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チョットいいこと 52

国籍を超えた神の国目指して
真の共生を求めて
ビビンバの家
新 ぐんま人
宗教統制和らぐ
なくそう外国人差別
元ボート・ピープルの実業家
一年一組“国際組”
あんなこと こんなこと
チョットひとこと



国境を超えた神の国目指して

 去る4月10日、仁豊野教会でファム・ディン・ソン神父(横浜教区)の初ミサが行われた。 同神父は3月21日、横浜教区甲府教会で叙階されたばかりの新司祭。 彼と共にミサを捧げたのは、リン師(東京カリタス・ジャパン)ヒエン師(東京 高円寺教会)、 塩田希(名古屋イエズスの小さい兄弟会)それに仁豊野教会のボーガルト師、 ヘイマンス師、ボサール師の6名の司祭、 ベトナム語と日本語の入り交じった荘厳な典礼は、すべての人を感動させた。
 ソン神父は12年前、ベトナムをボートで脱出、姫路難民センターに入所、 3か月の教育を受けた。その間、「毎朝、仁豊野のミサに与かっていた」 「日本で最初にミサを与かったのも、この仁豊野だった」と話し、祈りの大切さを強調していた。 その後就職の関係で山梨へ転居、甲府教会の青年会で活動し、 その間、召命を感じて神学校に入り長年の勉学の結果、今回の喜びとなったもの。
 仁豊野には、彼の親族も多く定住しており、大阪や神戸には、 関西ベトナム共同体の人々が多数いることもあって、今回の「初ミサ」となった。
 ベトナムから来日した両親らと共に祈ったミサは、 恐らく忘れられないものとなったことだろう。
 なお当日は、子供たちの初聖体の典礼も行われ、 日本人2人、ベトナム人1人の子供が初めてイエズスの 体を受ける喜びを共にした。
 ミサ後は、ベトナムの方々の心尽くしの民族料理を囲んで交流会が開かれた。 珍しいハムや春巻きに舌鼓をうちながら、和やかな交流会が持たれ、話しに花が咲いている光景が数多くみられた。
 「国藷を超えた神の国を目指して」歩む教会の姿が現実となった一日であった。


真の共生を求めて (下)
第10回難民定住セミナーより 

 出身国や文化にでなく個人の生き方を支えに
特別扱いについて
 「学校でいやなことは特別扱いされること。何かあると『君は特別なんだから頑張れよ』という。 でも何が特別なんだか分からない。特別扱いされると学校で目立つからやめてほしい」(中学生)
 「自分たちだけ特別扱いされると、えこひいきされていると思われてしまう」(同)
 「私は特別扱いすることは、当人たちのためを思えばむしろ当然だと思う。 特別扱いすることで、早く日本語を覚え、早くクラスに溶け込めるのだ思っている」(難民の子女を受け入れたことのある元小学校校長)

 2月10日から静岡県伊東市で開かれた「第10回難民定住セミナー」では、 特別扱いをめぐって話の輪が広がった。中学・高校といった多感な年代。 ちょっとしたことで傷ついてしまう子供たち。早くクラスで友達を作り、 日本で生活するのに必要な学力を身に付けてほしいと願う教師。
 「特別にもいろいろある。お世話する側とされる側で立場に違いがある。 『よかれ』と思ってしたことでも、そうとられないことがある」「特別扱いはしなければならないが、 それをどういう形で表すか。どういう形で手を差し出すかが間遠だと思う」というセミナー参加者の発言にその解決のカギがあるようだ。

