もどる
チョットいいこと 59

傷跡を超えて
日本人は難民の友になれるか
プラズマ
“テントの鉄人”祖国の味
テック・ナット・ハン氏20年ぶり来日
被災外国人に電波の応援歌
生きる
難民『心の基地』閉鎖へ
情報レター『たきび』
チョットひとこと



傷跡を超えて
ベトナム戦争終結20年 その3
認められた民族融和の願い

 レストラン「マダム・ダイ」は、ホ−チミン市(旧サイゴン)の中心部にある。 店の看板はないが、中の大きな居間では、外国人観光客が色とりどりのベトナム料理を楽しんでいる。
 女主人のグエン・フォック・ダイ(71)が姿を見せた。完璧な仏語、時には仏語なまりの英語で、客との会話を楽しむ。 木製の家具はどれも古びているが、光沢は失っていない。ダイがこの店を開いたのは75年6月、 サイゴン陥落から2か月後だった。閉鎖された自分の法律事務所を衣替えした。 
 「銀行預金も凍結されたし、食べるためには迷っていても仕方がなかったのよ」。 当時のメニュ−はたった3種類。豚肉か牛肉か鶏肉を焼いて、コメを添えただけのものであった。 66年、ダイは旧南ベトナムの国会議員となる。「行政が腐敗にまみれた南ベトナムを民主的な国にしたい」と思った。
 祖父が水田三千ヘクタ- ルの大地主とう家柄。 自身も、パリで医学を学んだ父について長く在仏、帰って来た時は仏仕込みの法学者になっていた。 彼女は、サイゴンを代表するブルジョアであり、インテリだった。
 68年、国会の副議長となるが、グエン・バン・チュ−政権は対米国依存を強めるばかりで、まともに機能しない。 72年国会を辞し、北にも南にもくみしない第三勢力に参加。 しかし最後に将軍ズオン・バン・ミンを大統領にかつぎ出して北との平和を図ろうとした第三勢力の試みも、 北ベトナム軍の進撃でついえる。南ベトナムは消滅した。ダイはミンを補佐していた。 陥落が決定的になった時、ミンは苦渋の色を浮かべた。「とうとうここまで来てしまった。ダイさん。 同じ民族同士の殺し合いを終わらせるには。もうこうなるしかなかったのかなあ」と言った。
 ダイには別の思いがあった。ホ−チミンの抗仏・抗米闘争を支持していた父の影響で、 実は彼女自身も早くから南ベトナム解放民族戦線をひそかに支援していたのだ。 サイゴンに潜り込んだゲリラ兵に宿を提供したり、薬を与えたりした。 二つの顔の使い分けていたダイにとって、サイゴン陥落は、仮面を脱ぎ捨てる絶好の機会に見えた。 「別に共産主義に共鳴してたんじゃない。だけど、民族が統一されると思うと、 はつらつとしたのを覚えている」ハノイはしかし、サイゴン政権の要職にあったダイを敵性人物として見なし続けた。 レストラン開店後も、「ブルジョア趣味だ」「CIA (米中央情報局)の手先だ」と陰口をたたかれた。 フランスから持ち帰った家具や食器を売って食いつなぐ日々が続いた。
 風向きが変わったのは、ダイの解放戦線への協力がようやく共産党に認められた後の93年。 「過去を忘れ、南北和解を果たすべきだ」との論文が党機関紙に載った。 彼女は、党の真意を知りたくてド・ムオイ書記長との“単独会見”を申請した。 やがて党中央委員会書記長から「応じる」と返事が来た。「信じられなかった。 申請は無視されて当然と思って出したんだもの」
 ハノイの党本部で会ったムオイは、こわおもての容姿とはちがい、穏やかで親切だった。 そして「ダイさん、ベトナムは今、近代的な法治国家になることを目指している。 あなたの豊富な法律の知識と経験で手助けしてほしい」と言った。 彼女とムオイの会見は、共産主義に絶望して海外へ逃げたベトナム人(越僑)の一部に、 ハノイとの融和への希望をもたらした。「国を捨てないでよかった。 これでまた祖国の発展に貢献出来る」ダイは今、そう考えている。
(ホ−チミン市で・林田裕章)(読売新聞)


