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チョットいいこと 51

「互いに愛し合って・・・」
ベトナムっ子元気回復
定住センターへの続く奉仕
念願の柔道黒帯
ベトナム製“紙芝居”始まり始まり
逆境克服“18の春”弾む
ベトナム高校生巣立ちの春
ソン新司祭の誕生両親とは涙の対面
真の共生を求めて
難民の子に祖国の文化を
チョットひとこと



「互いに愛し合って・・・」
偏見捨て理解し国際化を

 今年も厩(うまや)のミニチュアがカトリック鷹取教会(神戸市長田区)の信徒館前に登場した。 電飾に彩られ、高さ2メートル余り。人形をを置き、キリスト生誰の場面を再現する。 ベトナム人信徒が、故国のクリスマスの習慣を持ち込んだ。 12月の初めの日曜、男性信徒たちが竹を組み、紙を張った。「ベトナムでは、もっと大きいのを作ったよ」。 クリスマスイブの24日、飼葉桶(かいばおけ)に乳飲み子のキリストが置かれた。

 神父神田裕さん(35)は、聖堂横のキリスト像の台座に刻まれた「互いに愛し合いなさい」 の言葉が「胸にぐさりと刺さる」という。3年前の着任早々、この像を教会に常くことで、 論議があった。キリスト教は偶像崇拝を戒めているが、ベトナムでは像の前で祈るのが習慣になっている。 べけム人信徒たちが募金し、ペンキ塗りの等身大像を故国から取り寄せた時、日本人信徒から反発の声が出た。 結局ベトナム人定住のモニュメントとすることで落ち着いた。
 教会の外での“摩擦”も耳に入る。言葉の行き違いによるトラブルや、自宅で歌うカラオケへの苦情。 貧困こ耐え、ひたすら頑張るという日本人が抱く難民像とのギャップが、厳しい批判につながるという。
 「窃盗でベトナム人逮捕jという新聞記事を見て、みんなを犯罪者と思う。 ベトナム語で話すのがけんかのように聞こえ「あの人らは怖い」と評価する。 この日本人の反応って、韓国・朝鮮の人がなめてきた苦い経験と一緒なんですよね」

 鷹取教会には、土曜学枚だけでなく、来日したばかりの大人を対象にした日本語教室もある。 日本人ボランティアが先生だ。その一人、信徒の土屋香さん(46)=同市垂水区は、 教室で知り合ったベトナム青年と中古電化製品の輸出会社をつくった。 自立の手助けのつもりだったが、素人商売は借金を抱え失敗した。
 それでも、と土屋さんは言う。「ベトナム人という枠じゃなく、 一人の人格として接してくれているかどうかに彼らはすごく敏感。 偏見で人を見ないことの大切さを実感できた」と話す。

 「郷に入れば郷に従え。そう切り捨てたら、国際化なんてあり得ない。 我慢し合うのでもなく、ともに関わりたい。関わることが、理解の第一歩」。 教会は“互いに愛し合いなさい”の意味を考える場と神田さんは思っている。 「諸人(もろびと)こぞりて…」。クリスマスイブ、聖歌が静かに流れる。


ベトナムっ子元気回復
“仲間”との触れ合い励みに

 神戸・鷹取教会交流記

 「星は星でも洗濯の時に見える星は?」 「ハーイ、ハイ、物干し!」カトリック鷹取教会で、 ベトナム難民の小、中学生を対象にした土曜日学校クリスマス会が18日開かれた。 愛徳姉妹会のシスター石戸文子さんがクイズを読み上げる度、元気に答えが返る。 土曜日午後、約30人が学校の宿題を教会に持ち寄り、 日本人ボランティアが教える。 石戸さんが始めた補習教室は8年目に入る。

 ベトナム戦争後、ベトナムではキリスト教信仰も迫害の対象になった。 鷹取教会に難民が初めて訪れたのは1982年。 すでに韓国・朝鮮人を受け入れてきたケミカル業界など 地場産業は国籍に関係なく就労できた。 教会の信者たちの親切さにも触れ、カトリックのベトナム人が長田区に移り住むようになった。
 現在、日本在住のベトナム人は6,200人余り。 その一割が神戸市に住み、そのまた6割の約400人が長田区に住む。 うち鷹取教会の信者は39世帯、162人。 平均年令20歳。教育は大きな問題である。

