もどる
チョットいいこと 61

ラブベトナム
冷戦がゆがめた難民対策
日本語学習熱震災で高まる
神戸事務所が開設
この子どもたちは平和から誰から学んだのか
「あかつき」が神のことばの実現となりますように
仁富野インドシナ難民と関わって
ガリ版ラオスの学校で活躍
日越52世帯“共生”の10ヵ月
チョットひとこと



ラブベトナム

 今、ベトナムの人たちは抽選を前に大忙しである。県営、市営、公団の住宅抽選である。 待機所や公園の生活から何としても出たい。その願いは強い。 ベトナムのソン神父さんは、その申込みの書類作成のためのお手伝いで大忙しである。 毎日多くの人々が書類を手に押し寄せて来る。一人でも多く、安心できる生活をとソン神父さんは頑張る。 「願いはきっとかなう。もう少しだ」今日も神父さんは走る。
 寒くなるとやっぱりベトナムの人々はこたえるようだ。そりゃ赤道に近いところで暮らしていた人たちだけに寒さは敵だ。
 特にテントや紙ログハウスもやっぱり寒い。「壁に毛布を張るんや。床にも新聞紙をしいて、 その上にカ−ペットをひいて....」と基地の中でアドヴァイスする。 "トイレが欲しい"公園生活の人々は夜のトイレタイムがつらい。 服を着て靴を履いて、雨が降ったりするとそこえ傘をさして....それでなくても恐い夜の公園を歩いて....。
 なんだかんだ言っているうちに今年も終わる。流石にボランティアの数も減り、基地はさびしくなってきた。 「神父さん、あきまへんなあ....ヒトいまへんで....」気の弱いワダさんが涙ぐみながらガラスのような声を出す。 「ナニ言うてはりまんねん。思い出してくらはい。最初はほんの5〜6人で始めたんとちゃいいまっか? な−んもなくなってよろしいがな。第一まだぎょうさんいてはるやなでっか。」ヒトも、作業も、物もあるのでやる。 与えられたモノを与えられたように、それ以上を心掛けてやる。ケロリとして言われる神父。
 人間の気持ちの中も、気取らず必要以上の成果を計算せず、今あることをそのままやる...."あの時"を忘れ、 ともすれば走りすぎる者たちへの....あれ?なんだかんだと又、 うまいコト言われて....イヤイヤ、お言葉しっかり受け止めます。


冷戦がゆがめた難民対策
インドシナ難民流出から20年

 ベトナム戦争終結を引き金に二百万人に達したインドシナ難民の流出が始まって20年がたつ。 現在も、日本など各国の施設に残る「ボ−トピ−プル」は約四百万人。 国際社会はどう対応すればいいのか。各国の政策担当者、専門家が十月下旬、 東京都内の国連大学で「インドシナ難民国際セミナ−」(国連高等弁務官事務所、 外務省など主催)を開いた結論を出す集まりではなかったが、 人道問題としての難民先進国移住を進めた国際社会の対応が、 かえって新たな人々の流出を招くという苦い教訓が指摘された。

 本来は人道的問題
 インドシナ難民の大半を占めるベトナム難民の流出は、1975年南ベトナム政府崩壊で始まった。 新ベトナム政府の中国系住民抑圧が加わり、79年には40万人が国外に脱出した。日本へも小型船による漂着が続いた。
 周辺諸国は経済、社会的な問題ではなく、深刻な安全保証上の脅威ととらえ、その入国を拒否する国々が続出した。 多くの難民が海賊に逢ったり、荒波の犠牲となったりして人道上の問題に発展した。 このため、79年に「インドシナ難民国際会議」が開かれた。 周辺諸国が、難民を分担して受け入れて定住させる構想が決まった。 インドシナから西側諸国への移住の道を開く試みも始まった。
 流出は、いったん年間数万人ぐらいに減った。しかし、80年代後半に再び増加し別の新たな問題が浮上した。 抑圧を逃れてくる人々ではなく、「貧困からの脱出」を図る人々が大半になったのである。 89年、2回目の「国際会議」で国際社会の「包括的行動計画」が決まった。 ボ−トピ−プルは@一時保護を受けられるが、 難民かどうかの資格審査をするA難民として認められない場合第三国への定住を認めず帰国させるB国連高等弁務官事務所し、 こうした人々の帰国とベトナムガ協力後の安全や支援を図るなどだ。 現在までに、陸路出国の人たちを合わせインドシナ三国を離れた人々は約百二十万人。 このうち、百二十万人以上が欧米諸国などに移住した。 日本には一万人、中国には二十八万人が定住、五十万人が母国に戻った。 だが人道的な立場で進めた移住が「貧困脱出組」を生んだ苦い事実は残る。  「発生から二十年、まだ議論を続けているのはばかげている。 だが、これという解決策もなかった」。今回のセミナ−で、東南アジア諸国連合(ASEAN) の政策担当者が嘆いた。 国際社会がいかに矛盾に満ちた対応をしてきたかまたせざるを得なかったか、を振り返った言葉である。