日本人は難民の友になれるか

心に突きささる言葉
 今から12年前のことになります。一緒に生活していたベトナム難民から 「日本人は難民の恩人になってくれる人は多いが、友人になってくれる人は少ない」という極めて厳しい言葉を聞かされました。 その言葉が真っ直ぐに私の心に突きささり、その痛みが、いまだに癒えないばかりか、ますます強くなっています。
 現在、ベトナムは1986年のドイモイ(刷新)政策により、世界の国々から外資を誘致し、豊かな国を目指して、活発に動き出しています。 日本からもたくさんの企業が進出していまう。しかし、一つの矛盾が生まれているといわれます。 それは貧富の格差がますます広がっているということです。 今のベトナムに対して、世界最大の経済援助国となった日本は、果して恩人か。 ベトナムの発展を本当に助けているのだろうか。
 ベトナム難民が日本に最初に到着した1975年ごろ、日本は国土が狭いから、難民を受け入れる場所がないとか、 国を捨てるような身勝手な人達を受け入れても少しも利益にならないとか、一方的な声をよく聞きました。 しかし、その時には反論しませんでしたが、12年間、難民の人々と共に生活して分かったことは、 彼らを批判する前になぜ彼らが国を捨て、危険な小舟で南シナ海の荒波を越えて来なければならなかったのかという、 生命の危機感に追い詰められた彼らの立場を、理解しなければならないということです。
 1982年に、あかつきの村の中に小さな難民定住センタ−を作り、18人のベトナム人を受け入れました。 しかしその時、私はうかつにも、日本が1941年から終戦までの4年間、ベトナムを侵略していたということを知りませんでした。 ある時ベトナムの中学3年生の教科書を読む機会を得ました。 日本軍がベトナムで食糧を強制的に安い値段で買い占めてしまったために200 万の人々が餓死したということや、 抗日救国運動が非常に激しかったことが、数ペ−ジにわたり、写真入りで書かれていました。

まだまだ残る、戦争の傷
 日本は50年以上も前に、ベトナムに対して取り返しのつかない悪らつなことをしてしまったということを、初めて知りました。 居たたまれない気持ちになりました。フランスが長い間、植民地にしていたことが、 ベトナム戦争とその後の難民流出につながったとばかり考えていました。 しかし、日本もその一翼を担うようなことをしていたということは、大きな驚きでした。
 その時から、ベトナム難民を見る目が変わりました。彼らは好んで国を捨て日本に来たのではなかったのだ。 フランス、アメリカ、日本などが彼らが祖国で生活できないような混乱状態を巻き起こしてしまったため、 やむなく国を離れ、難民とならざるを得なかったのだ。彼らの友人になるということは、険しい道であることを知りました。 私たち日本人が戦争で傷つけた人々と、真の友人になるということは、 一人ひとりの難民となってしまった人々の心の傷痕を癒してゆくことから始まることを知りました。
石川能也(カトリック司祭) (上毛新聞)


プラスマ

 ▲..... 東京教区喜多見教会(主任・坂倉圭神父)では阪神大震災の中、長期援助について、 援助の谷間にある人への支援を考えていたが、今春ベトナム中高生への学費援助を行うことにした。
 ▲..... 喜多見教会は、震災後、青年層のボランティア隊を2度派遣しており、 学費援助の対象を3月中旬の二次の派遣時に、ハリ−神父(アジア交流センタ−)の協力を得て選出。 今回2人(ク−・ハイ・イェンさん=前列左/ユン・アイ・クェンさん=前列左から三番目)のベトナム定住者の支援を決定した。
 ▲ ..... 喜多見教会では今春高校に入学するベトナム人への援助金額は一人につき毎月3万円(3年間)と決定したが、 現在援助を待ち望む対象者もあり、この支援が全国に広がることが望まれる。
(カトリック新聞)