文化の伝承について
 生命をかけて、祖国を脱出し、現在日本で生活する親たちは、ベトナムへの強い望郷の念を持っている。 しかし5歳や6歳で日本に来た子供たちにとっては、日本が祖国でベトナムは遠い国。 しかも親は日本語をうまく話せず子供はベトナム語を忘れつつある。 親子間のギャップは深い。
 「『祖国に誇りを持て』と言われても、本当に祖国を知らないのだから持ちようがない」 「何が誇りなのか分からない。誇り誇りと言うが、 それでは日本人にとって誇りとは一体何なのか」といった逆の問いかけもベトナムの生徒から上がった。 ベトナム人だが日本で生まれ、日本語をベトナム語より上手に話す子供たち。
 しかし日本の国籍は与えられない。こうした中途半端な中で、 「私はベトナム人の誇りではなく、自分個人としての誇りを持っている。 それは人に頼りっぱなしにならない。人に迷惑をかけない。 自分の努力という個人の生き方に対しての誇りです」とはっきり言い切る学生もいた。
 彼らのことを考えることは、日本の現在を見つめ直すことに確実に繋がっている。 こうした難民の定住者および、滞日・在日外国人が日常直面するさまざまな問題は、そのまま日本人の問題でもある。
 彼らの存在は、日本が他国の人々とともに生きていけるのか、 共生が本当に可能なのかといった重要な問題を今日の私たちに突きつけている。
(カトリック新聞)


ビビンバの宴
神戸 鷹取教会交流記

 日曜日のミサ。日本人とベトナム人の信者が交互に聖書を唱和する。 ベトナム語はやわらかな抑揚があり、歌のように聞こえる.聖堂の横には、 ペンキで明るく彩られたキリスト像が立つ。台座に刻まれた聖書の言葉はベトナム語、ハングル語 (韓国・朝鮮語)、日本語の順で「互いに愛し合いなさい」とある。

 神戸市長田区海運町のカトリック鷹取教会。1927年(昭和2)現在地に建った。 同区は、戦前すでに朝鮮人の多住地域だった。 洗礼者名簿をひもとくと、日本式の名を強いられた時代にもかかわらず、 朝鮮の名前が少なくない。 40年(昭和15)には32人中8人。植民地だった祖国を離れ、 当時、20数家族がこの教会でクリスマスを迎えた、と在日韓国人一世の高順愛さん(71)は記憶する。
 高さんは慶尚北道の大邱出身。殉教者もいるという代々のカトリック信者の家に生まれた。 離郷の動機は知らない。父に連れられ、北九州、淡路島などを転々、貧しいながらも教会に通い続けた。 34年(昭和9)12歳、長田区に落ち着いた。鷹取教会の土曜学校で教理を学んだ。 遊べないのが子供心につらかったが、「教会では、挑戦人だからと、のけ者にされることは絶対にはなかった」。 鳥居に敬礼する時代。民族よりむしろ信仰で差別されたから、信者たちの団結は強かった。
 父は廃品回収業、母はどぶろくを密造していた。クリスマスは、プレゼントがもらえるわけではないが、 晴れがましい雰囲気が好きだった。イブは徹夜になった。ピピンバのご飯の上のおかずがいつもより一色多かった。
 小学校卒業後、鉄工所、貿易商社、ゴム工場などさまざまな職に就いた。戦後、帰国も考えたが、 朝鮮戦でかなわなかった。「苦しい時代こそ、なんで生きるうやろと考えますわな」。 教会は、自分が大きな力にいかされている、と確認する場所だった。

 若いころ、年金に加入しようとしたが、外国籍ではもらえないといわれ、 あきらめた。70歳を超えて堺の警備会社に勤め出したら、 趣味の碁仲間に「なんで、あくせく働くの」といわれる。
 教会は、故国を遠く離れた人たちの心のよりどころであり続け、 国際交流の場でもあった。 クリスマスを前に、鷹取教会に集う人々の思いを聞いた。
宮沢之祐 記者(神戸新聞)


