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チョットいいこと 56

ベトナム援助拡大望
新年
戦争の悲しみを直感
変貌ぶりに驚く
犠牲者をいたみつつ
 今始まる復興への道のり
冷たい日本人・いまは暖かい
地域支援で大学きっぷ
こだま  
チョットひとこと  



ベトナム援助拡大望む
ジョン・ウィリアムズ (ジャーナリスト)

 日本のベトナム政府開発援助(ODA)再開など今後、日本とベトナムの経済関係が強化されるであろうことは疑う余地がない。 しかし、経済関係だけではなく、ベトナムの人々の生活の質を高めるための日本からの援助が強化されることを希望したい。
 ベトナムはいま、市場経済に向けての転換期にある。 経済制度の変化に伴う混乱の時期に東欧圏との貿易と経済援助を同時に失ったことはベトナムにとって大きな痛手であった。 しかし、ベトナムの経済活力には目覚ましいものがある。
 女性の担ぎ屋が、北の中国との国境から切りたった山道を列をなしてベトナムに向かう。 背負った竹かごの中身は中国製ビールである。南のメコン・デルタは建設ラッシュで、商売には活気がある。 人々は外国語の勉強に余念がない。少しでもいい生活をするために、だれもが懸命の努力を続けている。 
 ベトナムでは、30年にわたる戦争で社会基盤が破壊され、戦後も停滞の時代が続いた。 現在ベトナムは、大きな社会的、経済的変化に耐えるにはあまりにも脆弱(ぜいじゃく)すぎる。 従来の共同体が破壊したために、保健医療や保育のサービスが麻痺状態に陥っている。 財源不足によって初等教育が大幅に削減され、その結果、就学児童率が大幅に減った。 また、遠隔の山岳地帯をはじめとする多くの地域で、人々の栄養状態が悪化している。
 ベトナム政府は、状況を改善するために予算の増額に努めている。 世界銀行は、八千万米ドルを充当して初等教育普及事業の支援を始めた。 ユニセフは本社開発のためのさまざまな支援活動を続けている。 パリで開かれた1993年の援助国会議で、日本政府は、保健サービスの充実や学校の再建、 環境改善のための一億米ドルを含む合計六億米ドルの援助を約束して、ベトナムにとって最大の援助拠出国となった。
 多くのベトナム人は、第二次世界大戦の廃墟の中から今日の経済大国を築いた日本に憧れ、尊敬に近い気持ちを持っている。 そしてベトナムもいつかは日本のようになれると考え、日本にいっそうの援助を期待する。
 1994年6月末現在、約45の日本企業がホーチミン市内に事務所を持ち、ハノイにも多くの日本企業が進出している。 三菱自動車は最近、マレーシアとベトナム企業との間で五千万米ドルの事業契約を交わした。 トヨタ自動車といすず自動車も事業協力を検討中である。 日越は、ハノイで最高の立地条件を持つ西湖地区に合弁ホテルを造るための一億五百万米ドルの契約を結んだばかりである。 日商岩井と丸紅はバックタイ省で、日本向けの緑茶の生産を始めることになっている。 日越文化交流会の支援する日本語学校をハノイに建設する事業も始まっている。
 しかし、ベトナムへの投資では、台湾、香港、韓国、オーストラリア、マレーシア、 シンガポール、フランスに次いで第8位であり、今後3ー4年の間に、日本がもっと上位になることが期待されている。 日本がベトナムへの投資でやや消極的な理由は「日本企業は、まだ、ベトナム市場を調査している段階だが、 大きな可能性があるとは思っています。勤労態度、労働力、鉱物資源などの高さは非常にいい要素です。 しかし、ベトナムで所得がどの程度の速度で増えるかは、日本の企業にとって不確定要素で、 社会基盤の脆弱性と政府の意志決定過程の不透明性にも憂慮しています。」と説明する。
 しかし、すでに積極的にベトナム社会に飛び込んで、ベトナム社会開発に取り組んでいる日本の若者もいる。 一人は、7月までの2年間、国連難民高等弁務官事務所(U.N.H.C.R.)に勤務した小和田礼子さんである。 在勤中、約6万人の元「ボート・ピープル」の帰還を助ける活動を担当した。 自動車の警笛と自転車のベルの音があふれるU.N.H.C.R.のハノイ事務所で、小和田さんと会った。 「ベトナムは、今は貧しいかも知れません。でも、ベトナムの文化や人々の才能は豊かです。 これはベトナム固有のすばらしさです」という。
 もう一人は、ベトナムのユニセフ事務所で働く巧刀(くぬぎ)純子さんだ。 8か月前に着任した巧刀さんも「ベトナムの女性の力強さには、ほんとうに心打たれました。 みな実際的ですし、物事を本質を見抜く力を持っています。 今後ベトナムの人々のすばらしい資質が失われないようにと願っています」とベトナムの可能性を評価する。
 ベトナムの経済成長にとって不可欠な港湾施設造りなどに対する援助は必要ですし、 原油、鉱物資源、海産物などの輸入を増やすことも大切である。 しかし、日本とベトナムが、豊かな関係を築いていくためには、日本はまず、ベトナムの社会基盤造りのための投資を増やし、 政府と民間援助団体がともに小規模の社会開発活動を支援し、援助の規模を拡大するべきではないだろうか。
(元ユニセフ広報・渉外部長) (読売新聞)


