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チョットいいこと 54

ある家庭 ベトナムから日本にきて
映画(青いパパイヤの香り)
ベビーギャング
MY STEPS
ルポルタージュ ベトナム労働者讃歌 その2
漢字習得に一生懸命です
二つの祖国・二つのふるさと
ますますベトナムが好きになりました
日本の生活はどうですか
チョットひとこと



ある家庭 ベトナムから日本にきて

 私はベトナム グエン・トゥアン・ニャーと申します。妻と子どもが2人いて、 現在はサラリーマンです。結婚して11年経ちました。ふりかえってみると、  けれども、あるときは時間の経つのが大変遅く感じられたこともありました。 どんな感じのときでも自分の家庭での私の責任があります。その責任を私は神様からいただきました。 幸福な家庭を築くためには、いろいろなことや、様々な要素が関係するでしょう。 そのなかで一番大切なことは夫婦関係の問題だと思います。その次に大切なことが子供の教育と子どもを育てることでしょう。

 夫婦の協力で
 私たちは自分の国を出て日本にまいりました。それは特別な環境です。全く予定していなかった状況ですので、 大変に恐れました。全て何もわからなかったのです。
 最初は日本の文化や習慣、言葉は勿論のこと、季節や天候 なども自分の国と全然違うので何も分からず不安でした。 しかし、この不安や問題のために、私たち夫婦関係がもっとよくなっていったと思っています。 私たちは日本で暮らしていくうえでの、いろいろなことをまだ知りませんでした。
 ですから夫婦はお互い助け合うことが必要だと思っていました。夫婦以外は誰も知りませんでした。 友達はまだ一人もいませんでした。夫婦で協力をしながらだんだんと、少しずつ普通の生活に慣れてきました。
 それからもいろいろな問題も出てきました。例えば、2人で働くので、朝早く家を出て、夜おそく帰ってくるので、 夫婦が会って話をする時間が大変少なかったり、また働いている仕事の中に困ることがある時など、 家に帰って2人が会っても話をしたくなかったりすると、 お互いに2人で何もすることがなくなってしまったように感じたこともありました。本当は怖いことでした。
 この経験のあと、私は妻と一日の中でどんなことがあっても、2人 で一緒に話をして、交流しようと決心しました。実際、2人で考えれば、どんな因ることでも良い解決の方法がありました。 苦しいときに一人で然っていると、もっと苦しくなると思います。

 家庭の目標定めて
 人間だから一人ひとりの性格は違います。夫婦の場合も例外ではありません。 それで、良いところもよくないところも両方を受けとらなければなりません。難しい問題でしょう。
 日本の伝統の中に“辛抱することの大切さ”がよく言われます。 日本人の辛抱強さは有名です。いつか“辛抱することは幸せ”という言葉を聞いたことがあります。 私も辛抱することをもっと勉強したいと思います。自分の家庭の目標をはっきり見つけ定めて、 どんな方法でやっていったらよいのかと夫婦で一緒に相談をし、決めてやっていきます。
 私たちは“愛すると・一つの同じ方向を一緒に見ることができる”という言葉を何時も大切にしています。 家庭にはいろいろと細かい仕事があります。それで私たちは家庭内での仕事を一緒にする約束をしています。 けれどもこの約束をよく破ってしまいます。怠けたり、自分のためばかり思っているときです。
 自分の家庭の社会的地位は現在どのへんか、 ということもしっかり認識をしています。そのため、精神的にも落ち着いています。 いつも高い地位とか、お金持ちになりたいとか、有名人になりたいとか考えていたら、幸せではなくなると思います。 私たち2人は戦争時に生まれたので、不幸、苦しみ、そして貧乏という事がどういうことであるかよくわかります。 幸せでない人がまだいっばいいます。
 私たち2人は生活は少し良くなったので不幸な人をできるだけ助けます。彼らには物も、精神的な援助も必要です。 もし皆が神様の子どもだとすれば、助けることは当たり前ですし義務でもあるでしょう。 カトリック信者としてベトナム国内の教会を援助しました。 難民の私たちは、いろいろ難民キャンプに本と衣服、それにお金を送って助けました。 特に苦しいでいる難民の人々を神様におゆだねして祈ります。

