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チョットいいこと 55

設立12年目迎えて今後の方針見直す
いま、なぜルワンダの難民でなく
  日本インドシナ難民の問題を問うのか
難民の子ら 日本の宝物にも    
祖国の名誉に貢献
県営住宅 外国人お断り      
定時制高校青春の歌
日本人が知りたいこと
チョットひとこと  



設立12年目迎えて今後の方針見直す
法律などの専門分野を強化

 カトリック難民定住委員会(濱尾文郎委員長)は、9月19日と20日、 「教区担当者・関係者研修会」を名古屋の日本カトリック研修センターで開いた。 設立12年目を迎えた同委員会のこれまでの歩みを振り返り、この年を今までの活動の一つの節目と位置づけることによって、 今後の活動の新たな目標づくりにと具体的な取り組みについて話し合おうとの趣旨だった。 また基調講演で法務省入国管理局難民認定室長の水上洋一郎氏は日本政府の難民対策の変遷と、 これまで難民救済に果たしてきたカトリック教会の役割の大きさを2年間にわたる綿密な結果を基に報告。 同氏の報告は近年、教会の中でさえ難民に対する意識と理解が薄れかかけてきている中にあって、 地道に活動を継続してきた関係者を喜ばせた。 
 日本政府は今年の3月、閣議了解で今後インドシナ難民を認めない「いわゆるボート・ピープルに対する取扱の変更について」を発表した。 従って今まで行ってきた一時難民施設でのケアは終了したことになる。
 しかし、日本社会に定住した難民たちへの精神的、経済的、社会的な援助を継続し、 共存のための協力を続けていくことは今後の教会の大きな役目である。
 こうした観点から設立12年目を迎えた難民定住委員会では、定住した難民の立場(ほかに帰る国がない)を十分に認識し、 彼らをいつまでも『異邦人』『お客さん』として考えず、 同じ日本国の構成員としてどう共存してゆくかを考えるため、法律などの専門分野を勉強していくこととした。
 具体的な取り組みとして@「難民は日本人の国際性を映す鏡である」との視点から、 日本の教会と難民との間にどういう関係があるのかを明確にし、深めるために関連する法律を学ぶA日本だけでなく、 国際社会における難民のさまざまな状況を明らかにするBインドシナからきた人々の現実をよく知り、それを広く知らせる。 それを通して在日の人々、特に韓国・朝鮮の人々に対する日本人の考えや生活態度、接し方を把握していく、などが挙げられた。 また日本国で法を犯した難民の場合、1年以上の刑を宣告された人は、現在国外追放処分と定められているが、 国籍もない難民を追放して一体どうするかという議論が一部にある。
 刑を執行した後もこうした人々を責任もってアフターケアし、更生にも国や教会が力を貸すべきだとの意見も紹介された。 難民定住委員会は、ベトナム戦争により、ベトナム、ラオス、カンボジアなどのインドシナの人々が難民となって小舟で国を脱出 したいわゆる「ボートピープル」が社会問題となった1975年から7年後の82年に発足年に2回、 難民の方々を招いての研修会と、担当者・関係者研修会を開いている。


