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チョットいいこと 58

傷跡を超えて
無名戦士描いた小説家
神戸と私
ベトナム雅楽再生図る
この人、’95
情報レター「たきび」
こだま
チョットひとこと



傷跡を越えて
ベトナム戦争終結20年 その1
ピュリツァ−章の写真の少女

 ベトナム戦争が北ベトナム軍のサイゴン入城で終結した75年4月から今月31日でちょど20年。 第二次世界大戦後の東西冷戦を強く反映したこの戦争は、アメリカとベトナムに大きな傷跡を残したが、 ベトナム国民は今日、国際環境激変の波に乗り、新時代を切り開く決意をみなぎらせている。 戦争にかかわった両国市民の様々な人生のその後と、20周年を迎える表情を追う。

 寺院の裏庭の、粗末なわらぶきの小屋。周囲にバナナやヤシの木が生い茂り、常夏の日差しと小鳥の鳴き声が溶け合う。 ト−チミン市(旧サイゴン)北西のタイニン省チャンバン村。 現金収入のないファン・タイン・トゥン(67)ドゥ・ゴック・ヌ−(67)夫妻は、寺が施す米と野菜だけで暮らしている。
 部屋の中には大きな絵があった。中央に、泣きながら裸で走る少女の姿がある。 周りの人も皆、恐怖で顔がゆがむ。背景に立ち込める黒い煙。 少女は夫妻の娘キム・フック。1983年のある日、夫妻は21歳になったフックを東ドイツへ見送るため、ホ−チミン市の空港にいた。 「病気がなおったらすぐに帰って来いよ」と父は言った。 「はい。治ったらすぐ帰るわ」と、娘も答えた。 はるかに先進国の東独で治療を受ければ、娘の苦しみは解放されるとトゥンは思った。
 1972年6月。南ベトナム解放戦線のゲリラの潜伏地と見られチャンパン村は、サイゴン政権軍の攻撃を受け、トゥンの家は全焼した。 9歳のフックはナパ−ム弾を浴び必死で逃げ出した。 市場にいたトゥンが大慌てで戻った時、フックは、AP通信のベトナム人カメラマン、ニック・ウトに抱きかかえられ、意識を失っていた。 背中も首も腕もひどいやけどだった。トゥンとウトは小型三輪車にフックを乗せ、サイゴンの第一小児病院に運んだ。 血管がずたずたに引き裂かれていた。娘が死ぬと思ったトゥンは「何がなんでも助けてくれ」とわめいた。 7日後、フックは奇跡的に意識を取り戻した。
 重い後遺症が残った。腕が自由に動かない。背中が灼熱のように焼ける。 トゥンは毎日氷を買って来て、娘の背中にあてがった。11年後、東独へ送り出しのは、いい治療を受けるための最良の道だった。 フックは帰らなかった。86年、キュ−バへ移住し医学の勉強を始めたとの手紙が届いた。 遠からず帰って来ると思っていたトゥンは落胆した。 仮に帰って来ても、我が家の貧しさを見て悲しませるだけだ。そう考えることにした。
 娘に会いたいというトゥンの願いがかなったのは、90年。フックは7年ぶりに帰国した。 「これでまた一緒に暮らせる」トィンの心は安らいだ。しかしフックは2か月後、再びキュ−バに向かう。 「アメリカで医者になるわ。そうしたら、お父さんにお金をおくれるでしょ。 それからベトナムに帰って、戦争で傷を負った人達の役にたちたいの」。 トゥンは引き留めることが出来なかった。以来、娘の顔を見ていない。 「キュ−バで知り合ったベトナム人男性と結婚したい」との知らせを最後に、手紙も2年間途絶えたままだ。
 完全になおりきっていない後遺症のために視力と集中力に欠けるとう理由で、 フックが医学を断念したことを、トゥンは一昨年暮れ、21年ぶりに村を訪れたウトから聞かされた。 ウトが撮った、逃げ惑うフックの写真は、世界に衝撃を与え、ピュリツア−章を取った。 それを掲載したオランダ、ドイツなどの新聞を、トゥンは大事に保管している。 この写真を、フックの義理の姉が模写したのが冒頭の絵だ。
 燃え盛った米国への憎しみは消えたと、トゥンは言う。フックの、あの泣き叫ぶ顔も、あの一瞬の出来事だった。 しかし、娘の泣き叫びたい心は今も変わらぬはずだと父は思う。 
(ベトナム南部タイニン省で・林田裕章)