 89年からの帰国重視
 79年の国際会議が開かれた当時は、東西冷戦の最中である。 流出してくる人々は米国を中心とする西側諸国に移住することに力が注がれた。 難民を生んでいる国々と対話し、これらの国々の安定化を試み、難民を根底から食い止める努力は二の次となった。 難民発生の環境を変えて難民を帰国させようという発想は無視された。
 この移住策が、豊かさを求めて出国してくる人々の増大を招いた。この結果、89年の「行動計画」では一転し、 「帰国」に重点が置かれることになった。結果論だが、難民対策という人道問題が国際政治に翻弄されてしまったのだ。 「なぜ包括的行動計画のような取り組みがもっと早く取られなかったのか」。 セミナ−では、こんな指摘と反省が繰り返された。人道問題であるにもかかわらず、 西側諸国を中心とする国際社会は当時、対話と強調を重視するよりも、もっぱら敵対勢力を封じ込め、 孤立させる冷戦構造を優先させたのである。

 強制送還に懸念も
 現在、香港、東南アジア諸国、日本などに残るボ−トピ−プルは約四万人。 審査の結果、ほとんどが難民とはいえない「豊かさを求めて出国してきた人々」とされている。 これらの人々は「移住」が促進された過去を知るだけに、帰国の意思は全くない。 国際社会はいま、帰国を拒否する人々を強制送還する方向に傾いている。 セミナ−でも「やむを得ない措置」との意見が目立った。懸念されるのは、 紛争地域あるいは紛争のあった地域から流出してきた人々」とみなされる傾向が強まらないかとか、いうことだ。
 国際社会では、「難民」と「ボ−トピ−プル」が、必ずしも明確に区別されていない。 インドシナ難民の場合、ボ−トピ−プル自体が「難民」から「経済的な移住希望者」へと変質した事情もあるが、 両者はある時同一で、ある時は異なっている。政治的に都合よく使い分けされてもいる。 だが、両者の区別を明確にしておかないと、難民保護という国際社会の共通規範を崩す危険が出てくるに違いない。 一方で「豊かさを求めて出国する人々」の存在にも、国際社会の目が向けられなければならないだろう。 インドシナ難民問題はその生きた例となっている。
(朝日新聞)