 10歳で来日した中学3年のウェンさん(15)は小学5年で県内の郡部から転校してきた。 「寒いのが嫌だった。名前をからかわれた」。暗い顔だった。 土曜学校では元気を取り戻した。教会同胞とのおしゃべりで心が晴れた。 「いろんな人と出会えてよかった。友達ができたら、勉強もわかってきてん」。 学校でも友達が増え、バトミントン部の部長にもなった。 彼女の進路相談に乗るボランティアの鈴木迪子さん(51)は 「ここは勉強だけの場ではなく、子供にとり安心できる居場所」と話す。

 石戸さんが土曜学校を開いたのは、子供の教育実態を知り驚いたからだ。 高校神学はまれで、定時制が多く、しかも9割が中退していた。 「親は進学させたいけれど、学力が追っつかない。 (難民として受け入れた以上)私たち日本人の責任ではないかと思いました」。 日本語が不自由、しかも生活に追われる親に代わり、子供たちの勉強の手助けを始めた。
 この春、土曜学校に通っていた4人全員が全日制の高校に入学した。 ウェンさんもスチュワーデスになるのだと、受験に励む。 「ホワイトクリスマスにならないかな」。 寒さが嫌いだったはずが、日本で初めて見た雪を心待ちにしている。
(神戸新聞)


定住センターへ続く奉仕
姫路飾西高ボランティア部に感謝状

 県立姫路飾西高校(植田正弘校長)のポランイア部がこのほど、 姫路市仁豊野のインドシナ難民定住センターの上部組織である外務省の外郭団体から感謝状を受けた。 部の顧問は、「忙しい高校生活中に、他人のために長く細く活動を続けてほしい」と、願いを込めつつ表彰を喜んでいる。
 同校は創立10年目で、ボランティア部は2年目から活動。 同市の身体障害療養施設で、入所者の車椅子、清掃などの奉仕、 老人ホームでのクリスマスコンサートなどの交流を進めており、現在は20人が部に所属している。
 また3年前から学期に一度、ボランティア部と有志の生徒が、 同センターに居住するベトナムやラオスの家族へ、校内で事前に集めたシャツやジーンズ、 不要になったおもちゃなどを寄付してきた。また、訪問交流を実施し、信頼関係を築き上げてきたことが、今回の感謝状につながった。
 感謝状は11月下旬、東京品川区総合区民会館でアジア福祉教育財団難民事業本部から、 同校と鹿児島の川内純心女子高校、難民雇用に努力した事業所など8か所に贈られた。
 前任校長から引き続きく ポランティア部顧問を引き受けている林幹夫教論(44)は 「今までの教え子には、こうしたクラブ活動がきっかけで、市の福祉事業所で働くようになった子や 難民のために医者になった子もいます」と指導の喜びを語る。 また同センターの三木康司所長(60)は「下着、靴下などの清潔 なものの寄付も大歓迎です」と、さらなる期待を寄せている。
(神戸新聞)


念願の柔道黒帯だ
仲間の励まし苦難に耐え ベトナム難民中学生

 全国のベトナム難民の1割が暮らす神戸市内でこのほど、ベトナム出身の中学2年生が念願の黒帯を手にした。 混乱のベトナムから来日して10年。中学入学から柔道を始めたが、 先輩や仲間の熱心な指導のもと、2度目の挑戦で初段昇段試験に合格した。 難民らの定住が進むなか柔道」というスポーツを通じて、 ベトナムと日本の若者同士の飾り気のない交流が深まっている。
 神戸市長田区細田町2丁目に住む、市立大橋中学2年のグエン・テイ・フゥ君(14)。 グエン君は1983年、旧サイゴン市から母ラン・ティ・バンさん(38)と一緒に日本もに渡って来た。 3歳で来日したグエン考は持ち前の明るさから、多くの日本人の友人ができ異国の習慣にもすぐ慣れた。 今では日本語、べトナム語とも自由こ喋れる。中学入学時、上級生に誘われて柔道郡に入部。 部員15人だが、ルールも知らないグエン君に一人ひとりが、手をとり足とりで指導した。
 グエン君も「柔道が好き。上手になりたい」と毎日、放課後、練習に励んだ。 身長158センチ、体重45キロの小ぎな体だが、背負い投げを得意とする。 グエン君は9月の昇段試験で右腕を骨折した。1か月半の間、練習ができず、 下半身のトレーニングだけを続けた。コンデイションは十分とは言えなかった が、12月の再挑戦を大外刈りで乗り切った。キャンプテンの宮本和俊君(14)は、 グエン君の昇段を自分のことのように喜ぶ。「試合負けて沈んでいるときも、 冗談を言って盛り上げてくれる。彼もつらい練習を耐えてきた仲間の一人。 柔に国境はない」と言う。顧問の北村昌土教諭(36)は「黒帯は努力のたまもの。 部員たちの間には国際交流と言う仰々しいものでなく、一緒に汗を流し、 御飯を食べる当たり前の友情が芽生えている」と話す。
 グエン君は「柔道を通じて、多くの友達ができた。この経験をいかし、ベト ナムと日本を結ぶ通訳になりたい」と将来に夢をはせている。
(朝日新聞神戸版)


