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チョットいいこと 57

キリスト像は残った
愛はある..でも
阪神大震災国籍問わず
被災難民を支援しよう
街よ 人よ
焼け跡にイエスを求めて
ベトナムグループからあなたへのメッセージ
海を越えてきた仲間たち
こだま
チョットひとこと
ボランテイアと会議中の神田神父様



キリスト像は残った

 焦土の広い空の下、キリスト像は残った。 神戸市長田区海運町、JR鷹取駅の南東側に変わり果てた焼け跡が続く。 その一角に両手を広げた高さ3メ−トルほどのキリスト像だけが、立っている。 カトリック鷹取教会の聖像で、ベトナム難民の信者たちが母国から取り寄せていた。 ベトナム戦争、母国脱出、そして震災と3度のかん難に遇ったが「頑張れば、きっとよくなるよ」と、 〃復興シンボル〃の前で、再起を誓っている。
 教会は、17日未明の地震でまず倒壊。さらに火の手が東側の町工場と住宅の混在地が燃え出した。 消防車がようやく来て神田裕神父もホ−スを持ったが、ほとんど水は出ず焼失。 教会の北と東一帯はがれきの山になった。そして延焼を食い止めるように両手を広げたキリスト像だけが残った。
 3年前に、ベトナム人信者が母国に発注。教会の信者は日本人、韓国、朝鮮人、 ベトナム人で、台座に「互いに愛し合いなさい」と、聖書の言葉を刻んだ。 ベトナム戦争後、同国ではキリスト教徒も迫害を受け、国外脱出、日本に定住することになった。 同区の地場産業に多くが就いた。
 トラン・ティ・ハウさん(47)は住んでいた団地が傾き今、家族6人で車の中で寝泊まりしている。 旧南ベトナム軍兵士だったハウさんは「戦争も恐ろしいけど30秒で5千人も死なないよ」来日13年目。 廃品回収業を再開するほどめどは立った。 「神様に家族の無事を感謝した。子どものためにも頑張る」と話す。 ベトナム人190 人を含める信者650人全員が生きながらえた。 8割が家族を失ったが、医者の協力を求め焼け跡のプレハブで27日から診療を開始、 ベトナム信者たちは、集会所跡にみんなのため簡易ぶろを造り始めている。 「信者さんの家や仕事のこれからを考えると気が重いが、最低、最悪の時こそ、共に苦労も喜びも分かち合いたい」と神田神父。 日曜日のミサは、キリスト像の前、野外で続けられている。 
(神戸新聞 夕刊)


愛はある..でも

 上をむういて あ−るこおお 涙がこぼれないよおおに−。 ベトナム、栃木、東京、神戸。 政治難民としてベトナムから来日したのに..... 9人家族の大黒柱は肝臓病で倒れ、 妻と長男が働く印刷工場は倒壊、テント村生活。 日本語の仮設住宅申し込みは読めない。いま働き場が、住居が欲しい。

 2年前に神戸へ
 神戸市長田区の南駒栄公園で、ベトナム人の子供たちが遊んでいる。 その楽しそうな姿から避難生活は想像できない。 約20家族、80人のベトナム人がテント生活を送る同公園。 ほとんどが、いわゆる政治難民として来日、その後、同区内の工場で働いていた人々だ。
 公園で昼食の準備中立ったグエン・ディン・ダンさん(43)は妻と子供7人の9人暮らし。 6年前に長男のスアン・ビン(19)と2人で日本にたどりついた。 ベトナムでは運転手をしていたが、政治状況の悪化から母国を離れた。 栃木、東京と住いを変え、神戸に来たのは2年前。 残る7人家族も3年前に呼び寄せたが、印刷工場で働いていたグエンさんは同じころ、肝臓の病気で倒れ、 今はビンさんと妻のトラン・ティ−・カム・ホ−ンさん(40)が生計を支えている。