"テントの鉄人"祖国の味
ベトナム人姉妹 三宮で一日屋台

 神戸市長田区の公園でテント生活を送るベトナム人姉妹が一日、神戸・三宮にベトナム料理の屋台を出した。 震災後、避難所で春巻きやベトナム風肉うどんなど懐かしい祖国の味を提供してきた二人。 '名物料理人'と慕われた姉妹をボランティアらが応援し、この日一日だけのオ−プンとなった。 被災の町に初めて登場したベトナム屋台は夜まで繁盛し、姉妹は生き生きとした表情を見せた。
 同区の南駒栄公園で生活するグェン・ティ・フォンさん(35)と、妹のグエン・ティ・ガ−さん(33)。 二人はベトナム南部ブンタンから13年前に来日、姫路定住促進センタ−で日本語を学んだ。 フォンさんは6人家族。ガ−さんは7人家族で長田区内に住んでいたが、震災でアパ−トが半壊した。
 厳しいテント生活の中で、二人が見つけた楽しみは夕食の団欒。 避難所の一角で20人もの親戚が集まりテ−ブルを囲んだが、料理はいつも姉妹が担当。 日本人ボランティアらもその輪に加わった。屋台の話しはボランティアの一人、正司絵理さん(27)が提案。 「私たちを喜ばせようと一生懸命料理する二人は本当に生き生きとしていた」と正司さん。 「与えられるだけの受け身の生活でなく、自分から行動を起こすことが今後への活力や自信につながる」と思ったという。
 そのアイディアに、屋台の復興を目指す「神戸屋台文化振興会」を通じて、三宮の屋台バ−が場所などを提供。 廃材で屋台の骨組みを作り、バ−の紹介でカラフルな看板も作ってもらった。 開店の前夜には、避難所のベトナム人や日本人ボランティアが集まり、みんなで仕込みにかかった。
 開店したのは三宮のど真ん中の生田新道。「おいしいうどんいかがですか」という呼び掛けに、道行く人らが屋台をのぞき、 日暮れとともに店は大盛況になった。 用意したベトナム風うどん150 食、春巻き100 食などが瞬く間に売れきれた。 「ベトナム人というだけで、いつまでも弱者と見られるのは嫌。 小さなことでも自分の力でやってみたかった」と二人。大好きな神戸の人に祖国のことをもっと知ってほしいと、 屋台には簡単なベトナム語会話や国の紹介記事などを備え、訪れた客と会話を楽しんだ。 同公園では現在、150 人近いベトナム人が暮らす。 正司さんら日本人ボランティアは「被災した外国人から、自立のきっかけとして屋台を出したいという声が出ている。 それを出来るかぎり実現させたいと」と話す。 フォンさんらは「作った料理を食べてもらって、おいしいといわれ、とてもうれしかった。 いい経験になりました」と喜んでいた。
(神戸新聞)


ティク・ナット・ハン師20数年ぶりに来日
ベトナム人避難所へ

 ベトナム出身で、世界的な仏教者、社会活動家のティク・ナット・ハン師が20数年ぶりに来日し、 震災で被災した神戸を最初に訪れた。 到着後すぐに会見した師は 「すべて移り変わるとブッダは教えたが、この地震は、人々が'深く生きる'ようにと全世界に鳴らされた鐘だ」と話し、 哀悼の意を示すとともに「いま、何かしなければと感じた。被災者が何を望んで、何が出来るかを考えていきたい」と "行動する仏教者"らしく語った。師はベトナム戦争にに対して中立の立場から平和を訴え、難民の救済に尽くした。 1967年にマルチンル−サ−・キング牧師からノ−ベル平和賞候補に推され、 パリ和平会議にも貢献したが、ベトナム政府からは帰国を拒否され、 フランスで亡命生活を送りながら世界中の難民などに物的・精神的な支援活動を続けている。 「ベトナム戦争ではどちらの味方もしなかったので、どちらからも敵だとみられてしまった」
 詩人でもある師の教えの特徴は、分かりやすい言葉で説くこと。「般若心経」 の解説本など80冊を超える著作は、詩的な表現が多くの人を引き付け、次々と邦訳も出されている。 「仏教は学者たちによって複雑になってしまったが、ブッダの教えはもともと簡単で奥深いもの。 もう一度簡素な教えとして再発見し、多くの人を幸せに導くのが私の喜びだ」。 と小さな声で、言葉をひとつひとつ、かみしめるようにゆっくりと話す。
 神戸に住んでいたベトナム人のうち約四百数十人が被災した。 師は「この国にもいい心を持つ人がいて、彼らを助けてくれると信じている」といい、 また「昔は災害があれば王様がざんげし、知識人を集めて相談した。仏教でいう国の業だが、今もそれは妥当なこと。 一刻も早く回復されることを祈っている」とも。  日本では僧職を目指す人が少ないと聞き「結婚は一人を幸せにすることだが、 僧はすべての人を幸せにする。仏教は日本文化の基礎だと思うが、それが少ないということは何かの傾向では」と、 やや表情を曇らせる。「都会にいると月をゆっくり見る機会もなく、心の病になりがち。テレビなどの害にもさらされる。 心の汚染を止めるためにも、ブッダの教えによって"深く生きる"ことをしなければ」と自ら提唱する一瞬一瞬を大切に生きる。 "マインドフル"の思想を強調した。会見後は神戸市長田区内のベトナム人が多く避難しているテント村を訪ねて一人ずつに声を掛け、 テントや小屋の中に入って被災者たちの体験た現状の話しに耳を傾けていた。
 今回は弟子たち約10人とともに台湾、韓国、日本、中国を巡るツア−。 日本には約3週間滞在し、東京や山梨県・清里などで、講演や集中合宿などを行うことにしている。
(神戸新聞)