 子どもは神の贈り物
 子どもは神様からのプレゼントを、私たちがいただいたのだと思っています。 そこで私たち夫婦は、このプレゼントを神様の目的にそっていい人になるように育てなければなりません。 子どもたちはまだ小さいので、大きな問題はまだ出て来ていません。けれどもこれから難しい問題が出るかもしれません。
 日本の教育制度はとてもよく、特に小学校の場合に私たちは安心していられます。 子どもは毎日夕ごはんの後で1時間ぐらい勉強しますが、その時私たちは静かに落ち着く時間を持てます。 子どもたちがまだ小さいので、父、母の行動がとても影響を与えると思いますので、 この点を私たちはいつも大切にしたいと心がけています。私たちの義務だと思っています。

 子ども信仰教育の悩む
 子どもは学校で日本語を使うので、自分の国の言葉がありません。 それなのに親である私たちは日本語にはまだ不自由なので困っています。 特に子どもを教育するときの言葉に困ってしまいました。ある時子どもが“神様は天にいるの、地にいるの、それから地獄こいるの?”と 質問しました。私は日本語で説明をしましたが、とても言葉が不十分でした。 もしベトナム語で説明したら、子どもは分かりません。
 子どもにカトリックの要理を理解させる方法はどうしたらよいのでしょうか。 神様にゆだねるしかないと思っています。結婚式のとき、 神様の前で私たちは子どもをよいカトリック信者になるよう育てますと誓いました。 この誓いをいつも忘れません。寝る前に10分くらい夫婦と子ども2人で集まって、 神様に感謝してまたいろいろのことを神様にゆだねて祈ります。 日曜日に教会に行きごミサに参加して、とても幸せです。心の安定と幸せは神様のところにいてこそ得られるものだと信じています。
(東京教区ニュース・インターナショナルデーの分かち合いから


映画(青いパパイヤの香り)
簡潔な語りと独特の映像

 少女から娘へと成長してゆく一人の女性の内面を通して見たベトナムの一断面。 記憶の中に漂う美しくもかなしい女性の半生が、ある家族の歴史と絡めて、鮮やかにスクリーンによみがえる。
 1991年のサイゴン。十歳の少女がとある邸宅にやって来る。老家政婦の下で働くお手伝いさんとして。 一日中仏壇の前に座り続ける祖母に、定職を持たず、時々姿をくらます無口な父親。 そして、しゅうとめに仕え、布地屋を営みながら家計を助ける母親と三人の息子たち。 そんな家族の水面下の崩壊劇が、息詰まるような緊迫した空気の中で展開する。 たとえ、少女自身が十年後に幸せをつかもうと、彼女のまなざしがとらえるのは、忍耐と奉仕の 過酷な現実を生きなければならない女性たちの姿である。過去の美しい記憶と、わずかばかりの未来への希望に身を託して。
 特筆すべきは、極力説明を排した簡潔な語り口と、微細な動きに光や音、 香りさえもとらえた独特な撮影法だろう。黒光りする廊下に、やみに浮かぶ蚊帳、真っ赤にもえる調理場の炭。 そして、白い樹液を出す庭のパパイヤに、カエルやイモリなどの小動物たち……。
 監督は、少年時代にベトナムからフランスに亡命した31歳のトラン・アン・ユン。 パリのスタジオにセットを組んで撮影したそうで、周到な計算を凝らした洗練された人工実の世界を現出する。 その透徹した凝視の姿勢は、小津安二郎監督の作品に通じるものがあり、最後まで目を離せない。一時間四十四分。
 新宿・シネマスクエアとうきゅうで上映中。
土屋好生 (読売新聞)


ベビーギャング

 「おやつをどうぞ!」小さなカゴをキャンデイボックスにして、バザーに釆てくれた人にキャンデイを用意しています。 「のどが渇いさんさ。一つもらうよ」。ちょっとした会話の糸口にもなります。 特に小さな子供たちには好評です。キャンデイのゴミをボイッと投げ捨てた子に「ゴミはゴミ箱にボイするのよ」と言うと、 次に来たときには、仲間のゴミまでゴミ縮にボイしてくれます。こうして小さなお友達が増えました。
 あかつきの村には、ベトナムの人が住んでいますが、仕事があってバザーに来られない人もいます。 そんな人たちの子供だけが何時からか3人4人とキャンデイを目当てに来るようになりました。 最初はお菓子が欲しいのだと思っていましたが、そのお菓子を取りに来る時に、 私たち売り場のおばあちやんが話し掛けるのを待っているようです。 家ではベトナム語、私たちとは日本語で話すのですが、まだ5才にもならない子供たちなので、言葉がミックスされています。
 『○×チョウダイナー』『♯※アリガトナー』、悪ふざけをしては走り回っていましたが、 ある日、その子供の名前を教えてもらって、名前で呼ぶようになると、彼らの態度は変わりました。 怒鳴るようにわめいていた子が甘えるような話し方になり、おどかすような頗をしていたのが、 笑いかけてくるようになりました。私たちは『ベビーギャング』と彼らを呼んでいましたが、 今では『可愛いペイビー』?になりました。この子たちの成長を楽しみにしています。
(暁風より)