 大黒柱倒れ
 しかし今回の地震でビンさんらが勤めていた工場はもちろん、自宅も崩壊した。 公園で弟らと遊びながら「ジャンプ、マガジン、サンデ−......。マンガを読みたいよ−」と、 おどけるビンさんも「仕事に行きたいネ」とボソリ。
 小学校の避難所などに行かず、公園に来た理由を尋ねると、 ほとんどの人が「小学校は満員だったから」と述べた。 自然にこの公園に集まるようになったという。 しかしグエンさんをはじめ、日本語が苦手の人々にとって、公園での生活は何かと不自由が多い。 仮設住宅の入居募集など、行政からの連絡事項が、しばしば張り出されるが、漢字が分からないと内容も分からない。 また当初は、ちゃんとしたテントもなく、 3日前にボランティアが届けてくれたテントで、ようやくひと息ついたという表情だ。

 家族の絆支えに
 それでも戦争や内紛、母国脱出など、数々の困難を乗り越えてきたベトナム人は、 持ち前の辛抱強さで、この難局を乗り切ろうとしている。 職場が残った人はテントから仕事に出掛けている。 グエンさんの三男で市立小学校4年のタン・トウ−君(11) は「午後2時からだけど、やっと学校が始まって友達に会えた」と屈託のない笑顔を浮かべるが、 彼らがいまあるのは家族の絆だけ。 人の苦しさを救えるのは人でしかないのだが......
(日刊スポ−ツ)


阪神大震災国籍問わず
知られざる遺跡群…〃古巣〃姫路のセンタ−に次々避難

 住宅と工場が密集し、火災が崩壊家屋を焼き尽くすなど、阪神大震災の被害が集中した神戸市長田区。 そこは、神戸のベトナム難民が760 人ほとんどが暮らす町でもあった。 姫路定住促進センタ−には、かつての縁を頼って、被害地を逃れた家族が身を寄せ合っている。 家が崩れ、職場が焼け、異国の地で築いた生活の基盤を一度に失った人たち。 外国人も市民として、深い傷を負っている。
 「テレビが倒れ、食器が落ちた。跳び起きて子供を連れ、必死で外に出た。 はだしだったので、子供が足にけがをした」レ−・クァン・ハ−さん(35)は被災の様子を語った。 日本にきて14年。長田区野田町で2Kのアパ−トを借り、ケミカルシュ−ズ会社で、ゴム底の成型の仕事をしていた。 家族は妻と9歳の長女ら5人の子供。給料では食べていけず、生活保護を受けていた。
 それでも、冷蔵庫やテレビなど買いそろえ、子供らは地域の小学校に溶け込んだ。 一時は職を転々としたレ−さんも、落ちついた生活を手にしていた。 震災は一度にそれを奪った。幸いアパ−トは倒壊をまぬかれたがが、家具の大半が壊れた。 被災者らが集まる公園やふろ屋で危険を避けたが、水も暖房もない。 車を持っていた友人のベトナム人に頼み込んで、神戸から脱出し、23日、かつて世話になった同センタ−へ逃げた。
 レ−さんも妻のグエン・マイ・リェンさんも(35)も、幼いころにベトナム戦争を経験した。 だが、ベトナムに地震はない。「戦争は事前に危険地帯から逃げることができた。でも地震は逃げられない。 戦争よりずっと怖い」
 昨年12月に生まれたばかりの四男は、富士山にちなみ「フシ」と名付けた。 これからも日本で暮らす。「でも家はメチャメチャ会社は焼けた。 どうしたらいいかわからん」と言う。 同センタ−には18日以降、18家族、65人が難を避けて到着した。 ちょうど旧正月の時期で数家族は次々に故国へ飛び立ったが、生活に余裕のないレ−さん一家には行くあてはない。
 同センタ−は30日から職員を派遣し、仮設住宅への入居手続きなどについて助言することにした。
(神戸新聞)