新ぐんま人
生徒会長はベトナム出身

 「あいつ、いい成績で推薦取ったらしいぞ。お前はどうだった?」 「そういうお前の結果も見せろよ!」受験シーズンを目前に控えた大泉町立北中の放課後は、 それぞれの進学先の話で持ちきりだ。成績表を見せ合うクラスメートの中で、 ひときわ精悍な顔の少年が屈託のない笑顔で仕切っていた。
 ベトナム生まれのボー・ホァン・チン君(15)。 5歳の時に一家8人で母国を脱出したボート・ピーブルだ。 が、“外国人”のハンデはみじんもない。中学3年間を通しての成績は5段階評価で全科目平均「4,9」。 学区内の有名高校への推薦入学はほば確実。しかも、スポーツ万能ときている。 「彼は本校の中でも抜きん出た存在。何事においても常にハングリーなんですよ」。 教師だれもが絶賛する。
 中学2年の時、生徒会長に立候補。大差で当選を果たした。 「2つ上の兄もここで生徒会長を、あとに続かなきゃ、と思ったんだ」。 会長選挙で掲げた公約は「文化祭の復活」。 「校内が荒れていた」ことを理由に中止されていた「若葉祭」は昨年11月ボー・ホァン君ら生徒会メンバーたちの手で数年ぶりによみがえった。  試行錯誤の連続の末に2日間の日程を無事に終えた時、みんなで「何かをやり遂げたという喜び」をかみしめたという。 「そしてなにより、公約を果たせてホットしました」。 階段の踊り場に、切り紙でつくった大きな絵が掲げられている。 文化祭のために全校生徒が協力して作ったモーニュメントだ。 ボー・ホァン君は、はにかみながら「最高の思い出」を指した。
 「夢は?」
 「医者になること。両親は『絶対医者になれ』って。 理数系が弱いから、ちょっと…。でも両親の夢をかなえてあげたいな」。 一番上の兄は明治大学に在学中。2つ上の兄も大学受験を控えている。 ボー・ホァン君も1日4時間は机に向かう。「古文とか漢文とかはまだまだ苦手だけどね」
 高校に進学したら「アメリカに留学したい」。これが当面の目標。 「生まれ育った所だから、ベトナムも一度は訪れてみたい。でも、暮らしやすいし スキーもできるから、ずっと群馬にもいたいな」
 両親は自動車工場で働く。不自由な日本語、慣れない生活習慣。 他国で生きる両親にとって、“日本人”としての息子にかける期待は大きい。 ホァン君はそうした期待に涼しい表情で言った。「群馬はぼくの第二の故郷だよ」
 取材から解放されてクラスメートの輪に戻ると、 話し言葉はすっかり上州弁。何となく親分肌でもある。知ってか知らずか、 群馬人の“血”は彼の中にも脈々と流れているようだ。
(読売新聞群馬版)


宗教統制和らぐ
ミサ参加の若者増加 ベトナム

 【ハノイ】宗教に対するベトナムの国家統制が幾分緩和されたため、 ハノイのカトリック信者たちは、恐怖感をそれほどもつことなくミサに参加できるようになった。
 この新しい状況は1993年10月下旬、ハノイ大聖堂で行われた主日のミサで明らかになった。 このミサの出席者は、数人の在住外国人や観光客を除けば、 すべてベトナム人、しかもその多くは20代、30代の若者であり、 座りきれないほどであり、教会の雰囲気はなごやかなものだったという。
 ハノイのカトリック信者によると、 「数年前には政府側の人が信者たちを追跡したのでミサに参加することは危険なことだった」という。 日曜日には、大聖堂で行われるベトナム語の3回のミサは常に満員になる。 毎朝5時半のミサには約100人の信者が参加する。また北ベトナムのカトリック筋は、 カトリックヘの改宗者数が増加していると伝えている。 ハノイ市在住のカトリック信者は約4,000人だが、 ハノイ教区全体では約30万人の信者が存在すると推測されている。 ベトナム全土には約600万のカトリック信者がいると考えられ、 全人口7,000万人の8,5%を占める。
 ハノイ大聖堂裏にあるハノイ神学校は、1992年4月に開校した。 同神学校は、政府により承認され2年ごとに8〜10人の新入生が入学を許される。 そのほかに教会はホーチミン市に別の神学校を開いている。
 しかし政府は、教会の活動に対する厳しい統制を続けている。 政府が神学校に入る学生を決め、神学校のカリキュラムの中でも公民の授業を行うよう定めている。 また、ベトナムでの司祭・修道者への召し出しが増加しているにもかかわらず、 政府の厳重な統制のために、叙階される神学生はわずかな人数。 必要な課程を終えた南ベトナムの神学生の中でいまだに叙階の許可を待っている者もいる。
 教会は現在、財政的困難をかかえている。ベトナム人の平均収入が少なく、 国外からの援助も限られている。その援助の大部分は海外在住ベトナム人の支援である。 
(カトリック新聞)