ベトナム製“紙芝居”始まり始まり

 ベトナム作家がベトナムでで制作した紙芝居を「見や会」が16日、 豊島区目白の子供の文化研究会で開かれた。
 日本独自の文化である紙芝居がベトナムで作られたのは1991年首都ハノイで開かれた講習会「児童出版研修コース」で 絵本・紙芝居を演じたのがきっかけ。 講習会を共催した同国の出版社「キム・ドン社」の社長が感激し 「ベトナムに紙芝居を普及させ日本に次ぐ紙芝居の国にしよう」とまついさんに協力を求めた。 しかしベトナムには紙芝居に使える紙が不足しており、 全国の幼稚園や小学校に普及させるには30万円ほどかかる。  
 まついさんらは「ベトナムの紙芝居普及を支援する会」をつくりカンパを呼びかけた。 全国から寄せられたカンパ60万円をベトナムに送金。 こうしてキム・ドン社製の紙芝居7作が完成し、 今年9月、日本語訳付きで「支援する会」に送られてきた。
 この日初めて「見る会」ではベトナム民謡などをもとにした6作品をまついさんらが演じた。 会場には子供や「支援する会」の関係者と共に駐日ベトナム大使館のグエン・フー・チュー一等書記官ら 在日ベトナム人4人も姿を見せ、身を乗り出すようにして鑑賞、 拍手をおくった。来春にはベトナムで「紙芝居を見る会」を開く予定だ。
(読売新聞)


逆境克服“18の春”弾む
ベトナム難民グエンさん姫路市立琴丘高校卒業

 姫路市内で28日、公立高校の卒業式がピークを迎え、県立5校、市立3校から卒業生が巣立った。 創立80周年の市立琴丘高では、ペトナム難民のグエン・パオ・チャオさん (18)普通科も同窓の354人とともに元気に式に臨んだ。 グエンさんはベトナム・サイゴン(現ホーチミン市)に生まれ。5歳の時、両親と姉の家族4人で戦火を逃れ、 船で国外に脱出して姫路定住促進センターに入り同亀山に落ち着いた。
 1歳年上の姉は昨年、県立姫路飾西高を卒業して大阪の短大に進学しており、 姉妹揃って逆境を乗り越えた。グエンさんは「ベトナムの言葉を覚えているし、英語も大好き。 3か国語を話せるので、将来は貿易関係の仕事をしたい」と夢を膨らませていた。
 岡四郎枚長は「礼儀作法など日本の生活に溶け込んでおり人気者。 語学を生かし、国際交流に役た立ててほしい」と話していた。
(読売新聞)


ベトナム高校生巣立ち春
夢は全国駆け巡る運転手

 巣立ちの春を迎え、一人のベトナム人高校生が、 姫路市の県立白鷹工業高校の4年間の学業を終え、 25日、卒業式を迎える。
 両親がベトナムに残っているため、学費もすべて自分でまかなう生活。 これまで全日制高校を卒業したのは県下で初めて。級友や教師らに祝福されて、日本社会へ船出する。
 姫路市花田町小川のコン・ミン・トアン君(21)。 8歳の時に、6つ年上の兄とともにベトナムをボートで脱出。漂流中に通りがかったアメリカの貨物船に救われて来日した。 姫路市砥堀の難民定住センターに在籍した後、大阪や加西市など転々として中学生になってから姫路に落ち着いた。
 市立東光中3年のときに、「日本で生活する以上、高校できちんと勉強しておきたい」との思いから、 将来、祖国でも生活することも念頭に、「故郷でも役に立つ電気技術を」と同校電気科を選択した。
 ベトナムに残る両親に仕送りするために、昼間は運送屋でリフトを運転した後に通学。 学枚が終わってからは、さらに製靴工場で働くというハードスケジュールを続けた。 そんな彼を支えたのは同校の教諭らと、坂本博君ら(19)クラスメート。 坂本君は、昼間の仕事を終えて登校前に家で寝ているトアン君を呼びに行き、一緒に通学するなど励まし続けた。
 トアン君の現在の夢は、トラックの運寵手もなり、日本全国を駆け回ること。 しかし不況のためか採用先が見つからず、会社回りを続けながら「国の両親にも会いたい」と望郷の思いをつのらせている。
(神戸新聞)