「いま、なぜルワンダの難民でなく日本国内インドシナ難民の問題を問うのか」
あかつきの村 石川 能也 師

 ベトナム戦争が終わって、すでに20年になろうとしています。現在ベトナムではドイモイ(刷新)政策により、 世界各国から多くの企業が進出しており、最も注目されている国であります。 これからの経済発展が大いに期待されております。 ボートで脱出したあの150 万人もの難民はすでに一時帰国ができる自由な身となっております。 したがって彼らを難民と呼ぶのがさわしくないという人がいますがそのとうりであると思います。
 しかし家族を捨て、田畑を捨て、仕事を捨てて脱出して難民となった人々は、さまざまな事情があって帰国ということは簡単に語れません。 また、一度定住を認めて日本に住まわせた難民を本人の意志によらず強制的に帰国させることは、人道上許されることではありません。 いま、国内で生活している大多数のベトナム人、ラオス人、カンボジア人は十分とはいえないまでも、 ある程度経済的に自立している人が多いのです。外から見ると問題は解決してしまったかのように見えます。 しかし、はたしてそうでしょうか。日本の社会の中でこれから日本人と同じように生活してゆくためには、 この日本の法律や、制度、習慣や文化などさまざまな情報がもっと必要ではないかと思います。 彼らのうちで日本のテレビや新聞などを見たり、読んだるしている人はごく少数です。 殆どの人は内輪の「クチコミ」で情報を得ているのが現状です。 情報が正しく伝わっていないということが色々なトラブルの原因となっています。
 先日、私の住んでいる「あかつきの村」の隣の伊勢崎市にあるベトナム人が大勢住んでいる団地のことが読売新聞で報道されました。 その団地は全世帯数962 世帯、住民が2728人です。そのうち外国人が68世帯、226 人です。 その殆どがベトナム人です。新聞には「習慣の違いのトラブル」という大きな見出しがついていました。
 夏になると、ここ2〜3年は庭先でビールを飲みながら夜遅くまで母国ベトナムの流行歌をカラオケで大きな声で歌うので、 まわりの人がうるさくて寝られないという騒音問題です。 新聞に大きく報道されたためベトナム人よりはむしろ行政関係の人々の方が焦りました。 早速、伊勢崎市の国際交流が中心になって、外国人(ベトナム人)問題対策協議会が召集されました。 警察の警備課、県営住宅管理課、外国人登録係、団地地区の地区長、 それにベトナムの定住に関わっている「あかつきの村」などの代表が一堂に会しました。 さまざまな報告や議論が行われましたが、「ベトナムの人々にもっと情報を提供し、 日本での生活の仕方を学ぶ機会を与えなければならない」という結論に達しました。 県営住宅公社では「団地のみなさん」というベトナム語のマニュアルを作りました。 ゴミ、カラオケ、深夜の音、屋外飲食、公共費、掃除、除草、増改築、修繕など簡潔なベトナム語で説明がつけられておちます。 これがもっと早く今年のように記録的な暑い夏の前に配付されていたならばきっとこういう問題は起らなかったのではないかと思います。
 問題は起きてからでないと腰を上げないという日本の悪い習慣をどこかで変えなければならないと思います。 警察は住民から電話連絡が入ると、パトカーですぐ出動します。 しかし、屋内や庭にいる場合は「迷惑になるので静かにしてください」と比較的やさしく話しかけて帰ってしまうということです。 これではベトナム人は日本の警察は全く怖くないと思ってしまいます。 ベトナムではケイサツと聞くだけで泣く子も黙るほど怖い存在だということですから、日本の秩序を守る人は少なくなっています。 しかし警察の話ですと今のところ外国人に対しては教育期間なので特別やさしくしているということです。
 いずれは軽犯罪法を適用して逮捕する用意があるということです。そのうち軽犯罪法や関連のある法律などパンフレットを配付したり、 説明会など開く用意があるとのことです。このような警察の防犯教育が外国人に早くなされることを熱望しています。
