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チョットいいこと 60

第11回難民定住セミナー
傷痕を越えて
国際社会へのステップ
ベトナム民話 絵本に
未解決の“大飢饉”賠償
情報レター たきび
ベトナムの学生招き交流会
第11回難民定住セミナー開かれる
第11回難民定住セミナーに参加して
チョットひとこと



第11回難民定住セミナ−

 ベトナム、ラオスなどから戦火を逃れてきたインドシナ難民の国内への円滑な定住を願って さまざまな支援を続けているカトリック国際協力委員会(カトリック難民定住委員会)は 「第11回難民定住セミナ−」を9月28日から30日、神戸市で開催した。 テ−マは『緊急時(阪神大震災)におけるインドシナ定住者への対策』。 自然災害によって見えてきた諸現象を確認することで、異文化の中における「共生」について考察を深めた。 また緊急時にこうした人々へ的確に対応していくためには、 「外国人(特にアジアからの人々)のための通訳が必要不可欠との認識に立ち、 プロの通訳者を養成するセンタ−とそのための研究機関の設置を「難民定住委員会」の名前で行政に要請していくことを決定した。
 地震発生後のごく初期から長田区に入り込み、診察活動をしてきた精神科医師の春田有二さん(仁恵病院副院長)は、 「震災後、5〜6か月を経て強いうつ状態が増えてきた点に注目。被災者が同じ状態の中で「お互い助け合おう、支え合おう」 といった共通の問題から自分の将来や明日の生活、 対人関係などといった個人的なことに問題が移っていったときにさまざまな症状が出てきたようだと分析した。 
 また地縁や患者とのかかわりを大切に、プライバシ−保護の面でも慎重に配慮しながら診察を行ってきたのに、 精神科の専門家の集団が大挙押し寄せ、それまで知られていなかった患者が周囲に知られてしまったり、 強いて入院の必要のない人にまで収容させられる事態が起こり、 医師として大きなショックを受けたと述懐した。 そして行政の「平等の原則」からは個人個人の違いを大切にする視点は生まれない。 これからは外国人、障害を持った人、お年寄りの暮らしづらさをどう見ていくかが問われる」と語り、 ゆるいボランティアの輪を維持しつつ、余り一生懸命やらず、 ちょっといい加減なくらいの気持ちで人とのかかわりを作ることが緊急時にも役立つのではと語った。
 鷹取教会主任司祭の神田裕神父は、震災直後から現在までの鷹取救援基地での活動を概観した。 「マスコミがベトナム難民の被災後の暮らしぶりを大きく紹介したことで、取材と物資が全国から彼らのみに集中した。 これがあだとなり、同じ被害者なのにと日本人の反発を招き、両者の確執に広がった」
 「一番大きな問題はベトナム語の通訳のできる人が少ないことだった」 「ボランティアのリ−ダ−に何でも責任がかかってしまい次々とつぶれていった」など、 貴重な現場からの体験を交えての報告がなされた。
 分科会での討議で出された報告を分析した結果、@緊急時の情報の伝達A通訳の問題が共通の課題として浮上した。 これを受けて「通訳といっても、法律、医療など分野によって専門用語が異なるため、それぞれのプロが必要。 こうした分野別の通訳の養成に行政がもっと予算をつけるよう働きかける」 「ボランティアは小間使いではない。役所や警察は彼らを安易に使って、善意の奉仕者だからと何ら報いることをしない。 彼らが人格を持った組織であることを行政が認めるよう働きかける」などの点で、今後動いていく必要を確認した。
 カトリック難民定住委員会の名前で、行政に「緊急時における分野別の通訳者の養成所と、 そのための研究に予算を計上してほしい」旨の要請を行うことを申し合わせた。
(カトリック新聞)


