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チョットいいこと 100

大学教育むしばむ拝金主義
日本の皆様と共に
インドシナ難民と姫路聖マリア病院の関わりの思い出
交通秩序改善へ大号令
国籍法の改正へ時代先取り運動       
米軍寄港協議
チョットひとこと  



大学教育むしばむ拝金主義
ベトナムの「勤勉の伝統」どこに
 近代化を目指すベトナムは「勤勉」な国民性を売り物に掲げ、 先進国からの投資や援助を求めているが、最近、その勤勉さを損なうような現象が教育現場 のあちこちで目立ち始めた。 その背景には、市場経済化を柱とするドイモイ(刷新)がもたらした「拝金主義」の風潮がある。 (ハノイ・林田裕章 写真も)

 「わが国の大学の教育環境は汚染されている。経営機能が働かず、入試も形だけだ。 やみくもに学生を入れているケースもある」。 ホーチミン総合大学のファム・ブ・ルア・ハー教授は最近週刊紙「ベトナム・インベストメント・ビュー」でこう論評した。 「現在の状況は、我が国がかつて経験したことのないほどの危機だ」
 ベトナムは小中学校の就学率が途上国としてはきわめて高いなど教育水準の高さを誇りにしている。 それが 、大学教育の現場で揺らいでいるというのだ。 ハー教授は「全国的な近代化と工業化が原因」と指摘する。いわば、ドイモイの「負の副産物」なのだ。 実際、ハノイの日本企業事務所で最近こんなことがあった。 国立貿易大学から研修のために派遣されていた女子学生が「もうすぐ卒業試験。頑張って勉強しなくちゃ」。     
ハノイ大学のキャンパスで談笑する学生たち。
明るいキャンパスにも拝金主義汚染が広がっている?
  日本人スタッフが「卒業試験は、そんなに難しいの」と聞くと、女子学生は 「ええでも、最近はお金で単位が買えるんです。通常に試験でも同じなんですよ」。 同席していた男子学生も「そうなんです」と、あいづちを打つ。 二人ともそれを格別に嘆く風もなく、単位を“買収”することは時勢だから仕方がないといった淡々とした表情だったという。 こうした風潮は、貿易大学に限ったことではないらしい。ハノイ外語大学では試験の際、 教授にカネを包むことが公然と行われているという。 「皆がやっているから私も、という気持ちになるらしいですよ」。日本人留学生はいう。
 ベトナム民族の勤勉性、ひいては優秀性をもたらしたのは、中国から取り入れ た「科挙制度」によるところが大きいと一般にいわれる。官吏登用のためのこの 制度は、ベトナムでは十一世紀から今世紀まで続けられ、 人々の立身出世への意欲をかき立て、同時に向学心を促した。 もっともその時代にも登用に便宜を図ってもらうための「贈答」は文化としてはあった。 しかし、第二次大戦後のベトナム戦争、そして社会主義体制となり、「等しく貧しさを分かち合う」時代が続いた。 わいろを贈ったり、買収しようにも、元手自体がない時代だった。
 ところが、ドイモイは人々に金もうけを教えた。当然、所得格差がついた。 その中で、教師の給料は極めて安い。学生は待遇の良い就職口を得るために良い成績がほしい。 眠っていた「贈答」文化が頭をもたげる素地が、そこに生まれたともいえる。 国立ハノイ総合大学はベトナムの最高学府と目されているが、 ここでも最近はいろいろな意味でカネがものをいうらしい。 昨年そのハノイ大物理学科を卒業したグエン・クアン・フイさん(25)は私が入学した時、 「30%の学生はカネを払って入った裏口入学だった」という。
 教育省のド・バン・チュン学生局長に聞くと、「いや、この二、三年はそんなことはないはずだ。 原則的に入試は厳しく管理されている」。ハノイ大レ・ドク・ゴク学生局長も“買収”があるのかとの質問に一瞬言葉を失い、 隣の同僚と顔を見合わせた。で、「そんな話は聞いたことがない」と否定した。
 一方、カネは別の意味でも教育現場で幅を利かせ始めている。 それは、大学運営費の高騰を理由にした授業料値上げだ。 同じく昨年ハノイ大学を卒業したグエン・ドク・トアンさん(23)の場合、 一年目の授業料は月一万五千ドン(約百十五万円)だった。 それが、卒業の年には平均的な大卒初任給の四分の一の七万五千ドンまで跳ね上がった。
ハノイの国立図書館で
熱心に勉強する大学生たち
 「私の学科には最初60人の学生がいました。それが二年目に15人が退学しました。 経済的な事情の人もかなりいたようです」。授業料の高騰に加え、試験のたびに必要となる心付け−。 こうした風潮が広がっていくなら、本当に優秀な人材が育つ余地が狭まっていくのは当然だろう。 しかも、待遇の良い就職口、つまり外資系企業に就職するためには政府の人材あっせん機関に登録しなければならないのだが、 ここでも能力よりカネとコネがものをいう現実がある。
 近代化を目指すベトナムにとって、国際社会でも通用する人材の育成は至上命題だ。 だが、今の「教育現場の危機」が、市場経済化のための過渡期に現れた一時的現象としておわりそうな気配は残念ながら、 どこにも見当たらない。
(読売新聞)