 また国際交流係の活動を見ると、「餅つき」とか「西瓜わり」それにお国自慢料理会などのイベントが多く、 本当に外国人が困っている問題に正面からぶつかっていこうという積極的な本当の国際交流がまだなされていなかったような気がします。 日本人は外国から来た人がこの国のことが全く分からず、 どんな苦労をしているのかということが外国へ行って困った経験が少ないのでよく分かっていないようです。 先ずは実際に外国人のもっと近ずいて深く接する機会を持ってほしいと思います。
 外国から来る人が増える一方、日本から外国へ出て行く人も増えているわけです。 異国の生活になじめないため様々なストレスが起こります。カルチャーショックという言葉も生まれたくらいです。 そのため精神の病になる人も増えています。最近では精神医学会の中に特に多文化間の精神医学の研究が盛んになってきました。
 インドシナ難民の中にも精神的な病気になる人が増えてきました。病気になると、 先ず生活費に困ってしまいます。そのうえ治療費、入院費となると大変です。 退院してゆっくりする間もなく、その日から働かねば生活できないという厳しい現実が横たわっております。 中にはどうしようもなく自殺してしまう人も増えています。 「あかつきの村」では数年前から友人や他の難民センターから2〜3人の精神の病気を持つ人を受け入れてきました。 しかし、非常に多くのベトナム人が精神的な病気の苦痛を訴えているこを知り、3年前から10名の人を受け入れました。
 実際にその人々の世話をしているのはベトナム人の通訳です。1年間のケース・ワーカーの勉強をしてからはじめましたが、 実際には作業の指導をしたり、生活指導したりしますので一人三役をこなさなければなりません。 これは明らかに人手不足ですし、過重労働です。実際に病気の人に対する教育効果はあまりあがっていません。 社会復帰を目指して会社に勤めても、半日くらいで疲れて帰って来てしまうのです。 こんなことを二度三度と繰り返すと自信喪失になってしなう病状は悪化します。  どうしても1日8時間の作業が必要です。身体的、精神的にもその訓練をしなければ社会へ出てゆくことは望めなくなってしまいます。 そのためフルタイムの作業指導員を求めていましたが、ボランティアでそれをしてくれる人はなかなか見つかりませんでした。 やむなく、第二種社会福祉事業の小規模作業所の認可を受けようとしました。 しかし、県の精神保健センターへ行って調べたところ、 小規模作業所は家族会が運営しているのでベトナムなどの外国人で単身者の家族のない者は国家の補助金の対象にならないことが分かりました。
 いろいろと働きかけた結果、幸いなことに群馬県から補助金が出るようになりましたので 資金の工面をすれば来年度から専任の作業指導員を採用できるようになりました。
 10名の精神的な病気の人々を引き受けてこの3年間試行錯誤の連続でした。 しかし難民のこのような病人を受け入れる所は公的にも私的にも私の知る範囲では「あかつきの村」以外にはありません。
 日本の至る所に現代医学の技術や設備を備えた立派な大病院がどんどん建設されています。 日本人の精神的な病気の人々のための授産施設、作業所などが徐々に作られています。 しかし、これからずっと日本に住むインドシナ難民の精神的に病み苦しみのどん底にいる彼らの多くは行くところがなく 自殺するより他に道のない人々です。
 彼らのことは殆どの日本人は知らないと思います。また知ったとしてもどうしてよいか分からないとうい人々が多いのではないかと思います。 しかし、難民はインドシナ難民で終わってしまった訳ではありません。 アジアの国々の中には政治的、経済的に不安定な国々があり、何時難民が出るか分からない状態です。 その時、日本はアジアの難民を受け入れることを拒否することはできません。 アフリカのルワンダにまで難民救援のために自衛隊を派遣しているのですから。
 国際貢献というのは外に向かって物や人を送ることも大切ですが、 難民を受け入れしっかりと生活の基礎を据えられるように国内の法律や制度を整備しておうことは、 もっと大切な事であると痛感する次第です。カトリック難民定住委員会が微力ではありますが、 このような問題に取り組んでいることは重要なことであると思います。