新年

 日本の正月とベトナムの正月は何が違うか何が同じか、まだよく分かりません。 私が日本に来た1か月後、日付は丁度正月でした。 日本の新年です。会社や工場や店やスーパーは全部休みでした。 24時間営業だけの店がありました。3日後ぐらいに開店して営業を始めました。
 ベトナムの商店や工場も日本の新年と同じぐらい休みます。 しかし、新年の日は違います。ベトナムの新年の日は違います。 ベトナムの新年の日は、旧年の正月です。ベトナムでは新年の前には人々は皆、家を綺麗に掃除しました。 花火や花や果物や菓子を買って、中国の煎餅を作って準備します。 昔中国系の人だけが中国餅を食べていました。 今はベトナム人も食べることがあります。
 例えば、煎堆(チントイ)炸角(チャコク)という食べ物です。 油の中であげて作ります。菓子は、例えば椰子、蓮の種、蓮藕、瓜の種などです。
 家族の人々も大変忙しかったです。新年には道や店や盛り場やお寺が賑やかになりました。 いろいろな売り場がたくさんあって、何がどこにあるのか、よく分かりませんでした。
 ベトナム人は花が一番好きだから、花をよく買います。花の中で梅と菊が一番好きです。 ベトナムでは梅の花の値段が一番高くて、菊の花の十倍ぐらいです。 私の家は新年になると、部屋のまん中の机の上に、西瓜を2つとたくさんのお菓子とジュースを2本とお酒を2本と花瓶をおきます。 いろいろな色の花を一緒に花瓶に挿して、綺麗にします。 ベトナム人は、赤、青、黄、白、ピンクの5色の花が大変好きだから、いつも早くうれます。
 子供の時、「あけましておめでとうございます」と言うと、お年玉をもらえたのを思い出して、楽しくなりました。 友達とよく映画を見に行きました。大晦日は獅舞と花火をよく見ました。家族で神社へ線香をあげに行きました。
 新年はお金が水のように流れました。だから、大人は子供ほど嬉しくないかもしれません。 けれども、私は新鮮な食物と果物をいっぱい食べられたから、大変嬉しかったです。 
レー・ミ・アイ (希望 『平成6年度 難民作文集』より)