被災外国人に電波の応援歌
神戸市長田区のボランティア発 ミニFM、きょう開局
 「チャオ・カックバン(みなさんこんにちは)、こちらはFMユ−メンです」 避難生活を送る在日外国人に母国語の震災情報や音楽を届けるミニFM局が16日神戸市長田区に開局する。 外国人を含む民間ボランティアが運営し、ベトナム語など5か国語と日本語の番組を流す。 「在日外国人と日本社会の溝を埋めるメディアに育てたい」と、震災一周年の来年一月を目標に、 出力の大きい地域FM局として国の認可を受ける計画だ。
 神戸市長田区海運町3丁目のカトリック鷹取教会を拠点に活動する「被災ベトナム人救援連絡会議」 (神田裕代表)の運営で、局名は「ユ−メン」。「親愛」を意味するベトナム語だ。
 同会議は震災直後から震災関連情報をベトナム語に翻訳してパンフレットを作り、ベトナム人被害者らに配っていた。 しかし、翻訳者が足りず、情報量と速報性の面で課題があった。 そこで、大阪生野区で在日韓国・朝鮮人向けに放送している先輩局「FMサラン」(洪彦義代表)にアドバイスを求め、 3月27日から試験放送を始めた。放送局は、カトリック鷹取教会内にある8畳ほどのプレハブ小屋。 ここにミキサ−や送信機など簡単な放送機材を持ち込み、76・2 メガヘルツの電波を教会周辺に点在する避難所やベトナム人、 韓国・朝鮮人が多く働くケミカルシュ−ズ工場に届ける。
 16日から、長田区内の在日韓国・朝鮮人向けに震災情報を放送している 「FMヨボセヨ」(全 楽代表)と協力し日曜日を除く毎日、午前7時から翌日の午前1時まで、 韓国・朝鮮語、ベトナム語、スペイン語、英語、タガログ語でのニュ−スや生活情報を放送する。 避難生活の中で少しでも楽しみになればと、母国から取り寄せた最新の音楽CDなども流す。 人手不足が悩みで、7人のボランティアらが、日常の活動や仕事の合間にDJや原稿づくりなど一人何役もこなす。  外国人向けだけではない。毎日午前10時からの番組は「海を越えて来た仲間たち」は 「定住ベトナム難民が日本社会でどういう思いで暮らしているか理解してほしい」と、 難民として来日したベトナム人たちの手記や新聞記事を日本語で朗読する。 このほか語学講座も企画している。放送スタッフの日比野純一さん(32)は、 「民族間の橋渡しをするメディアを地域で育てることが、本当の国際化につながるのではないか」と話している。
(神戸新聞)