難民の子ら 日本の宝物にも

 めずらしく太平洋側に大雪が降った2月12日の前夜私は伊東の海の見える研修所の応接ロビーでベトナムの中高生6人と共に、 カラオケに興じていた。
 19年前、始めて漂流中日本船に助けられたベトナム難民が千葉の銚子に上陸してから......黒船到来とばかり、 世界の世論に動かされて大和市にインドシナ難民定住促進センターが開設されてから14年......。
 (近く老朽化のため建て替えが行われる)顔色が少々黒く、衣服がちぐはぐ、動作も異なる難民さんは軽蔑とやっかい者の目でみられていた。 その頃、難民さんの話になると私は、興奮ぎみに「難民さんを見かけたら『こんにちわ』の一言だけでもいいから掛けてあげて」 とみんなに頼んだことを思い出す。そして日本の国際化が叫ばれ始め、 毎日のように新聞テレビで「日本人はいかにすれば、国際人になれるか?」 「英語が話せるからと言って国際人とは言えない等々......」日本人の村意識、島国根性等々の反省論まで飛びかっていた。
 国際化セミナーが各地で開催され、マニュアル本が売れた。まさに日本中が国際化の波にゆれた。 それと相まって、日本経済は天井したずの好景気に沸き、職を求めて南米、東南アジア、中近東から外国人が押し寄せた。
 都市のみならず地方にも、滞日外国人が日本列島にあふれていった。 難民は少数派となり、影が薄くなった。バブルがはじけ少し落ち着きを取り戻した今。 カトリック難民定住委員会のセミナーに出席したベトナムの子供たちの、家庭生活、学校生活の話の中で、 「困った時、悲しい時、日本の友達に相談します。日本人の親友を持っています」と言った時の彼らの誇らしい目の輝きを見た。 日本の教育制度、社会制度の特殊性を知らずか、又は、乗り越えてか、 自分の場所を確立し、たくましく、賢く生活している姿がそこにあった。
 難民の子供たちの存在は今後、日本にとって宝物となるであろう。     
(稲葉 宏子 さがみけいざい新聞)


祖国の名誉に貢献
栄養不足と戦いながら練習積む カンボジア人ト・リティアさん

 マラソンで優勝し、脚光をあびた。といってもタイムは3時間34分50秒。国際水準には遠く及ばない。 でも「自分の好きな走ることを通じ、国の名誉に貢献出来るよう頑張りたい」という。
 79年まで続いたポル・ポト時代には、父親や親類など多数が命を落とした。 解放後、中学生の時に陸上競技を始めたが、当時「マラソンランナーとして国際大会に出るとは思ってもみなかった」と振り返る。
 高校卒業後、産業省で染色工や警備員として働きながらも三交代の勤務シフトの合間をぬって練習した。 魚や果物など食糧は十分に出回っているカンボジアだが、 「子供が2人おり、家族の病気などで出費がかさむと食費を切り詰めなければならない。 損な時は、体力が消耗しつくす長距離の練習は満足に出来ない」獣医の夫人と共働きでも家計は苦しく、 高価なシューズは友からのもらいもの。
 60年代に陸上競技で活躍したベテランランナーの助言をうけながら、市内の公道で練習する。 アジア大会出場が決まった7月から大会までの4か月間は、上司の計らいで幸い休職扱いとなり、トレーニングに集中できた。
 内戦が続いたカンボジアのアジア大会参加は20年ぶり。マラソンを含め、 柔道、ボクシング、バドミントン、卓球の計5競技に9人が出場する。しかし、国際レベルとの隔たりは大きい。 「カンボジアにも有能な選手はたくさんいるはずだが、栄養が十分とれない。競技施設など環境の不備もネック」と悔しがる。 それでも「あと10年くらいは現役選手を続け、それ以降は後進育成に努めたい」と夢を語った。
プノンペン・高山伸康 写真も (読売新聞)


県営住宅 外国人お断り
「集中困る」と他へ 県、住民要望入れ誘導

 姫路市の3か所の県営住宅で、空き室があるにもかかわらず、約3年前から、 外国人が入居できない状態が続いている。入居の申し込み資格に国籍条項はないが、 「ベトナム人はマナーを守らず夜遅くまで騒ぐ」という団地住民の声を受けた県が、 ベトナム人に限らず、外国人の新たな入居を認めていないからだ。
 入居できなくなっているのは、姫路市内に50ある県営住宅のうち、それぞれ280 戸190 戸、106 戸がある3か所で、 このうち32戸には問題が起きる以前に入居したベトナム人が住んでいる。
 自治会関係者によると、2〜3年前、「住んでいない人がやってきて夜遅くまで騒ぐ」などを理由に入居制限を申し入れた。 県によると、苦情電話も寄せられていたといい、「外国人が特定の団地に集中すると自治会活動にも支障が出る」と、 ほかの団地への入居を勧めるようにした。
 県によると、この際、ベトナム人に限らず、在日韓国・朝鮮人を含むすべての外国人に同様の措置をとった。 この間、ペルー人から入居申し込みが1件あったが、ほかの県営住宅に入居してもらったという。
 姫路市にはインドシナ難民を支援する「姫路定住促進センター」があることから、約530 人のベトナム人が住んでいる。 このため、他の外国人に比べ、公営住宅への入居を希望するベトナム人が多い。