ソン新司祭の誕生 両親とは涙の対面

 ファン・デイン・ソン助祭の司祭叙階式の日(3月21日)甲府教会は約600人の喜びの渦で埋まった。 日本で叙階されたベトナム人司祭として二人目、横浜教区では初めて。 にべトナムから両親が来日できて十数年ぶりの対面が実現、喜びを何倍にもした。
 ソン新司祭は12年前に日本に到着した後、甲府市内に就職。 神学生時代も休暇には甲府に戻るなど「甲府は第二の故郷」。 甲府教会にとっても四十年ぶりの司祭だった。「真面目で明るい」と評判のソン新司祭。 「叙階式は感動ばかり。司祭になっても今のままで、 と皆さんから励まされました」と語る。 海外渡航のまだ厳しいベトナムから両親が来日できたのは 「多くの方が祈ってくれたお陰。対面は涙、涙でした」という。 横浜の磯子教会が赴任地となる。
叙階式の日、来日した両親らと笑顔を見せるソン新司祭(右)
(カトリック新聞)


真の共生を求めて(上)
第10回難民定住セミナーより

 日本語の習得ぜひ必要でも戦前の教訓忘れずに
 2月10日から12日にかけて、静岡県で開かれた日本カトリック難民定住委員会主催の「第10回難民定住セミナー」には、 定住した難民の中・高校生たちからさまざまな要望や声が寄せられた。 インドネシア難民がいわゆるポートピープルとして日本に上陸してからはや16年が経過した。 家族の幸せを願って命をかけて阻国を後にした親たちと、ベトナム語より日本語を上手に繰る子供たち。 逆に日本語を話せない親。親子でありながら、共通の言葉でコミュニケーションがとれないという現実。 セミナーは種々の問題を浮き彫りにした。

 進路相談にも支障
 「インドシナ難民は、日本の国が世界に向かって受け入れを認めた定住者なのだから、 その人々及び彼らの子供たちのアフターケアは、県ではなく、 まず国が責任をもってあたるべきだ」姫路市の元砥堀小学校枚長の神村正さんは、こう強調した。
 難民定住センターで覚えた日本語を定住した親、特に母親が忘れつつある。 このため子供の高校進学をひかえて、親と教師と子供の三者面談がうまくいかないというのが、現場の教師の悩みだ。 日本語指導の専門能力を持った教師の養成や、通訳者が臨機応変に対応できる体制、 公立高校への枠外入学の認定制度の確立、就学・進学をしやすくするための資金援助など、 これは地方自治体が個々に対応するのではなく、国こそが責任をもって取り組むべき課題であり、 それこそ世界に対して責任を果たすことであるというのだ。 しかし一概に日本語教育といっても、その実施には複雑な要素がからむ。
 「文化を大切にする観点から日本語教育を見ると問題は多い」と内閣官房インドシナ難民対策連絡調整会事務局の山本博審議官は言う。 「日本語の習得はぜひ必要だと思う。また定住者として生活するのに際しての習慣については、 知識として教えてほしいとは思っているが、それをとるかとらないかは彼らの判断に任せるスタンスをとるべきだ」と慎重だ。 その理由を同審議官は、反面教師として、「戦前の日本語教育に学ぶべきだ」と指摘する。 かつて日本は満州や韓国・朝鮮、台湾の人々に日本語教育を行ってきた。 それも、日本精神を注入するというやり方で。現在の日本語教育を見ると戦前と非常に似ている部分があるとし、 「日本人と同じ行動様式を要求するという今日の日本語教育のあり方」に警鐘を鳴らす。
 また、1990年代に入って、日系のブラジル人、ペルー人、中国系の人々の来日が増加している。 「2〜3年で帰る子供たちに、どこまで社会や国語をおしえたらよいのか」現場の教師は深刻に悩む。
 宗教上の理由で豚肉を食べない子供に給食をどうするか。そして枚則は?
 難民や外国人の人々は日本が今まで体験したことのをい事柄を多々持ち込んだ。 彼らを面働なことを持ち込んだとみるか、本当にこの国に生まれ変わるチャンスを与えてくれた貴重な存在と見るか、 そのスタンスの差は大きい。
(カトリック新聞)