MY STEPS

 私がヴェトナムから逃げてきて、そろそろ7年になりましたが、 私は恵まれていたので中学校に編入できましたが、分からないことばかりで、全て一からやり始めました。 そのとき私は思ったこと、何よりもまず日本語と日本人の生活を理解できるよう努力をしなければならないと言うことでした。
 周囲の日本の皆さんに支えられて、私は少しずつ成長し、 私自身もいずれは中学校を卒業して高校へ進学したいと思いながら一生懸命努力しました。 そのかいあって私は栃木県立馬頭高校の普通科に入学できました。 そして周囲の皆さんが心優しい応援を下さり、無事高校を卒業できました。
 私はさらに、学問ばかりでなく技術を身につけることも必要だろうと、 そうすればいつかヴェトナムに平和と自由が戻ったとき祖国のために何か役く立てるはずだ。 そう思って専門学校へ進学する決心をしました。
 そして、このたび私は電気工学科に編入できました。といっても、 私には電気の知恵が全くなかったので最初のうちはとても苦労しました。 でも、少しずつでも努力を重ねていけば必ず成長があると信じています。 授業で分からないところは熱心な先生方々と優しい友達がていねいに教えてくれ るので、最近は電気の勉強が面白くなってきました。 最近私の電気実験中のくちぐせは「やっぱり電気だ!」です。 電気の仕組みの不思議さを知ったときや、電気の力のすごさに驚いたときなど、 思わず「やっぱり電気だ!」とつぶやいてしまいました。この調子でなんとか卒業まで頑張ろうと思っています。
 私の人生はこれからどうなるか本当に分かりませんが、 これからも一歩ずつ『STEP BY STEP』歩いていこうと思っています。 そしていつの日か最後のSTEPとして育英高専で学んだことをヴェトナムで生かしたいと夢見ています。
(オ・ディン・アン・カン)


ルポルタージュ ベトナム人労働者讃歌 その2

 ベトナム人について、よくないうわさが耳に入ってくる。はたしてどうなのか。 私たちはうわさですべてを評価してはいないだろうか。生活習慣や文化や考え方のどこがどう逢うのだろうか。 また望ましい交流とはどんな姿なのだろうか。 

 ベトナム人の生活
 ベトナム難民の方の日本の印象は、みな一様に「寒い。さみしい。」である。 考えてみればベトナムはほぼ亜熱帯に位置しているから、「寒い、寒い。」と言うのもうなずける。 ボート・ピープルによる難民は家族と離れ離れになっている場合が多いので、 生活習慣が違う上に言葉が通じない異国では、さみしさもひときわであろうと推測される。 一日の労働に疲れ、やっとできたベトナムの友人と、夜、騒ぎたくなる気持ちもわからなくはない。
 ほとんどのベトナム人は本国にいる家族(主に、親が多い)にお金を送っている。 それも、10万円から30万円ぐらいを年に3〜4回というから、決して小額ではない。 ベトナムで働けば、せいぜい月7千円ぐらいの給料というから、この送金は家族にとってはもちろんのこと、 ベトナム政府にとっても莫大な額である。ベトナム政府が、難民に対して一時帰国を認めたのも、 このお金に魅力を感じたからだろう。親への送金を続けていることから、 親を大切にする心情や気風が強いことがうかがわれるが、反面、自分が親になったとき、 子どもに養ってもらおうという意識にもつながっていると思われる。そのためかどうかはわからないが、 子どもの数は多い。
 ベトナム人は、郵便局と教会のあるところに集まるそうである。郵便局は、お金を本国の家族に送るためであり、 教会は信仰のためというより、他のベトナム人と話しをするためである。 ここ数年ODP(合法出国計画)での家族呼び寄せによって家族と一緒に住むことができ、 落ち着いた家庭をもつことができるようになった。
 私が訪問した家庭もすべて、部屋はこぎれいに整頓されて、テレビ・ビデオ・CDのそろったA・Vシステムのを置いておられ、 ベトナムの装飾品が飾られ「堅実な生活をされているな」という実感があった。