日本の皆様と共に
 命がけで亡命し、見知らぬ国へ逃げました。不安、とまどいや孤独な気持ちでいっぱいでした。 言葉の違いのため、どう表現すれば通じるかわからず、明日のこと未来のため、どうすればいいかわからなかった。 1982年初め、長崎県大村難民キャンプから仁豊野難民定住促進センターへ移りました。 妻と生まれて一ケ月にもなっていない息子をかかえて、私はセンターにつきました。
 センターの近くには、マリア病院があり、教会があったので一安心しました。 海に漂流していた日々を思うと、あの頃はエンジンがこわれ、毎夜、海や波に囲まれて、 ただひとえに、神さま、マリア様に祈りつづけ、身を委ねるしかできなかった。 その後、仁豊野定住センターで息子に洗礼を受けさせました。
 今でも、子どもの頃、よく父に言われたことを覚えています。 食事をする度に言われました。「この食事が頂けるのは神さまからの恵みだ。 父さん、母さんは健康に恵まれているので、元気よく仕事ができ、そのため、この食事ができた。 だから、食前、食後とも、感謝の祈りを唱えておきなさい」とのことでした。
 在日ベトナム人カトリック信者たちは、子どもの信仰教育の問題に直面しています。 今は先進社会に置かれながら、言葉の不自由、または、父母本人が若すぎて、 自分たちの母国語で充分に教理を受けておらず、そのため、日本での子どもの教育を徹底させることができないでいます。
 仁豊野教会の皆さん、どうぞ私たちのために、手を差しのべて、何らかの方法で、 子どもたちへの信仰教育をよりよくし、さらに深い信仰を育てることができるように願います。 よりよい教会をつくっていくためにお願いします。