日本語学習熱震災で高まる
神戸で3つのグル−プ授業スタ−ト

 震災後、神戸市内のテント村で始まったベトナム人被災者向けの日本語教室が地域に広がり始めている。 教室代表の定時制高校教諭の呼びかけで講師ボランティアを組織。 受講希望者も増加し、9月から3か所で小人数のグル−プ授業が始まった。 関係者は「単に言葉を教える、教わるという関係ではなく、 ベトナムの人たちが地域に溶け込むきっかけをつくりたい」と期待を込めてはなしている。
 兵庫県立武庫高校(芦屋市)の英語教諭長嶋昭親さん(53)は、 昨年4月から長田区内のカトリック教会でベトナム人向けの日本語教室に参加。 震災後の3月末、ベトナム人被災者の多い同区内の公園で、中断した教室を再開させた。
 ベトナムから難民として来日した定住者に日本語学習の機会は十分とはいえず、 とくに日本人と接することが少ない主婦らは、日常会話もおぼつかない人も多い。 しかし、震災で必要な情報が伝わりにくかったり、 避難所などで日本人とのコミュニケ−ションがこれまで以上に必要になった経験から日本語学習のニ−ズが高まっている。 長嶋さんは一人でテント村を回りながら「より多くの人が継続して学習できる体制を整えていくことが必要」として、 被災者に限らず受講を呼びかけると同時にボランティア講師を募集。 8月までに集まった受講者は35人、ボランティアも大学生や主婦、プロの日本語教師まで25人にのぼった。
 9月からは、区内の南駒栄公園と兵庫県定住外国人生活復興センタ−、 鷹取カトリック教会の3か所で毎日1時間半の授業が本格的にスタ−ト。 家庭への訪問授業も合わせて行い、一人につき週1−5回。個々のレベルに応じてボランティアが交代で教える。 ボランティアの一人、神戸商科大で留学生に日本語を教えている松田陽子助教授(41)は「単語や表現を覚えると同時に、 その言葉を使ってどう地域社会に溶け込んでいくかがポイント」という。
 一方、ボランティアの中にもベトナム人と接するのは初めてという人も多い。 長嶋さんは日本に住むベトナム人の生活事情やその背景についてよく知ってもらうため、ボランティア向けの講座を予定している。 「一般的に定住ベトナム人の存在は十分に認知されているとは言い難がたい。 教室をきっかけにお互いを理解し合い、講師と生徒の関係をこえて良き話し相手となれば」と話している。
(神戸新聞)


神戸事務所が開設
インドシナ難民支援活動の拠点に

アジア福祉教育事業本部長田区の西神戸YMCA内に

 ベトナム人をはじめとするインドシナ難民の受け入れと定住の支援を行っている 「アジア福祉教育財団難民事業本部」が10月から臨時事務所を神戸に置くことになり、 3日同市長田区水笠通1、西神戸YMCAの新事務所で開所式が行われた。  兵庫県内には姫路市に同事業本部の「姫路定住促進センタ−」があり、 来日後半年間の日本語指導や就職のための研修を行っているが、 全国でも有数のベトナム人多住地域である長田区で震災の被害が大きくベトナム人被災者の生活や就職の相談が中心になる。 所長は姫路定住センタ−の松本峻平所長が兼務し、常駐職員を一人置く。 10月から来年3月までの予定だが、姫路センタ−は来年3月末までの閉鎖が決まっており、4月以降の活動継続も検討されている。
 開所式では、難民事業本部の清水訓夫部長が「ベトナム人支援のボランティアとも協力しながら、 今後は難民のアフタケアを中心に行っていく。関西在住のインドシナ難民支援の拠点にしたい」とあいさつした。
 同事務所は 078-621-9990
 
(神戸新聞)