ベトナム戦争終結20年 その2
無名戦士描いた小説家

 小説家バオ・ニン(43)のハノイの自宅に、昨年11月、テンマ−ク大使館から手紙が届いた。 「我が国は貴殿の業績に栄誉ある賞を贈りたい。ついては1月に貴殿を我が国に招待したい」との文面だった。
 ニンの心は浮き立った。出国ビザを取るための申請書を作った。その後で、政府から呼び出しがあった。 「今行けば、いろいろと面倒が起きはしないか。あなた自身、困ることになるのではないか」当局者はやんわりと、そう言った。 ニンの業績とは、小説 THE SORROW OF WAR(戦争の悲しみ)のことだ。 昨年、英語やスェ−デン語、仏語に次々と翻訳され、欧州を中心に評判となった。
 舞台は激戦の続く60年代末の南部山岳地帯。主人公の北ベトナム兵キエンの後輩が部隊から脱走計画をキエンに告げる。 「勝とうが負けようが、このままでは死んでししまう。それくらいなら、もう一度母親に会いたい」彼はいなくなった。 数日後、ジャングルの中で死体が見つかる。戦争が終わってからのある日キエンは黙考する。

  ――― 数限りない名もない兵士が、戦争の犠牲になった。ベトナムの犠牲になった。 ベトナムの名前を誇りあるものにした。しかし彼らにとって戦争は、苦しみ、悲しみであり続ける。 ――― 米国に対する勝利は、たぶん正義が勝ったということだろう。 しかし勝利したのはそれだけではない。残酷、死、非人間的な暴力もまた、勝ったのだ。( 中略)戦争の精神的な傷跡は、永久に残る。

 この小説は91年に出版されたが、ベトナム国内では美談としか伝えられることがなかった戦争の悲惨さを、 元北ベトナム兵士が初めて強調したところに意味があった。 「ベトナム戦争によって民族の解放と統一を果たした」とする共産党が「戦争の悲しみ」をこれだけ描かれて面白いはずがない。 当局が「面倒なことになる」と言うのはこの小説が海外でさらに評判となり、 それが国内に跳ね返って、戦争とそれを指導した党の意義が問い直されるのを恐れからだろう。
 ド・ムオイ共産党書記は先月の作家協会の大会で「人民と国家の利益から逸脱する文学は、 体制の転覆を図り革命の成果を否定する敵対勢力と戦わねばならない」と警告した。 「戦争の悲しみ」には、北ベトナム兵として6年間従軍したニン自身の体験が強く反映していると見られる。 同じ部隊の500 人のうち、生還したのは10人だけだったという。
 だがニンは「小説は想像の産物だ」として、自身の「悲しみ」について直接多く語ろうとしない。 サイゴン陥落の日、ニンはサイゴンの町を見たくて、捕らえた南ベトナム兵にジ−プ型車で案内させた。 「殺されると思っておののいていた相手も、会話を交わすうちに緊張が解けたようだった。 その時初めて、おれたちは同胞だったことを思い知らされた」と複雑な心境をのぞかせる。
 当局の忠告があってから、ニンは2か月間、考えた。 そうこうしているうちに、デンマ−ク大使館から、コペンハ−ゲンまでの往復航空券が届いた。 彼は招待を断ることを決めた。 「私を取り巻く環境は、日本などの他の国とは違う。我々文学者は、政府の後ろにいるのだ。今はそういう時代なんだ」
 ベトナム戦争を文学者が自由に評価出来るようになるまでには、まだ時間がかかりそうだ。 (敬称略) (ハノイ・林田裕章)
(読売新聞)