インドシナ難民と姫路聖マリア病院の関わりの思い出
ハリー神父とベトナムの信徒たち
 1979年9月1日聖マリア病院の南に隣接する、淳心会の土地にカリタス・ジャパン難民一時滞在施設ができました。 本当のボート・ピープルでした。海の上で航行中の船に救出された人たちの一時滞在施設でした。
 やがて受け入れる時がきました。今まで見たことのない難民を一時キャンプとして受け入れました。 その時からハリー・クワードブリット神父様は難民の方と関わりを持ってお世話なさり、 今日に至っています。受け入れられましたら何かと聖マリア病院との関わりがあります。
 難民を始めて見る日本人の冷たい目付き、疑い深い顔つきはきびしいものでした。 しかし、難民の人たちの明るい表情を見て少し安心したかの様に少しずつ考えの変わって来る人もありました。 1979年12月11日に淳心会のご厚意によりカリタス・ジャパン難民一時滞在キャンプの隣に、 我が国はじめてのインドシナ難民定住のための訓練施設が開設されました。 日本で難民を500人受け入れる決定がされたのです。 財団法人アジア福祉教育財団難民事業本部姫路定住促進センターという長い名前の施設です。
 12月11日という寒い時の受け入れでしたので風邪にかかる人が多いのではないかと心配しましたが、 あまり病院のお世話にならずに過ごせました。姫路定住促進センターが一番困ったのは、 海上から入所する際に一応健康診断書を持って来られるのですが、 すべて横文字なので何が書かれているのか病名もわかりません。 それ故、姫路定住促進センター開設4ケ月過ぎても定住促進センターより、 聖マリア病院の方に健康管理と生活指導のできる看護婦を一人派遣してくださるようにとの依頼があり、 1980年4月初めて姫路定住促進センターに出向したのが、私でした。
 それ以後難民との関わりは深まって行きました。 その当時は健康管理の書類の整理と日常の記録をするといっても、何かちょっとした傷の手当てをするにしても、 何一つとして物品はなくいろいろと聖マリア病院にお願いして助けて頂きながら小さな貧しい歩みをはじめました。  難民受け入れは1年に4回3期に分けて入所し、100人前後が定住促進センターで勉強します。 入所すると聖マリア病院で健康診断を受けます。生活環境が母国とは大きく違い、日本の生活に慣れるまでは大変でした。 こうしてもらえる健康診断書は、3ケ月の勉強が終了し、日本の社会に出るときに大きな助けとなる重要な書類となります。
聖フランシスコ病院修道会聖堂
(仁豊野教会聖堂)
 健康管理といっても広範囲に及びます。日常生活の出来事のすべてが健康を管理している者の責任となります。 ある時は母国の事を思い精神的不安感をいだき、いろいろの問題でストレスがたあり、 ちょっとした事から喧嘩になり健康を害することもありあます。 しかし新しい難民を受け入れる時は凡てを忘れ、あわれな状態の姿であっても疲れた緊張した状態であっても、 どの顔にも一つの輝きと希望がありました。
 日本でのこれからの新しい生活への勇気と希望に満ちている友が来る。 彼らは先輩として受け入れ、喜んで世話をする。本当に同じ困難を体験し、乗り越えて来た者同志の助け合い。 経済的には貧しくても、精神的には心暖まる豊かな思いやりと愛情にあふれている。 この点日本人は欠けていると思った。子どもたちでも仲よく分け合って食べている。 難民との関わりの中ででは、良きにつけ悪しきにつけいろいろのトラブルがあり、問題はつきる事はありません。
 しかし、この様な状態にあっても老若男女を問わず健康診断後は日本語の勉強が始まります。 日本語はむずかしいと言いながら、一生懸命勉強に専念している人の間に一人二人と全身の疲れを訴えます。 自由にならない時間割、1日6時間は机に向かいますが頭が痛い、胃が痛い、といろいろ考えて勉強から解放される時間を作り出す。 ストレス解消の時間も必要です。難民の訴えを聞き入れ、聖マリア病院へと私は生活環境、 その国の文化、習慣も言葉もわからないまま片手に顔写真と名簿、片手に日傘を持って何回となく往復する間にどこからともなく、 難民の人も病院内の職員も私をベトナムのシスターと呼ぶようになり誰にでも通じました。 それを聞いて答える私はベトナムのシスターとして受け入れられる事を誇りとしていました。  
 また、聖マリア病院も難民の人たちにとっては安心して受診に行ける病院なのです。 全科に何度かの病気で入院しました。他の病院では多分受け入れていただけなかったのではないかと思われるくらい、 聖マリア病院ではスムースに言葉の分からない、習慣の違う、規則を守らない、時間も守らない難民たちを、 文化の違いと理解して受け入れて下さったことを、本当にありがたく感謝しております。 特に眼科の今はいらっしゃいませんが赤松先生や小児科の上原先生、 河田先生そして小児科病棟の看護婦と職員の皆様には、ダウン氏病の難民の子どもを我が子のようにお世話してくださった事 を忘れることはできません。ただ感謝のみです。
 その子も今は藤沢の方で両親と5人家族で生活しています。当時幼かった子どもが立派に成長し、 日本の社会で頑張っている姿に出会った時、勉学に励んでいる青年に出会う時、 ビールを飲んで暴れまわり誰からも迷惑がられていた人が温厚なお父さんに変身していたり、 最初はジエスチャーでしか通じなかった人たちとしみじみ語り合える ようになったり、喜びの感動をたくさん頂いています。私は今まで以上にこれからも難民のよき友でありたいと思っています。
シスター出田 清美
(聖フランシスコ病院修道会)
(カトリック仁豊野教会五十周年記念誌)