難民の子に祖国の文化を
ベトナム民話 二カ国語で絵本作り

 祖国を離れて暮らすインドシナ難民の抱える問題の、一つに母国語の言語や文化を子供たちにどう伝えていくかということがある。 その一助けになればと、神奈川県川崎市にある県立多摩高校の日本語ボランティアサークルの生徒たちが、 ベトナム語と日本語両方を使ったベトナム民話の絵本作りに取り組んでいる。
 このサークルは90年にできた。 インドシナ難民の子供たちが集まる県内の民間教室に週一回行き、 子供たちの遊び相手になったり、勉強をみたりするのが主な活動だ。 92年には、国連総会で採択された「すべての移住労働者とその家族の権利保護に関ずる国際条約」を翻訳出版した。
 絵本作りを思い立ったのは一昨年の末。顧問の風巻浩教論(38)は「難民は親の世代もキャンプ生活が長い人が多く、 子供に伝える民話を知らない人も少なくない。それに、日本人が少数派のことを理解するのが、 少数派の権利確保につながり、絵本作りはその理解にも役立つとおもった」と言う。
 日本語に堪能なベトナム人の協力を得てベトナムの民話を130ほど集め、 うち10余りを訳してもらった。並行して17人の部員とOBが手分けして、 ベトナムの地理や民族衣装、気候、歴史などを調べてリボートにまとめた。
 絵本には結局、訳した民話から「腹いっぱいになると寝る豚」を選んだ。 神様に仕える、わがままで食いしん坊な召使が神様の食料を食い尽くして人間界 に降ろされ、豚として暮らすという話だ。ベトナムの伝統的な民族画ドンホー版画を参考にして切り絵を作り、 背景に色を付ける。 「家の屋根が朱色で壁が緑色など、ベトナムと日本は違う文化だということを改めて感じた」とサークルOBの佐野信子さん。 現在は作業は終わりに近づき、出版を考えている。  
(朝日新聞)


チョットひとこと

 1981年サイゴンの小さな港に18才前後の4人の少年が何とか国を脱出する船を探し兄と弟2 人は成功せずに、1人の少年が船で港を出た。その直前、顔をあわせる事なく、 それぞれが前方を見ながらすれ違いの時に「元気でな」と声を交わしたのは、少年とその父であった。 母親は男の子4人を国外に手放すのは反対であったが、父親は共産圏下の国では十分な教育も受けられないことを憂慮して、 息子全員の国外鋭出を薦めていた。 この18才の少年は、ボート・ピープルの一員となって、 まずフィリピンで8か月過し、やっと日本に漂流した。 山梨県に集団で石の研磨工場に就職し、夜学で日本語を学び教会に通って、青年会長までなった。 司祭への召命を受けていると感じ、東京神学院に横浜教区の神学生として入学した。 さる3月21日山梨県甲府の教会で、司祭に叙階された。 13年振りで再会した両親との出会いは、感動的なものであった。 彼の名前は、ファム・ディン・ソン禅父である。

 「遠く離れていて、何も親孝行してないので、悪いと思った。13年ぶりで本当に両親が年をとったと思った」と言うのが、 彼の今回両親に会っての印象だそうだ。彼は7人兄弟・姉妹の次男である。 現在1人の弟が北米にいる以外全員は、両親と共にベトナムにいる。 「死んでも飛行機には怖くて乗れない」と言っていた母親、 「お別の結婚式ならわざわざ日本まで飛行機で来ないよ」と話していた両親が  息子の叙階式には是非にと今回の来日が実現した。 昨年の助祭叙階式に参加したいと計画したが、実現しなかった。 今回も両親本人がカトリック信者であるため、 また父親がかつて軍人であったがために政府が中々国外に出る許可を出さなかった。 今回この両親と母方の祖母、母の弟と本人の兄の5人がベトナムから見えた。 母親の兄は司祭でベトナムで活躍ている。

 大阪空港を発つとき、両親は見送りに行った息子たちを振り向くこともなく、 ただ別れ際に「自分ことは考えず、いつも人々ためつくしなさい」との言葉を残して日本を去ったそうだ。 ソン神父はファン・ディン・ソンという名前で日本の国籍が取れればべトナムを訪れ、 あちらでごミサを捧げたいと思っている。いつ自由な身でベトナムで司祭として働ける日は来るか誰にもわからない。
(H)

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