なくそう外国人差別
国際化を考える高校生 経験交えて議論

   「日本の国際化」を高校生レベルで考える団体「WITH」(WATCH IDENTIFY THINK&HEAR)が、 今月6日、横浜市の県立外語短大付属、東京都立国際、同小松川、同九段、埼玉県立和光の5高校から 約50人が参加して、日本人の「外国人差別」の問題について話し合いました。
 まず、在日経国人二世の都立国際高2年の柳 俊君は、自分の経験を交えて次のように話しました。
 「僕の外見や話し方は、日本人と全く区別がつかないから、バイトの採用などはすぐ決まるが、名前を書いた途端に断られることがある」 「日本は単一民族国家という考えが一般に浸透し、他の国籍を持つ人に不利な状況を生み出している。 私たちや政府は、日本にもアイヌ人から外国人労働者まで様々な民族が住んでいることを認め、平等な権利を保証すべきだ」 (外語短大付属高3年、岸容子さん) 「私たちは、自分とは違った考えの人がいることを認識すべきだ。日本人は伝統的に、自分をみんなに合わせれば、 平和に過ごせるという環境に住んでいるから『個性がない』と言われたり、 それが外国人差別につながっていたりすると思う。差別意識を無くすには、 日本的な考えの一部をすてなくてはならないのかもしれない」(同校3年広瀬純子さん)
 また「バカチョンカメラ」などの例に見られるように、 私たちの日常生活にも差別的な意味を含む言葉や名称が知らず知らず使われていることなどに ついても話し合いました。
 この話し合いの結果を各自の学校に持ち帰り、報告して「少しでも差別意識の解消に役立てよう」と決議しました。
高1・赤羽貴理子、飯田智実 記者(読売新聞)


元ボートピープルの実業家

 【ハノイ4日=林田裕章】
 「制裁解除はうれしい。だがそれよりも、 米国にはすでに制裁を続ける根拠がなくなっていたことの方が重要だ」。 米投資コンサルタント会社VIICのハノイ事務所代表、ザンチャンさん(31)は、 クリントン政権の決定が伝わった4日強い調子でそう言った。 ベトナム戦争後、ボートビーブルとして米国に逃れ、 米市民権を獲得しながらもベトナム人としての誇りを失わなかったチャンさんは、 大国に操られる歴史への冷徹なまなざしがあった。
 ベトナム戦争末期の70年代、チャンさんは南ベトナム政府高官の父親とともにサイゴン(現ホーチミン市)にいた。 ある日、54年の南北分断以来生き別れになっていたおじが、父のもとへ現れた。 おじは北ベトナムの諜報員で、父の活動を探りに来たのだ。 2人の接触はサイゴン政権に知られ、2人とも「共産主義者」として投獄された。
 75年4月、サイゴン陥落。いったん釈放されていた父は再教育キャンプに送り込まれた。 4年後、釈放。当時16歳のチャンさんら家族9人は社会主義になじめず、ボートに乗って母国を脱出した。 「インドネシアの難民キャンプに8ヶ月いて、79年に米国に渡ることが出来た。 カルフォルニアの法律学校に入り、哲学やアジア米国関係も勉強した。 家がなく、昼は図書館、夜は車の中という日が続いた」という。
 ベトナム人でありながら米国人だというジレンマが、 チャンさんを悩ませた。89年初めてベトナムに一時帰国する。 「自分のルーツを探したかった」。 母国の貧しさに驚き、何か出来ることはないかと考えて、米国で30人の仲間を募り、今の会社を作った。 ベトナムの孤立は東西冷戦や78年のカンボジア侵攻で長期化した。 だが軍事費膨張と硬直した統制経済は国民の窮乏を招きついに86年、ベトナムは市場経済化と対外解放へと路線転換。 カンボジア平和も成立し、91年、米国はようやくベトナムとの関係正常化を日程に上げた。
 しかし、チャンさんは「米国が制裁を続けたのは、戦争に負けた仕返しでしかなかった」と言い切る。 「彼らは、根っこのところでベトナム戦争を過ちとして受け入れたくなかったのだ。 戦争中の捕虜・行方不明兵(POW.MIA)開題も、政治の隠れみのとして使われたに過ぎない」 実際、米が制裁解除の条件として揚げてきた「可能な限りMIA全員の捜索」は果てしない作業であり、 これにこだわり続けることの無意味さは当地でも指摘されていた。
 VIICは、4月にハノイで、米企業産品の展示会を開く準備を進めている。 すでに200社以上が参加を表明しているという。 「米国が謙虚に歴史を目指すなら歓迎するが、産業界の圧力に負けて自分の都合だけで制裁解除したのなら、真の相互関係は育たないだろう」 とチャンさんは言った。
(読売新聞)