被災難民支援しよう
困っている人心配
 阪神大震災で被災下インドシナ名民を支援しようと、姫路市仁豊野の姫路定住促進センタ−(三木康司所長)の職員が被災地を駆け回っている。 避難所や公園で暮らす難民のもとに出掛け、仮設住宅の入居申請も。 言葉や習慣の違いから異国の地で不安を訴える「被害弱者」の現状は…。
 被災前、神戸市内に住んで板ベトナム人は外国人登録者だけで742 人。 うち6割を超える481 人が、ケミカルシュ−ズ(合成皮革靴)工場が集中する長田区にいた。 だが、子供の出生や結婚などで実数は登録者を上回り、同センタ−は、長田区だけで約600 人のベトナム人がいたと推定している。 難民事業本部(東京)によると、1月末現在の定住難民の被災状況は、重症2人、軽傷20数人。 死者はいなかった。センタ−職員が避難所や公園で無事を確認したのは長田区と兵庫区の58家族、222 人。 旧正月の「テト(1月31日)を機にベトナムへ里帰りしたり、知人宅に避難した人も多い。
 震災翌日の夕方から、被災したベトナム人が続々と姫路定住促進センタ−に避難してきた。 30人以上が来たため、やむなく、事務所二階の会議室で雑魚寝してもらった。 聞けば前日の夜は公園で野宿したり、小学校の体育館で寝たりしたという。 古巣のセンタ−に戻ったベトナム人は、ようやく少し落ちついた様子だった。
 しかし寒さや急激な環境の変化から熱を出す子どもが続出。 姫路聖マリア病院の派遣看護婦で難民の看護にあたる藤保君子さん(51)は多忙を極めた。 ぜんそくが悪化して入院する人、出産が迫り手術を要する人....。 ショックから精神的不安を訴える人もいた。 一歳の娘が高熱を出し、心配していたトラン・ティト・ウエット(32)は 「看護婦さんたちのおかげでようやく熱も下がりました」とほっとした表情。 マリア病院の院長らと被災地を回った藤保さんは「異国の地で被災した難民たちのショックは大きい。 少しでも落ち着けるようコミュニケ−ションを密にしたい」と話す。
 同センタ−相談員福本智子さん(48)は、難民事業本部の職員らとともに被災難民の安否確認に回っている。 定住歴の長い難民は日本人の多い避難所に入っていける。 しかし、日本に来たばかりで言葉もままならない難民は公園に集まり、テント生活を送っている。 そんな窮状に、福本さんたちはテントを一つ一つのぞきながら石油スト−ブを置いて回った。
 震災から2週間以上たち、避難していたセンタ−から神戸に戻る家族も出てきた。 被災地の情報を得るため、奥さんや子どもを残し、テント暮らしを続ける夫もいる。 罹災証明の手続きを肩代わりし、仮設住宅申し込みの列に並ぶ福本さんは「アパ−トの大家さんがいなくなり、 罹災証明に困り果てたケ−スも。困難な状況が続きます」と話していた。
(朝日新聞=播磨版)


街よ 人よ
天は輝く こんな時こそ
 悲しみを乗り越えるのはユ−モアだという。国の分断、戦争、難民生活をくぐり抜けたベトナム人たちは体験で知っている。 廃墟の中でも、笑顔を絶やさない。

 神戸市長田区のビル三階に、定住ベトナムの女子中学生ナ−(15)一家は住んでいた。 地震の直後、姉と同じ部屋に寝ていたナ−は別の部屋にいる弟と妹の名前を呼び続けた。 父ド(49)と母トア(47)も子ども4人の名を呼び続けた。 地面が激しく揺ること自体が理解できなかった。 トアは一瞬、爆撃をうけ、兄を失った20年前の記憶がよみがえった。ビル倒壊は免れた。 外に出た。だが、どう動けばいいのか。
 一家は日本人を必死に観察した。「ヒナンジョ」という言葉を口にする人たちについて走った。 途中、出会った親類や同胞に「ヒナンジョ」と声を掛け合った。 ベトナムは地震とは無縁の国だ。地震という言葉はある。 「ドンダット」。地面がわずかに揺れること。家から外に飛び出して逃げることは、まずない。 トアは「爆撃の時でも子をベッドの下に投げ込む余裕があった」と話す。
 神戸に済む多くのベトナム人は初めての体験に面食らった。 だがペ−スを取り戻すのも早かった。 地震の夜、避難所となった長田区鷹取中の校庭にエビと焼き肉の煙りが上がり、にぎやかな声が響いていた。 ベトナムの人の一人が石油スト−ブと鉄板を持ち込んでいた。日本人の多くが、まだ何も手につかない時だ。
 「こんな時こそしっかり食べて笑おう」ナ−は鷹取中で一番若い「班長」になった。 日本に育ち、関西弁を不自由なくこなす。大人たちにまじって、掃除や配給の当番を引き受け、 日本語でマイク放送される情報をベトナムの人たちに伝える。 地震後、女子高へ進学が決まった。「地震で無試験になったんよ」と無邪気に笑う。
 だが、住む家のめどは立っていない。「一番心配やねん。だって、この町を離れたくないんやもん」