生きる
明日へのきずな
 神戸市長田区の婦人靴糊(のり)引加工業中村隆之さん(54)は2日夜、 セメントを持って同区房王寺町7丁目のグェン・ヌ・テェイさん(43)の家を訪ねた。 地震で亀裂が入ったふろとトイレの補修を頼まれたからだ。
 母国の親類宅から呼び寄せられ震災2日後に来日した長女トゥェットさん(16)長男ジュン君(14)の二人が、 住み込んで学んでいる姫路定住促進センタ−から休みで帰っていた。 「お父さ−ん、オイオイ、と泣いたよ」。中村さんは、震災直後の混乱の中で父に出会えたトウェットさんの様子をまねて冷やかした。 はにかむ年ごろの娘に、継母のブ−・ティ−・タイン・ヴァンさん(43)や二男(2) が大笑い、楽しい片言の会話が弾んだ。
 中村さんは8、9年前に「求人」の張り紙を見てやってきたベトナム人を雇ったのが縁で、難民役50世帯の仕事や家の世話をしてきた。 テェイさんも3年前に飛び込んできた一人。中村さんは保証人になって親類の工場や借家を紹介、 二男の出産にも付き添った。一家5人が3月下旬、 一部損壊の家に戻ってからは水道修理や義援金などの手続きを手伝っている。 テェイさん夫婦は1991年、ハノイから小さな船で脱出、45日間漂流して中国船に助けられ、香港から日本に来た難民だ。
 二人にとって、船が転覆し手を取り合った漂流よりも、地震の恐怖のほうが衝撃だった。 「ドアが開かず、階段がばらばらに動いた」。必死にドアをたたき、近所の人に助け出してもらった。 一家は約2か月、近くの集会所で住民13世帯約20人と一緒に、言葉の分からない不安な避難生活を送ることになる。 一家が幼子のミルクに困っている時だった。近くの鶴崎なみ子さん(68)は崩れた家から石油スト−ブを取り出してミルク用の湯を沸かした。 避難所を巡回に来た日本ベトナム友好協会の中村道宏さん(58)は、下痢のジュン君らを病院に運んでいる。
 タインヴァンさんは目に大粒の涙を浮かべ頭を下げた。ジュン君らも子供なりにお年寄りの水汲みを手伝った。 習慣の違いであつれきもあった住民と一家の間で、初めて身ふり手ぶりの会話が生まれた。 「付き合ってみれば、同じ人間とわかる」と言う中村道宏さんの元には、無事を連絡したハノイの親類から礼状が届いている。
 神戸のベトナム人約740 人のうち500 人余りが被災し、約200 人はテント暮らしを続ける。 それでも、ほとんどの人が神戸を離れない。言葉が出来ないなりに町に住み慣れ、 靴工場や中古品を輸出するリサイクル業などの仕事に動き出しているからだ。 長田区でベトナム語FM放送を手伝うファム・ディン・ソン神父(31)は「長田は(難民の)第二の故郷になっている」と言う。 「助け合ったことなどない。夢も持っていない」と言っていたテェイさん夫婦から周りの心遣いを喜ぶ声が漏れている。
 「ありがとう。神戸が好きだ。働けて生活できるだけでいい」3か月ぶりに操業を再開したケミカルシュ−ズ工場で、 テェイさんは再び合成皮革を型にはめる仕事に精を出している。
(神戸新聞・京都新聞 合同企画)


難民の『心の基地』閉鎖へ
姫路定住促進センタ−役目終え来年3月
 1979年、インドシナ難民の定住を支援する日本初の施設として開設された 「姫路定住促進センタ−」(姫路市仁豊野)が来年3月で閉鎖されることが13日、 アジア福祉教育財団難民事業本部(東京)の所長会議で固まった。 国際情勢の安定で難民が少なくなった理由で、今後は在日ベトナム人らのアフタケアを神戸を拠点に行こうという。 開設以来、同センタ−に身を寄せ、日本社会へ巣立ったインドシナ難民は約2,600 人。 難民たちの「心のふるさと」として慕われた同センタ−は、ベトナム戦争終結から20年を機に役割を終える。
 同センタ−は、ベトナム戦争終結前後から急増したボ−トピ−プルを受け入れていた姫路の淳心会姫路教会からの申し出もあり、 79年12月、難民事業本部が仁豊野カトリック教会内に開設した。
 日本語教育や社会適応訓練など約半年間の研修を行い日本定住を促進する目的で、その後、 大和定住センタ−(神奈川)大村難民一時レセプションセンタ−(長崎)品川国際救援センタ−(東京)が開設され、 15年にわたって約9,600 人を受け入れてきた。 しかし、インドシナ情勢の安定とともにタイ、香港など東南アジアキャンプからの難民や家族の受け入れがほぼ終わり、 同本部では今後、大和定住センタ−と東京のセンタ−で対応できると判断、 昨年閉鎖した長崎・大村に続いて姫路閉鎖の方針を決めた。同センタ−では現在、35人のベトナ ム人が生活し研修を受けているが、12月の研修終了を待って閉鎖の準備を終える。
 閉鎖後は、阪神大震災で被災したベトナム人らが神戸周辺に多いことから、 西日本の相談口として、長田区内に事務所を構えアフタケアに当たるという。 9年前に同センタ−で研修を受け、小野市の鉄工所で働くホ−・バン・タイさん(27)は 「姫路が日本のふるさとのように思っている。困った時に電話をしたり、 新しい仲間に会いに行くことができなくなり、とてもつらい。 心の窓口を一日でも早く作ってほしい」と願う。 松本所長は「15年間、難民支援を続けてきた姫路の地を離れることに寂しさは残る。 日本社会を頑張って生き抜くインドシナ難民を支える"心の基地"として今後も支援していきたい」と話している。
(神戸新聞)