戦争の悲しみを直視
 ああ、果てしない戦い
 終わりのない戦い
 今日か、あすか
 私の運命を教えてくれ
 いつ私は死ぬのか

 昨年5月、英インデペンデント紙文学賞の海外小説部門で優秀作として表彰された「戦争の悲しみ」の中に出てくる歌の一節だ。 ベトナム戦争末期、中部高原の激戦地帯で北ベトナム軍兵士が歌ったと、この物語りにはある。
 著者のニンさんが3年前ハノイでこの本を出した時、一部の退役軍人や文芸評論家からは、 「戦場の恐怖ばかり強調している」「全体として思想がない」などと批判された。 それが今や、国内でベストセラーになったばかりか、欧州やアジアでも次々に出版されている。 インデペンド紙は「単なる戦争文学の域をこえた」と絶賛した。
 「何度も死の淵(ふち)をのぞいた。多くの友人が死んだ。 小説の体裁だが、基になっているのは自分の体験だけだ」兵士の勇気と勝利をたたえた文学は、ハノイに数多い。 「戦争の悲しみ」の新しさは「戦争に勝者などいない。残るのは苦しみや絶望だけ」と元北ベトナム兵が訴えたところにある。
 戦後ハノイ大学に入り、生物学を学んで卒業。職はなかった。 その日暮らしの中で文学に志し、この小説の構想を温めた。 「人生も家族も愛も破壊される。そういう戦争の真実を知ってほしかった」小説は、軍内部での憎しみやねたみも描く。 規律と統制を名誉とした北ベトナム軍の知られざる部分だ。
 「共産党から直接の批判はなかった。しかし、その筋からはいろいろ言われた」とニンさんは慎重に言葉を選びながら話す。 出版が成功したのは、ベトナム社会がいくらか自由化した結果かも知れない。
(ハノイ・林田裕章、写真も) (読売新聞)


変貌ぶりに驚く

 ベトナム戦争集結間際に南ベトナムを訪れた浦和教区の岡宏神父(群馬・前橋教会)が昨年夏、 社会主義政権になってからのベトナムを訪問。「人々の生活は豊かになってはいるが、宗教の自由には制限があるようだ」と話す。

 「え!これがベトナム」ホーチミン空港に下り立った私たちの正直な感想であった。 ボート・ピープルと呼ばれる人々とかかわり合った者は特にショックがひどい。 とても豊かな街だ。市場は果物と野菜に満ちあふれている。あちこちに「KARAOKE」書いた看板がある。
 なぜ、人々は命をかけて逃げ出したのだろうか。 私は1974年のクリスマスに義援金をもってベトナムを訪れた。 南の陥落寸前であった。爆弾騒ぎがあり、1時間も迂回して宿舎に着いた経験がある。 あの緊張感を持って社会主義ベトナムにやってきたわけだが、頭の切りかえをしなければならない。
 日曜日レデンプトール会の教会へ行った。聖母被昇天祭の前日で40人の大人の洗礼があり、 ビデオを持った20人近い報道陣人がフラッシュをたいていた。 私を共同司式に招いた司祭は「現在求道者が700 人いる」と言った。 1回500 人くらいのミサが10回近くあり毎回超満員である。 私が訪れた他の修道会はひっそりしていたのにここは違う。
 ある司祭は説明した。レデンプトール会はカナダ管区に由来する。 解放以前、ベトナム人はだれも他の修道会のように外国に派遣してもらえなかった。 それは彼らにとってひがみの材料だったが、今はそれが幸いし「外国との関係が薄い」ということで 政府からのにらまれ方が違うというのである。
 監視の厳しい修道会は国際修道会という名のもとにかなり制限があるようである。 ある会の司祭は12年間牢獄にいた。でも、牢獄の方がカトリック信者も多く、 秘密に告白を聴きミサをささげたりチャプレンのように司祭職を遂行できたが、 逆に今の方が何もできないという。
 自由であるように見える教会でも、毎日曜日秘密警察がミサに参加する信者の中にまぎれて見張っている。 司祭叙階も政府の許可がいる。司祭候補者も政府が干渉し、 五分の一くらいしか許されない。秘密裏に叙階され公に「司祭」と名乗れない者もいる。 ベトナムは、自然が豊かな国である。経済的援助もさることながら、 孤立している同信の者を励ましに訪れる人を待っている。
 難民も「お金を落とす観光客」としてならば帰れるという不思議な国であるが、 殉教の苦難をなめ、逆境にあえぎながら信仰に生きている人たちを忘れないようにしたいものである。
岡宏(浦和教区司祭) (カトリック新聞)