神戸と私

 ここ長田区の鷹取教会の仮小屋の屋根の上から、吹きすさぶ冷たい風に身をやつし辺り一面、荒涼たる瓦礫の山をぼんやりと見つめていた。
 今から3年前、優雅な国際都市神戸に、同胞ベトナム人の子供合宿「ベ−グオン=原流に立ち返る=」を手伝うために初めて名所の土を踏んだ。 この町は、同胞との人情溢れたふれあいを通して故郷の安らぎを漂わせてくれた場所であり、 日本にたどり着いて13年になろうとしているベトナム人である自分を誇りに思うようにさせてくれた居所でもあった。 しかしこんな形で、心の故郷に再び足を向けるとは、昨日までつゆ思わなかったし、その凶報に動揺を禁じえなかった。
 いても立ってもいられず、激震の4日後、現地入りした。至る所で焼け焦げた家屋の残骸がベトナム戦争時の記憶にダブって映った。 薄暗いロウソクの明かりが揺れる避難テントの中で、同胞の今日までの回顧に耳を傾けながら私の心は大きく揺れていた。 着のみ着のままで暗闇に紛れ、極限の恐怖と深い悲しみを抱えて生まれた故郷を後にした同胞の二度目の避難の心情に どんな言葉をかければよいのか私にはわからなかった。辛い体験をいっぱいしてきたから、 簡単に乗り切れるだろう、と安直に考えることが許されないはずだ。
 だが、一瞬にして死の町と化した神戸は徐々にではあるが確実に蘇るであろう。 「家族」の垣根を越えて皆は、狭いテントの中で同じ釜の飯を分かち合ってた光景が何よりの証拠である。 無邪気な子供たちの屈託のない笑い声とユ−モアに富んだ大人たちの陽気さに「平和の町」からやってきた私には妙に眩しいほど羨ましかった。 大自然の無常の前に同胞は、謙虚に自分の位置づけを確認できた喜びからの笑顔だろうか、 と考えているうちに不思議な解放感を味わった。やはり、神戸は今も私の心の拠り所の名所であった。
神言会神学生 グェン・トルン・ジュン (名古屋教区ニュ−ス)


ベトナム雅楽再生図る
古都フエ訪ね記録

 衰亡の危機にあるベトナムの宮廷音楽、ニャクニャク(雅楽)の保存を図る調査研究活動が、 主に日本の民族学者らを中心に本格化している。 ベトナム政府も、ニャクニャクの復興を重要な事業として位置付けているが、無形文化保存のノウハウを持たないことから、 日本など外国の支援に期待している。
 徳丸吉彦お茶の水女子大教授(民俗音楽学)を団長とする「ベトナム雅楽研究会」の一行はこのほど、 トヨタ財団の助成を得て、今世紀前半までベトナムを支配したグエン朝の古都フエを訪れた。
 メンバ−は、山口修大阪大教授(同)やチャ・バン・ケ−・パリ大学教授(ベトナム人)のほかに、 白石昌也横浜国立大教授(ベトナム文化史)ら10人。 16弦琴、琵琶横笛、太鼓など様々な打楽器の保存については、 ユネスコ(国連教育・科学・文化機関)が昨年3月現地で開いた専門家会議で「今ある資料を早急に記録する」ことで意見が一致した。 世代から世代への伝承が難しくなっている現状を踏まえたものだった。
 今回の調査団もこうした認識に立って、まず、 フエ遺跡保存センタ−などの協力でかつて宮廷に勤めた3人の長老音楽家から当時の演奏形式を聞くとともに、 実際の演奏をビデオに記録した。また、文献に残された記録も可能な限り収録した。 長くフランスの植民地だったことでベトナムから流出した資料や譜面も多いため、 今後フランス国立図書館などの協力も求めという。
 さらに、人材育成のためにフエ総合大学芸術学部に雅楽の専門コ−スを設けることを提案し、 今後5年間、日本側が奨学金を提供することで大学側と合意した。 フエ雅楽は、日本や韓国の雅楽との類似点もあり、文化遺産として注目を集めている。 ベトナムにはすでに宮廷はなく、かつての大編成による演奏は不可能になっているが、 徳丸教授は「今後は脱宮廷の文脈、例えば演奏会用の芸術として再生を図りたい」と話している。
(読売新聞)


