提案すると、 生活が不便になると抵抗を受けるし、逆に、住民説明会では「なぜ私の家を早く直さないんだ」と苦情を言われたり......。
 こうした努力の末、このほど修復を完了したある家屋に、これまでの発掘・研究成果を一堂に集め、 この9月8日、貿易陶磁館としてオープンした。日本の弥生文化との関連が注目されている紀元前後のサフィーン土器、四世紀からのンパン土器、 陶器八世紀にさかのぼるイスラム陶器、十七世紀の日本の古伊万里、そして、日本で「安南」として珍重されたベトナム陶磁器。 これらは中国雲南省を起源にアジア全域に広った稲作文化の時代、中国文化とインド・イスラム文化の接点の時代、 そして中国と日本の貿易をオランダ人が仲介した時代へと、 ホイアンが「海のシルクロード」の貿易港としてたどった二千年の歴史を雄弁に語っている。
 展示した陶磁器の多くは、昭和女子大国際文化研究所客員研究員菊地誠一氏がベトナム側と共同で発掘したもの。 このほか、十六世紀の沈没商船から引き揚げられた完形の「安南」の壺も目を引く。 これらは近くの漁民が無許可で引き揚げたもので、処置に困っていたベトナム文化省の依頼によって、 桜井氏と九州・沖縄水中考古学会会長の林田憲三氏が沈没船の引き揚げを計画している。

募金活動もスタート
 しかし、この果てしない仕事も大学人だけでは限界がる。 そこで、広く協力を得るため、ベトナム政府は募金活動の組織をつくった。 名誉会長にグエンティビン副大統領、日本側の協力代表には、前出の松本昭氏らが名を連ねている。 昨年度、欧米人だけで五万人がホイアンを訪れ、東洋のエキゾチックな町並みに魅せられた。 現在、稲作文化を紹介するサフィーン館、大航海時代を再現する貿易商人館、 現存する町家を案内する保存館などの整備が計画されている。これが完成すれば、町全体が大きな博物館になる。 これが、南国ホイアンにかけた私たちの夢である。
 (友田 愽通 読売新聞)


募金する気持ち

 わたしは、阪神大震災と世界の困っている人、かわいそうな人、親のいない子どもたちのために、 教会でイースタードエッグを作りました。かくさん作って、信者さんたちに買ってもらって、 そのお金で、阪神大震災の人たちと世界の困っている人たちのためにお金を送りました。 お金は全部で5万円くらい集まりました。イースタードエッグは、 ゆで卵にセロハンをはさんでお湯にさっと入れてすくったものです。 それをかわいい袋に入れてラッピングしたものを売ったものです。
  「アフリカの近くの国は、一日5円あれば一日暮らせるんだよ。わたしたちは5円じゃ一食もできないけど、 その国は三食ちゃんとできるんだよ」わたしはその時二百円もっていました。 このお金をあの国に送れば四十日間過ごせる。わたしたちは、二百円では一食もできない。 今のわたしは、食べ物に困る時じゃない。だから、この二百円でイースタードエッグを買って募金しました。 阪神大震災の地域にも、ちょっとでもお金を送れたらいいな。
 シスターが、新聞にのっていた写真を見せてくれました。その写真はとてもこわい写真でした。 びっくりしました。なぜかというと、その写真は皮と骨だけだったからです。 その近くにハゲタカがいました。その写真の子どもは、ハゲタカと同じくらいの大きさで目がとても大きかったです。 その子どもは死にかけていました。ハゲタカは、その子どもの死を待っているそうです。 その子どもは少しばかりの肉を持っていました。 こんな子どものために、わやしたちが募金をすれば、こんなめにあわなくてもすむと思いました。
 ただ募金をすればいいんじゃない。気持ちも募金することをわたしは知りました。 わたしたちが、こんな子どもを見てなんとも思わないには、こんなめにあってないからです。 こんな子どもたちのことを考えるのは大切なことです。 きっとまた、お金と自分の幸せを募金しよう。
 (トリン・ホアン・ティ 小6)


異国のTV ベトナム
歌謡番組でも国民の団結鼓舞 されど若者たちには受けず....