犠牲者をいたみつつ
今始まる復興への道のり
 阪神大震災(兵庫県南部地震)は、近畿地方にある小教区をはじめ修道院、カトリック学校、病院、信徒の家屋も容赦なく直撃した。 被害の中心となった大阪教区の兵庫県・神戸地区、阪神地区には長い歴史を持つ教会や修道院もあり、 それらの建物などが倒れ、破損し、またがれきの下で亡くなった信徒も報告されている。 大阪教区では、かろじて大きな被害を免かれた大司教館(西宮市)を中心にすぐさま情報収集を開始。 被災しながらも建物は残った神戸市中央区の中山手教会を現地の救援本部に決めたほか 、教会活動が何とか早く回復できるよう聖堂などの再建調査を始めた。
 「水がなくて、燃えていくのをただ見ているようなもの。歯がゆかったです」 聖堂が全焼した鷹取教会(神戸市長田区)の主任、神田裕神父(36)は電話で1月20日、 こう語ってくれた。
 「ドーン」。まだ夜も明けやらぬ中の突然の突き上げるような衝撃。 続いて、ものすごい横揺れが来た。物は落ちてくる。 バリバリッと部屋の外では音がする。「一瞬死ぬ!と思った」という。 やっと揺れがおさまり、真っ暗やみを何とか物をかきわけ、司祭館の二階から降りて外に出た。 助任のパウロ・スック神父、教会の敷地内に住む和田耕一さんら2家族も逃げて出ていた。 和田さはたんすや本に埋まり自力ではい出した。 「やがて夜明け近くになって周りが見えてくると、何と家々がつぶれている。そして聖堂も屋根が落ち、崩れていたんです」。 ただごとではないと感じながら、近所の人たちと建物の下敷きになった人を引き出す作業などを続けた。

 火の手が教会に
 遠くにポツン、ポツンと見えていた火の手が教会の東側から迫ってきたのは、午後になって。 しかし、消防車もレスキュー隊も来ない。水も出ない。 「とにかく燃えている東側の塀が聖堂に燃え移らないように、鉄の棒で塀を押さえたり、 飛び火を防いだりするのに精一杯でした」。その上空をヘリコプターが舞う。

 再建へ向けて
 「今、辺りは焼け野原。まるで戦場跡のようです」信徒で亡くなった人の連絡は現在のところ入っておらず、 教会に多いベトナム人も近くの中学校で十数家族がまとまって非難している。 物資も市から届いている。神田神父は形だけ残った司祭館で生活。20日時点ではまだ水、ガズ電気はない。
 「これからのことはみんなと相談しながら....。まだ発想もわかなくて」と神田神父は言うが、 「大変なことは大変なんですが、すっかり焼けてしまったので逆に開き直って」とゼロからの出発の言葉に、 こちらからも力を添えたい思いにかられる。これまでも地域に開かれて活動してきた鷹取教会の再建は今始まった。
(カトリック新聞 )
   鷹取教会の信徒の半分以上はベトナムの人たちです。 神田神父様は日本人は勿論のことベトナム人のためにも大変力を入れくださっております。 難民定住委員会の常任委員としても大活躍をなさってくださっています。 この大震災中に「チョットいいこと」の合本が出来あがりました。 企画も構成もすべて引き受けでご多忙中にもかかわず作成してくださいました。 心から感謝申しあげるとともにご講読お願い申しあげます。
(事務局)