一年一組“国際組”
いま定時制は

 蛍光灯のともる廊下を急ぎながら、鹿子木由紀夫先生(35)は、 これから姑まる最初のホームルームのことを考えていた。みんな入学したばかりで、 お互い知らない者同士だ。新しい環境に早くなじみ仲良くやって欲しい。
 昨年4月のこと、渋各区千駄ヶ谷六丁目にある都立新宿高校の定時制。3 階の一年一組の教壇に立つと、先生は切り出した。「一組はインターナショナルクフスだ」。 21人の生徒たちは、意味がわからずあっけにとられた表情を見せた。 「えー、何それ」思わずそんなせりふも飛び出した。 だが、一人ひとりの自己紹介が進につれ、だんだん先生の言った意味がのみ込めてきた。
 「中国カラキマシタ。ヨロシクオネガイシマス」「ボクハ台湾デス」 16歳と29歳の男性が名乗る。韓国出身の女性、日系ブラジル二世の女の子もたどたどしい日本語で挨拶した。 外国人と帰国子女を4人も一度に受け入れるのは同高にとっては初めてのこと。
 「いろんな国の人と助け合いながら頑張って欲しい」。担任として、そう願わずにはいられなかった。 半年前にやってきた人もいれば、すでに1〜2年たつ生徒もいる。
 来日の理由は日本人との結婚など、たいていは家庭の事情かららしい。 うち3人は昼間、スーパーマーケットや料理店で働いている。 日本語の力は2人が会話に困らない程度にはなっていたが、 あとの2人はほとんどそれすらできない。

 でも、日本人の生徒と同じ試験を受けて合格してきた。 「授業を理解する力はあるはず。言葉の障壁を乗り越えて、なんとか理解させてやりたい」。 各教科の先生方は4人のために板書した漢字ルビをふったり、慣れない英語で説明したりした。 社会科担当の鹿子木先生は、韓国人生徒のために前もってハングルを勉強してから授業に臨んだ。 4人は熱心に勉強した。韓国からの生徒は最年長の28歳。 授業ではいつも一番前の席に座り、先生の話を食い入るように聞いている。 分からないところがあば日韓辞典と首っ引きだ。はかの3人も毎日、予習をやってから授業に臨んだという。 分からないところがあったりすると、クラスメートが教え合った。
 そのかいあって、4人とも無事、進級が決まった。 鹿子木先生が4人にアンケートをとったところ、こんな感想が返ってきた。 「初めは40%ぐらいしか授業が理解できなかったが、いまは60%ほど分かるようになった」 「以前より日本語が上手になった」「みんなが親切にいろいろ教えてくれて、感謝している」
 日本人のクラスメートだって、いろんな事情を抱えて定時制に通っている。 全日制が合わなかったため、ここに移ってきた人。経済的な理由で中学を出て働いていたけれど、 勉強したくなって夜学の門をたたいた人。 「苦労をしている子供が多いけれどだからこそ外国人に対する差別とか偏見がなかったのだと思う」と鹿子木先生。
 あれから一年。一年一組は25日の終業式で終わり、そのまま2年生に繰り上がる。 4人も溶け込み、クラスのきずなは強くなった。中国人生徒は生徒会の執行部員に選ばれている。 鹿子木先生はいま、終業式の後のホームルームでは、こんなことを話そうかと思っている。 「いろんな国の人がいて最初はみんな戸惑ったかも知れないけれど、 全員がそろって進級できることになって良かった。このメンバーで卒業まで頑張っていこうよ」
(読売新聞)