この子供たちは平和を誰から学んだのか。

 ベトナムの戦争が終わった時、南ベトナム地方のたくさんの病院が閉鎖になりました。 負傷者ハンセン氏病者などは病院から追い出されたのです。 平和になったはずの街には田舎から避難してきた人々や病人などが、あふれていました。 その街に住んでいた少年、少女たちの心の底にこの出来事が極めて深く刻みこまれていたのです。
 その中の一人にグエン・ゴク・ヒエンという少女がいました。 それかた20年後、1995年3月に、日本で準看護婦になりました。彼女は7人兄弟と姉妹の長女であります。 あかつきの村に来たのは中学2年生の時でした。最初に会った時、彼女は「私はいつか看護婦になって、 ベトナムに帰るようになったら、病気の人のために働きたい」と笑顔で言いました。 このように祖国のために働きたいという青少年は非常に多いのには驚かされます。 彼女は高校を卒業して、名古屋の聖霊病院で看護助手をしながら、準看護専門学校に通う予定でした。 しかし、最初の受験は失敗しました。ベトナムでは父親が共産主義の教育を嫌い小学校へは行かなかったのです。 そのため基礎学力が足りませんでした。努力をしてもそれが有効に生かされませんでした。 失敗はあるていど予期していました。2年目も失敗してしまいました。 補習授業にも熱心に出ていたので合格するのではないかという期待があったので、精神的打撃は大きかったのでした。 自信を失いかけていました。しかし、総婦長のシスタ−川原からの力強い励ましがあり、もう1年頑張ることになりました。 消えてしまいそうになった看護婦になるという決意は蘇ってきました。 そして3年目にして合格しました。日本語と基礎学力のハンディがあって、普通2年間で卒業できるところを3年かかりました。 しかし、卒業の年に検定試験は落ちてしまいました。 卒業してしまってから、検定試験を受けるということは、どれほどの勇気が必要だったかと思います。 1年間、努力につぐ努力をかさね見事に準看護婦の資格をとりました。長い7年間でした。 いくど失敗し、悩み、それでも立ち上がり、先が見えない暗闇をよく歩き続けて来たと思います。 その力はの幼女の時に見た病気で苦しむ人、薬がなくて手当てもできないで死んでゆく人の姿であったと思います。
 戦争、そして難民と、人と人が憎み合い殺し合う時代を生きた子どもは傷つき、 病み、死んでゆく人々の中に人の生命がどれほど大切であり、平和が何にもまして大切であり、 平和が何にもまして大切であるかを不思議にもよく学んだものです。 平和が50年以上も続いた日本社会の中で育った子どもたちは人の生命について、 人の心について、平和な社会について何を学んでいるといえるでしょう。
(石川 能也)


「あかつきの村」が神のことばの実現となりますように
 「父がわたしにお与えになる者は皆、わたしのもとにくる。わたしのもとにくる人を、決して追い返さない」 (ヨハネ6、37)

 いろいろな事情で、あかつきの村にくる人がいます。突然やってくる人、神父様や知人の紹介であったり、 どこにも置いてもらえない人等、実に多様です。これらの人々をあかつきの村では事情や過去、 身分も、又その人が病気か危険か一切問わずに受け入れるのです。
 或る日いきなり電話で「〜の人です。そちらに送り出しましたからよろしく」。 こちらの都合も何もありません。....が、そっくりそのまま受けとられるのです。 又その後が大変です。夜中に難民からと警察からの知らせを受け、 あかつきの住人でない人まで引き取りにいったり、 宗教上「女医でなければならない」病人のため病院探しにかけずりまわったりする労苦にいとまはありません。 精神的に傷ついた人々が共に住んでいると、刃物や火事の心配等ないわけはないでしょう。 あかつきの村の規則は「暴力をふるったらあかつきを出なければならない」だけです。 石川神父様のあかつきの村は、不思議な風が吹く、神様のエア−ポケットのような気がします。 行き場のない人々の唯一の拠り所なのでしょう。
 時々ボランティアを慰めるオモチャ風のもの、又かけがえのない宝物がポケットの中から出てきます。 一人ひとりは御父からのもの、と受けとめる場、その場に来られる人々は、必ず素手ではなく、両手に何かを握りしめ、 心に何かを感じとって帰られるようです。
 都会のコンクリ−トジャングルからこられた方が「ここは不思議なすごい何かが吹いているようだ、 呑み込まれてしまいそうな気がする....」といった言葉も印象に残りました。
 一人ひとりが神様の生きたスト−リ−なのですね。
(丸山 玉 暁風より)