冷たい日本人・いまは温か
 長田区南部の駒ケ林公園の一角には、一大テント村が出現した。 ビニールシートの屋根にがれきの山から運んできた柱で造った粗末なテントが並び、 さながらアフリカ難民キャンプの光景。これがベトナム人の避難所だ。 市当局は中国人学校に避難するよう勧めたが、ベトナム側は断った。
 難民として日本に漂着、裸一貫から靴の縫製工場を経営するまでになったトラン・バン・チンさん(45)は、 たどたどしい日本語で説明する。「ここには50人のベトナム人がいる。中国人学校は寒いし、水を運ぶのも大変。 日本の学校は(避難)期間を制限されるし、いっぱいで入れないとも言われた。 それに言葉が分からず不便。ここにいれば日本人が食料を水を持って来てくれる。 いままでは日本人はアパートの入居を認めてくれず、冷たかったけれど、今はすごく温かい」
 テントの中では母親が幼児をあやしたり、若者がテントの補強などをしている。 子どもの姿も多く見られる。地元の女子中学生グエン・ティ・ドンさん(14)は 「今日学校に行く予定だったけど、私服では恥ずかしい」と登校しなかった。 小学6年のグエン・ティ・バオトランさん(12)は登校日であることさえ知らなかった。
 「国に帰るつもりはない。経営していた靴縫製工場もつぶれたけど、またここでやり直したい」とチンさん。 しかし、ほとんど行政の救援情報は入っておらず、このままでは忘れられた存在になってしまう恐れがある。 避難所では外国人から不満はあまり聞かれてない。
(東京新聞)
これらの報道に対して大阪教区の被害地外国人の方々への対応にて次のような報告がきています。
 先般ご報告したときに、すっぽり抜けてしまった、被災外国人の方々への対応体制をお知らせします。 以下の通りです。1月21日付けのご報告で、外国人たちの情報は大阪国際協力委員会のシスター毛利宛としましたが、 今後は、原則的に情報センターか各国語担当者にお願いします。
中山手現地本部 :松浦悟郎神父、シスターマリア 030 ー263 ー3311
情報センター :アツコ・ビスカルド 06ー941 ー4999, 06ー941 ー9700
英語担当 :ラギダオ神父 0727ー83ー9634
ベトナム語担当 :ハリー神父 0792ー64ー1219 040 ー2288ー166
韓国・朝鮮語担当 :中村神父 06ー757 ー1792
スペイン語担当 :国際事務局 06ー941 ー4999
ポルトガル語担当 :シラミズ神父 06ー941 ー9700
中国語担当 :岩本神父 0738ー22ー3457

テレビに出ていた駒ケ林公園のベトナム人被災者について
 長田区駒ケ林公園のベトナム人被害者のテント生活がテレビで報道され、 何人もに方から事務局に、どうなっているのかとのお問い合わせがありました。 かれらの中には鷹取教会に来ている人たちもいて、神田神父も知っており、食料等を渡していたのですが、 同師が先日そこまで行って現状を見てきました。第一に、かれらは建物の中に入るのがこわいそうで、避難所には行きたくないとのことです。 第二に、同公園には日本人の人たちは、車で寝泊りしているそうで、孤立しているわけではないとのこと。 いまは、食料、水もあり、テントを上手に使い、米軍からのシートをかぶせて暖かくする工夫をしているそうです。 今日も、神田師から、地面からの冷えをふせぐために、テント用のマットを持っていきたいという要請があり、手配しました。 ひとまず、ほっとしました。
 大阪司教館事務局  神林宏和
 このようなファックスがこちらの事務局に入ったのは1月30日(月)のことです。 神田神父様お体に気をつけて頑張ってください。その後は静岡教会のファム・ディン・ソン師も応援にかけつけています。

カトリック新聞にも下記のような記者の印象が書かれていました。
 「物のありふれた日々から一瞬にしてすっかり物がなくなって、今、不思議な体験をさせてもらっている。 夜みんなと焚き火をかこんで一日を終える時、一番大切なものは人と人とのつながりなんだと実感する。 聖堂がなくても祈れるし、ミサも野外でできる。形じゃないこの気持ちを忘れたくない。復興後も宝にしたい」と神田神父は言う。
 それでも現実は住居や仕事を失った人たちは深刻な問題が迫りつつある。 鷹取教会でも仕事など情報交換のための集まりを持つ動きがある。

 姫路から大阪から数々のニュースが届いています。被害者の方々には心からお見舞い申しあげます。 (事務局)