 「ベトナム人はくさい。」ということが聞かれる。 一体何がくさいのだろうか。皮革の場合も同じであるが、 よく原因を確かめず、ただ自分たちの匂いと違っているだけで「くさい、くさい。」と言っている場合が多い。 そのことがGさんのお宅でわかった。原因は醤油である。日本の醤油と原料が違う。 日本は大豆が原料である。ベトナムの醤油は「ヌックマム」といい、原料は魚である。 私もなめてみたが、独特の味であった。ベトナム人からみると日本の 醤油は「しつこい。」という。 ヌックマムは「さっぱりしている。」いわれてみればそう感じないこともない。 A神父さんは「コーヒーと紅茶の逢いね」と言われた。なるほどと思う。 味やにおいなんて、慣れで180度も違ってくる。ベトナムではこのヌックマムを野菜にぶっかけて食べたり、 あらゆる料理の味つけに使う。まさにヌックマムづけである。
 食べ物の違いへの理解が、うまくいけば交流につながる。Rさんは、子どもが保育所に持っ ていく弁当の作り方がわからなくて困っていたとき、保育所の先住が、弁当を実際にRさんと一緒に作られた。 卵焼きやウインナーなどの簡単なおかずであるが、 Rさんにとっては日本の弁当の作り方がよくわかったそうである。実に暖かい交流であると感じた。
(西播磨地区同和教育研究協議会「啓発資料SEl−「X」より))


漢字習得に一生懸命です

 夫と長男と3人で、小さな船に乗ってベトナムを出たのが10年前。イタリアの船に救われ、日本にやって来ました。
 日本は、職場での先輩後輩の関係が厳しいですね。いじめとまではいかなくても、悩んでいる難民が多い。 住宅の問題をはじめ、ほかにも頭が痛いことがいろいちあります。 子どもたちは元気に学校に通い、日本人の友達もたくさいます。 ただ勉強を、特に社会や国語を親の私が十分に教えられないのが心配です。 東京では子どもの勉強を見てくれるボランティアがたくさんいると聞きますが、姫路には少ししかないのが残念です。
 姫路市の定住促進センターに入所した時は次男を身ごもっていてつわりがひどく、 日本語の勉強が十分できませんでした。次男が小さいころ、病気になっても症状を説明できない本当に困りました。
 勤めに出てから、10分ほどの休想時間を使って、わからない漢字を課長さんに教えてもらいました。 「一日一字覚えても、一年では三百六十五字」と、毎日頑張ってだいたい読めるようになりました。 通訳の仕事は昨年の春から。センターに毎日通い、病院や市役所について行く時もあり、難民の相談にのることも増えました。
 趣味はカラオケ、ベトナムの歌を歌うのが大好きです。センターや職場、 近所でたくさんの日本人に世話になり、私は友達はできたけれど、まだ結婚式に呼ばれたことはありません。

 ◇メモ
 1983年、難民船でベトナムを出国。淡路島のキャンプを経て姫路で定住。 夫チェンさんと中学生のプー君、小学生のカン君、ヒュウ君との5人暮らし。
(朝日新聞)