この人 '95

 阪神大震災で大きな痛手をこうむった神戸市長田区。 ここに建っていたカトリック教会が全壊、全焼した。 昭和2年に落成し、戦災も免れた聖堂はなくなったが、焼け跡に、たのもしいキリスト像が残った。 鷹取教会の新生に向けて青年神父よ。がんばれ。
 神戸市長田区にあるカトリック鷹取教会聖堂は、大震災で崩壊炎上した。 焼け跡に残ったキリスト像が新聞や雑誌で紹介され、 人々の心を打った。この鷹取教会を預かっているのは、若い神田裕神父である。 神父は、1月17日午前5時45分すぎ、ドド−ンという、ものすごい音嚮とともにベッドで地震に襲われた。 並の揺れではなかった。起き上がれない。遊園地のジェットコ−スタ−にでも乗った状態だった。 部屋の棚から物が落ちる。とっさに布団を被った。周囲の家々が崩れる音が聞こえる。
 激震に耐えられず教会は全壊した。かろうじて神父の住む司祭館はもちこたえた。 真っ暗な中、メガネと懐中電灯を探し出しドアをこじ開けて庭に脱出した。 すでに3か所くらいから火の手が上がっていた。近所の人達が裸足のまま教会の庭に集まって来ている。 神父はすぐ部屋に引き返して、探せるだけの靴下を持ってきて罹災した人たちに履かせた。 水がない。そのうちに火はどんどん燃え広がっていく。 午後3時頃ついに教会にも火がついた。火の勢いをどうすることもできず、教会は燃え尽きた。
 被災後の神父の働きはめざましかった。大阪教区や全国の多くの人々の支援を受けながら、地域の人達の支えとなり、 共に立ち上がる努力を続けている。自分たちが立ち上がるだけではない。 一緒に救援活動もおこなってきた。鷹取教会は医療活動の拠点として、近隣の被災者達を勇気づけている。
 多くのベトナム人と日本人信者が手を取り合って活動しているのが、鷹取教会の特色である。 ベトナム人たちのほとんどはボ−トピ−プルとして日本に来て、定住している。日雇い労働や靴工場で得たお金を貯め、 祖国ベトナムからキリスト像を送ってもらい、教会の庭に安置した。 いま、このキリスト像が地域の人達の復興と新生のシンボルとなっている。
 鷹取教会のある区域は『区画整理区域』に指定されている。神田神父は請われて地元の【町おこし協議会】の副会長を務めている。 神父の副会長は神戸市では初めてのこと。長田区の人達は、人と人とのあたかかい交流の町づくりの面で、 神田神父に期待を寄せている。神田神父がこの教会に赴任して4年、 震災を機に地域の人達との連体を一層強め、地域の人たちと共に立ち上がってくれることを祈りたい。
(聖母の騎士)