交通秩序へ大号令
近代化で事故多発、政府が罰則強化
 交通法規を順守せよ、徹底的に巡視せよ一。 ベトナムで交通秩序の向上を目指すキャンペーンが展開されている。 経済発展に伴う車両の増加などを受け交通規律を確立しようというものだが、 伝統的な庶民の「シクロ」(三輪人力車)や露天商までが交通の妨げになるとして駆逐されようとしている。
自動車とオートバイ、自転車が入り乱れ走る
ハノイの中心街
 「交通秩序の構築は一種の革命である」キャンペーンが始まって半月後の先月16日、 国営英字紙「ベトナム・ニューズ」は、政策の正当性をこうアピールした。 長い祖国解放闘争を経て来たこの国の人々にとって、「革命」という言葉は、背反を許さない響きを持つ。 同誌の記事は、こう続く。「交通事故は劇的に減った。 10日間で60億ドン(約110ドンが1円)の罰金が集まった。 路上の物売りの多くが商売をやめた」。
 「革命」以前ハノイやホーチミン市の道路状況は「混沌」だった。 交差点を徐行せずに突っ走る。前がふさがっていれば、しゃにむに追い越す。 のべつまくなしのクラクション。オートバイと車の急増は不可避的に事故多発を招き、 自動車一台当たりの死者数は日本の80倍に達した。歩道も歩道ではなくなっていた。 郊外の農村から出て来て肉や野菜を売る露天商。テーブルといすを並べた、にわか仕立ての食堂。 オートバイや車の駐車場代わりにもなっていた。
ハノイの歩道上で卵や肉を売る
行商人たち。 警察の取り締まり
といたちごっこが続く。
   こうしたカオス的状況を一掃しようというのがキャンペーンの狙いで、 先月1日に施行された法令は92条から成る。警笛を鳴らし続けてはならない。 交差点や狭い道、坂道では速度を落とす。オートバイや自転車には幅1メートル以上の荷物を積んではならない。 歩道は交通目的にのみ使われる。歩道上では、許可がない限り大勢集まってはならない〜。 罰金の最高額は200万ドンで公務員の平均月給の4倍弱に当たる。
 ハノイ市人民委員会のドン・ミン・ソン副委員長はその効果について 「交通秩序改善のためには、法しかない。現実に市民はよく法に従っている。」と自信を見せるが、 しかし、どうひいき目に見てもこれは過大評価だ。町は相変わらずクラクションの洪水。 いつ事故が起きても不思議でない状況的に基本的な変化はない。 人々がまだ車の怖さをよく理解していないうえ、法律が社会の一般ルールとして意識されるほどには、 しみ渡ってはいないのだ。
 交通秩序の改善に当局がこれほどまでに熱心になる真意は「近代国家」としての体裁を整えることにある。 今年はベトナム戦争25年。念願の東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟も果たした。 いつまでも、途上国の「後進性」をほうってはおけないというプライドもある。 しかし、これは同時に、庶民たちの実生活との摩擦も招いている。ハノイ中心部の歩道では、 行商人たちを対象にした警官隊の取り締まりが連日のように行われ、 行商人たちがクモの子を散らして逃げ出す光景が繰り返されている。
 グエン・チ・ヒエンさん(37)は最近2回も捕まった。2回目には警察に連行された。 罰金5万ドンの支払いを命じられたが、持ち合わせは1万ドンしかない。 結局、地元のナムハ省から抱えてきた商品のバナナを警官にたたきつけて、 釈放された。「一日の売上はせいぜい5万ドン。ハノイまでのバス代を引くと、 1万ドンしか残らないのに、政府は、私たち貧乏人の立場を理解していないわよ。まったく‥‥」 今回のキャンペーンで、売り場を失った行商人はハノイだけで2万5千人に上ると言われる。
 シクロの運転手も似たような立場だ。ハノイでは37の通りで進入が禁止され た。この道7年のグエン・バン・ティエンさん(30)は「1日平均2万ドンの稼ぎが3〜4割減った。 一人も客がとれない日もある」と嘆く。 もっとも、政府としても「近代化」のしわ寄せを受ける階層を無視しているわけではない。 ホー・バン・キエト首相は行商人やシクロの運転手に同情する。 ちゃんと商売ができるような場所や、職業訓練の機会の確保を急げと関係当局へ書簡で指示した。 しかし、こうした政治策の実現を待っている間に、弱者は追い立てられていく。
 「近代国家」への離陸を目指して政府主導で推し進める交通キャンペーン‥‥。 その成否は法治国家へのステップともなるだけに、近代化の関門の一つであることは確かだが、 行商人やシクロの運転手といった「弱者」たちが生活の場を奪われるという痛みを伴う現実は重い。
 交通秩序の混乱は改革・解放政策によって引き起こされた影であり、 根本解決にはインフラ整備など構造的な改革が必要だ。反権力意識の強いベトナム人が、 上からのキャンペーンにどこまで応じるか。高度成長が続く限り、 当局と庶民たちのいたちごっこが続くことになりそうだ。
(読売新聞)