傷痕を越えて
ベトナム戦争終結20年 その4
ホーチミン市の整備工場で今年の事業プランを語るグエン・アンチュウさん

 昨年3月、サイゴン・モ−タ−ズの社長グエン・アンチュン・(52)は、輸入が禁止されている中古車を日本から輸入した疑いで、 ホ−チミン市警察に逮捕された。裁判もないまま11か月近く拘置された後、今年1月やっと釈放された。 「問題の180 台を輸入したのは93年7月20日。中古輸入の禁令が出たのはその3日後。 違法なことは何もない」とチュンは言う。それでも2月に行われたた裁判では「警告」という有罪判決を受けた。
 チュンが、今の会社を作って日本車の輸入を始めたの市場経済化を柱とする開放政策、 ドイモイ(刷新)が打ち出された86年。当時のホ−チミンは経済が疲弊、ガソリンさえも不足気味で、 バスは木炭を燃やして走っていた。
 ドイモイ後、徐々に燃料も入ってきた。チュンはバス、トラック、ゴミ収拾車など、中古の商業車を日本から次々に輸入、 市内の2工場で左ハンドルに改造して市場に送りだした。 これまでに出荷した車は200 台を超え、同市の商業車の9割を占める。チュンの逮捕劇の背景には、 市場経済化を進めながらも、一部の資本家が突出し、社会主義的秩序を乱すことへの当局の強い警戒感があったというのが、 ほぼ一致した見方だ。法律はできても、依然、「法治」よりは「党治」「人治」が時には優先されるのが、ベトナムの表情でもある。
 チュンにとって、逮捕はこれが二度目だった。一度目は日本で味わった。 75年4月30日チュンは、南ベトナムからの留学生仲間数十人とともに東京・代々木の同国大使館前にいた。 60年代末から反戦運動を繰り広げていた彼らは、昼過ぎサイゴン陥落を知った。 戦争の終結と、民族統一を祝いたくて、自然発生的に大使館に集まったのだった。 「大使館の中で祝杯をあげようじゃないか」「そうだ北も南もない我々はもう反サイゴン政権じゃない」チュンらは前庭に入った。 自国の崩壊でぼう然となっていた大使館員は学生たちを押しとどめた。 小競り合いの後、チュンらは住居侵入の疑いで逮捕された。
 反戦運動を始めたころ、指導者格だったチュンは、サイゴン政権から帰国・入隊命令を受け、これを拒否したことがある。 このため彼は禁固刑の判決を受け、サイゴの新聞に「共産主義者」とののしられた。 そして今度は逆に、資本家としてのし上がったことが、当局のとがめを招いた。 この国の激しい曲折の歴史を、彼の半生を象徴する。ホ−チミンは、昔のサイゴンのにぎわいを取り戻した。 車やオ−トバイの音が夜中まで絶えず、西側企業のネオンが輝く。 だが、北に制圧されたことによる南の人々の屈折した感情は、完全に消えていない。
 かつてボ−ト・ピ−プルとして米国へ脱出、最近帰国してホ−チミンに法律事務所を開いたA氏に会った。 取材の申込みに彼は「協力したいのは山々だが、何も話せない。言いたいことを言えば、この国に住めなくなる」と語った。 ハノイが南との和解を目指しているのは確かだが、一方で、自由主義あるいは資本主義への回帰志向になお締め付けの力が動く。
 「警察が法の運用を熟知していなかっただけのこと。事件に政治的意味はないよ」とチュンは笑う。 市民が政治をタブ−視せざるを得ないところに、北と南の和解が果たされたとはいえぬ、この国の姿が投影されている。
 ビジネスに専念することが今の彼の処世術。「中古が駄目なら」と、今月14日には、いすずとの間で、 現地組み立て方式による新車生産の合弁会社を作ることで合意した。
(読売新聞)