 あるベトナム男性(37)は、4月末に入居を申し込んだが「ほかの住宅にしてほしい」と断られた。 妻と2人で、3DKで4人暮らしをしている知人宅に身を寄せていたが、 6月にようやく、空きのできた市営住宅に転居した。 この男性は「禁止されているペットを飼っている日本人もいる。県営住宅に入居させないのは、 ベトナム人に対する差別ではないかと話している。
 自治会長の1人は「トラブルが続き、県に善処を求めた。受け入れに反対する意見は依然根強い」と話している。 一方で、「地域に溶け込む努力をしているベトナム人も多い」という住民の声もある。
 佐藤保・県住宅管理課長は「住民からの苦情があり、住環境を守るために外国人の受け入れを停止しているが、 いつまでもこのような状態を続けるわけにはいかない。 ベトナム人の入居が1世帯だけの団地については早期に開放したい」と話している。 姫路定住促進センターの職員は「不動産屋ではベトナム人というだけで敷金や家賃がつり上げられる。 文化習慣の違いがあるからといって公営住宅に入居できないのはおかしい」と指摘している。
 建設省は1992年4月、「公営住宅の賃貸における外国人の取り扱いについて」という通達を出し、 「地域事情を勘案の上、可能な限り地域住民と同様の入居申し込み資格を認めるものとする」としている。

「現場の判断」 建設省住宅総務課の話
 公営住宅は基本的には日本人向け。外国人が増えている状況があり、なるべく日本人と同じように扱うというのが通達の趣旨だ。 兵庫県が入居を断っているなら、それは現場の判断になる。
(朝日新聞 兵庫 播磨)


定時制高校青春の歌
ベトナム難民二世の歌

新しい生活沢山事が困る苦労もある何事にも辛抱が続きがんばる
グエン・バン・サン
 これも歌の体裁をなしていないようですが、私はこの作品を大切にしたいのです。 グエン・バン・サン20歳、ベトナム青年です。難民定住の父を頼って来日して2年になります。 わずか2年の日本生活で、彼はここまで日本語は使えるようになりました。
 彼の願いは日本語の読み書きが十分にできるようになり、この国で生活し続けていくことだそうです。 けれども私たちの国は、海外からの難民や外国人労働者に対して厳しい政策をとり続け、不況がそれに拍車をかけているとう現実があります。  今春入学した時、日本語が不自由なために特別授業の手だても考えましたが、 彼の学習意欲には目を見張るものがあります。 ごく自然にクラスに溶け込み、日本人の級友たちも何のわけへだてもなく、 冗談を言い合ったりしながら勉強しているのです。むしろ、私の国語の授業など、成績はいつもトップクラスで、 まわりの日本人生徒たちには、「ベトナム人になんで負けるんや」と言い合いながら、大いに刺激になっているようです。 こうしたために、特別授業と言えば、週数時間ほどの英語や工業科目の個人指導と私のみる日本語指導くらいで、 もっぱら彼の努力によるところが大きいのです。
 仕事は、神戸港の綿花輸入会社で、綿花を船積みから倉庫に降ろし、その汚れを摘みとる作業をしています。 入学してから梱包作業とビル清掃の仕事を経験し、今で3つめですが、給料がいちばん良いというのです。
 その作業の単純さや大変さを表現したいのですが、彼にはなぜ五七五七七という決まりがあるのがも十分に理解できないようです。 隣の生徒が、「サ・ン・ク・ン・ニ・ホ・ン・ゴ・ノ・リ・ズ・ム・ニ・ピ・ッ・タ・リ・ヤ・ロ・ウ?」 などと説明しながら授業をすすめています。彼が言葉を口にすれば、だいたいクラス中が聞き耳を立て、 中には、わざわざ後ろの方からサン君の席までやってきて、顔を近づけて聞きとろうとする生徒までいます。
 仕事の細部まではまだ詠めていませんが、彼の日本での生活の決意のほどは十分に伝わってくるでしょう。 今はまだ彼に「識字」の意味での日本語教育ですが、彼の持つベトナムの文化や言葉を私たちがどう受けとめて行くのか、 はずすことのできない課題があると思います。
南 悟(岩波ブックレットNo.351)