 長田は様々な国の人々が支える町だ。在日韓国・朝鮮人は一万人以上。 ベトナム人も約四百七十人が住み地場産業のケミカルシュ−ズなどの工場で働く。 下町のくだけた空気が残るこの町は、彼らの住みよい所だ。 今のところ、ベトナム人の死者は確認されていない。 「命さえあれば、やり直せる」と、トアは笑う。
 14年前、十メ−トル足らずのボ−トに七十五人が乗り込んだ。タンク二缶に二日分の水。 四日目の朝、ナ−の姉は静かになっていた。四歳だった。笑顔の裏側の悲しみは深い。 ベトナムの人の多くが通うカトリック鷹取教会には姫路市の難民定住センタ−の職員や外大の学生らが集まり、支援活動を続けている。 定住権を持つ彼らには、法的な差別は見えにくい。仮設住宅の入居資格もある。 だが申し込み書に外国語の案内はない。当選したのは一家族だけだ。

 地震は家と仕事を奪った。祖国を去って築いたものは一瞬になくなった。 言葉の壁、不況、地震の前から状況はよくない。それでも、こんな時こそ、ベトナム人はほほ笑む。 トアが格言を教えてくれた。<雨の後、天は必ず輝く>
 鷹取教会の神父神田裕(36)は確信している。「この町には、絶望から立ち上がる活力を持っている人が多い。 きっと、どこよりも早くよみがえるはずです」
(朝日新聞)


焼け跡にイエスを求めて
逆境に陥ったときほど、人も組織も試される。
まして宗教団体となれば、なおさらだ。
苦境を試練と受けとめ、聖書の言葉を読み返しながら、
人々は星空の下のミサできずなを確かめ合う。
 聖歌に合わせて、100 人近い人々の吐く息が闇に白んだ。 焚き火のあかりが、幾重にもかさなる横顔を淡く照らして出した。 光が失せる暗がりに、両手を広げた小さなキリスト像が立っている。 その向こうに、広大な焼け野原が闇に沈んでいる。
3月1日午後7時、神戸市長田区海運町で「灰の水曜日」のミサが執り行われた。 復活祭に向けた「四旬節」の始まりを告げる典礼だ。緑の防寒衣を着たままで主任司祭の神田裕(36)が語りかける。 「震災で、今まで築き上げたものはすべて灰になりました。 でも灰にならないものがあることに、私たちは気づいたのです。 復活祭まであと40日。祈りのなか、私たちの手で神戸をつくり上げていきましょう」
東京から駆けつけたベトナム人のヒエン神父が、母国語で主の祈りを唱える。 神田も、その祈りをベトナム語で口にした。聴衆の半分近くはベトナム人だ。 鷹取教会は震災で聖堂が崩れ、付近一帯を舐め尽くす炎で灰塵に帰した。 不思議にも、屋外のキリスト像の時点で火はとまった。 「奇跡のキリスト像」マスコミに取り上げられ遠方から訪れる信者がいた。 バナナやパンの「お供えもの」が置かれ、休日には若者が像の前でピ−スサインをして記念写真を撮る。
 「何が奇跡だ。あんなのは、ただのデク人形だ」教会の敷地に住む信徒の和田耕一(52)は苦々しげにいう。 無理もない。2年前、ベトナムから贈られたキリスト像の色を塗り替え、どうにかそれらしく補修したのが画家の和田だった。 安直に「奇跡」を口にする風潮が和田には我慢できない。 「奇跡よりも、ずっと中身の濃いものが詰まってるんだ」
 日本、ベトナム、韓国の3か国語で「互いに愛し合いなさい」という聖書の言葉を刻んだ石の台座にはタイムカプセルが埋まっている。 中身は、信者の子供が書いた作文や、ボ−ト・ピ−プル当時の写真だ。 800 人近い信徒農地約200 人がベトナム人だ。 家賃が安く、ケミカルシュ−ズの下請けや内職が多いことから、この地域に住み着ついた人が大半だ。 信徒には在日韓国・朝鮮人も多い。その教区がほぼ全焼した。