国際社会へのステップ
難民条約加入の機会に

 日本に何年間住んでいても、また日本で生まれ、日本で育っても、外国人は外国人であるとされ、 日本の法の恩恵は受けることができませんでした。国民年金や国民健康保険には日本国民ではないから入れませんでした。 公営住宅にも入れませんでした。どれほど生活に困っても生活保護や児童手当て等は絶対に支給されませんでした。 それに対して、法の改正を求める運動や裁判が数えきれないほど行われてきましたが、法の岩はビクともしませんでした。 しかし、ある日突然まったく予期していなかった時にボ−ト・ピ−プルという難民によってこの砦が崩壊してしまいました。 それは黒船の到来により、四百年間も閉ざし続けた鎖国の壁が崩れ去った事件に匹敵します。 
 難民が入って来たことにより、日本は難民条約加入する機会を得たのです。 1982年1月1日から効力が発生しましたが、その時から日本の国内法が大幅に改正されました。 難民条約の加入について国会で質問が最初に行われたのは、1962年8月でした。 難民の定義がはっきりしないという程度の答弁で加入は先送りされてしまいました。 その後も難民はヨ−ロッパの出来事であり、日本には直接関係のないことであるとして、真剣に検討されませんでした。
 そして、1975年5月に平和が実現したと思い込んでいたベトナムから難民がアメリカの船に救助されて、 千葉港に入港しました。具体的な対応策についてまったく準備のない日本政府は為(な)す術(すべ)もなく、てんてこ舞いの状態でした。 水難上陸許で15日間の上陸を許可しました。しかし難民を直接に引き取り、 お世話したのはカリタス・ジャパン(カトリック教会の社会福祉部門)と協力したいくつかの教会と修道院でした。

 難民の幸せのために・・・・
 しかし、15日間の滞在期限が過ぎてしまうと入国管理局から国外退去命令が出され、行き先のない人々を抱えて困りはててしまいました。 南米の国々と交渉し、やっとパラグアイに移住させることができたのです。 その当時の苦労話を先日ドイツ人のチネカ神父より聞きました。
 日本人の神父である私は当時何をしていたのか考えると恥じ入らざるを得ません。 その後一時滞在が180 日間認められるようになりましたが、定住が認められるようになったのは 1978年4月の福田首相の訪米の直前だということです。 そして、1979年、初の東京サミットの時に、外国からの弾圧により難民条約に加盟することになりました。 国会での十分な審議もなく外国からの一方的な圧力で加盟したということは日本に定住する難民にとって幸いなことではありません。
 しかし、彼らが日本に定住して良かったといえる日本にすることは、国際社会の一員として、 また国連の常任理事国になろうろしている日本にとって必然的なことではないでしょうか。
(上毛新聞)


ベトナム民話 絵本に
神奈川県の高校生4年がかりの制作

ベトナム民話の絵本を出版する神奈川県立多摩高「日本語ボランティアサークル」のメンバーら
 神奈川県立多摩高校(川崎市多摩区)の「日本語ボランティアサ−クル」(斉藤登志幸部長)が 4年がかりで取り組んでいたベトナム民話の絵本が完成。 ベトナム語日本語で書かれた絵本は、異国の地で母国の言葉や文化を忘れていく子供たちに、 「母国文化を紹介したい」との願いがこめられている。
 タイトルは「イッ・イッ・イッ足りないよ」(かど書房、1,800 円)。 神に仕える食いしん坊の召使が、人の役に立てと言われて、豚になって下界に降りる話で「イッ・イッ・イッ」は豚の鳴き声。  同サ−クルは週一回、同県綾瀬市内で、ベトナム、ラオス、カンボジア出身の子供と遊んだり、補習を手伝っている。 次第に日本人化する子供たちの姿に疑問を感じたのがきっかけ。 顧問の風巻浩教諭が、友人のベトナム人会社員、ダン・タン・ファットさんに協力を依頼。 部員らはベトナム文化や風俗など民話を収集して、出版準備を進めてきた。絵本は3,000 冊を印刷、 在日ベトナム人に抽選で無料配付する予定。
(読売新聞)