国籍法の改正へ時代先取り運動
差別撤廃条約 鍛冶千鶴子さん
 1950年代に「家族制度」復活の動きに対して共同歩調を取ったことが契機になり、 「婦人団体の運動に女性弁護士が法的な助言をする」というパターンができました。 その真骨頂は、1980年に我が国が署名、85年に批准した「女子差別撤廃条約」に関する活動でした。 条約を批准するためには、その内容に沿って国内法を改正したり、新法を作ったりする必要があります。 それを女性たちが後押ししたのです。
海外調査にもしばしばでかけた。スェーデンでは、オン
ブズマン制度について ワドスタイン・副オンブズマン
(当時)から説明を受けた(1984年)
 既に60年代から、女性を巡る法的な動きは活発になっていました。 66年には東京地裁で、「結婚退職制は違憲」という判決が出され、 69年には同じく東京地裁が「女子従業員の若年定年制は無効」としました。
 そうした流れの中で私は、77,78年と相次いで「国籍法違憲訴訟」にかかわることになりました。 当時の国籍法によれば、日本人を父として生まれた子は、母が外国人でも日本人となりましたが、 逆の組み合わせだと子は日本人とされません。「これは性による差別ではないか」と問うたわけです。
 二つの訴訟とも、米国人の夫と日本人の妻の依頼を受けて、 「二人の間に生まれた子どもが日本国籍を持っていることの確認を求める」という形を取りまし た。「日本人の私から生まれた乳飲み子が外国人登録をさせられるなんて」という若い母親の嘆きは切実でした。
 日本では初の試みで、ほかの女性弁護士3人も感化、条約締結前夜の法的前哨戦といった趣になりました。 この件は最高裁まで行きます。だけど、なかなか裁判が進まない。 そうこうするうちに、国籍法が84年、私たちの主張に沿う方向で解決されました。 父母平等主義、つまり父母のどちらかが日本人ならば、 子は日本国籍を取得できるというものです。上告は取り下げざるを得ません。 形の上では、(旧国籍法の)父系優先血統主義には差別が認められるが、 違憲までとは言い切れない」という原審の判決が確定しました。
 しかし、時代の先を見て改革のドアをたたき続け、結果としてそのドアを開けたわけです。満足感は残りました。