 最悪の状況の中で書かれた言葉が聖書から起ち上がる
 創立68年の教会が焼けた直後、神田は聖堂の再建を一番後回しにすることを決めた。 こんな時こそ、地域に開かれた教会にしよう。焼け跡にテントを張り、近くの公園で炊き出しを始めた。 診療所を作り、キャンピングカ−に寝泊まりしながら地域を飛び回った。 震災後初めての日曜日には、屋外のミサに集まった人々にこう話しかけた。 「教会は建物が壊れました。でも皆さんがこうやって屋外に集まり、以前より教会らしくなったと思います。 今まで忘れていたものを、皆で取り戻しましょう」
 鷹取で4年をすごした神田はこの4月別の教会に転出する予定だった。 だが、震災で延期になった。震災後に読む聖書のどの言葉も、本から起ち上がり、全身に響くような気がする。 平和だった震災前は「そうやな、美しい言葉やな」と感じただけだったのかもしれない。 そう自問し、自答する。当たり前や。聖書は最悪の状況の中で書かれた言葉だ。 だから、あんなに光っているんや。イタリアから来た教会のもう一人の神父パオロ・スック(30)も司祭館で震災に遭遇した。 「ああ、生きてたの、良かったあぁ」そう叫び、抱き合う人々を見た。 目で見た人々のやさしさと力は、神学校で学んだどの知識より身に迫った。 震災後、改まった祈りを捧げたことはない。「ここにいるだけで、人を助ける方法を探すだけで、祈りになると思うんです」

 家族会議を開いて1月末には中小零細の町に
 震災後、さまざまな人々が駆けつけ、教会の活動を支えた。 わずかに焼け残った司祭館の補修工事でツルハシを握るのは大阪市西成区にある「暁光会」の司祭池田雄一(53)だ。 神学生時代に大工の弟子入りをし、東京・山谷で4年間暮らしながら、昼は土木作業、夜は福祉学校に通った。 1月末から鷹取教会に通っている。 「教会の再建は後でいい、ミサは人が集まれば外だってできる。そんな考え方が気に入ってお手伝いしています。1年はいたい」
 近くで小屋を作っているのは東京から来た上原泰男(50)だ。本職の大工から地区労での組合運動に転じ、 今は連合東京の福祉部長の肩書を持つ。 「ぼくは30年限りなくインチキなクリスチャンをしている。聖書なんていい加減な箇所もあって、 ボ−ルペンでここは駄目、あそこも駄目と消しちゃいたい。 だけど、どうしても消せない言葉がある。そこに凝縮された言葉に励まされ、勇気づけられてきた」震災後のある日、 東京の自宅で小学1年の双子の娘が何かをもぐもぐ唱えていた。 「神戸の人たちが元気でいますように」
 家族会議を開き、1月末に飛んできた。中小零細の町に生きる人々の気持ちが痛いほどわかる。 「強い奴はもっと努力しろと言う。でも頑張ろうと思っても頑張れない重さをずっしり抱えた奴もいる。 ぼくはね、こうしていても無性に悲しく涙がでる。 少しばかり人間の辛いところを見てきたからかもしれない」信徒の和田は、焼け跡を見ながらこんな話をした。 「この前、おばあさんがここに来て叫ぶんです。 <来るなら来おい。私は大和撫子だ。地雷があるからそっち行っちゃあ−ん> 焼け跡を見て戦時中に戻ったんやと思います」和田自身、台湾から引き揚げて被爆後の広島を見たことがある。 そんな和田がつい先日悪戯をした。焦土にこっそりレンゲの種を蒔いたのだ。 どこに?「内緒なんです。春になって誰かがああ咲いている、と思ってくれたらそれでいい」 (敬称略)
(AERA アエラ '95 3.13)


ベトナムグル−プからあなたへのメッセ−ジ

 日本に定住する私たちにとって、カトリック教会は自分の教会だという意識があります。 しかし、残念なことに、教会の日本人と外国人との間には見えない壁があるようです。 移住者はいつまでも「ガイジン」と見られているようで、それを辛く思う人が徐々に教会から離れていくこともあります。
 ところで日本にカトリック教会に行ってみれば、若い人がとても少ないのが、目につきます。 教会の将来を心配して「何とかできないか」と私たちも話しています。 例えばフィリピン人のグル−プは教会で生き生きと活動しています。 ベトナム人もクリスマスの時など大人数集まります。一緒にできれば一番いいのですが文化や習慣の違いは大きいものです。 皆さんの教会では、どうか他の国の信仰者が気持ち良く集まれるようにしてほしいと思います。 ベトナム人の為に司祭が来るときには快く受け入れてほしいのです。 また、ベトナム語のミサを月に一度でいいからしてほしいです。
 色々な国の人が教会で集まる場があれば、そこが自分の教会だという自覚が出るしいつか皆さんにも理解して頂けると思います。