未解決の"大飢餓"賠償
経済援助優先でタナ上げ

 「あの年、両親と兄妹8人が家の中や路上で、飢えのため次々に死んだ。 コメ一粒もなかった。両親が死ぬ前に、日本人のせいだと嘆いていたのを覚えている。生き残ったのは私だけ」。 ハノイまで南東150 キロメ−トルのタイビン省ティエンハイ県タイルオン村でブ・バン・ドゥアさん(64)はこう語った。 今は水牛の世話やガラス切りなど、よそから頼まれた仕事で生計を立てている。
 近所のブ・ティ・ガイさん(86)も「日本軍の通達によってコメを供出せよ」との 命令が来たのを覚えている。「食べ物がなくなり、ハノイまで歩いて行きました。 こじきになりました。9人の子供のうち、幼かった3人の娘が死にました」「あの年」とは、 1940年からフランス領インドシナに進駐していた日本軍が仏軍を武装解除して、 ベトナムを占領下においた1945年のことだ。
 その前年、ベトナム北部は大冷害に見舞われた。日本軍が仏統治府に圧力をかけコメの強制調達に走り、 準備米も収奪したため翌年にかけて大飢饉が起こった。 タイビン省では人口の三分の一の27万人、タイルオン村では3,900 人が死亡。 「都市・農村を問わず死体が道路の至る所に散乱する」(ベトナムの歴史教科書)惨状だった。  ホ−・チ・ミンは45年9月の独立宣言で、 「わが人民は仏と日本の二重のくびきのもとに置かれた。200 万人以上の同胞が飢え死にした」と述べている。 「死者200万人」は通説であり、裏付ける調査デ−タ−があるわけではない。 独立後、ベトナム30年間戦火に包まれ、調査が不可能だったことが大きい。 しかし、少なくとも数十万人が餓死したことは否定できない。
 冷戦下、日本は59年、当時の南ベトナム政権と戦時賠償協定を結んだ。 飢餓が起きた北ベトナムに対しては、73年の国交樹立の際にもハノイの賠償要求を拒んだ。 昨年8月に訪越した村山首相も、この問題には触れず、ベトナムのホ−・バン・キエト首相も「過去の扉を閉ざそう」と述べた。 経済援助の必要性から賠償問題については「当面は言及するつもりはない」(ベトナム外務省)とする同国の戦術もある。 ベトナムは最近、日本の学者の協力も得て飢餓の実態を調べ直し始めた。 しかし、半世紀を経た今、関係者の記憶は薄れ、調査は困難を強いられている。
 タイルオン村の30代の女性は「大半の村人は忘れていると思う。 日本への憎しみはない」と言った。長い歳月が過ぎる中、この国でも戦争は徐々に風化しつつあり、 大飢饉の責任はあいまいなままだ。
(読売新聞)


情報レタ−たきび

 神戸わんぱく祭 IN 長田
 去る、5月14日、大雨の中"神戸わんぱく祭"は予定通り行われました。 神戸わんぱく祭というのは、ボランティアの方々が運営、すべての屋台は無料!!という、 神戸の人々、又外国人の方々との交流の場として開かれたお祭りです。 その中、ベトナムの屋台も出ました。出ました!!生春巻き(Banh Goi Cuon) ベトナム風お好み焼き(Banh Xeo)はサイコ−の人気。 列までできて、みんなに大変楽しんでもらえて、とてもうれしかったです。 ご協力くださったみなさん......ありがとう (NO.10)
段ボールの円柱を組み立てる

 今回紹介するのは、若さいっぱいピカピカに輝いている17歳の女の子、その名はユンちゃん(とってもカワイイのよん)
 ユンちゃんは、南駒栄公園で避難生活を送っています。 厳しい生活なのに、それを感じさせないくらいいつも元気はつらつ。自治会のミ−ティングに、炊き出しの手伝いに、 弁当運びにガンバル。ガンバル。さらに公園内のことだけでなくFMユ−メンの音楽番組"TEENS" (日曜午後1〜2時)でDJを務めたり、長田復活祭の民族衣装のファッションショウ−にアオザイを着て、 ステ−ジに立ったり....今や、地域の人気者になりつつあります。(テレビにも出た)
 そのユンちゃん「ベトナム語と日本語だけじゃなくて英語も話せるようになって世界を羽ばたきたい」と大きな夢を持っています。 ガンバッテね

 夢のお話
 "気分はベトナム"〜 FMユ−メン番組紹介 〜 
 毎週火曜日午後4〜5時の放送。DJひよこちゃんが身近なベトナムの生活文化たとえば、 料理、ファッション、音楽、ゲ−ムetc を紹介してます。ベトナム料理の屋台の体験や南駒栄公園、突然インタビュ−などもあり、 体験レポ−トもいっぱいです。
 日本のみんなにも、ベトナムを知って欲しい....ステキなベトナム文化をみんなで共有しましょう。(NO.12)