情報レター『たきび』
 あのDuy さんからバトンタッチされたクアン新村長は、どこかヤングアイドル的。 日本語もベトナム語も彼の人柄があらわれていて優しく流暢で、私たちにとてもわかりやすく通訳もしてくれます。 クワン君は大の音楽好き。ベトナムの人気歌手、特に美人人気女性ボ−カリストのCDを沢山FMユ−メンに貸して下さっています。 枚数にして約30枚。日本では入手困難なCDに収められた曲が毎日何曲も放送され、曲を聴いたベトナムのみんなは、 どれほど心を和ませていることでしょう。
 先日、ベトナムの女性にベトナム語の曲を聞いているだけでホットしますヨと言われましたが、 ユ−メンのスタッフもクワンさんのお陰でホットしています。 (と言っていました....)FMユ−メンには心暖まる局になって下さい。 クアンさんの願いでもあります。

夢のお話
 ユ−メン・QあんどA....其の一。"なぜ放送するのか?"
 震災という緊急時に"言葉"が障壁となって、必要な情報を得られず、途方に暮れている外国人の人たちがすくなくありませんでした。 そこで"電波による情報の伝達"に最適のミニFM局を設立して、出来る限り多くの情報をタイムリ−に伝える事で、 外国の人と日本の人がお互いに文化の交流の中で理解しあい、共に仲良く生活してことで、 長田に根ざした"本当の国際化"を目指しています。  地震でメチャクチャになった神戸の街....希望の光いっぱいユ−メン(夢)いっぱいの放送を76,5メガヘルツ"FMユ−メン"で。
 そのため、日々の放送を続けるわけなのです。(No.9)


チョットひとこと

 阪神大震災の五日後になってしまいましたが、急いで千吉良先生の車で神戸へ向かいました。 尼崎から交通渋滞で、一キロメ−トル進のに、二時間位かかる状態でしたが、夜の十時頃、三宮の近くにある暁光会本部に着きました。 古い建物でしたが倒れずに立っていました。 中に入ると、電灯はついていましたが、人の気配はありませんでした。
 隣の韓国人の奥さんが来てくれました。自分の家がこわれたので、家族が全員ここに避難しているとのことでした。 一階に住んでいた老人はこたつでお茶を飲んでいて、圧死されたそうですが、二階に寝ていたので助かったということです。 「コワイ、コワイ」と連発していました。余震が来たとたん「早く逃げないと、この家は古いから倒れますよ」と言いながら、 顔をひきつらせ、おびえきって、走っていってしまいました。 生田川のほとりで焚き火を囲んでいる人の群れの中にもどってもどって行きました。

 鷹取教会は、人にたずねながらやっと着きました。ヒゲヅラの神田神父さんに会い、握手しました。 力強い手にすでに復興を目指している心が伝わってきました。 テレビ局や見舞い客の対応に忙しく、その合間に二・三こと話すのがやっとという有り様でしたが、今までになく生き生きしていました。
 ベトナムの人たちの避難所をまわりました。ある信者の女性がこわれた自分のアパ−トを見につれていってくれました。 中は家具などが散乱していてとても入れない状態でした。 突然、彼女は私に向かって「神父様これは神様の怒りですよね」と言われました。 私はあわてて何を答えてよいか分からず「怒りではなく、呼びかけではないでしょうか」と言いました。 そして「どうして、怒りであると思うのですか」と聞くと、 「私たちの生活を見ているとそう思うのです」と答えました。 体育館の中に何千人もの人がおりましたが、そのうちの一人の異国から来た女性が、 自分の生き方を省みて、神へと立ち返ったことを知り、神戸は日本人が神へと心を開く場となるのではないかと思いました。
(Y.I.)

もどる