仁豊野インドシナ難民と関わって

 仁豊野インドシナ定住促進センタ−は、すでに16年目になります。センタ−を通して日本の社会に定住しています。 日本全体でおよそ1万人のインドシナ難民が住んでいます。現在センタ−で日本語を勉強しているグル−プは102 期です。 これはたぶん最後のグル−プになると思います。
 大村レセプションセンタ−は廃止され、国際救援センタ−も近いうちに廃止されるのではないかと思います。 大和(神奈川)の定住センタ−だけがしばらくの間続けるでしょう。 しかしもう新しい人がベトナム・ラオス・カンボジアから来なくても、 今日本に定住している方々は、充分に自立していないのです。 例えば、子どもが学校からのプリントを持って帰った時、親の大部分がそれらを読むことができません。 市役所・税務署等のお知らせも読めないのです。日本語が充分に分からないから親子のギャップがあります。
 姫路教会の信者の中に、何年間も続いてベトナム人を、 数年前からペル−人・ブラジルの子供の宿題を手伝ってくださる方がいます。 そのおかげで、ある子供たちは高等学校に入ることができました。 しかし大人の日本語の勉強のための先生も必要です。 仁豊野交流センタ−で、しばらくの間大人のための日本語の勉強会がありましたが、 仕事が忙しく勉強会に来なくなった人が多いのです。
 しかし先日また「日本語を勉強したい。先生をさがしてください」という人が私の所へ頼みに来ました。 先生といっても、共に新聞を読むとか彼らが書けない書類を一緒に書いてくれるとか、 日本語を教える方法はいくらでもあると思います。その上にこの勉強を通じて彼らと交流することができるのです。 人々が私に聞きます。「インドシナ難民のために何ができますか?....」私は「彼らと友だちになりなさい」と返事します。 心と心がかよいあうということが、日常生活において一番の助けになるのではないかと思います。 (お手伝いをしてくださる方は、ハリ−神父まで申し出てください)
(ハリ−・クア−ドフリット神父  姫路教会ニュ−ス)


ガリ版ラオスの学校で活躍

 日本で発明されたガリ版(謄写版)がラオスの小学校に広がり、教育に役立ってている。 日本のNGO・曹同宗国際ボランティア会(SVA)が支援しているプロジェクトで、 このほどラオス教育省の担当者らが来日、各地で現地事情の報告会を開き、資金的な協力を訴えた。
 「ラオスでもト−シャバンという言葉が定着し始めました」。 ラオス教育省一般教育局のウィラット・ウドムスックさん(44)とSVAスタッフのタイ人ソムサック・サリ−ピムさん(40)が口をそろえる。 ラオスは1988年に西側諸国への門戸を開き、現在市場経済へと緩やかに変化している。 しかし、教育分野はまだまだ遅れており小学校の就学率は約60%、卒業するのはさらにその60%。学校では教材不足が深刻だ。 国土の7割が山岳地帯で交通網が未整備ということもあって、教科書の搬送も困難だ。 こういった現状から、教育省では現地での教材政策の理想としており、謄写版の普及に力を入れている。
 SVAは79年にタイのカンボジア難民キャンプデ謄写版の普及を始め。 その後カンボジア、ラオスと活動を広げてきた。現在、需要が最も高いのがラオスだという。 ウィトラットさんは85年にSVAが日本から持ち込んだ謄写版を初めて見て、 「これはラオスの教育に役立つ」と思ったという。持ち運びに便利で、使い方も簡単、 それに比較的安価で、電気が通っていない場所でも使えるなどラオスの国情に適していた。
 ウィトッラットさんはその後、ソムサックさんらの協力を受けながら謄写版の普及活動を開始。 SVAも92年、首都ビエンチャンに工場を作りラオス人スタッフに指導しながら謄写版作成を始めた。 昨年10月にはラオス教育省やユニセフ・ラオス事務所などが協力し、郊外に工場を移転、1年間に約750 台の謄写版を作成した。 地方でもサラワンとバンビエンの2か所に工場を建て、さらに2か所が新設される予定。 それぞれ年間約200 台の製造を目標にしている。
 教育省とSVAでは、小学校で謄写版を配布する際に印刷の講習も行っている。 学校では、教師が独自に国語、算数などの教材を作る。また学校事務の報告を刷って交換するなど、 学校のコミュニケ−ションにも役立っている。

 教育担当者ら来日資金協力を呼びかけ
 とはいっても、台数はまだまだ足りない。同国内にには小学校が6,350 校あるが謄写版があるのはまだ958 校に過ぎない。 コストは輸送費、指導管理費などを含めて6台で50,000円。SVAラオス・ビエンチャン事務所の吉川健治所長は 「材料はスタッフの工夫で現地で調達できるようになった。 しかし資金での支援はまだまだ必要だ」と協力を呼びかけている。 謄写版が日本で発明されて今年でちょうど百年。 日本国内ではほとんどその姿を消したが、途上国ではまだその役割は終わっていない。問い合わせはSVA(03-3945-0981)へ。
(読売新聞)