 ラブ・ベトナム
 公園でテント生活をくるBさんはその日大忙しである。 いきなり朝早くから100 人以上のゴリラ隊がドド−っとやって来た。 サングラスのオッサンがドナリまわるうち、紙のパイプの山小屋が6軒建ちだした。 「こりゃアタシだって張り切らにゃ」とベトナムジュ−スを大ナベ作る。 汗いっぱいの若者のために氷を買いに走る。隣のテントのおばちゃんやおとうちゃんにゲキをとばしてベトナムサンドウィッチを作る。 午後4時ピタッ!と小屋が完成。Bさんはニコニコやっと汗をふいた。 (NO.16)


ベトナムの学生招き交流会
DCI など市民団体 集会やキャンプに参加

 世界規模で活動している市民団体「DCI」日本支部と、ボランティア団体「ベトナムの子どもたちを支える会」は、 子どもの権利条約発効1周年を記念してベトナムの高校生2人と大学生2人の計4人を招きました。
今年2月、国連子ども権利委員会のマルタ・サントス・パイーツさんの講演を聞くDCI日本支部の会員
 来日したのは、ベトナムでストリ−トチルドレン (路上で生活している子供)を救済するボランティア活動をしている高校2年の グエン・ティ−・タン・ヒエンさんと同3年のレ・ドゥク・ヒ−君、 フエ大学日本語クラス2年のグエン・フ−・チャ−さんとチュオン・ディ−ン・ラ−ム君。
 4人は昨日来日し、18日には静岡市へ行き、地元の中学生と交流します。 同19日には東京・池袋で開かれる「ベトナムの友人を囲む会」、 同23日には「子どもの権利条約1周年イベント」の集会や討論会でストリ−トチルドレンの実態や、 ボランティア活動の内容を報告します。 また、同日本支部の子ども委員会が8月2日に東京で開催を企画した「ベトナムの友だちを囲む子ども集会」にも出席し ます。ベトナムの高校・大学生の招待に協力したのは、 「ベトナムの子どもたちを支える会」代表の岩辺泰吏さんらは「ベトナムの高校生と日本の高校生が交流すれば、 互いに学ぶものが大きいのでは」と話しました。 7月19、23日と8月3日のイベントには、一般の人も参加できます。 問い合わせ先は同支部(東京都世田谷区北沢2-10-15-303 )(03-3466-0222)
(高1・浅井愛記者)(読売新聞)


第11回難民定住セミナ−開かれる 

 国際協力委員会の一部門であるカトリック難民定住委員会(委員長・野村純一司教)主催の難民定住セミナ−が9月28日から3日間、 神戸市内で開催された。同セミナ−は、毎年2月に開催され、今回で11回を迎える。 当初、姫路地区での開催が予定されていたが、この度の大震災で中止された。 しかし、被災地には難民が多数住居しており、従来のセミナ−とは違った意味で実施する意義が大きいことから、 多数の協力者を得て、急遽開催にこぎつけた。
 参加者は浦和から福岡教区に及ぶ30余名。大阪からも、カリタス大阪、アジア交流センタ−の関係者のほか、 政府の事業本部からもスタッフが加わった。 セミナ−では「緊急におけるインドシナ定住者への対策」をテ−マに講演・パネルディカッション・分団会などを通じて主題を深め、 分かちあいをおこなった。基調講演で春田有二氏(精神科医)が 「共住外国人(講演者自身の命名)の精神的ストレスからくる悩みの受け皿となる窓口の必要性を強調された。 パネルディスカッションでは、神田裕師(鷹取教会)とソン師(静岡教会)を交えて、 3人のベトナム高校生が被災の状況、避難所の生活、友人の死について語り、感動を与えた。
 第2日には、神田師が、震災の中で見えてきたこと、長田区で見たこと、と題して初公開のビデオとともに分かちあった。 その後、前日の高校生たちの発言、神田師の話を素材に分団会で意見交換、全体会で救援の継続を確認しあった。 第3日は、会場を鷹取教会に移し、被災と救援の真っただ中、ボランティアたちの作業するつち音の響きを聞きながら、 感謝のミサが捧げられた。移動途中で見学した「紙製」のログハウスの並んだ公園も参加者に深い印象を与えたようであった。 日程的にも、開催場所の点でも、多くの困難を乗り越えた今回のセミナ−は実に有意義な集まりとなった。
 なお、次回セミナ−は、例年通り96年2月、関東で行われる予定。
(金原  薫)