あんなこと こんなこと

 敦賀が!懐かしいところ   ミン・ジャン 27歳
 夕方、日が沈んでいるところ、雪の中を一人の人が歩きながら、顔は何か探すかのように前の方へ向いています。 雪が日の最後の光りにピカピカ照らされて飛び軽く落ちていきます。 それは始めの冬に私が敦賀に行くときのことでした。
 敦賀は小さい町で四方が山々に囲まれています。 日本人は敦賀のことを聞いたらまず「ああ雪の所だ‥‥」というばかりです。
 私が大好きなのは海岸を歩くことです。美しい海に小さい船が通っていて、 青い空に白い鳥がゆっくり飛んでいます‥…。その時、私はかならず故郷のことを思い出します。
 3か月の冬の間、私は敦賀に留まって仕事をしました。雪の中で仕事をすることはとてもつらかったけれども、 一緒にはたらいている人々は暖かい心で笑ったり話したりしたので尊いことや疲れることを吹き飛ばしました。 素朴な心を持っている敦賀の人々はとても親切でした。
 時間が流れて厳しい冬は暖かい心に負けて、さくらの花を咲かせて春を招き ました。
 「これから東京へ行きます。3か月はほんとに短かったですが、 いろいろお世話になりました。心から感謝いたします」と私は会社の人々に言いました。 感動している目で一人の女の人が私に封筒を渡しました。


 あたらしい 学枚の生活   ラム・グエント 21歳
 私は、今まで会社、中学校は自転車で通っていた。4月から洋裁の専門学校に入学し、はじめてバス通学を経験した。 友達から朝のラッシュの話を聞いていたので、こわい感じがしたけれども、私が乗るバスは空いているので助かった。 新しい友達はみんな年下だけど、親切で声をかけてくれるし、心配しないでよかった。先生もよく教えてくれる。頑張らなくちゃ!。
(にゅうす 東京教区難民定住推進)


チョットひとこと

 先日、滞日外国人労働者と連帯する会主催の研修会に出席した。 その時講演をして下さった阿部浩巳教授の話が大変参考になった。 教授の言われたことから少し考えを延ばしてみたい。 国際化されつつある日本での人権に対する感覚が課題ともなった。 難民や滞日外国人労働者が多数来日している現状で、果たして日本人である私たちが彼らを本当に外国人、 或いは現在無国籍で日本に定住し始めた難民を仲間として受け入れているかどうかが問われている。

 キリスト教を基盤とした支配文化では、基本的な人権を提唱し、その擁護を促進している。 この支配文化と言うのは、西欧の文化であり、他の国々に対して支配的な立場にあったからである。 しかしこの支配文化が入って来た国には、従来の残存文化が厳然として存在している。 日本の場合、秩序のある和が大切にされ、そこでは個性が犠牲となっても全体の調和を専重する。 そこでは中々個の人権が認識されない。在日朝鮮、韓国人の場合も、また日本への同化が進められて来た。 他の民族や他の文化を異なるものとして、そのまま受け入れることが中々難しい。 日本で問われていることは、新たな振興文化である。

 近年難民・滞日外人の数も増え、かつて日本では考えられなかった現象が出現した。 教会でも例外ではない。特にかれらの中でカトリック信者の世話という活動範囲も増大している。 福音は正に国籍を越えた神の国を教えているし、教会はその神の国の目に見えるしるしとなり道具とならんと努力している。 そこでは一人ひとりの人間が、集団でも、社会でも全体の和の中に埋没してしまうことなく、 大切にされる世界を目指している。世界の人間は、国籍、民族、文化、習慣などそれぞれ互いに異なるが、 誰でもが、何処でも、互いに兄弟・姉妹として大切にされ、関わる者となる共同体が欲しい。 日本の中でも沢山の善意の人々と共に、 教会としても福音の精神を理想として、また福音の力に促され、 至る所に神の国が建設されることを願いたい。 難民や滞日外国人の存在がそれを促進してくれるものと思うし、 彼らとの関わりを大切にし、そこから新しい文化を見たい。
(H)

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