地域支援で大学きっぷ
(右から)兄、ブさん、妹と両親

 姫路市内のベトナム人高校生が、念願だった日本の大学に合格した。 姫路の日本人高校生ボランティアで英語を教え、悩みの相談にのるなど草の根レベルの交流を続けた結果という。 晴れの合格通知書を手に、その高校生は「将来は通訳ボランティアになって世界を飛び回りたい」と夢を膨らませている。
 県立姫路別所高校3年のグエン・トゥアン・ブさん(18)=同市花田町小川65。 尼崎市にある英知大学英文科の推薦入学に合格した。 ブさんが来日したのは、1987年(昭和62年)14年前、 ボートで日本にたどりついた父と兄が安定した生活を送れるようになり、 家族呼び寄せを受けて母親と妹の3人で来日、同市仁豊野の姫路定住促進センターに入った。 異国の地とはいえ、14年ぶりにはじめて家族水いらずの生活。喜びは大きかったが、 言葉の壁、生活週間の違いになかなか溶け込めず、苦しんだこともしばしばあった。
 しかし、仁豊野カトリック教会で賢明女子学院の生徒がボランティアで開いた英語の勉強会に参加してから生活が楽しくなり、 英語に興味を持つようになったという。 ブさんは「勉強だけでなく、学校での悩みなどいろんな相談にのってくれ貴重なコミュニティーの場になった」と喜び、 父親のグエン・ホアン・ギャンさん(45)は「兄のトゥアンと日本に来た時は、働くのに精いっぱいで高校にもやれなかった。 ブには兄の分まで頑張ってほしい」と励ます。
 ブさんは特別奨学生にも選ばれ「大学に進学できるのも、自分を支えてくれた地域の多くの人たちのおかげ。 英語を生かして通訳となって、世界各地で飢餓で苦しむ人たちのために頑張りたい」と意欲を見せている。
(神戸新聞姫路版)


こだま

 本年の「第一号」を有り難うございました。何か新鮮さを感じる冊子になりましたね。 石川神父様方のお考えや方針が伺えて...現実に即したもの統計などが寄せられていて、 難民の方々に対する認識も、ここで新たにされるのではないでしょうか。
 とかく目立ちたい人や情報が多い現在です。このような時ですから地道に働く方々に感謝して、心からの応援を祈っております。
(中村淑子)
 「チョットいいこと」55号を頂きました。有り難うございます。毎度のことですが、編集なさったり、 印刷なさったり、発送までにたくさんの方々のご努力と思います。 私はせめてあちこちに配布するお手伝いぐらいしかできませんが、てもとに届く日をいつも楽しみにしています。
 お寒いので皆様、健康にご注意なさってくださいませ。
(k)


チョットひとこと

 兵庫県南部大震災によって、家を失い、将来の安定を失ってしまった人々がいる。 この悲惨さは体験した人々でなければわからない。戦後外地から引き揚げてきた人々は、再び、その苦い体験を思い出したし、 戦時中に日本人がしたアジアの人々に対する苦悩を思い出した人々がいるかもしれない。 自分の受けた苦しみと悲しみは、耐え難い。人に与えた苦しみと悲しみは忘れることができる。 しかし、愛する人が苦しむ時には、自分が苦しみを受けた時のように苦しみ、愛が強いとむしろ自分が代わりに苦しむ方がよいとさえ考える。 キリストが十字架で苦しみ死んだのは、かれの愛が強かったからである。
 すべてを失ったという体験と未来さえも閉ざされたという体験が、ベトナム難民の人々が誰でも少しは体験していることと思う。 この絶望の中から立ち上がる力はどこから来るのであろうか。 それは、現実的に信頼できる人と愛する人々がいる時において、希望を持つことができるであろう。
 今、兵庫県南部において、被災した人々に、具体的現実的な愛と信頼がもてる人々となることが私たちの使命であろう。 インドシナ難民の人々は自国から出て、家を失い、すべての安定を放棄しなければならなかった。 その安定と場を求めて日本に来て、初めて自分の未来と場を得る可能性をみつけたのであろう。 しかし、兵庫県南部のインドシナ難民の人々は、再び自分の場を失ったのである。 私たちはインドシナ難民の人々にとって誰であろうか。 インドシナ難民の人々は私たちにとって誰であろうか。キリストは確実に彼らの中におられるであろう。 十字架において30センチの自分の場もなく吊り下げられ、他者から捨てられて「わが神よ、なぜわたしを捨てられたのですか」と叫ばれた。
 今、日本におけるインドシナ難民の人々の歴史を描くように、 『海を越えてきた仲間たち』という本を出版することになった。 10年間のインドシナ難民の人々の新聞雑誌などの合本である。ぜひ読んで『場』を失うことがどんなことであるか理解していただきたい。
(H.K)

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