日越52世帯"共生"の10カ月
言葉、習慣の違い超え生活 励まし、忍耐で

 世界には、国を離れて暮らす人々が一億人以上いる。その数は世界人口の約2%にあたり、今後も増加が予測される。 日本もまた例外ではない。身近な問題として異質な文化や習慣を持つ人々と共に暮らすことが必要とされつつある。 こうした時代、われわれはアジアがもつ多様性の中で学ぶべきものを見る。 そこには異質なものと共存していくためのシステムが内容されているようだ。 母国を離れ、アジア諸国から日本を訪れている人々にそれぞれの思いを聞いた。
 ベトナム25世帯、日本人27世帯が今も、神戸市長田区の南駒栄公園で生活する。 言葉や生活習慣の違う者同士が、一つの避難所で「共生」して10か月が過ぎた。 被災ベトナム救援連絡会で活動する日比野純一さん(32)によると「当初、日本人側は当惑気味だったが、 毎日ベトナム人と接することで個人的なつきあいも始まった」という。 実際、公園内で暮らす仲村美代子さん(49)は、グエン・バン・チャウさん(34)=ベトナム人自治会長=一家の食事に招かれたりした。
 しかし、生活習慣の異なる住民同士の「共生」は日々の暮らしのうえで、 共同作業である清掃当番などの細やかな部分にコミュニケ−ション不足が生じ、 ときには問題化するケ−スもある。
 現在、外国人登録をしているベトナム人は長田区で約500 人。 多くが姫路市の定住センタ−で4か月の研修を受け、町工場などで働いている。 家族5人で公園内に住むグエン・ティ・チュン・ユンさん(17)は「言葉のハンディを背負ったベトナム人同士、 助け合いながら生活することはとても励みになる」と話す。 彼らは南駒栄公園を「リトルサイゴン」と呼んでいる。

外国人登録者数
単位・人
兵庫県内
1995.6現在
神戸市内
1995.9現在
中国 13.140 8.998
韓国 69.002 26.974
フィリピン 1.517 367
ベトナム 1.708 730
タイ 346 131
マレーシア 133 66
シンガポール 89 64
インドネシア 240 62
合計 97.334 42.305
(神戸新聞)


チョットひとこと

日本人「だけの」教会?

 「私たちキリスト者は、キリストにおいてだれとでも一つになれるよう招かれています。 日本の教会にとって、今がその好機であることを決して見失ってはなりません。 教会はあらゆる世代、地域、生活習慣、文化と交わり互いの相違を包容して いくべき共同体です。互いの違いから生じる摩擦と痛みを体験することにより、 回心の機会が与えられます。この回心を伴う関わりによって、教会はさらに豊かになっていくのです。 民族の違いをとおして生きようと努力することは、他者に対して自分の生活体形態を押しつけるという同化を強いることではなく、 一緒にいきる新らしい社会、文化を生み出すことになるでしょう。
 教会にとって、移動する人々は、キリストにおける兄弟姉妹なのです。 彼らを歓迎するにとどまらず、さまざまな違いと共存できる共同体をつくり上げていく努力によってこそ 普遍的な教会を社会にあかしすることができるのです。  日本の教会は決して日本人だけの教会ではありません。キリストによって始められた教会は、 異なる国籍の人々との出会いをとおして、新しい人間性を築いていく神の国をあかししていきます」
 この文章は、もう三年も前に発表された司教団の文章の一節です。 (国籍を越えた神の国をめざして)日本の教会が日本人だけのの教会では決してない。 外国人と出会うことが神の国をあかしすること。単に彼らを歓迎するだけでは不十分。 押しつけの同化ではなく互いの違いから生まれる摩擦と痛みを体験し回心することから教会が豊かになっていく。
 司教団のこの力づよい励ましを受けて、昨年初めて国際協力のミサが行われました。 先日の行事は第二回目になります。姫路ではまだ「歓迎」のレベルかもしれません。 でも少しづつ「出会い」が始まってきたことは間違いありません。 この出会がさらに深まっていくことを、心から期待しています。
(H.Q)

もどる