 一連の活動を共にした女性たちとの交流は、大きな財産となりました。 忘れられないのは市川房枝先生です。72年に提訴した「いわゆる議長交際費違法支出事件」を巡る住民訴訟などでは、 よく代々木の婦連会館の和室で相談をうけました。弁護士費用をいただくわけにはいきません。 そんな時、「お菓子」と書いた封筒をそっと置いていかれます。 先生のポケットマネーに、お人柄がにじみ出ていました。
(読売新聞)
 定住したインドシナ難民の子どもたちは、いまだに国籍がありません。 希望しない人はいないのですから、せめて日本国内で生まれた子どもたちに一日も早く国籍が与えられることを 願ってやみません。
(編集部)


米軍寄港協議
ベトナム・カムラン湾
 【バンコク2日=長谷川聖治】ハノイからの報道によると、ベトナム訪問中のデニス・プレア米太平洋軍司令官は、 2日ハノイで記者会見し、同国南部カムラン湾海軍基地に米艦船が寄港することについて、 ベトナム政府と協議を始めたことを明らかにした。
 南シナ海に臨むカムラン湾は、1075年の南ベトナム崩壊後、旧ソ連の重要な軍事基点となっていたが、 ロシアは2001年10月25年間の無償使用協定が2004年に失効するのに合わせ、撤退を表明している。 カムラン湾に米艦船が寄港するようになれば、米軍の東アジアにおけるプレゼンスが高まり、 中国やベトナムに絡む南シナ海・スプラトリー(南沙)諸島などの領有権紛争に影響を与えることも予想される。
 ブレア司令官は、「(ベトナムとの)協議は初段階」とした上で、 「恒久的な基地使用を望んでいるわけではない。 必要が生じた時に城内の各地が協力し、軍事交流するための柔軟な取り決めを目指している」と語った。
 一方、プレア司令官は、テロ対策を念頭に2002年5月、 タイで実施された東南アジア最大級の軍事演習「コブラ・ゴールド」に、 オブザーバーとして参加するようベトナム側に要請したことも明らかにした。
   プレア司令官の訪問について、国営ベトナム通信は、「両国の多方面での協力を促進するステップになった」とする、 グエン・タン・ズン副首相のコメントを伝えた。
(読売新聞)


チョットひとこと

 「今まで通り」という表現に対して、どんな反応を示しますか?と問われた時、 何と答えるでしょうか。事柄にもよりけりですが、時々大切な会議の中にあっても小さな申し合わせをする場合でも、 皆の意見が「今まで通り」という結論になるとやや安心した気持ちになり、 楽な道を選び取っていることが多いようです。 「今年度も前年度と大体同じに・・・」というようなことがよく言われたりします。
 そこで自分の生活を振り返ってみている時、次のような言葉に出会いました。 それは、「変わろうとするのをやめるとき、そのときは、生きようとするのをやめる時・・・」 というアンソニー・デ・メロ師の瞑想の中の一部でした。 他の言い方をすれば、私たちは生きている限り時間とともに変化発展している存在だということになるでしょう。
 ご承知のようにこの冊子「チョットいいこと」、は、皆様のご支援のもとに100号を発行する運びとなり、 まさに積極的な転機を迎えました。難民の方々と共に生きようとしている私たちは、 今年度から委員会組織ではなく、新しく「ベトナム人友好会」として一つの会をたちあげ、 それにともなってニュースを中心とする冊子も新しくすることになりました。 従って「チョットいいこと」は、皆様の記憶のなかに大事にしまっていただいて、 ベトナムの方々を隣人として受け入れる灯火が消えないようにしていただければ幸いです。
 時代の移り変わりを敏感に感じとって積極的に対処することは、 よりよい社会生活を営む上で欠かせない一つのポイントだと思います。 今まで慣れ親しんできたところを離れて知らない場所に行くことは、 多かれ少なかれ抵抗を感じますが、私たちが互いに先入観に捕らわれない見方、 考え方から脱却して心を合わせて生きていこうと努めれば、神の力が働いて愛と生命の息吹を受けとることになるでしょう。
 「変わろうとするのをやめるとき、そのときは生きようとするのをやめる時」なのです。 皆様の心からなるご支援を私ども一同感謝申し上げ、 今後ともベトナムの方々と共に生きがいの感じられる環境をつくるためよろしくお願いいたします。

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