情報レタ−「たきび」

 「震災後、たくさんの方々の協力でここまでやってこれました。感謝の気持ちをこめてこのレタ−を発行します。 これからもどうぞよろしくお願いします」3月21日に創刊された鷹取教会の情報レタ−「たきび」(三百部発行)の一節だ。
 鷹取教会のある神戸市長田区周辺は、震災以前から在日韓国人やベトナムの人々が多く住む地域。 国を越えて住民が互いに支え合い、寄り添い、本音で生きてきた町である。 「震災直後からいろいろ援助してもらい、感謝でした。ほんまはもっと早う「情報レタ−」を出して、 みなさんにお礼やこちらの状況をお知らせしたかったんですが、何しろ忙しうて....」教会主任の神田神父(36)は語る。 普段から教会と地域との密接なつながりを心がけてきたため、神父は選ばれて「町づくり協議会」の副会長でもある。
 聖堂と信徒ホ−ルが焼失しているので、教会の敷地内でテント生活。 そして現在四〜五十人のボランティアがここを拠点にさまざまな分野で奉仕生活をしている。 レタ−の内容は主としてそういった活動を紹介している。「 焚き出し班」「保健室だより」「ベトナム人関係」など各ボランティアが担当する活動報告のほかに、 神田神父の近況をユ−モラスに記した「神ちゃんの動き」のコ−ナ−もあり、ほほえましい記述も。 「『地域に開かれた教会』というと、何か言葉だけが先行している気がしますが、 ここは本当に教会と地域が一緒になって新しい町作りに取り組んでいる所です。 言葉は適切でないけれど、誤解を恐れずに言えば、今は教会が本当に地域と生きるチャンスだと思う。 開かれた教会作りの一つのサンプルとして見守ってくれたらうれしい」と神田神父は願っている。
(カトリック)

ここにベトナム人関係だけを抜粋してみました。

〜春よ来い〜
  被災地神戸にも春がきました。そして震災直後から一生懸命に活躍されたボランティアの方々との悲しいお別れの毎日がはじまりました。 また仲良くなった被災者の見なさん同志も、ライフラインの活躍でお別れがはじまっています。
 子供たちは、元気に広場で遊びまわり、お母さんたちはテント内で内職をはじめ、 お父さん、お兄さんは仕事に出掛け昼は少し淋しい公園ですが、 夕方からは各テントで楽しい夕食のおいしい香りがただよいはじめています。 18日には電灯がともり、テント村の人の心も明るくなりました。皆、春の花々に負けないように頑張っています。(創刊号)

 南駒栄公園では、3月21日夕方から、被災後薄暗いテントの中でボランティアのにわか家庭教師と 夜遅くまで一生懸命受験勉強をしていたトンちゃんこと登美ちゃんが県立神戸西高校に合格し、 両親主催のお祝いパ−ティ−がありました。公園内のベトナム人と日本人、それにボランティアが大勢集まり、 焼き肉とカラオケでと大いに盛り上がり、国境を越えた友情の輪が広がりました。 18日には、佐世保の米軍基地から9時間かけて駆けつけた日本人有志のみなさんによる炭火焼きホットッグとハンバ−グの焚き出しがあり、 久しぶりに温かい大きく口を開けてかぶりついてしまいました。 次回は米軍の兵隊さんも来て下さるそうです。又翌日には、 沖縄そば、毎週木曜日17.00 〜18.00 にはベトナム料理と....居ながらにして、日本全国・世界各地からの味を楽しんでいます。
▲ベトナム料理の屋台ブンタウオ−プン
 南駒栄で評判の料理人、グェン・ティ・ホンさんとガ−さん姉妹が生田区新道で屋台をオ−プンさせます。 場所はチャックの小屋のとなり。おいしいベトナム料理をどうぞ!4月1日11:30 スタ−トです。 (NO. 2)

 3月27日『レ−ライライFMユ−メン』
 優しいベトナム語のユルで始まるミニFM局ができました。 「ユ−メン」は日本語で親愛を意味していますが、教会のイエス様の像にも刻まれている言葉です。 4月16日の復活祭に開局するため、試験放送中に76,2MHz で7時〜12時、 14時〜21時、10時〜1時の1日3回放送しています。 又、被災1年目標にコミュニティFM局として、開局できるよう、スタッフ一丸となって奮闘中ですので応援を宜しくお願いします。 各避難所のベトナムの方々には、教会から受信用ラジオ付き懐中電灯とアンテナが近日中に配付される予定で、 多くの人に楽しんで頂けることと思っています。厳しい現場カントク和田氏制作のロゴもできました。 近日中に発表します。局ではアナウンサ−、DJ、技術・番組制作のボランティアを募集しています。 神田神父までお知らせくださいネ。(NO.3)