二つの祖国・二つのふるさと

 予想しないで日本にやってきて、全く見たことも聞いたこともない言葉をいやでも覚えさせられ、 話させられ見えない壁をのりこえようと一生懸命になって、もう6年半が過ぎようとしている。 長いようで短かったこの期間は、私にいろいろな経験を与えてくれた。悲しい時もあれば、楽しい時もある。 ベトナムを出た日からすでにつらい思いをし、学校で友達をつくれない時の孤独感を経験し、 合格した時の喜びを味わったことなど、あらゆる感情をこの身に及ぼした。 このように、両親がそばにいない自分は、知らずに知識を獲得しながら大人になっていき、そして新たな悩みが増えるのである。
 日本に滞在している韓国人は祖国の言葉を話せずに、日本語しか話せなくて、 日本で生まれながら日本人として扱われず、差別さえされる。 祖国に帰っても逆に「ソト」の人と外国人のようにされるのはしばしばである。 パスポートは韓国と日本とを持っていなければならない、 ということを耳にしたことがある。ベトナム難民である私たちの孫がいずれ同じ状況になるのかと思うといやな気持ちでたまらないのである。 現在の日本は、アジアの中で早くから発展して豊かになった今だからこそ、 難民を受け入れてくれるが、いつか限界という文字が存在する時、 私たちはどういうふうに扱われるのだろうか。日本にいるかベトナムに帰るかということを選択しなければならない日が来ない、 という保証があったわけではないため、人生の終わりまで安心して暮らせるだろうか。 また国籍を取ったあとも差別は完全になくなるのだろうか。そんな思いを抱いて、永住を申請しとことはとても複雑な気持ちである。
 もしも、日本もベトナムも私たちの存在を否定したら、私たちは今度は難民と呼ばれるのだ ろうか。そんな時が来ないように願いながら、若い世代の私たちはさまざまな体験から知識を得て、 第一祖国であるベトナムのため、そして第二の祖国ともいえるこの日本のために何かささいなことでも役にたちたいと、 これからの費重な大学4年間を大事にしようと心に決めている。

 グエン・ティ・ミン・タム
 ●荒川区の友の家に住んでいたタムさんは、今年の4月から信州大学経済学部へ入学して松本市へ住むことになりました。
(にゅうす=東京難民定住堆進)


ますますベトナムが好きになりました
難民相談員の福本さん、あこがれの地を訪問

 福本さんは2月9日から16日まで、大学教授やジャーナリスト、博物館館長ら6人で組んだツアーに参加した。 旧正月のテトに合わせて里帰りしている同センターの出身の人たちと再会するのを楽しみに、大阪空港から旅立った。
 旧暦のおおみそかの夕刻に、ホーチミンの空港に到着した。福本さんたちを最初に驚かせたのは、迎えのバス。 行き先が「赤塚山高校」となっていた。聞けば、神戸市が寄贈したバスをそのまま使っているとのこと。 ベトナム人のおおらかさを感じさせられた。
 バスからながめる通りには、日本製のバイクがあふれんばかり。2人乗り、3人乗りは当たり前。 子供たちを前後にはさむように乗せ、5人乗りで家路を急ぐ家族連れも多い。信号も殆ど守られていない。 「赤信号で止まったら、後ろから追突されてしまいのでは‥‥と心配になるほどであった。
 姫路市仁豊野の姫路定住促進センターで難民相談員として活躍している福本さんが2月、 あこがれのベトナムを初めて訪問した。ベトナムの人たちとの付き合いが始まってから11年。 経済復興を進めるお国事情を自分の目で確かめた福本さん。 『ますますベトナムが好きになりました』とベトナム人からの相談やトラブル解決に元気良く飛び回っている。 22日、ツアーに参加した仲間たちが神戸に集まり、旅のビデオを上映する。
 日本から里帰りしていたファットさんガンさんが大勢の友達を連れて会いに来てくれた。 2人乗りのバイクを連ねて夜の街を見学。案内された2人の家に集まった親族が20〜30もおり、 また、びっくり。午前零時になろうとするころ、耳をつんざくような大響音がした。 「戦争かと思いきや、実は正月を祝う爆竹の音。「ベトナム人は夜遅くまで騒ぐ」「カラオケの音がうるさい」 。
 にぎやかな爆竹の音を聞きながら、日本で耳にした苦情を思い出し、苦笑してしまった。
 翌日、新年の挨拶を交わした後、切り離し手術を受けたあのベトちゃんドクちゃんが入院しているツズー病院を訪れた。 ドクちゃんは昨年、義足の調整のために来日し、神戸の病院に来た。 約半年ぶりの再会だ。「覚えている?」と日本語で尋ねると「ふ−ん」とあいまいな返事のドクちゃん。 それでも、日本で習ったピアノを演奏してくれた。ベトちゃんは寝たきりで言葉を交わすこともできない。 ドクちゃんも寂しそうだ。バスの旅を続け、最後に立ち寄ったのがハノイ。 真夏の暑さのホーチミンと違いハノイは肌簿さを感じるほど。訪問した越日会館では、 「ベトナム民族アンサンブル」として来日し、姫路でも公演したベトナム中央歌舞団のメンバーから熱烈な歓迎を受けた。
 ドー・バン経済委員長から、ドイモイ(刷新)政策の現状と課題について話しを聞いた。
 「難民として外国にいるベトナム人が、再び祖国へ永久帰国できるのですか?」ドーさんは 「いつでも帰って来て下さい。外国で培った知識を祖国の復興に役立ててほしい」と答えてくれた。
 帰国後、再び、ベトナム人からの相談に追われる毎日の福本さん。 「急激な経済発展のひずみをかかえながらも、新生ベトナムは希望に満ちた祖国建設へ進んでいるようです。 祖国に送金するため、肉体労働をいとわず、生活費を切り詰めて暮らしている在日ベトナム人たちを温かく見守ってほしい」と話している。
(朝日新聞)