海を越えてきた仲間たち
カトリック難民定住委員会から

 カトリック難民定住委員会(委員長濱尾文郎)では、この度、「海を越えてきた仲間たち」を刊行した。 同委員会は隔月にニュ−スレタ−「チョットいいこと」を発行している。85年創刊から10年、 50号を数えたのを機に既刊ニュ−スレタ−のすべてをまとめてこの書が作られた。
 さまざまな困難を乗り越えながら定住をめざしているインドシナ難民と 彼らに関わることができた人々の「ちょっといい」ことがたくさん載ている。 ベトナム「解放」。難民の大量出現から30年。 「国際化」をめざす日本社会を真に開かれたものとするために有益な一冊である。
B5判 330 ペ−ジ。実費\2,000(送料込み)
購入希望の場合はアジア交流センタ−(ハリ−神父) 0792-64-1219
東京事務局 03-5632-4443
(大阪カトリック時報)


こだま

 お電話ありがとうございました。また、今日「海を越えてきた仲間たち」が届きました。ありがとうございます。
 数分の地震で昨日までの暮らしがくずれてしまいました。 今まで助けているというおごりを持っていた自分が助けられているということにようやく気づかされました。 これからが始まりです。震災後、ほんとうに不思議なことにみんなやさしくパニックはありませんでした。 弱いと思える人に手をさしのべておりました。でもそれだけでは長い道のりをのりきられません。 皆様のお助けがぜひ必要です。どうかよろしくお願いします。 長田区をはじめ神戸を住みやすい街にするためにどうか見守ってください。
(松尾 博美)
 拝啓
 + 主の平和

 神様のみ旨に添って種々の困難のうちにも、このように五十回にも亙っての結晶は誠に感致します。
 授ける人、それを受ける人々の上に神のいつくしみが豊かに注がれますようにとお祈り申しつつ御礼申し上げます。
 主のご復活のよろこびを多くの困難をうけておられます方々の上にと祈らせていただきます。敬具
(トラピスト修道院 高木 正義)
 カトリック難民定住委員会
 委員長   濱尾 文郎様

 + 主の平和

 四旬節も始まり豊かな日々をお過ごしのことと存じます。
 さて本日は「海を越えてきた仲間たち」をお送りくださいましてまことに有り難うございました。 貴重な図書として拝見させて頂きます。とり急ぎ御礼まで。
(洛星中学校 校長 ゲェタン・ラバディ)


チョットひとこと

 先日の会議の時に、アルゼンチン人の宣教者が、阪神大震災に際して、日本人の態度がわからないという発言があった。 それは、多くの国からの救援隊がなぜ、必要なっかたり、遅れて入れなかったのかということである。 どうして素直に受け入れられなかったかということではないであろうか。

 ふと自分の立場で考えてみると、日本人である自分が援助を受ける時、どんな気持ちでいるだろうか。 非常に負担を感じ、「お返ししなければ」と思いつつ人の好意を受け入れているのではないであろうか。 自分が他人の負担になってはいけない、自分が主体的に行動できるのは、自分で物事を行い、 他人に迷惑をかけないことであると教えられてきた。だから他人の好意を受けるのはひどく下手であると説明してみた。

 その宣教者は、けげんな顔をし、次に憤慨して言い出した。私たちはあなたに好意を持っている、 援助を受けた時に<ありがとう>と言ってくれただけで充分であると言った。

 わたしは無償の好意を受けることになれていず、いつも「お返し」を考えて、 人に負担をかけないと言うよりも、人と本当の交わりを避けていたのかもしれないと思った。 人間というものは所詮他人に迷惑をかけるものである。「ありがとう」と真剣に言える人間になりたい。 日本人も、他者からの無償の好意を受け、心から感謝することができたらと思う。 そしたら、他者である在日の外国人に無償の好意を示すことができるかもしれない。
(H.K)

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