 南駒栄のベトナムテント村長Duy さんが、公園からさよならします。 被災直後から公園でベトナム人のまと役として。又日本人との橋渡しとして、 又あるときは日本人からの防波堤として大活躍した最大の功労者です。 かつて、被災ベトナム人救済連絡会議で「前回の会議」を「全壊の会議」とDUY さんは思いましたね。 同会議のメンバ−はこれをDUY さんの忠告と思って「全会一致」で肝に命じ、会議が全壊にならないうに頑張りますので、 いつまでも、DUY さんのオデコのように輝いた人生を歩んで下さい。ピカリ−ン。
 また、神戸での再会を楽しみにしています。その時には可愛いお嫁さんとご一緒に....ね。お待ちしてます。(NO.4)

 FMユ−メンがご復活祭の4月16日、にぎにぎしくスタ−トしました。
 地震でガタガタになった神戸の街に希望の光いっぱいユ−メン(夢)いっぱいの放送です。 オリジナルロゴと可愛いアオザイ姿のキャラクタ−は、ゴリラ隊総司令官、 あの和田画伯によるものです。只今、キャラクタ−の娘の名前を募集中です。 たきびの愛読者の方々も応募してください。
 開局特番ではやはりギタ−を持った神田神父様が局の代表としてご挨拶と忘れずに数曲、 また『ヨボセヨ』のチョン代表も負じと一曲とたのしくて和気あいあいのひとときでした。
 18日にはスッポリDJにはまちゃん。ソン神父様が加わり1日中話しっぱなしです。 ソン神父様に早くもノドあめを用意しなくちゃ.... (NO.5)

長田区新湊川公園のバンさんは、いつも薄暗いテントの中で、ご主人とお子さんをを送りだしてからFMユ−メンを聞き、 ケミカルシュ−ズの貼工の仕事をしています。 懐中電灯で1枚1円と安い工賃で毎日沢山の仕事をしていました。 2月中旬コ−ルマン社から白ガソリン用のランタンをご提供頂きランタンの明るい灯のもとで仕事と食亊ができるようになりました。 やはり灯は大切なのです。テントの生活が長期化して桜の花が咲く頃となり、気温が上がり食品の保管が困難となってきたので、 神田神父様はロダンの考える人となってしまったのです。ブロンズ像の芸術品とちがってすぐに歩くのが神田神父様。 区役所と早々に交渉を開始し、近日中にはやっと電気がくるようになりました。
 しかし、使えるのは電灯とテレビだけ。冷蔵庫は使えないのです。 これからの気候、冷蔵庫がないとどうなるのか行政の方はわかってくれません。 神田神父様は再びロダンになるのでしょうか?読者の皆様も神田神父様をロダンにしないよう応援よろしくね。 バンさんがんばろうネ。(NO. 6)

 教会に近い鷹取中学で被災直後からエネルギッシュに活躍されています中溝先生をご紹介します。 被災直後、同校ではベトナムの人たちが多い時で60名を越えたことがありました。 ベトナム人と日本人の感覚の違いで、当初にはトラブルが多少あったものの春休みには、 ベトナム人の生徒たちがボランティア活動したり、お母さんたちもみんな一緒に仲良く焚きだしのお手伝いをするようになっています。
 被災直後の4〜5日頃からベトナム人に対する流言飛語によって「ベトコン帰れ!」などが校長室にまでいたずら書きされた事がありました。 その時中溝先生は校内放送や班長会議で「関東大震災直後の朝鮮人に対する行動を繰り返すのか!二度としてはいけない」と説得されました。 このお話をされる時、先生の目から沢山の涙がこぼれていました。 先生にとって、ベトナム人は教え子であり、教え子の家族なのです。 それより何より自然災害であるこの地震はみんな平等に受け。 傷ついたのですから....先生は「最後の一人が同校を出るまで細く長く活動される」との事。
 中溝先生、これからもどうぞ宜しくお願いします。(NO. 7)