日本の生活はどうですか

 難民たちは自分たちの定住する国をさだめる権利がありません。 日本は天国のような国(生活が豊か!?)だからアジアの人が集まってくる。 とテレビ、ラジオ、新聞はいいます。しかし、難民たちは日本を天国だと感じてはいないのです。 私たちが日本にきたのは金持ちになるためでも、勉強するためでもないのです。ただ、避難する場所を求めてのことなのです。
 ですから、当然、私たちの中には日本の言葉をおぼえられない人も出てきます。 長い戦争のため、生まれてから学校での勉強を知らない者もいます。高等教育を当たり前とした日本社会にいるのはむずかしいことです。
 難民として軽蔑されるのはつらいです。たとえば、 入国管理局で「おまえはバカだね。日本に何年もいるのに、日本語も書けないのか。なんのために日本にいるのか」とまくしたてられました。
 難民だということでベトナムがまるで未開発国のような態度で私たちに接する日本人と生活 するのは楽しくないです。  だれでも祖国・母国を愛する心をもっています。だから、こういう質問には答えにくい。 もし、心にある真実をいったら、日本人は気を悪くするでしょう。
 (にゅうす=東京難民定住堆進)


チョットひとこと

 国・国民と私たち
 朝鮮民族や中国民族の人々と共に生活し始めてから日本人は長い歴史を経てきている。 むしろ東南アジア・大洋州・中国・シベリア等の人々が日本の人々のルーツのいくつかであるかも知れない。 特に日本文化の形成には多くの影響を受けていることは間違いない。 国家が形成され、残酷な行動や悲惨な生活、相互の憎しみを煽る政治・経済・軍事行動によって、 民族や国家の存在が人々の頭上に重くのしかかっている。
 現在インドシナ難民、来日外国人労働者との共生を目指している時に、 実在が虚構か、圧迫や人権の無視、憎しみや恐れ、自己防衛と異邦人に対する拒絶等の感情が、 日本人の中に起こっているのではないかと思う。そこには、相互の利用価値しか認めない民族意識、国家意識がある。
 アフリカから帰ったシスターとオリンピックか、国際競技のテレビを見ている時、 突然、シスターが大声を出して「頑張れ!頑張れ!」と言い出した。真剣な顔で応援しているのである。 テレビに目をやると、シスターが働いていたアフリカの国の選手が走っているのである。 アフリカの選手が2位に入ると手放しで喜んでいる。「でももう少しで1位になれたのに」と残念そうである。 私はあっけにとられて、「すごい応援だね」と言うと「私の国の選手よ」と、言うのである。 自分が数年間生活した国を愛し、自分の国のように応援するシスターを羨ましく思った。 「シスター、日本の選手とあのアフリカの選手が競争したらどちらに応援する?」と聞いてみたら、 にこにこしながら「どちらかなー」と言う。多くの人々と接し、多くの人々を愛し、多くの友達を持つ人は、 自己中心の世界から解放されるのかもしれない。
 これからの日本人が、多くの他者、多くの外国人と接し、多くの外国人を愛し、友だちになり、 一緒に生きることの喜びを多く体験するならば、偏狭な民族主義や国家主義に陥らずに、 相互に人間にふさわしい平和を築いて行けるであろう。
 特にインドシナから日本に来て、共に生きようとする人々と、人間らしく共に生きることを日本人は学ばねばならないであろう。 相互に、どうしたら共に生きることが喜びとなるかを話し合いながら、 決して相手をお客さんにすることや、片方が主人になることなく、友だちでありたいと思う。
(K)

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