第11回定住セミナ−に参加して

 非常に多くのことを恵まれました。同じ部屋で20年近くこのことにかかわり子どもの進学のことで奉仕してこられた方と知り合いました。 今私は、神戸市の長田区にある鷹取土曜学校の指導をしています。 まだ2〜3年と期間は短いのですが、その中にも悩みがあります。 そんな時にこの方と知り合えて、慰められたり支えられる思いがいたしました。
 また、パネルディッスカッションにおいて、高校生のベトナム人少女たちの立派な姿を見ましました。 今教えているこどもたちの将来について明るい姿が見えたようで嬉しく励まされました。 特に高校2年生の少女の「日本語が分からない父は、身体を使う仕事を一生懸命している、 そんな父を偉いと思う」という発言には、感動させられました。
 後で、ソン神父様に伺うと、この少女たちのご両親がしっかりしているから、 このように子どもたちが立派に成長しているのだということでした。しかし、そでない子どもたちも多いとのこと。
 非行や親子の断絶は日本人にもある問題で。どこの国でも青少年の健全生育は、大きな問題です。 しかし、インドシナの人たちは生まれ育った土地から根こそぎにされ、異文化社会にいるわけですから、 教育の面でも多くの困難があります。異文化の中のマイノリティ−であることで、 問題が起きた時にさらに悪化させるような圧力が日本社会にあるのなら、それは私たち日本社会の問題です。 ですからインドシナの人たちの子どもの教育の問題は彼らの問題であり私たちの問題でもあるわけです。
 そのような異質なものを排除する日本社会のつめたさを、少女たちは地震の後の避難所暮らしで味わったそうです。 日頃は隠されているものが、危機的状況で表に出てくるのですからそのことに取り組む必要があると考えました。
神戸大学大学院生  戸田佳子


チョットひとこと

 9月28日、第11回難民定住セミナ−で、震災で避難所生活を6か月以上に亘って過ごした、 神戸の女子高校生3人が体験を語ってくれました。親たちは日本語が分からないので、 日本人がなにか噂さ話をしていてもわかりません。しかし、彼女たちは日本人が陰でささやく悪口を全部聞いてしまったのです。 しかし、そのことを親に話せば、きっと、気持ちが悪くなるだろうと考え、聞いた悪口は自分たちの胸の中におさめて、 明るく振る舞っていたということです。

 そんな心遣いが未だに出来ない私にとって、甚だしく、感動しました。 どこで、誰からこんな心遣いを学んだのだろう。 一つの家庭の中に二つの文化が共存しているところで生活している者が身につけた知恵なのだろうか。 しかし、避難所生活が終わる頃には、お互いに理解が深まり、別れを惜しむほどになったということです。
 しかし、現代っ子らしい彼女たちのユ−モアには参りました。 一つの壁を越えないと親しくなれない日本人を「日本人は遅い」と見事に言いきりました。 日本人は仕事のためなら、地球の隅々に素早く出て行く国際性を身につけています。 しかし日本に来る外国人に対しては、友達になるということにおいては極めて遅い非国際的な性質をもっています。 それが今度のような緊急事態になると、ほとんど外国人のことは頭に浮かんで来ないということになってしまいました。 言葉が分からない人がいるということが気がつきません。 市役所から出されるお知らせは行政用語という日常生活に馴染みのない難しい言葉で書かれており、カナをふってありません。 かなり日本語が達者なベトナム人でも通訳ができなかったということです。

 とりあえず、通訳ネットワ−クと養成が必要であるということが確認されました。 阪神・淡路大震災を機に日本の国際性が一歩進歩することを願っています。
(Y.I)

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