 南駒栄公園にダライラマの次に名前がでてくるほどの有名人、高僧テク・ニャット・ハンがベトナムの同胞を訪ねるためやってきました。 同師はベトナム戦争に反対し、「行動する仏教」としてパリ平和会議に参加しましたが、 影響を心配した政府からまだ帰国を許されず、現在南仏を拠点として難民の救援活動にあたっている。
 当日、Fユ−メンこれまた有名なソン神父と南駒栄のクワン新村長のお二人が大活躍。 同師とベトナムの方々が住んでいるテントと仮設住宅にご案内して、現状と住民の生の声を伝えました。 「今夜、このテント村で泊まらないと此処での生活がわからない」とあるベトナムの奥さん数人が同師に訴えました。 ....帰りぎわソン神父の手をとって「自分はなにもできないが、みんなのために頑張ってください」と同師のあつい思いは、 しっかりソン神父に渡りました。
 ソン神父が合掌でお見送りされたのが、とても印象的で今でも目に焼きついています。(NO. 8)


こだま

 主の平安
 この度は、僅かな寄付にもかかわりませず良いご本を送って頂きましてありがとうございました。
 届きました時、私が今年度勤務することになりました札幌の簾舞中学校の始業式、 着任式でした。その時会場の入り口に「ユダヤの子守歌」の歌詞が掲示されてあるのが気になりあとで読み返して見ますと 父と母がこの世に生まれた我が子に語りかける内容のもので、 人間にとって一番大切なのは「誠実と愛」であるということがとても暖かい表現で書かれていました。 そして私がこのご本で最初に目にしたのは「ユン君のうた」でした。その二つに何か結びつきがあるように感じ不思議な気がしています。 北海道は私自身も難民についての関心が少ないです。「いないから関心を持つ」その通りのことで、 私自身も周囲に対してもこの言葉が運動を進めていく基本になるような気がします。 時間がかかると思いますが理解と協力をよびかける手だてをこれから考え行動に移していきたいと思っております。
 難民の方々、そしてその活動にたずさわっている皆様に主のお恵みのありますことをお祈りいたします。
(市田和枝)


チョットひとこと

ちょっと、やっかいな信仰!
『神がすべての人を愛していること』
 カトリック信者になって、もう四十数年になる。なぜ自分が信者になったのかはあまり定かではない。 学校やまわりの環境がそうさせたのであろうが、自分が信者として自覚したのはいつのころであろうか。 しかし、この頃つくづくカトリックの信者のむずかしさと、良さを感じるのである。 いろいろ難しいことではなく、ただ一つ、『父なる神はすべての人々を例外なく愛している』ということである。 私が出会った、出会っている、出会うであろう人々、また私が出会ったこともない人々をすべて神が大切になさっているということである。
 私が人と出会ったり、知ったりする時に、すぐ気にいった人とか、気にいらない人とか、金持ちとか、家柄とか、 社会的地位とか才能とかが、すぐ気になるのである。 人を知ることは必要であるが、外側だけしか知らないような気がする。 そこで私の中にある価値観が、出会う人々を私の引き出しの中に分類して行く。 その引き出しに納められた人は決して現実に私が知った人ではなく私の感情と気分の中で出来あがった虚構の人である。 そこでは、意識的は無意識的か私の引き出しに入れない人も出てくる。 拒絶してしまう人、無関心でいようとする人々が私にはある。
 この様相が、神にはないとは驚くべきことで、私の想像外のことである。 私の弱さが、人を攻撃し、自分を正当化しようとする時に、神は違った態度をとられるということは私にとって大きな慰めである。 神が人を愛する時、誰一人除外されないということは、わたし自身も除外されないということがからである。
 これほど難しく、理解しがたいことはない。私が孤独であり、人から邪魔にされた時にこれほど私を立ち直らせるものがものがあるだろうか。 このことを心のそこから信じることができたらと思う。
 難民、滞日在日外国人が、わたしの側にいる。私は彼らの側にいるのだろうか。 私の引き出しに入らない人として、憐れんでみたり、邪魔にしたり、無関心でいるかも知れない。 自分の内的な姿を外的に映し出す人として感じているだろうか。 それを感じた時に、誰とでも一緒に生きることを承諾し始めたのかも知れないと思う。
(K.H)

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