日本人が知りたいこと

どんな動機で国を出たのですか

 1975年に私たちの国ベトナムはハノイ共産党の統治下に組み込れました。 ハノイ共産党は政権をとるとすぐに、政策上の違いから私たちに迫害をくわえるようになったのです。
 私たちは財産を没収された上に、父、夫、子供、兄弟などを再教育キャンプ(刑務所)に強制的におくられ、 しあわせな家庭生活をこわされてしまったのです。
 私たちの家族には、人間が生きる上での基本的な最低限の自由および権利さえもあたえられませんでした。 宗教の自由、言論の自由、勤労の自由、教育の自由がうばわれたのです。
 そのようなもとで、私たちは「自由と平和を愛する国」に脱出する決意をしたので す。脱出することは危険きわまりないことだと私たちはよくわかっていましたが、共 産政権の下で自由と平和をうばわれたままで生き続けることよりは、死ぬ危険さえいとわないほうがましだと痛感させられたのです。
 これは、私たちが自らの目で見て、身体で感じ、生きた体験として味わった事実です。

一時帰国する人について

 安全に、一時帰国できる人は、もはや、難民ではありません。彼らは迫害されていないので、避難する必要も、もはやないのです。
 一時帰国した人をみてください。わたしにはどうやって帰れるのかわかりません。 先ずお金のこと、そしてふつうに日本の会社で働いていたら1週間以上も休みをとることが考えられますか。 彼らのほとんどはパチンコでかせいだお金です。ベトナムではいろいろ嘘をいうでしょう。
 もし、政治難民なら帰れません。
(にゅうす=難民定住推進 東京教区)


チョットひとこと

 「みんなで一緒に 新年おめでとう!」

 実行がむずかしい言葉がたくさんある。 私は「整理整頓」「時間厳守」「謹厳実直」「敵をも愛せよ」「貧しく、小さな者として」等は自分にとって無理ではなかろかと思う。 だらしのない自分は、あまり真面目にできず、常にいい加減である。真面目な友人たちには随分迷惑をかけている。 それでも友人たちは、私を我慢してつき合って、いろいろなことに招待してくれる。友人とはいいものである。 私たちは自分の友達であると、随分寛容になれる。気心が知れているので、少々の失礼は許してくれる。 それ故に永いつき合いが可能となるのであろう。

 しかし、自分の仲間でない人、初対面の人、外国人、習慣や考えの違う人、話が通じない人に戸惑い、よそよそしくなる。 時には警戒心や敵意を持つこともある。それは自衛本能であろう。なかなか自分の心を開くことはない。
 今日本では、日本人の国際化が叫ばれている。 滞日外国人、難民、在日韓国・朝鮮人等の人々が日本人と共に生活でき、 共に積極的に人間の生きる『場』を築きあげることができるかが問われている。 今までの歴史の中では、決してやさしいことではなく、民族主義や国家主義によって、傷つき、圧迫され、人権を無視された人々がいる。
 同じ人間として共に生きる積極的であるばあるほど、傷つき合っていることもあった。 相互の自衛本能とエゴイズムによって傷つくことはもうたくさんである。
 キリストが人の世界に来られた時、すべての人を一人ひとりかけがいのないものとして愛しておられる事を知らされた。 私もその一人であって、愛される喜びを発見した。そして、私を愛してくれるキリストが愛している人々を愛することができると思った。 そこから始めて自己中心の世界から自分が脱却できるかもしれないと思う。 私が愛しているキリストが愛する人々を私が愛する喜びでありたい。 「愛の連帯性が生れる」よう今年も小さな努力に励みたいものである。
 このパンフレットに対するご意見、ご寄稿をお待ちしております。 (K)

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