 まぶしい陽光と新緑に囲まれ、湖水のほとりにアオザイ姿の女性歌手が立った。 ベトナム国営テレビで週2〜3回放送される歌謡番組。 タイトルバックに「高原の光」と曲名が出た。さあどんなラブ・ソングだろうと期待していたら、 「発電所は高原の人びとに電気の光をもたらした。建設事業に協力したかいがあった」という愛国歌謡調の歌詞。
 別の女性歌手が登場した。今度はリズミカルでタイトルは「春の祭り」。 「3月人びとは農作の始まりを祝う。娘は朝早くから仕事に出る。鳥が歌う。しあわせな今日。 娘はすばらしい未来を夢みる」スタイル抜群の歌手が木の幹を抱いてくるりと一回転すると純白なアオザイが風になびいた。
 どの曲も、恋、酒、涙の日本の歌謡番組とはまるで趣が違う。 カメラ・アングルもほとんど一定で、余計な演出は一切ない。 横で見ていた25歳のベトナム女性が不満げに言う。 「今日の番組はつまらない。恋の歌じゃないし、歌手も有名じゃないもの。 ちゃんとスタジオで撮った歌謡ショ−の方が、ずっと人気があるのに」 番組の狙いのために国民の団結を鼓舞することがあるのは明らかだ。 事実ベトナム経済は成長への手ごたえあおつかみ、国民の生活水準は確実に上昇しつつある。 それでも、ほぼ自由に入ってくる米国などの音楽テ−プを通して西側の音楽に慣れ親しみ政治に無関心な今のハノイの若者にとって、 こうした番組は退屈以外の何物でもない。平和時に歌に政治を持ち込むのは野暮(やぼ)に映るらしい。
 (ハノイ・林田 裕章 読売新聞)


チョットひとこと

 「よそもの」
 日本人がすぐに意識する「よそもの」とはナニモノだろうか。
 また「私たち」という言葉を無神経にすぐ使うのも日本人である。 「うちのもの」「そとのもの」についての区別を非常に漠然とつけるのも日本人である。 これが人間であるかもしれない。聖書にも、「異邦人」という人々がいた。 しかし、ユダヤ人たちは相当はっきりとした意識の中で用いていたようである。
 自分たちの仲間ではなく、血縁や地縁関係のないもの、あっさり言って「関係ない」ものである。 どうしてこういう人々が出てきたのであろうか。人間はいつも関係を求め、関係ずけることが得意である。 アイドルや各界の偉い人が自分に関係あることに鼻をうごめかす。ただし迷惑なものが出てくると突然「関係ない」である。 仲間であること、血縁や地縁によって結ばれていることが、いかにはかないか、 どんなに面倒であるかをよく知っている人は、出来るだけ「関係なく」過ごそうと思う。 現実にかんけいがあっても、関係を否定して生きる人もいる。「他人」「外人」が出てくる。 日常生活の中で、経済的、文化的、政治的、社会的に関係があっても自分の「心」が通じない人は、 「他人」であり、「外人」である。そして、自分と違っている人々を警戒し、避け、軽蔑し、悪口を言い、自己防衛に走る。

 もうそう言う社会ではない。現代は、主体性をもって、すべての人々との関係を見ぬいてゆく人であり、 その関係によって生きる人である。その関係の中で自分のアイデンティティを見つける人のことである。
 教会のある人が、「神の国を現す教会には、『異邦人』『外国人』はいない」と 言っていた。神によって関係づけられると「よそもの」はいないのである。だから 「天にまします我らの父よ」といつも祈っている。 しかし、言語、風俗の違いから教会の歴史には悲惨な痛みを覚える出来事が多くある。 だからこそ、この経験を生かして、すべての人々と共に生きる。 この交わりだけが「自分らしさ」を生み出すに違いない。 
(K.H)

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